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■11426 / inTopicNo.37)  Re[32]: What do I want to do?
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/16(Tue) 20:16:42)
    この場をパニさんが作ってくれたので、わたしの物語り、ちょっと書いてるんだけど。ん〜ん、そうねメルポンのね。

    メルポンの、
    【記述することが肝心なのであって、説明したり、分析することではない。フッサールが初期の現象学に与えた命令、つまり「記述的心理学」であれ、もしくは「事象そのものに」帰れという命令は、さしあたり科学の否認である。私は、私の身体あるいは私の「精神現象」を規定する多様な因果性の結果でも交錯でもない。私は自分を、世界の一部として、生物学、心理学、ならびに社会学お単なる対象として考えることはできないし、一般に科学の考える世界のなかに私を閉じ込めることはできない。世界についての私の知識は、たとえ科学による知識であろうと、どれもこれも、世界に関する私自身の観察、もしくは経験からして得られるのであって、このような経験がなければ、科学の記号には何の意味もないであろう。科学の宇宙の全体は、生きられた世界の上に打ち建てられており、もしわれわれが科学そのものを厳格に考え、正確にその意義と有効範囲とを測ろうと欲するならば、まず第一に世界についてのあの経験を呼びまさなくてはならないのである。科学はこの経験の二次的は表現なのだ。科学は知覚された世界と比肩しうる存在意義を決してもってはいなし、また将来ももつことはないであろう。その理由は簡単である。すなわち、科学は知覚世界の一つの規定、もしくは一つの説明だからである。動物学、社会解剖学、それに帰納的心理学は、「生物」とか「人間」とか、「意識」といったような、自然もしくは歴史の産物に、さまざまな特徴を認めるが、私はこうした特徴のすべてをそなえた「生物」ではないし、このような意味では、「人間」や「意識」ですらない。――私は絶対的な根源である。私の実存は、私の経歴、私の自然的・社会的環境から由来するのではない。私の実存はこれらに向かってゆき、これらを支える。なぜなら、ある特定の伝統や地平線を私にとってある(それゆえ、また「ある」という言葉が私に対してもちうる唯一の意味において、ある)ようにさせるのは、ほかならぬこの私だからであり、この伝統に立ち戻ることを選択するのも私だからである。また私がそこにいて、私とあの地平線との間の距離を眼でたどらないとしたならば、もともとそれは固有な性質として地平線に属しているわけではないおだから。地平性腺の私に対する距離は、もろくも崩れさるだろう。私を世界の一つの契機と見なす科学的な見方は、いずれも幼稚で欺瞞的である。というのは、これらの見方は、もう一つの見方、すなわち、意識によって初めて一つの世界が私のまわりに配置され、私に対して存在しはじめるという、意識の見方をいつもひそかに前提しながら、はっきりとはいわないからである。事象そのものに帰るということは、認識に先だつ世界に帰ることである。認識はつねにこの世界について語るのであり、これに対してはいかなる科学的規定も、抽象的、記号的、依存的である。これは、森林や草原や河川がどのようなものであるかをわれわれに最初に教えた風景に対して、地理学が抽象的、記号的、依存的であるのと同様である。】
    (MP-5)

    わたしのは後でね。
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■11441 / inTopicNo.38)  Re[33]: What do you(I) want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/18(Thu) 19:43:27)
    わたしいったいここでなにをしようとしてたのかしら?
    現象学の、タイピングしたとこいろいろ書き写して見てるんだけど。
    ちょっと最初の方に戻って見よっと。

    わたしのしたいは、No10927で、〈私の生の意識(精神)のフィロソフィア〉。No11053で、〈私の意識(精神)におけるアプリオリな総合はどのようにして行われるの?〉だった。
    これって、現象学のと相互主観的にわたしに思われたもの。

    あ、そうだった。わたしここで、わたしに思われたものを、表現することによって、わたしに見えるようすることだったんだ。

    でもまだなんか、あっちいったり、こっちいったりな感じ。でも「現象学」を知ろうとすること、その書物を読んでわたしに思われたものを見えるようすることが中心になってるのは確かね。

    ここでは現象学なんだけど、
    「What do you want to do?」は、「What do I want to do?」と両義だってわたし言った(No10625)けど、これにはもうちょっと意味あるよね。「do you (I)want?」と「to do?」。「あなた(私)は何を欲しているの?」からで、「あなた(私)はどうするの?」っていう二つの問いが含まれていたっていうこと。こういうのって、現象学に限ったことじゃないと思う。

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■11443 / inTopicNo.39)  Re[34]: What do you(I) want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/18(Thu) 20:09:53)
    おそらく、「現象学」に興味ある、っていってても実際〈to do〉っていう人はここにはいないみたい。たとえば現象学の訳本を読んで見るっていう行動にでないとかね。
    わたしのいう「What to you(I) want?」っていう「want」が通じてないっていうの、普通だし。
    こういう意味で、逆に、わたしここでは書きやすいよ。勝手気ままでいいんだもの。
    そうね、自由意志のをね。

    あらてめて、ありがと、パニさん、この場を作ってくれて。
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■11444 / inTopicNo.40)  Re[35]: ふたたび、現象学ってなあに?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/18(Thu) 20:17:14)
    っていうことで、ここ見る人なしっていうことで、どんどんこかかな。

    「現象学」っていうの、No11209にあるように「おのれを示す当のものを、そのものがおのれをおのれ自身のほうから示すとおりに、おのれ自身の方から見えるようにさせること」。わたしもうちょっと短くしちゃって〈そのもののおのれを示す当のものを、おのれ自身の方から見えるようにさせること〉ってして置くことにする。ハイデガーは「存在者の存在」っていう言い方をしてる。で、これをお借りして、〈存在者の現象〉っていう言い方も短くていいかな、って。

    「己を示す当のもの」って、なんか本質とか根源とか起源とかっていうふうにも見れる。

    じゃ、そのような存在者の現象をおのれ自身のほうから見えるようにさせる、にはどうしたらいいの?
    っていうことになるんだけど。

    No11258(HS)に、【「現象学」はその研究対象を名指しているのでもなければ、また、現象学というこの名称はその研究の事象内容を性格づけているのでもない。現象学というこの語は、この学において論ぜられるべき当のものを、いかに提示し取り扱うかということに関して解明するだけである。】とか【現象学は、存在論の主題になるべき当のものへと近づく通路の様式であり、また、その当のものを証示しつつ規定する様式である。】ってあった。

    現象学っていうの、見方や方法を提示している、ってわたし見てる。
    現象学で、「エポケー」とか「現象学的還元」って言うの出てくる。これ根源・起源みたいなのを探究するための手法なんだと思う。


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■11445 / inTopicNo.41)  Re[36]: エポケー
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/18(Thu) 20:19:51)
    「現象学事典」に書いてあるのを書き写して見ます。短いので全部。

    エポケー [(独)Epoche](Epocheの最後のeの上の[´]は省略してます)
    〔フッサールがその思想的生涯において幾度となく主題化した現象学の根幹にかかわる反省的方法概念。エポケーには多様な形容詞が冠せられるが、大別すれば、現象学的エポケーと普遍的エポケーが重要。前者は、とくに『イデーンT』で論じられたもので、意識と対象との相関的結びつきを考察するために、意識が対象と素朴に関わる「自然的態度」を「遮断」し、それを根本的に変更する方法的懐疑の操作を意味する。その操作においては、自然的態度における一般定立が排除されて括弧に入られ、定立がストップされる。この「括弧入れ」の操作を通じて、現象学的に固有の新たな存在領域としての純粋意識が開示される。後者は、1920年代中頃以降に『現象学的心理学』や『第一哲学』などで力説され始めたもので、そこにおいては、主観性と世界との関係に焦点が当てられる。すなわち、現象学的エポケーによる自然的態度から反省的態度への転換の際に暗黙のうちに前提されていた自我の内世界化的自己統覚が疑問に付され、世界はそれを構成する超越論的主観との相関関係において主題化されるのである。以上の二種類のエポケーによって、その遂行者としての「傍観者」に、自然的意識のあらゆる存在定立や世界が、反省的に把握可能な自我の構成的意識現象として与えられる。このようにして開示された現象に依拠しつつ、本質直観にもとづく現象学的記述が進められるのである。〕
    な〜んか難しい。〔自然的態度の遮断〕とでもしときましょうか? ん?

    「エポケー」っていうの、ここに書いてあるように「遮断」とか「括弧入れ」みたい。ほかに「判断停止」とか「判断保留」とか言われてるみたい。

    わたしのばあい「括弧に入れる」っていうのがいいかな。

    たとえば、「我考える、ゆえに、我存在す」っていう判断があったとするよね。そしてこれを括弧に入れると、
    (「我考える、ゆえに、我存在す」)ってなる。括弧内は無くなったわけでもなく、肯定も否定もない状態になってる、っていうこと。ん〜ん、ある判断の私の判断を一時停止して置く、っていうことかな。ん〜ん、その判断を鵜呑みにして(前提として)そこから思考を進展してゆくんじゃなくて、その判断を批判(鵜呑みにせずよく吟味すること)して見て、考え、それから判断する、っていうことかな?
    このまま括弧の中に入れたままにしておいてもいいんだけど、もし括弧内の判断を私が判断しようとするとき、私の思考は「我」「考える」「存在」ってなあに?っていう方向に向かう、っていうことなのかな?

    わたしの「エポケー」の意味、ひとまずこ〜んな感じのにしておく。

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■11446 / inTopicNo.42)  Re[37]: 現象学的還元
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/18(Thu) 20:20:48)
    「現象学的還元」なんだけど、「現象学事典」ではいっぱい書いてあるけど、こういうのかな〜ってわたしが思ったところを抜粋して見ます。

    〔‥‥現象学的還元とは、さしあたりまず、『イデーンT』の言い方をかりれば、「自然的態度の一般的定立の徹底的変更」のことである。私たちが普通自然的態度において生きているときには、私たちは諸事物や世界が向こう側に現に存在していると素朴に信じている。こうした「定立」の働きを「作用の外において」「遮断」(Ausschaltung)し、したがってまたその定立によって成り立つ諸対象や世界を「括弧に入れて」(Einklammern ;それゆえにまた当然ながら、その自然的態度の上に成立する「事実学」や「本質学」をも「遮断」し)、こうして素朴で無造作な定立に「エポケー」(判断停止)を加えてそれを「停止」することが、「現象学的還元」ということにほかならない。・・・・「遮断」とはむしろ「連れ戻し」だったのである。もともと「遮断」とは、通常「スイッチを切って電流回路を中断する」という意味であるが、それは一瞬の停止であり、事実上電流回路はいぜん動きうる状態にあり、決して消滅してはいない。エポケーとは、素朴無造作な関与を一瞬停止して、反省的に問いなおす態度の表明にほかならない。・・・・意識と世界との志向的かかわりを問うて初めて、およそ個別的事実であれ非実在的本質であれ、存在するものの「意味」が樹立されてきうる。いっさいの実在を「意味」の統一として明らかにするのが現象学の抱負である。この「意味」の湧出する根源的源泉へと眼を向け換える方法手続きが、現象学的還元である。‥‥〕

    エポケーと絡めて書かれてるみおたいだけど、やっぱな〜んか難しい。
    〔根源的源泉へと眼を向け換える方法手続きが、現象学的還元である〕っていうところだけはそうしときましょ。

    (FD)の訳注では、
    Reduction:この箇所にも見られるように、「還元」とはもとものへと連れ戻すという意味であって、自然科学において使われるように、何かを切り詰めるという意味ではない。

    んで、わたしにわかりやすくして、「現象学的還元」っていう手法は、〈遡って、そこから、そのうちで〉ってして見た。〈そのうちで〉ってしたのは、〈外から見て〉じゃなくて、っていう意味ね。

    どこまで遡るか、っていうのもあるけど、メルポンの場合、赤ちゃんのころまで遡って、かな?

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■11447 / inTopicNo.43)  Re[38]: 結びづけ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/18(Thu) 20:27:39)
    「エポケー」とか「現象学的還元」、わたしのを見えるようにしたところで、No No11426を見て見るね。

    (MP-5)で、【さしあたり科学の否認である。】って言ってる。「否認」って言ってるんで、「否定」とは言ってないよね。これって、エポケー的だと思う。

    (MP-5)では、メルポンの「私」と「科学」との関係について言ってるんだと思う。

    そして【私は絶対的な根源である】って言ってる。これを独我主義(真に実在するのは自我とその所産だけであり、他我やその他すべてのものは自己の意識内容にすぎないとする立場)って見るのは違うと思う。どうしてかっていうと現象学は独我論じゃないから。このへんのとこは後で見て見るね。メルポンのは、哲学で出てくる自我論(自我についての研究・学問)っていうこっちの方だとわたし思ってる。
    で、わたしも「私は絶対的な根源である」っていう判断を括弧に入れて(「私は絶対的な根源である」)。ここからわたしの思考が向かうのは、「私」「根源」ってなあに?って。

    「私」で思い出したんだけ、メルポンは、ほかのところで、
    【以上のことからして、かの有名な現象学的還元の真の意味が、明らかとなる。たしかにこの問題についてほど、フッサールが自分自身を理解するのに長い時間を要した問題はない、――また、この問題ほど彼が繰り返し繰り返し問い直した問題もない。というのも、「還元の問題性」はフッサールの未完の文献のなかでも重要な場所を占めているのだから。ながい間、それも最も新しいテキストにおいてもなお、還元は超越論的意識の還帰として提示されている。世界はこの超越論的意識の前では完全に透明なものとして展開され、一連の統覚によってすみずみまで生気づけられている。そして哲学者は、これらの統覚の成果から遡って統覚を再構成する、という仕事を課せられることになろう。…】(MP-6)
    って言ってる。

    (MP-6)で、フッサールは、ってあって、【自分自身】っていうの出てきてるけど、わたし「自分自身」を「私」ってしてる。フッサールはどうやら「私とはなにか?」っていっぱい考えていたんじゃないかしら。

    (MP-6)で、「統覚」っていうの出てきてる。フッサールにおいてNo11366の(FD-3)、No11393の(FD-4)のなかにも「統覚」出てきてる。わたしNo11393で、「統覚」を〈知覚に接近・隣接・接着してるもの〉ってした。――なんか、「知覚」の話題に近づいてきてる?
    No11366(P60)

    (MP-5)に戻って、【まず第一に世界についてのあの経験を呼びまさなくてはならないのである】っていうのは【森林や草原や河川がどのようなものであるかをわれわれに最初に教えた風景】のことだと思う。

    こう言うのって、フッサールのNo11366にあるように、子どものころに遡って見る、というのと、No11365の(MP-3)の【言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しない限り、そしてこの沈黙をやぶる身振りを描き出さない限り、われわれの人間考察はいつまでたっても表面的なものにとどまるであろう。】に結びつく。
    これ、わたし赤ちゃんのころから三歳ころのこと、って見てる。これがメルポンの言う【起源に遡って】なんだと思う。

    こういうのって、No11411の(MP-4-2)の【世界との、この素朴な触れあいを再発見する】にも結びつく。
    そう、メルポンはこのような世界と私との関係――ん〜ん、わたしこれを〈原初的世界〉って呼ぶことにしてる――に【哲学的資格を与えることに、あらゆる努力を傾注する】ってしてるんじゃないかしら。

    なんか、連関、見えてきた感じ。

    きょうはこのへんでおわりにするね。

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■11467 / inTopicNo.44)  Re[39]: 永遠の初心者
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/20(Sat) 14:20:20)
    メルポンによると、

    【‥‥フッサールの末刊の手稿なかで、哲学者は永遠の初心者であるともいわれている。すなわち、哲学者は世人や科学者たちが知っていると信ずるものを、何によらず、既知のこととは見なさない。哲学がかつて真理をいいえたにせよ、かかる真理おいても、哲学は自己の知識を既知のものと考えるべきではない。哲学とは哲学自身の出発点に立ち帰って、繰り返しこれを体験し直すことである。哲学のすべてはこの端緒を記述することに存する。そして結局、根本的な反省とは、非反省的な生に対する、反省自身の依存性を自覚することなのだ。非反省的な生こそ、反省の出発状況であり、恒常的な状況でもあり、終局の状況でもある。先のフッサールの言葉は、以上のようなことを意味しているのだ。一般に考えられたように、現象学的還元は、観念論的哲学の定式であるどころか、実存哲学の定式なのである。――ハイデガーの「世界―内−存在」(In-der-Welt-Sein)は、現象学的還元を基礎として、初めて出現しえたのである。‥‥】(MP-7)

    ほかの哲学者はどうか知らないけど、現象学においては、【哲学者は永遠の初心者である】って見てるよう。
    メルポンは(MP)で、【現象学はながい間、初歩的な状態にとどまり、問題性と願望の域を出なかった】とか【いつも最初からやり直す】とも言ってる。

    ここに【反省】っていうのあるけど、これデカルトのに絡まってくる。これは後で。
    あと【ハイデガーの「世界―内−存在」(In-der-Welt-Sein)】っていうのあるけど、これ〈私と世界との関係〉においてメルポンの重要な基本的な見方となってる気がしてる。

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■11469 / inTopicNo.45)  Re[40]: etre au monde
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/20(Sat) 14:33:38)
    「世界における(への)存在」etre au mondeについてちょっと書いときます。
    [etre]の最初の[e]の上の[^]は省略してます。

    (MP)で、
    【…人間は世界においてあり(訳注2)、ほかならぬ世界のうちで自己を知るのである。‥‥】(MP-8)
    (訳注2)
    〔原文はI’homme est au monde.これは12項に出現する本書の基本概念「世界における(への)存在」(etre au monde)を先取りするものであるが、この基本概念がハイデガーの「世界内存在」(In-der-Welt-Sein)、サルトルのetre -dans-le-mondeに対応するものであることは、いうまでもない。問題はmondeの前の前置詞auの訳し方だが、独訳(Rudolf Boehem,1966)ではzu、英訳(Colin Smith,1961)ではinとなっている。つまりetre-au-mondeを独訳者はZu-Welt-Sein、英訳者はBeing in the worldと訳す。但し英訳では文脈によってはbeing to the worldとも訳している。要するにêtre au mondeとは世界に属しつつ世界に臨む人間のあり方を表す言葉で、翻訳書では述語的に使われていると思われるところでは、カギ括弧でくくり、更に「世界における存在」と「世界への存在」を共に示すため「世界における(への)存在とした。」

    わたしこれをお借りして、〈世界における(への)存在である私〉として見ることにしちゃってる。

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■11472 / inTopicNo.46)  Re[41]: ハイデガーの還元
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/20(Sat) 17:04:56)
    現象学者はどこまで遡ってるのかしら。

    ハイデガーの場合

    前に(HS)の抜粋の箇所のように、ハイデガーは【ギリシア語ファイノメノン】から始めてるし、また、『存在と時間』は、【「‥‥トウノハ、君タチガ『存在する』トイウ言葉ヲツカウトキ、イッタイ君タチハ何ヲ意味スルツモリナノカ、ソレヲ君タチガトウノ昔カラ熟知シテイルノハ、明ラカナコトダカラダ。ダガワレワレハ、以前ニハソレヲワカッテイルト信ジテイタノニ、イマデハ困惑ニオチイッテイルノダ。・・・。」(1)〔訳注(1):プラトン『ソフィステース』244a〕いったいわれわれは、「存在する」という言葉で何を意味するつもりなのか、この問いに対して、われわれは今日なんらかの答えをもっているのであろうか。断じて否。だからこそ、存在の意味への問をあらためて設定することが、肝要なのである。それではわれわれは、今日、「存在」という言葉を了解できない困惑にだけでもおちいっているのであろうか。断じて否。だからこそ、あらかじめ必要なのは、この問いの意味を明らかにするなんらかの了解を、まずもってふたたびめざめさせることである。「存在」の意味への問いを具体的に仕上げることが、以下の論述の意図である。あらゆる存在了解一般を可能にする地平として時間を学的に解釈することが、以下の論述の差しあたっての目標なのである。そうした目標をねらうこと、そうしたもくろみのうちに含まれていて、このもくろみによって要求されている諸研究、およびこの目標へいたる方途、これらのことは、序論の役目を果たす解明を必要としている。…】というように、プラトンに遡ってそこから。

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■11474 / inTopicNo.47)  Re[42]: フッサールフッサールの還元
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/20(Sat) 17:14:09)
    フッサールの場合

    フッサールにおいては(FD)の結語の最後に、
    【‥‥こうして、「汝自身を知れ」(7)というデルポイの神殿の言葉は、新しい意味を得たことになる。実証的な学問は、世界を喪失した学問である。世界を普遍的な自己観察において取りもどすために、まず世界を判断停止(エポケー)によって失わねばならない。アウグスティヌスはつぎのように言っている。「外に行こうとしないで、汝自身のうちに帰れ。真理は人の内部に宿っている。」(8)と。】(FD-5)ってある。

    訳注(7)
    〔古代ギリシア、デルポイの神殿の玄関の柱に刻まれていたという言葉で、(神が人間に向って)「身のほどを知れ」(自分が死すべき存在であることを忘れるな)という意味の格言と解かれていた。しかし、(プラトンの描く)ソクラテスは、それを「自分の無知を知」り、「自分の魂を配慮」し、いかに生きるべきかを考察することを命じる要求と捉えた。いまそれをフッサールは、普遍的な自己認識の道こそが哲学の道である、という意味と解しよとしている。〕

    訳注(8)
    〔ラテン教父アウグスティヌスの『真なる宗教」から引用。しかし、本書でたびたび現れてきたように、「外」と「内」という言い方は、誤解を招く恐れがある。フッサール自身、『論理学研究』で理念的なもののありかを「意識の外」に求めるのも、「意識の内」に求めるのも退け、まさにそのような議論のなかから、「意識の志向性」という思想を確立してきた。そして、それを近代的な「外」か「内」かという誤った問題の立て方を退けて、問題を正しく立てるためにこそ、現象学的還元が必要なのであった。その点では付け加えておくべきこととして、アウグスティヌスは、ここで引用された文に続けて、次のように述べていた。「そしてもし汝の本性が可変的であるものを見いだすなら、汝自身をも超越せよ」と。アウグスティヌスは自己の「内部」に止まるのではなく、そこから自己を超越する道を探る。フッサールも本来ならむしろ、この部分まで引用することによって、自らの超越論的なものの探究をそれに喩えるべきだったであろう。〕

    フッサールは古代ギリシアに遡ってる。
    「汝自身を知れ」で、No11447の(MP-6)にあるような【フッサールが自分自身を理解するのに長い時間を要した問題はない】かな。

    ここに出てくる【デルポイの神殿の言葉】や【アウグスティヌス】の、についてメルポンもなんか言ってるけど、これについたは後でね。

    それとね最近気づいたんだけど、ニーチェも『善悪の彼岸』でこれに触れてた。

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■11477 / inTopicNo.48)  Re[43]: 善悪の彼岸 80
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/20(Sat) 17:32:24)
    【解明された事柄は、われわれの関心を惹(ひ)くことを熄(や)める。――「汝自らを知れ!*」と勧めたあの神は、どういうつもりでそう言ったのであろうか。恐らくは、「関心を持つことを熄(や)めよ!客観的になれ!」という意味だったのかもしれない。――そこで、ソークラテースはどうか。――また「学問的な人間」はどうか。】
    *デルフォイのアポローンの神殿に掲げられた語で、ソークラテースがその行動の指標としたもの。

    「客観的になれ」はカントのかな?ソクラテースのは「無知の知」かな?とを関係づけて皮肉って言ってるようにも見えるね。ニーチェはもうすでに「汝自らを知れ」は解明された事柄であって関心がない、っていうことでもなさそうだけど〜、よくわか〜んない。

    この箴言でわたしが感じたのは、ほかの哲学者のことを言ってるだけで、ニーチェのはな〜んも見えてこなかった、っていうこと。

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