| knowing itselfさんこんばんは。 やはり、基本中の基本を把握なさっているんですね。 素晴らしいです。 何事も基本は等閑にできません。
> 渇望の対象を三位一体の神に向ける以外に、人間の渇望が満たされることはない、というのがキリスト教の処方。そこで初めて人間の渇望はパーフェクトに満たされる。渇望をもって行動することを根こそぎやめろ、とはいいません。違いは渇望の対象だけ。
なるほど、そうですね。 私自身の渇望が癒えないで苦しんでいる理由は、やはり、ここにあったのですね。 あの十字架での神の心身の苦悩を思うとき、最近、鬱がひどくて落ち込んだ気持ちなのですが、こうしていてはダメだとイエス様を見上げて奮い立たせているところです。
仏教に戻ると、阿弥陀仏の本願というのは、私たち一人一人を間違いなく救おうとしてくださっている、深く大きな願いのことでありました。
そして、釈尊がこの世間にお出ましになられた目的は何であったのか。
釈尊は、たまたまこの世間にお生まれになり、たまたま仏になられて、人びとに教えを説かれた、ということではないのです。
この世間にお出ましになられたのは、それは、ただただこの私を救ってやりたいという阿弥陀仏の本願が、私に差し向けられている、その事実を私に教えようとしてくださったためである、ということであり、この事が信じられる人が幸せの人なのだと思います。
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