■33835 / inTopicNo.8) |
田秋さんへ(;´・ω・)
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□投稿者/ うましか -(2023/10/09(Mon) 17:11:33)
| No.33827(田秋さん)
>あと1916年7月7日の 「(しかし、繋がりはつけられるだろう!)言われえないことは、言われえないのだ!」 論考の最終命題への方向性を見いだせます。註にもそう書いてありますが、ここは註を読む前にそう感じました。
(*‘∀‘) おお!!
前日の日記文には、こうありますね。
>1916年7月6日
先月は大変な辛苦があった。僕はあらゆる可能な事態についてたくさん考えた。しかし、奇妙なことに、自分の数学的な思考過程と繋がりをつけることができない。< 〔丸山空大訳, p.118〕
上でウィトゲンシュタインがいう「先月」つまり1916年6月とは、彼にとって「大変な辛苦」があったようですね。これはいわゆる「ブルシーロフ攻勢」を指すのでしょうか(;´・ω・) p.147〜に「兵士としてのウィトゲンシュタインの経歴」があります。
・https://ja.wikipedia.org/wiki/ブルシーロフ攻勢
ちなみに、1916年6月の日記・草稿は、『草稿1914-1916』のp.253にある、6月11日の記述のみ。(秘密の)日記にはありませんね。そういえば、以前うましかはこれを引用していました。( No.18490 )
>1916年6月11日
神と生の目的との関して私は何を知るか。 私は知る、この世界があることを。 私の眼が眼の視野の中にあるように、私が世界の中にいることを。 世界についての問題となるものを、我々が世界の意義と称することを。 世界の意義は世界の中にはなく、世界の外にあることを。 生が世界であることを。 私の意志が世界にあまねく浸透していることを。 私の意志が善か悪かであることを。 従って善と悪は世界の意義と何らかの連関があることを。 生の意義、即ち世界の意義を我々は神と称することができるのである。 そして父としての神という比喩をこれに結びつけること。 祈りとは世界の意義についての思想である。 世界の出来事を私の意志によって左右するのは不可能であり、私は完全に無力である。 私は出来事への影響を専ら断念することによって、自分を世界から独立させることができ、従って世界をやはり或る意味で支配しうるのである。<
〔ウィトゲンシュタイン「草稿1914-1916」,奥雅博 訳、大修館書店 ウィトゲンシュタイン全集1、p.253〜p.254〕
さて、ウィトゲンシュタインが「自分の数学的な思考過程と繋がりをつけることができない」というのは、いったいどんなものなんでしょうか? 「あらゆる可能な事態」とは?( ;∀;) 謎が謎をうむ…
これはもうウィトゲンシュタイン全集1を読むしかない!(。´・ω・)?〔註1〕
註1:うましかは大●館書店の回し者ではない。
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