| ■No36428に返信(pipitさんの記事) こんにちは!
> 山口修二先生『カント超越論的論理学の研究』p18.19より抜粋引用 > (山口先生の解説文) > 『 (略) この考えに従って、「判断の真理決定条件は、表象された〈主語と述語の内容的合致〉が実際に成立していることである」としよう。(略)しかし、「表象された何かが実際に成立している」ということは「真」という言葉の言い換えにすぎない。したがって、上の言明は、「判断の真理決定条件は、〈主語と述語の内容的合致〉が真であることである」と言い換えられる。これは結局「判断の真理決定条件は判断が真である」という同語反復に帰着する。 > このような循環的な事態を「各々の認識の真理性の普遍的かつ十分な基準とは何か」(A58,B82)を問う場合に不可避的に陥る事態として把握するのが『純粋理性批判』のカントである。後に検討するように、「論理学者たち」を「惨めな循環論法」(A57,B82)に追い込んだこの問は「それ自体において矛盾している」(A59,B83)。このように、『判明性』論文における真理論は、事態的に見て、循環を抱え込んだ理論と見なされうる。たしかに、この真理論の主張する真理決定条件が、真と偽の区別の普遍的基準を示していると考えるかぎりにおいて、それは欠陥を免れない。 > しかしながら、もしこの真理論の主張する真理決定条件が、真と偽の区別の普遍的基準をではなく、したがって、認識と対象との「合致」の基準をではなく、むしろ、認識と対象との「関係」の基準を示すものであるとすれば、どうであろうか。この種の真理論を考えたのは言うまでもなく後のカント自身である。『純粋理性批判』においてカントは、「真理の論理学」、すなわち、「認識がそれに反する場合には必ず、同時にあらゆる内容を、すなわち何らかの客観とのあらゆる関係を失い、したがってあらゆる真理を失う」(A62f.B87)ような規則を示す「超越論的論理学」という構想を提示する。(略)』
認識と対象の一致という真理の基準に疑問を呈していることは憶えていたのですが、それが循環になるということを端的に説明されている山口修二先生の解説、ありがたいです。そしてカントはどういう真理の基準を構想したのかも。
> --------------------- > (おくたがわさん) >>> 純粋悟性概念がそれを使って内容を持たされているので、時間空間に乗せられた直観の対象でないと判断できないということでしょうか?<< > (pipit) > >はい、そう考えています。 > 持たされている、というか、概念作成の主犯は悟性側のイメージです。< > > についても、pipitの考え方はどんどん変わる気はするのですが、 > とりあえずこの箇所に関係あるかな、と、思えた山口先生の解説文章を引用します。 > > 同本p93より引用 > (山口修二先生の解説文) > 『(略)すなわちカテゴリーとしての「原因と結果」の関係は「超越論的内容」(A80,B105)を持つ。言いかえれば、「原因と結果」という概念は、対象一般を包摂する「超越論的述語(transzendentale Pradikate)」(A343,B402)であり、この包摂を行う機能が「純粋総合」なのである。「総合」は「表象そのものを生産する」(A51,B75)「自発性」の機能である以上、「純粋総合」は「超越論的内容」を直観一般において「生産する」と言ってもよいだろう。このように、我々がカテゴリーを対象一般についての「普遍的」規定として理解しうるのは、カテゴリーを「純粋総合」として見なす場合のみである。すなわち、我々の「純粋悟性認識」は「純粋総合」によってのみ可能なのである。これは、「我々自身が諸物のうちに置き入れるものだけを我々は諸物に関してアプリオリに認識する」(B ]XV)という、カントがコペルニクスの業績に比した「考え方の変革的方法」(ebd.)に他ならない。(略)』 > 引用終了 > > 今回おくたがわさんのおかげで、挫折していた山口修二先生の本に少しだけ再チャレンジでき、pipitの誤解も認識できて、感謝です! > ありがとうございます♪
そのように言ってもらえることが、ありがたいですし、 上記の引用でpipitさんが見つけたこと、私も(ほのかに)分かったような気がします。ありがとうございます。それでも、自分には難しいですけどね。カントの場合、原文だけでなく日本の学者の解説も難しいという…。
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