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■11327 / inTopicNo.25)  Re[20]: 理性
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/06(Sat) 18:26:51)
    No11270のところで、

    訳注で〔ドイツ語では「理性[Vernunft]」の語源は、「認知する[vernehmen]」である。〕ってある。

    ネットで調べて見たら、
    [vernehmen]は「聞く・聴取る・聴こえる・うけたまわる・・・」。[Vernunft]はいっぱいあったけど、「理・道理・理屈・ことわり・ふんべつ・ききわけ・・・」。
    日本語で「認識」は独語では[Anerkennung]で、この独語の日本語は「賛辞・認知・認定・容認・了承・・・」。

    あ〜、日本語いっぱいある〜。
    でもちょっと見方、変わったかも。で、ひとまず「認知」と「認識」は区別しておくことにしといた。

    No11270のところで、ちょっと気になったのが、
    【‥‥いっそう根源的に「真」であるのは、アイステーシス、すなわち感覚である。つまり、或るものを、端的に、感性的に認知することである…】っていうところ。

    で、訳注のように「認知する→理性」ってしたとき、上記のところは〈いっそう根源的に「真」であるのは、感覚である。つまり、或るものを、端的に、感性的に理性ことである〉ってなる。こうなると、〈感性における理性〉ということにもなるんだけど。

    No11101のアリストテレスの(A)のところに書いてあった
    【…その証拠としては感官知覚〔感覚〕への愛好があげられる。というのは、感覚は、その効用をぬきにしても、すでに感覚することそれ自らのゆえんにさえ愛好されているものだからである。…】を思い出す。

    古代ギリシアの話しだよ、今は違う。なに言ってるのバカじゃないの、って言われそうだけど、わたしこの見方本気で考えてる。

    「理性」、いまだ思案中。
    あ、わたしは合理主義じゃない、っていうことからね。

    なんか、違う方向に向かってる感じ。迷子になる前にひとまず「理性」から離れなくっちゃ。

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■11343 / inTopicNo.26)  Re[21]: 表現すること
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/07(Sun) 15:26:48)
    〈見えるようにさせること〉で思ったんだけど、

    わたしに思われたものを表現して、そしてそのわたしが表現したものをわたしが見る(フィードバックする)ことによって、わたしに見えるようにさせる、っていうことになるんだと思う。
    ん〜ん、わたしに思われたものを表現して、それをわたしが見る、これってわたしがわたしを客観的に見る、っていうことになるのかな。こういうのって、人間ならではの能力なのかも?私が私を見ることができる?私が私を外に置いて見る?

    これわたし独りでもできることなんだけど、「表現すること」ってもう一つ、ほかの人に向けて、っていうのもある。ほかの人に向けて、っていうばあい、その表現はほかの人に見も“伝わるように”、っていうことが含まれてくる。わたしに思われたものを上手に表現できるように心がけようとしてる、っていうことかな。こっちの方がわたしにより見えるようになる感じがしてる。だからここに来てるほかの人に向けて表現してる。(ま、もっともWhatを見る人が誰もいなくても、いいけどね)
    ん〜ん、ここにはもう一つの客観が登場することになる。ほかの人の、っていう客観が。

    「表現すること」自身は真偽善悪の判断以前の「すること」。そして、それによって「した(された)もの」において、後で判断されてるんだと思う。

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■11345 / inTopicNo.27)  Re[22]: 生活世界のフィロソフィア
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/07(Sun) 18:31:55)
    現象学っていうフィロソフィア、わたしに関心が湧いたとこ、書き写して見ま〜す。

    フッサールの、
    【…日常の実践的な生活は素朴であり、すでに与えられている世界のなかに入り込んだまま経験し、思考し、価値づけをし、行為している。その際、経験することがもつ志向的な働きはすべて、それによって初めて事実が端的にそこに存在することになるのにもかかわらず、匿名的に行なわれる。経験している者自身は、それについて何も知らない。そこで働いている思考についても、同様に何も知らない。例えば、数、述定的な事態、価値、目的、作品といったものは、この隠れた働きのおかげで、一つ一つ積み上げられて現れるが、経験している者には、これから現れてくるもののみが視野に入る。実証的な諸学においても、事情は変わらない。それらは高次の素朴性であり、賢明な理論的技術によって形成された作品であるが、ただ、それらすべてが究極的にはそこから湧き出ているはずの志向的な働きが、解明されないままなのだ。学問というものは確かに、その理論的な歩みを正当化できることを要求し、いつも批判的吟味に基づいているが、その批判は究極的な認識批判(3)なのではない。究極的な認識批判とは、根源的な働きについての研究と批判的吟味であり、それがもつあらゆる志向的地平を露呈することなのである。…】(FD-2)
    訳注(3)
    〔ロックの『人間知性論』からカントの『純粋理性批判』に至る近代哲学の課題は「認識批判」であった。フッサールが現象学的還元の着想を得た頃の覚え書きにも「理性の批判」という語が見られる。〕

    ジョン・ロックが出てきたから、参考書で調べて見たよ。
    『人間知性論』(『人間悟性論』)
    ロックの主著で、1690年の刊行。人間に生まれつき備わっている生得観念を否定し、一切の知識の源泉を経験に求める経験論の立場から、人間の認識作用を考察した。心の意識に現れる観念は、外から印象を受ける感覚と、心の内の働きを観察する反省という二つの作用をもとに発生し、理性はこれらの経験から生まれた観念を使って推理や思考を行う。
    「tabula rasaタブラ=ラサ 白紙」
    経験によって外から知識や観念を与えられる前は、生まれつきの人間の心は、何も書かれていない白紙の状態であるというロックの言葉。タブラ=ラサとは、ラテン語で何も書かれていない板・白紙を意味する。ロックは、一切の知識の源泉を経験に求める経験論の立場から、デカルトの説いた神や実体についての生得観念を否定し、感覚と反省という二つの経験の作用によって、心にさまざまな観念が刻まれていくと説いた。

    「哲学」ってしないで、「フィロソフィア(知りたい)」ってすることで、わたしに身近になる気がする。

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■11356 / inTopicNo.28)  Re[23]: ニーチェのと現象学
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/09(Tue) 19:41:51)
    No11345の(FD-2)って、なんかニーチェのに似てるところがある。

    ニーチェのには「意志」っていうの出てくるけど、これを〈意識の志向〉ってして見ると、フッサールの言う「志向的な働き」と似てるし、ニーチェがNo10810の(N-c)なかで使ってる「本能活動」という語で言い表そうとしているものと、フッサールの「匿名的に行なわれる」「隠れた働き」「根源的な働き」って言うのと、も似てる気がする。そしてこのようなものはわたしのなかでは「自然」と結びついている。あ、「アプリオリ(生まれつき備わってるもの)」にもね。

    たしか「本能」っていうの、〔動物(人間を含む)が生まれつき持っていると想定されている、ある行動へと駆り立てる性質のことを指す。〕だったと思う。

    こういうのをわたし〈原初的なもの〉って呼ぶことにしてる。原初的な世界とか、精神(意識)における原初的な領分って言ってもいいかも。

    ちなみに、現象学で「志向」って日訳されてるのは「In-tention」っていう語。「tention」は「緊張、張られていること」。って(FD訳注)にあった。

    現象学的眼で、ニーチェの『善悪の彼岸』をあらためて読んで見てるんだけど、現象学のと似てるところを見つかる。

    メルポンは、
    【…現象学は、完全な哲学的自覚に到達する以前から、手法あるいは様式として、すでに実行され、認められ、動きとして現存していたのだ、と。現象学はずっと以前から、その道を歩みつつあったのである。その信奉者たちはいたるところに、ヘーゲルやキルケゴールはもちろん、マルクス、ニーチェ、フロイトにもまた、現象学を見出すのである。…】(MP-1)
    って言ってる。

    あ、あらためて「現象学」っていうの、「手法」「様式」なんだ、って気づいた。

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■11365 / inTopicNo.29)  Re[24]: What do I want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/10(Wed) 19:59:30)
    メルポンのはもっと身近に感じる。

    No11345の(FD-2)に絡まって、
    【…われわれは言葉が制定されて(instituee)いる世界のなかに生きている。日常的なあらゆる言葉に対して、われわれ自身のうちに出来合いの意義が用意されている。これらの言葉はわれわれの心に二次的な思想しか呼びおこさない。この思想はこの思想でまた別の言葉に言い直される。そしてこの別の言葉とは、われわれから真の表現の努力といえるものを少しも要求せず、聞き手がそれを了解するためにも何ら努力を必要としないような言葉である。こういうわけで言語活動と言語理解とは、当たりまえのことのように思われる。
    言語的世界、相互主観的世界は、われわれにとってもはや驚くべきことではない。われわれはこの世界をもはや世界そのものから区別しない。そしてわれわれが反省するのも、すでに語られまた語りつつある世界の内部においてである。話すことを学ぶ幼児の場合にせよ、あることがらを初めて語り考える著述家の場合にせよ、要するにある沈黙を言葉に変えるすべてのひとびとの表現や意思伝達のなかに存する偶然なものにわれわれはもはや気づかなくなっている。しかし日常生活において使用される既成の原語は、明らかに表現の決定的な段階がすでに踏み越えられたこと前提にしている。われわれがこの起源に遡り、言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しない限り、そしてこの沈黙をやぶる身振りを描き出さない限り、われわれの人間考察はいつまでたっても表面的なものにとどまるであろう。言語は身振りであり、その意義は一つの世界なのである。…】(MP-2)

    こういう見方からのフィロソフィアの方向、わたしに興味がある。

    とくに【言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しない限り、そしてこの沈黙をやぶる身振りを描き出さない限り、われわれの人間考察はいつまでたっても表面的なものにとどまるであろう。】(MP-3)
    っていうところ、「現象学的還元」をうまく言い表してる気がする。

    わたしの〈人(私)の原初的な生のフィロソフィア〉はここから浮かんできたのかも。

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■11366 / inTopicNo.30)  Re[25]: 子どものころ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/10(Wed) 20:25:25)
    No11365の(MP-3)に絡まって、フッサールのね。

    【人間の世界と動物の世界には、精神〔心理〕物理学的起源、生理学的起源、心理学的起源という、よく知られた自然科学的問題群が登場してくる。そこには、心的な発生という問題も含まれている。この問題は、子供の発達を通じて私たちが思いつくものであるが、それと言うのも、どんな子供もその発達のなかで自分なりに世界の表象をつくり上げていかなければならないからである。子供にとって世界が現実的および可能的な経験の領土としてそこにあり、つねにあらかじめ与えられているのは、統覚から成る体系においてであるが、この体系は、子供の心の発達のなかでまず構成されなければならない。子供は、客観的に見れば、「世界へとやって来る」。しかし、子供の心的な生活は、どのようにして「始まる」ことになるのであろうか。‥‥】(FD-3)

    「起源」の探究って哲学的だと思う。別の言葉で「根源」とか「発生」とか「原初的」。

    ここに登場するすべてのひとたち(当然わたしを含めてね)、子どものころ、あったよね。

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■11390 / inTopicNo.31)  Re[26]: 語の意味
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/13(Sat) 14:40:04)
    No11366の(FD-3)のなかに「表象」とか「統覚」っていうのある。
    哲学ではその用語の意味、けっこう哲学者によって違ってること多いみたい。
    pipitさまとお話ししててやっぱそう思う。
    どうしてそうなのかな〜、っていうのも考えてるんだけど、後で。

    でね、わたしのをちょっと見えるようにして見ようかな、って。
    少し長くなっちゃうから、分けて。

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■11391 / inTopicNo.32)  Re[27]: 「表象」という語の意味
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/13(Sat) 15:31:37)
    前に書いたと思うけど、中島義道さんの「現象と表象」より、 
      
    〔また、現象については、しばしば「表象」という概念との異同が問題となる。その使われ方は混乱しており、現象が表象と同義であったり、また、表象が特に単なる主観的妥当性しかもたないような現象を意味することもある。日本語では区別がはっきりしないが、ドイツ語の“Erscheinung”(現象)と“Vorstellung”(表象)との区別は明確であり、前者は何ものかの現れという自動詞の名詞化であるが、後者は私が私の前に何ものかを立てるという他動詞の名詞化である。前者は物理現象とも心理現象とも言うように語自体に存在論的な限定はないが、後者は私が私の前に立てるものであり、その操作の限り「ある」という主観的存在の色合いが濃厚になる。ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』の冒頭で「世界は私の表象である」と宣言するが、こう語ることによって彼は、世界は何ものかの「現れ」であると言いたかったのではなく、私が私の前に立てるものにすぎない、したがって私を離れて無かもしれない、と言いたかったのである。
    カントにおいては、表象は物自体との対比で図式的に使用されている。私に現れる世界(現象)はそれ自体として存在するもの(物自体)ではなく、私の思考と直観との協同によって構築したもの(表象)だ、というのがカントにおける両概念の基本的な使用法である。つまり、表象は特に物自体の絶対的実在性というあり方に対する「超越論的観念性」というあり方を強調するときに使われる。〕

    このように哲学者によって用語の意味が異なっている感じ。まったく困ったもんだわ。あ、日訳もね。

    わたし現象学が好みなので、
    現象学における「現象」はphenomenonで〈おのれを示す当のもの、露わなもの〉ってわたししてるけど、現象学でErscheinungは「現出」って訳されていて、〈おのれ自身を示さずに間接的に告げるもの、ないしは、おのれを告げつつ隠れた他のものを暗示するもの〉(「現象学事典」)ということにわたしすることにしてる。

    で、「表象」[(独)vorstellung ,(英)representation]なんだけど、

    どうしようかな〜って思ったんだけど。わたし英語で見ることにした。
    re-は再び、presentationは提示。
    だから、representation「表象」は〈再び提示〉ってなる。
    わたし「表象」を、意識(精神)において、〈再び提示(表わ)されたもの〉(再び提示する)と〈再び提示(表わ)したもの〉(再び提示する)という二つの意味をもつものとしとく。前者は受動的な、後者は能動的なっていう感じかな。

    「表象」を〔私が私の前に何ものかを立てる〕って見るときには、〈再び提示する〉(能動)の方だと思う。〈再び提示される〉じゃなくて。

    いづれにしてもこのような見方からピン止めしとくのが〈再び〉っていうとこ。〈再び〉ってうの、“すでに経験してあるものが再び”なんだろうから、“初めて見る”事物に関しては表象という語は使われないことになる。あ、これあくまでもわたしのね。

    ちなみにカントの?〔私に現れる世界はそれ自体として存在するもの(物自体)ではなく、構築したものだ〕っていうところはわたし受け入れてるところ。〔(現象)〕とか〔(表象)〕とか〔私の思考と直観との協同によって〕っていうところはエポケーしてね。あ、でも〔構築〕っていうと能動的な感じするから、「構成」に書き換えて、〈わたしに現れる世界は、物そのものではなくて、私の意識(精神)のうちで、構成されたもの〉。カントのこういう見方はわたし受け入れる、っていうことになるのかな。

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■11393 / inTopicNo.33)  Re[28]: 「統覚」という語の意味
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/13(Sat) 17:52:36)
    「統覚」の意味ね。

    @フッサールは、
    【・・・すでに物が見えている子供は、例えばハサミの使い方を初めて理解した後では、一目で直ちにハサミをハサミとして見るようになる。しかし、それはもちろん顕在的な再生産や比較によってでもなければ、或る推論を行うことによってでもない。とは言いながら、では、どのようにして統覚が生じるのか、さらに、どのようにして統覚はその意味と意味の地平を通じてそれ自身でその発生を志向的に遡って指示しているのか、については非常に多様である。対象的意味の段階形成には、統覚の段階形成が対応している。結局、私たちはいつも二種類の統覚の根本的な区別に戻ってくることになる。一つには、その発生からして純粋に原初的領分に属するような統覚と、もう一つには他我という意味とともに現れ、より高次の発生のおかげで、この意味のうえに新しい意味を積み重ねるような統覚、という二つの統覚の区別である。・・・】(FD-4)
    って言ってる。

    フッサールは、統覚には二種類ある、って見ているよう。〈原初的領分に属する統覚〉と〈より高次における統覚〉。フッサールは〈原初的〉っていうのを〈低次の〉とも言ってるから、〈低次の統覚〉と〈より高次の統覚〉っていう二種類の「統覚」を見てる、ってする。

    A(FD)の訳注には、
    〔Apperzeption:Perzeption(もとはラテン語perceptioで、「知覚」の意)に前つづりAd-(「方向・接近・隣接・接着」の意)が付け加えられたもの。もとはライプニッツが、対象を判明に知覚するとき、その知覚作用自体にもわれわれは気づく、このことを「統覚」と呼んで哲学的概念として定着させた。その後、カントは、感性的直観の多様が悟性により結合される場合の、統一を形成する主観の根源的働きを「統覚」と呼んだ。フッサールは、カントの用法を踏まえながらも、或るものの端的な把握としての「知覚」と区別して、さまざまな把握を取りまとめて統一的に知覚することを「統覚」と呼んでいる。〕

    B「現象学事典」では、
    〔〈統覚(Apperzeption)〉は基本的には〈統握〉と同義である。『論理学研究』Uでは、しばしば〈統覚〉と〈統握〉は並置され言い換られている。この並置は、ApperzeptionがPerzeptionとの伝統的な対比によって(高次の知覚だという)誤解を生むのを避けるためである。‥‥このように〈統覚〉は〈統握〉と基本的に同義であるが、しかし、後者に比べ、前者は何かと何かの〈結びつき〉という意味を、より強く与えられていると言える。…〕

    Cコトバンクでは、
    〔哲学,心理学用語。対象がよく理解され明瞭に意識される知覚の最高段階,あるいは個々の知覚内容を統合する精神機能をさす。 G.ライプニッツが初めて用い,のちにカントによって対象を認識する前提としての意識の統一をさして用いられた。また W.ブントはこれを能動的な意味でとらえ,統覚心理学を展開した。〕

    んで、わたしのどうしようかな〜って思ったのね。
    Aで〔perzeption(もとはラテン語perceptioで、「知覚」の意)に前つづりAd-(「方向・接近・隣接・接着」の意)が付け加えられたもの〕ってあるから、apperception(統覚)っていうのを〈perception(知覚)に接近・隣接・接着した〉ものってする。@でフッサールは二種類の統覚――〈原初的領分における(低次の)統覚〉と〈より高次の統覚〉――を見ている。じゃこの二つの統覚を語で区別しなくちゃ、って思って、Bで「統握」っていうのでてくる。そこで、〈原初的領分における(低次の)統覚〉(知覚に接近・隣接・接着したものとしての覚)を「統覚」ってして、〈より高次の統覚〉を「統握」ってして語でも区別することにした。

    ちなみに「統握」は(独)Auffassung 。 ネットの「ドイツ語−日本語 辞書」で調べて見たら「概念・見解・解釈・考え・思想・意見・見方・立場…」って訳されてた。

    メルポンは【われわれは言葉が制定されている世界のなかに生きている。日常的なあらゆる言葉に対して、われわれ自身のうちに出来合いの意義が用意されている。】(No11365,MP-2)っていう「すでにある出来合いの意味」からズレてくるのかもしれないけど、現象学のと間(相互)主観的にわたしに、っていうことでこうしちゃった。

    これでひとまずわたしの「表象」「統覚」の意味を見えるようにできたかも。

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■11396 / inTopicNo.34)  Re[29]: 「統覚」という語の意味
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/13(Sat) 19:44:18)
    No11393のBには、
    〔‥‥なお〈統覚〉の語はカントと深く関わる。カントは「純粋統覚」(根源的統覚)を「我思考するという表象を産み出すところの自己意識」だとしている。これによって、直観に与えられる多様な諸表象が、一つの自己意識に属することが可能となる。‥‥〕っていうのも書いてありまた。

    これによると、「我」「自己意識」「思考」「表象」「直観」などが結びつけられてるようだけど、わたし、よくわかんない。ここ、カントのじゃないからこれには深入りしないけど、ひとまず書き写して置きました。

    「直観」っていうのも、@と絡まって、この語の意味をどうして置きましょうか、っていうのもあるんだけど、後で。

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■11411 / inTopicNo.35)  Re[30]: What do I want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/14(Sun) 13:29:31)
    またなんか話が細かいところへ進んじゃってる〜、
    ちょっとNo11345あたりまで戻ります。

    メルポンの、
    【現象学とは何か。フッサールの最初の諸著作が世に出てからもう半世紀もたつのに、今なおこんな問いをたてなければならないことは、一見、奇妙なことと思われるかも知れない。しかしこの問いはまだ解決されていはいない。現象学とは本質の研究である。現象学によれば、あらゆる問題は、もろもろの本質、例えば知覚の本質、意識本質などを定義することによって解決されるはずである。しかし現象学とは、また、本質を実存のなかに戻し、人間と世界とを理解するには、それらの「事実性」から出発するほかないと考える哲学でもある。それは自然的態度から生ずるさまざまな主張を理解するために、かえってこれらの主張を保留する超越論的な哲学ではあるが、しかしまた、世界がつねに反省に先だって、廃棄されえない現存として、「すでにそこに」あることを認める哲学でもある。そして世界との、この素朴な触れあいを再発見し、結局はそれに哲学的な資格を与えることに、あらゆる努力を傾注するのである。現象学は、「厳密学」たろうとする哲学の野心であるが、またそれと同時に、「生きられた」空間、世界についての報告でもある。それは、われわれの経験の心理学的な発生や、科学者、歴史家、もしくは社会学者が提供しうるような、その因果的な説明を願慮せずに、経験をあるがままに、直接、記述しようという試みである。だがフッサールは、晩年の諸著作のなかで「発生的現象学」、いや「構成的現象学」にまで言及している。こうした矛盾は、フッサールの現象学とハイデガーのそれを区別することによって、解決されるだろうか。しかし『存在と時間』はすみずみまで、フッサールの指示に由来するものであって、要するにこれは、フッサールが、その生涯の終わりに臨んで、現象学の最も主要なテーマとして提起した「自然的世界概念」あるは「生活世界」の、一つの解明にすぎないのだ。‥‥】(MP-4)

    『知覚の現象学』で、メルポンの現象学はこのようなことから始まってる。
    上の中からわたしにとくに関心があるところを抜粋して見ます。

    【しかし現象学とは、また、本質を実存のなかに戻し、人間と世界とを理解するには、それらの「事実性」から出発するほかないと考える哲学でもある】(MP-4-1)

    【しかしまた、世界がつねに反省に先だって、廃棄されえない現存として、「すでにそこに」あることを認める哲学でもある。そして世界との、この素朴な触れあいを再発見し、結局はそれに哲学的な資格を与えることに、あらゆる努力を傾注するのである】(MP-4-2)

    【またそれと同時に、「生きられた」空間、世界についての報告でもある】(MP-4-3)

    【現象学の最も主要なテーマとして提起した「自然的世界概念」あるは「生活世界」の、一つの解明にすぎないのだ】(MP-4-4)

    〈生活世界のフィロソフィア〉かな?
    ようするに、わたしのようにふつう?に、この世界で生活しているひとに、哲学的な資格を与えようとする、って言ってるのよね。
    なんかわけわかんない言葉で語る学者さんのを理解しようとすることより、このようなフィロソフィアを知ろうとすることの方がわたしのwant。

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■11423 / inTopicNo.36)  Re[31]: What do you want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/15(Mon) 21:29:28)
    キリストっていう人、ほかの人に、”みずから考えること”を禁ずる。

    ゴータマ=シッダルタっていう人はどうなのかしら?
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