| 勿忘草さん こんばんは
> しばしば、仏教特に浄土真宗とキリスト教はよく似ていると言われます。 > > それは、行為や功績によって救われるのではなく、絶対者(浄土真宗では阿弥陀如来、キリスト教ではキリスト)の側の働きへの信仰、信心(信受)によって救われるということです。けれども、3点は違うと思います。 > > 1キリスト教は天地創造の神を認めるが、浄土真宗には天地創造の神は存在しない。 > > 2キリスト教の場合、イエス・キリストという具体的な歴史的人物による十字架の贖いという行為に救いの根拠が置かれているが、浄土真宗における法蔵菩薩・阿弥陀如来は具体的な歴史的人格ではなく、超時間的な理念的存在であり、また救いの根拠は贖いではなく修行者の功徳の回向による。 > > 3キリスト教には黙示録における世の終末と新天新地の希望が記されているが、浄土真宗には特に終末論やその後の世界についての展望はない。つまり、キリスト教における「神の国」は終末において現実化するものであるのに対し、浄土真宗の浄土はあくまで他界であり終末が存在しないので終末において現実化するということはない。
そうだと思います。
キリスト教において、「地」はそこから逃れるべきもの、消えた方がいいもの、ただ否定すべきものではないんですね。「地」は神に創造された良きものです。もちろん「天」は究極によきものです。浄土系仏教ならお浄土にあたるのが「天」でしょうか。その「天」と「地」が合体して一つになり、最後の完成をみるのが終末ですね。
> やはり、天地創造と、キリストの受難と贖いをもってはじめて罪人の私も救われたと思うし、終末のキリストの再臨を思えばこそ、この歴史が無意味な反復ではなく何がしかの完成、目標に向かい神の計画の意味のあるものだと思うことができます。 > > もし、仏教のように神の天地創造はなく偶然によるのなら弱肉強食、自然の非情さの説明も納得はできるのですが、それでも、神の愛を信じたいと思います。 >
|