| 勿忘草さん こんにちは
> 「この世に偶然なんてない、あるのは必然だけ」 > > つまり、偶然はあり得ない、すべては起こるべくして起こっていると考えた方が自然だと思います。
偶然を認めない方が不自然だと思います。西洋哲学の歴史でもそこまで極論を言っている人はそれほど多くはないと思います。科学においても、偶発性、偶然、カオスを認める方が自然でしょう。
> 例えば、お湯を沸かそうとガス台でやかんに水を入れて点火すれば、必然的にお湯は沸きます。偶然に沸いたり、沸かなかったりということはありません。
こういう事例に当てはまる基本的な科学法則であれば、偶然は無視しても何ら問題はないと思いますが。
> 論理で決まっているので偶然はありえない必然的ということです。 > > このことは、カルバンの予定説も宇宙は、論理で出来ているので偶然ではなく > 必然的に最後の審判が来るのだと思います。
キリスト教神学の中でも、カルバン派はかならずしも主流派、定説ではないですし、そのカルバンの二重予定説を小室直樹的に理解する立場はさらに少数派だという印象です。
> そして、やかんが沸くように、初めから、救われる人と滅びる人が、宇宙の初めから神が決めている論理に従って施行されると考えた方が、やはり、自然な気がします。 > > 人は、いずれ誰もが死ぬことが、必然的で決まっているように、神の救済の有無も、神の論理に従って、初めから予め決まっているように思えます。 > > そして、この神の論理を修行によって悟られたのが、仏陀だったと思います。
仏教としてはかなり異説だと思います。このような立場の仏教徒は、ほとんど思い当たりません。
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