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■11350 / inTopicNo.73)  Re[21]: 仏教とキリスト教
  
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/08(Mon) 20:55:47)
    なので、このまま鬱に落ち込んでいたら神仏に本当に申し訳なくて、けど、どうすることも出来なくて、ただ、神仏の庇護にすがるだけだと思っているところです。
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■11349 / inTopicNo.74)  Re[20]: 仏教とキリスト教
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/08(Mon) 20:41:45)
    knowing itselfさんこんばんは。
    やはり、基本中の基本を把握なさっているんですね。
    素晴らしいです。
    何事も基本は等閑にできません。

    > 渇望の対象を三位一体の神に向ける以外に、人間の渇望が満たされることはない、というのがキリスト教の処方。そこで初めて人間の渇望はパーフェクトに満たされる。渇望をもって行動することを根こそぎやめろ、とはいいません。違いは渇望の対象だけ。

    なるほど、そうですね。
    私自身の渇望が癒えないで苦しんでいる理由は、やはり、ここにあったのですね。
    あの十字架での神の心身の苦悩を思うとき、最近、鬱がひどくて落ち込んだ気持ちなのですが、こうしていてはダメだとイエス様を見上げて奮い立たせているところです。

    仏教に戻ると、阿弥陀仏の本願というのは、私たち一人一人を間違いなく救おうとしてくださっている、深く大きな願いのことでありました。

    そして、釈尊がこの世間にお出ましになられた目的は何であったのか。

    釈尊は、たまたまこの世間にお生まれになり、たまたま仏になられて、人びとに教えを説かれた、ということではないのです。

    この世間にお出ましになられたのは、それは、ただただこの私を救ってやりたいという阿弥陀仏の本願が、私に差し向けられている、その事実を私に教えようとしてくださったためである、ということであり、この事が信じられる人が幸せの人なのだと思います。


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■11344 / inTopicNo.75)  仏教とキリスト教が違うとしたら一つには
□投稿者/ knowing itself -(2021/03/07(Sun) 17:04:51)
    > 例えば、信仰によってドラッグ中毒から立ち直れた人は、以後何もせずに寝ているわけではありません。再びドラッグ中毒に舞い戻らないで、他の何かの行動はしているはずです。別にこれ見よがしの善行ではなくても、ドラッグを飲むのではないことは行動に現れているはずです。

    ここあたり、もしかしたらキリスト教と仏教の違いかもしれない。

    ドラッグに向かう強烈な渇望、これはドラッグでなく他の対象でもいいが、そういう渇望はそもそも悪だから根底から無くしてしまえ、とはならないのがキリスト教だね。人間は基本的に善なるものとして創造されているが、渇望の対象を間違うと満たされずに苦悩と絶望に陥る。

    渇望の対象を三位一体の神に向ける以外に、人間の渇望が満たされることはない、というのがキリスト教の処方。そこで初めて人間の渇望はパーフェクトに満たされる。渇望をもって行動することを根こそぎやめろ、とはいいません。違いは渇望の対象だけ。
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■11338 / inTopicNo.76)  Re[19]: 仏道は基本的に自力
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/07(Sun) 09:52:14)
    No11328に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ねえ、勿忘草さん
    >
    > あなたの言う「自力」の「自」ってなあに? 「自分」ってなあに?

    「自分」とは、様々な煩悩だけで出来ている煩悩に目と鼻がくっ付いている生き物のことだと思います。

    なので、自らへの計らいを捨てることが、出来ません。

    この煩悩をなくさないままで、煩悩の支配を離れた涅槃という境地にいたることができることが信心だと思います。

    「煩悩」というのは、私どもの身や心を煩わせ、悩ませる心のはたらきのことです。しかもそれは、自分自身が引き起こしている心の作用なのです。

    自分とは、煩悩がいつも心に付きまとっていて、絶えず支配していて、自分の思い通りにしようとしていること、それが実は煩悩であって、結局はそれが自分自身を苦しめ悩ませる原因になっていて、しかも、自らが引き起こしている煩悩によって、自分が苦しんでいることすら気づけないでいる、本当に無知だとしか言わざるを得ません。

    だからこそ、それを憐れんだ阿弥陀仏の本願によって往生すること、そのことが煩悩を滅する事が出来なくても、いや、煩悩を断ずることのできない、愚かで情けない自分であるからこそ、弥陀の「本願」により、救われるものであると仏祖から思うのです。


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■11332 / inTopicNo.77)  Re[18]: 仏道は基本的に自力
□投稿者/ knowing itself -(2021/03/06(Sat) 21:20:51)
    勿忘草さん こんばんは

    > 私たちはキリストを救い主として信じると、はじめは、とかく自分の力で、一生懸命に信仰に励み、努力しようとします。
    >
    > しかし、やがて信仰というものは、じつは自分の力でしているものではなく、三位一体の神が自分にたまわったもので、信仰できるように働きかけてくださっているのだ、ということがわかってきます。
    >
    > つまり、すべてはキリストの恵みであり、働きということがわかってきます。
    > 自分の力に頼むのではなく、キリストのお働きに身をゆだねることこそ大切なのだ、と思うようになるのです。
    >
    > では、そのように他力に身をゆだねた自分は、完全に消滅してしまい、自分の意志さえもなくなってしまうのかというと、実はそうではないことに、やがて気づき
    > そこに"新しい自分"を発見するようになります。
    >
    > 他力は自力となり、自力は他力となる。そこにはもはや自力も他力もありません。自他両力は一つとなっています。
    >
    > こうした渾然一体が信仰の究極の境地なのかなと思うのですが如何でしょうか。

    そうだと思います。

    プロテスタントには恵みだけということを過度に強調し、人間の行いやわざを全否定する立場もあるし、日本の浄土教にも他力一本に執着する人が少なくないですね。あまりも単純だと言わざるをえません。

    例えば、信仰によってドラッグ中毒から立ち直れた人は、以後何もせずに寝ているわけではありません。再びドラッグ中毒に舞い戻らないで、他の何かの行動はしているはずです。別にこれ見よがしの善行ではなくても、ドラッグを飲むのではないことは行動に現れているはずです。ドラッグはやめる必要はない、そのままでOKなんだという論理もあるかもしれませんが、それなら他力信仰さえ必要はないと思います。
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■11328 / inTopicNo.78)  Re[18]: 仏道は基本的に自力
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/06(Sat) 18:32:07)
    ねえ、勿忘草さん

    あなたの言う「自力」の「自」ってなあに? 「自分」ってなあに?

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■11326 / inTopicNo.79)  Re[17]: 仏道は基本的に自力
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/06(Sat) 18:23:03)
    私たちはキリストを救い主として信じると、はじめは、とかく自分の力で、一生懸命に信仰に励み、努力しようとします。

    しかし、やがて信仰というものは、じつは自分の力でしているものではなく、三位一体の神が自分にたまわったもので、信仰できるように働きかけてくださっているのだ、ということがわかってきます。

    つまり、すべてはキリストの恵みであり、働きということがわかってきます。
    自分の力に頼むのではなく、キリストのお働きに身をゆだねることこそ大切なのだ、と思うようになるのです。

    では、そのように他力に身をゆだねた自分は、完全に消滅してしまい、自分の意志さえもなくなってしまうのかというと、実はそうではないことに、やがて気づき
    そこに"新しい自分"を発見するようになります。

    他力は自力となり、自力は他力となる。そこにはもはや自力も他力もありません。自他両力は一つとなっています。

    こうした渾然一体が信仰の究極の境地なのかなと思うのですが如何でしょうか。







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■11298 / inTopicNo.80)  Re[16]: 仏道は基本的に自力
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/05(Fri) 19:26:39)
    knowing itselfさん こんばんは
    早速のお返事ありがとうございます。

    > 仏教における人生苦からの解放は、貪瞋痴から解放されない限り、ありえないと考えています。自力か他力かは、貪瞋痴から解放される上でどちらが効果的かによるのではないでしょうか。自力か他力かに分けても意味はないのではとも思います。要は、ターゲットは、貪瞋痴ですから。

    へえーっ、knowing itselfさんは、仏教にも造詣が深いのですね。
    私は、まだまだなので、これからも、いろいろ教えて頂ければと思います。
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■11297 / inTopicNo.81)  Re[15]: 仏道は基本的に自力
□投稿者/ knowing itself -(2021/03/05(Fri) 19:12:20)
    勿忘草さん こんばんは

    仏教における人生苦からの解放は、貪瞋痴から解放されない限り、ありえないと考えています。自力か他力かは、貪瞋痴から解放される上でどちらが効果的かによるのではないでしょうか。自力か他力かに分けても意味はないのではとも思います。要は、ターゲットは、貪瞋痴ですから。
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■11286 / inTopicNo.82)  仏道は基本的に自力
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/04(Thu) 20:22:03)
    「自力」というのは、自らの力によって仏に成ることを目指す道です。

    まずは苦にあえぐ衆生を救くうべく仏と成りたいという菩提心を起こし、
    どのような仏と成ることを目指すのかという「願(がん)」をたて、
    その「願」の通りに成ることを誓います。

    そして「行(ぎょう)」を重ねることで、その願いを完成・成就させることによって、仏と成るに至るのです。

    「行」というのは、八正道や六波羅蜜を基本に様々なものがありますが、心を正し、行いを正していくことと言えば良いでしょうか。

    「仏教」と言えば、やはりこの「行」を修めていくということが一般的です。
    しかしこの「自力」道は、修行は、大変に厳しいものです。

    どんな修行でも自らがすべての煩悩から離れたさとりの境地に到るまで、途中で終わってしまっては、目的達成にはなりません。

    なので、誰にでもできる道ではなく、一握りの勝れた人だけしか「仏と成る」という悟りのゴールに辿り着くことが出来ないのです。

    仏教が目指すのは、苦悩の中にある生命を救うことこそが、一番の目的となります。でも勝れた人しか悟りという境地に辿りつけないのでは、それはいつまでたっても達成されません。

    仏と成るためには、仏になって苦にあえぐ人を救いたいという菩提心と「願」、そしてその願を成就させるための修行が不可欠です。

    しかしごく一般の人たちが、菩提心を起こし、「願」をたて、「行」を修めるということは、そもそもでき得ることではありません。

    このため、それを見通した「阿弥陀仏」が、自分の力で「願」を起こすことも、「行」を修めることもできない人こそ救うというものです。

    それは、阿弥陀仏が私に変わって「願」と「行」を完成させ、それを「南無阿弥陀仏」という言葉に込めて私に届けるという方法です。

    ですから、私はただその「南無阿弥陀仏」という言葉をいただく、つまり念仏していくことによって、死後に阿弥陀仏の浄土に往生し、修行を完成させて仏と成ることが約束されるのです。

    仏教とは、苦の根源である「私」から離れるための教えでありました。

    それを「自力」ではなく「他力」の阿弥陀仏のはたらき、南無阿弥陀仏という念仏に出会うことによって、自分の力ではできないことも最終的には自らの「はからい」から離れることを実現する教えなのかもしれません。
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■11282 / inTopicNo.83)  Re[13]: うれしいひな祭り
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/04(Thu) 19:23:50)
    knowing itselfさんこんばんは

    > 自力の修業はともかく、他力を受けいれるためには、意志を研ぎ澄ましていなければならないともいえ、けっしてラクで抵抗のない道ではないと思います。むしろ、逆説的に緊張や決断が要求されるともいえるのでないでしょうか。見方によっては、人間は自力の惰性に陥る方が多いともいえます。

    確かに他力だから楽とは言えないかもしれませんね。

    一瞬一瞬の実存的な決断が求められるというのは、そうかもしれません。

    日々、安易に流されることなく、神仏の真の慈愛を素直に受け入れられるよう
    自己を磨いていきたいものです。
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■11280 / inTopicNo.84)  Re[12]: うれしいひな祭り
□投稿者/ knowing itself -(2021/03/04(Thu) 19:15:44)
    勿忘草さん こんばんは

    > 仏教って、なんて因果応報の緻密なロジックなのかと改めて思いました。
    >
    > 対するキリスト教は、やはり、三位一体の慈愛に満ちたある種エネルギーのようなものかなと思います。
    >
    > イエス様の十字架による贖罪によって、このように日々生かされている事の幸せ。
    >
    > 大変、有難いと感じています。
    >
    > どのみち、自力での修業は、自分は無理だと思うので、神仏の他力に頼んで
    > 生きていきたいと思います。

    自力の修業はともかく、他力を受けいれるためには、意志を研ぎ澄ましていなければならないともいえ、けっしてラクで抵抗のない道ではないと思います。むしろ、逆説的に緊張や決断が要求されるともいえるのでないでしょうか。見方によっては、人間は自力の惰性に陥る方が多いともいえます。


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