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■36450 / inTopicNo.97)  Re[28]: pipitさんへ
  
□投稿者/ おくたがわ -(2024/02/06(Tue) 14:32:23)
    No36428に返信(pipitさんの記事)
    こんにちは!

    > 山口修二先生『カント超越論的論理学の研究』p18.19より抜粋引用
    > (山口先生の解説文)
    > 『 (略) この考えに従って、「判断の真理決定条件は、表象された〈主語と述語の内容的合致〉が実際に成立していることである」としよう。(略)しかし、「表象された何かが実際に成立している」ということは「真」という言葉の言い換えにすぎない。したがって、上の言明は、「判断の真理決定条件は、〈主語と述語の内容的合致〉が真であることである」と言い換えられる。これは結局「判断の真理決定条件は判断が真である」という同語反復に帰着する。
    >  このような循環的な事態を「各々の認識の真理性の普遍的かつ十分な基準とは何か」(A58,B82)を問う場合に不可避的に陥る事態として把握するのが『純粋理性批判』のカントである。後に検討するように、「論理学者たち」を「惨めな循環論法」(A57,B82)に追い込んだこの問は「それ自体において矛盾している」(A59,B83)。このように、『判明性』論文における真理論は、事態的に見て、循環を抱え込んだ理論と見なされうる。たしかに、この真理論の主張する真理決定条件が、真と偽の区別の普遍的基準を示していると考えるかぎりにおいて、それは欠陥を免れない。
    >  しかしながら、もしこの真理論の主張する真理決定条件が、真と偽の区別の普遍的基準をではなく、したがって、認識と対象との「合致」の基準をではなく、むしろ、認識と対象との「関係」の基準を示すものであるとすれば、どうであろうか。この種の真理論を考えたのは言うまでもなく後のカント自身である。『純粋理性批判』においてカントは、「真理の論理学」、すなわち、「認識がそれに反する場合には必ず、同時にあらゆる内容を、すなわち何らかの客観とのあらゆる関係を失い、したがってあらゆる真理を失う」(A62f.B87)ような規則を示す「超越論的論理学」という構想を提示する。(略)』

    認識と対象の一致という真理の基準に疑問を呈していることは憶えていたのですが、それが循環になるということを端的に説明されている山口修二先生の解説、ありがたいです。そしてカントはどういう真理の基準を構想したのかも。

    > ---------------------
    > (おくたがわさん)
    >>> 純粋悟性概念がそれを使って内容を持たされているので、時間空間に乗せられた直観の対象でないと判断できないということでしょうか?<<
    > (pipit)
    > >はい、そう考えています。
    > 持たされている、というか、概念作成の主犯は悟性側のイメージです。<
    >
    > についても、pipitの考え方はどんどん変わる気はするのですが、
    > とりあえずこの箇所に関係あるかな、と、思えた山口先生の解説文章を引用します。
    >
    > 同本p93より引用
    > (山口修二先生の解説文)
    > 『(略)すなわちカテゴリーとしての「原因と結果」の関係は「超越論的内容」(A80,B105)を持つ。言いかえれば、「原因と結果」という概念は、対象一般を包摂する「超越論的述語(transzendentale Pradikate)」(A343,B402)であり、この包摂を行う機能が「純粋総合」なのである。「総合」は「表象そのものを生産する」(A51,B75)「自発性」の機能である以上、「純粋総合」は「超越論的内容」を直観一般において「生産する」と言ってもよいだろう。このように、我々がカテゴリーを対象一般についての「普遍的」規定として理解しうるのは、カテゴリーを「純粋総合」として見なす場合のみである。すなわち、我々の「純粋悟性認識」は「純粋総合」によってのみ可能なのである。これは、「我々自身が諸物のうちに置き入れるものだけを我々は諸物に関してアプリオリに認識する」(B ]XV)という、カントがコペルニクスの業績に比した「考え方の変革的方法」(ebd.)に他ならない。(略)』
    > 引用終了
    >
    > 今回おくたがわさんのおかげで、挫折していた山口修二先生の本に少しだけ再チャレンジでき、pipitの誤解も認識できて、感謝です!
    > ありがとうございます♪

    そのように言ってもらえることが、ありがたいですし、
    上記の引用でpipitさんが見つけたこと、私も(ほのかに)分かったような気がします。ありがとうございます。それでも、自分には難しいですけどね。カントの場合、原文だけでなく日本の学者の解説も難しいという…。
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■36464 / inTopicNo.98)  詩をGoogle英訳→それを和訳
□投稿者/ おくたがわ -(2024/02/07(Wed) 11:53:52)
    (元詩)
    「はじめてのものに」 立原道造

    ささやかな地異は そのかたみに
    灰を降らした この村に ひとしきり
    灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
    樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

    その夜 月は明かつたが 私はひとと
    窓に凭(もた)れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
    部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
    よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

    ――人の心を知ることは……人の心とは……

    私は そのひとが蛾(が)を追ふ手つきを あれは蛾を
    把(つかま)へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

    いかな日にみねに灰の煙の立ち初(そ)めたか
    火の山の物語と……また幾夜さかは 果(はた)して夢に
    その夜習つたエリーザベトの物語を織(お)つた

    *****
    これをGoogle英訳し、それをGoogle和訳

    小さな不思議はそんなもの
    灰が降ったこの村で一瞬だけ
    灰は懐かしい思い出のような音を立てる
    雨が木のてっぺんや家の屋根に降り注ぎました。

    その夜、月は輝いていましたが、私は一人でした。
    私たちは窓に寄りかかりながら話しました(窓からは山が見えました)。
    部屋の隅々まで光が差し込み、峡谷のように
    大きな笑い声がたくさんありました。

    ――人の心を知るとは……人の心とは……。

    私はその人が蛾を追いかける様子を見ていました。
    私を掴もうとしているのかと思いましたが、何かがおかしいようでした。

    灰の煙が上がり始めたのは何日ですか?
    火の山の物語…そして何夜もそれは夢に変わった。
    私はその夜知ったエリザベスの話を織り上げました。

    ****
    Deeplもやってみて、そちらの方が元詩に近い気がするが、Googleの方は趣の違うなかなか良い詩になっている・と思う
    『私はひとと』で改行の部分を I was alone.→私は一人 としてしまうのはDeepl/Google共通
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■36470 / inTopicNo.99)  ノート>『論考を読む』
□投稿者/ おくたがわ -(2024/02/08(Thu) 11:36:06)
    2024/02/08(Thu) 11:49:05 編集(投稿者)

    野矢さんの『論考を読む』を読んで、分かった(つもりの)ことを、忘れてしまわないよう復習用に書いたノートを投稿します。

    **
    事実に対応する(写像である)言葉の像(真なる命題)から「名」なる要素を切り出す。名に対応する対象(名が像である対象)が同時に事実から切り出される。
    名が他の名と結びつき有意味な命題となれる可能性が「形式」であり、それは対象が諸対象と結びつき事態となれる形式に一致する。

    猫、は「寝ている」「哺乳類」「かわいい」などと結びつけば有意味。「素数だ」「活火山だ」などと結びつけば無意味(=事態の像ではない)
    それらの結びつき方に一般則のようなものはないゆえに、
    全ての名についてのすべての形式を(したがって全ての対象についての形式を)把握するには、言語全体を把握しなければならない。
    私の知る言語全体からのみ、名の(したがって対象の)形式が分かる。(言語に習熟し使いこなす中での把握)

    ゆえに、形式(論理形式)は「語り得ぬもの」の一つ。形式を写像することはできない。
    言語全体からのみ示されるものだから。

    有意味な諸命題の各々が真か偽である。真なる命題に対応する事態が事実(現実に成立している事態)。つまり、すべての事態に「現実に成立している・していない」の可能性がある。それらのすべての組合せによって個々の可能世界のありさまが決まる。
    (「可能世界」という表現には注意が必要と野矢氏は書いており、また論考では「状況(Sachlage)」と表現されているというが、あえて可能世界と書きます)

    それら可能世界をすべて集めた集合が「論理空間」
    論理空間の中で、ある命題を真にする世界(状況)が、その命題の「真理根拠」 (真理根拠である世界をすべて合わせたものを「真理領域」と野矢氏は命名)
    可能世界のうち、可能な事態がすべて現実に成立している(対応する諸命題がすべて真である)ものが、この世界である。

    言語の全てを把握していて、したがってすべての形式を把握できる主体が要請される。
    その主体が上記のように論理空間を持つ。

    私の言語を把握し私の論理空間を持つ主体が私である。その論理空間で現実に成立している事態(=事実)だけからなるのが私のこの世界である。
    異なる言語からは異なる論理空間・異なる世界が導かれるだろうが、その論理空間も世界も私にとっては存在しない。
    私の論理空間の外にあるものを私は思考できないから。
    「世界は私の世界である」   (存在論的独我論=野矢表現)

    (私の)論理空間を導いた主体もまた、世界の内にはなく、したがって思考できない(語れない)が、それは示され得る。
    論理空間と世界が、それを成立させた主体としての私を示す。 - 比喩:写真の中に撮影者が写っていなくても、写真自体が撮影者の存在を「示して」いる

    しかし語り得ないものである私は消去される。主体の否定。
    すると
    「世界は私の世界である」 →「世界はこの世界である」
    『5.64 ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見て取られる。』


    *****
    真理関数
    複合命題の真偽はそれを構成する各要素命題の真偽により自動的に決まる。

    ラッセルは論理定項(論理記号)も対象の像だと考えたが、論考のウィトゲンシュタインは、像ではないと考える
    『4.0312 命題の可能性は記号による対象の代表という原理にもとづいている。
    私の根本思想は論理定項は代表機能を持たない。事実の論理は代表され得ないというものである。』

    事実の論理は命題の形式に示されるのみ。
    論理定項は対象を表すのではなく(像ではなく)、「操作」を表す。

    *****
    ここはおかしいという点あればご指摘ください。
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■36471 / inTopicNo.100)  Microsoft OneDrive
□投稿者/ おくたがわ -(2024/02/08(Thu) 11:39:27)
    前の投稿をテキスト管理のソフトで保存していたところ、今朝不具合で内容が失われた。回復不可能と思い、さっさと投稿しておけばよかったと焦ったが、全体をOneDriveに置いていたので、もしやと思ってオンラインで見たら過去の内容が保存されていて回復できた。
    OneDriveすごい! えらい! 有料契約して容量増やせと時々通知が来るが、人によったら十分その価値あるんだろうな。自分は無料の容量で足りているが。
引用返信/返信 削除キー/
■36481 / inTopicNo.101)  詩をGoogleラテン語訳→それを和訳
□投稿者/ おくたがわ -(2024/02/09(Fri) 16:42:30)
    伊東静雄 わがひとに與ふる哀歌(前半部分)

    太陽は美しく輝き
    或は 太陽の美しく輝くことを希ひ
    手をかたくくみあはせ
    しづかに私たちは歩いて行つた

    かく誘ふものの何であらうとも
    私たちの内の
    誘はるる清らかさを私は信ずる

    ******
    Googleーラテン語訳から、それを和訳

    太陽が美しく輝いています
    あるいは太陽が美しく輝くことを願います
    手をしっかりと合わせて
    彼は静かに私たちのもとを去った

    何が私を誘惑するかは関係ない
    私たちの中で
    私は貞操は誘惑だと信じています。

    ***
    名言出た

    ☆ 私は貞操は誘惑だと信じています
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