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■18706 / inTopicNo.73)  Re[72]: ふと
  
□投稿者/ マジカルモンキー -(2021/11/11(Thu) 22:21:22)
    はい、こんばんわ、悪魔ちゃん


    No18701に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■18660、マジモンさん、
    >
    > >読みました。<
    > ありがと。
    > なんかさ〜、最近感じるのね〜、他のところにお邪魔すと、文字通り邪魔者あつかいされちゃうのよね〜。マジモンさんも来ないで、って言われたら行かない方がいいんじゃなない?わたしこれからはそうするつもり。そのために、そこを見ないことにする、っていうのが一番いい方法だと思ってる。

    時代が変わったのよ。
    前の時代の人って、あんな感じよ(笑)



    > >人は慣れですね<、
    > 慣れ、なのかな?何度も繰り返して自分の既成の意味を見なおしながら考えながら読み直して見る、っていうここと、そうするとこれまでの自分の既成のもの以外のものが見えてくるものもあるのかもね。
    >
    > >読めるようになってきました。<
    > いずれにしても読めるようになってうれしい。

    読めようになってきているね(笑)
    人って実の所、読める人ってかなり少ないと思うよ。
    もともと生命には言葉なくて、
    それでも成功している人は成功しているわけですし。

    それを『 指先の思考 』っていう奴らしい。
    言葉がいらないトランプのババ抜きで、ジョーカーを引かない思考。



    > >ちなみに反対なのは(2)です<
    > わたしもそう思う。なんかさ〜、「哲学」っていうと「真偽善悪の探究だ〜!」みたいなんかもしれないけど、メルポンの読んでるとなんか違うのよね〜、そういのと。だから「哲学」というのがそういうのかもしれないけど、じゃない、「フィロソフィア」ってして、わたし「哲学」とは区別してる。
    >
    > 「奇跡」ね〜、
    > 常識に囚われてるうちには奇跡も現れないのかもね。

    おそらく、自分の思考に自信のない人が多いのだと思いますね。
    思考がない人とも言うけど。
    『 やりたい事がない 』っていう人もいるわけだし。

    とにかく、NO18656が読めて、俺は視野狭!と思ったな。

    ありがとうございます。
引用返信/返信 削除キー/
■18742 / inTopicNo.74)  Re[73]: ふと
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/12(Fri) 19:36:07)
    ■18706、マジモンさん、

    >それを『 指先の思考 』っていう奴らしい。言葉がいらないトランプのババ抜きで、ジョーカーを引かない思考。<

    「指先の思考」って言うのなんかおもしろ〜い。
    メルポンの、
    No12240にあるように「手のなかにある知」みたいな表言で、
    もっとも、だいぶ違うのかもしれないけど。

    たしかに!、ババ抜きしてるとき、言葉いらないよね、っていうか、
    ゲーム中、逆に思ってることを素直に言ったらダメよね。

    ん〜ん、これもひとつの「沈黙せねばならない」かな?

引用返信/返信 削除キー/
■18753 / inTopicNo.75)  Re[74]: ふと
□投稿者/ マジカルモンキー -(2021/11/12(Fri) 21:42:49)
    No18742に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■18706、マジモンさん、
    >
    > >それを『 指先の思考 』っていう奴らしい。言葉がいらないトランプのババ抜きで、ジョーカーを引かない思考。<
    >
    > 「指先の思考」って言うのなんかおもしろ〜い。
    > メルポンの、
    > No12240にあるように「手のなかにある知」みたいな表言で、
    > もっとも、だいぶ違うのかもしれないけど。
    >
    > たしかに!、ババ抜きしてるとき、言葉いらないよね、っていうか、
    > ゲーム中、逆に思ってることを素直に言ったらダメよね。
    >
    > ん〜ん、これもひとつの「沈黙せねばならない」かな?

    はい、こんばんわ、悪魔ちゃん

    指先の思考ってのは、おそらくNo12240であると思われる。
    そして、悪魔ちゃんの言う所の『 身体知 』は、
    この先、ロボットがやるんだな。
    ロボットは言葉必要ないですからね。
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■18772 / inTopicNo.76)  Re[75]: ふと
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/13(Sat) 13:42:45)
    ■18753、
    >悪魔ちゃんの言う所の『 身体知 』は、この先、ロボットがやるんだな。<
    ん〜ん、わたしの言う「身体知」っていうのは、〈身体はすでに知っている〉みたいなのね。だからちょっと違う感じだけど、ま、これはいいわ。

    ロボットって、たとえば、放射能いっぱいあるところで人間のかわりに作業する、っていうことはすごい。こういうのって“人間にできないことをロボットがやる”っていうことだと思う。ほかに“人間にできることをロボットがやる”っていうのもあるよね。これって、“人間でなくてもいい”とも見れるよね。ってすると、人間てなんなの?みたいな問いが人間にとって重要になって来るんじゃないかしら。
    なんか、ふと、のやつ。
    わたしの物語りは、こっち方面じゃないから、これについてのお喋りはもうやめとく。

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■18773 / inTopicNo.77)  Re[76]: わたしの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/13(Sat) 13:46:39)
    お仕事お休みだから、わたしの物語りをつづけちゃうよ

    現象学のわたしのをちょっと。

    現象学のを読んでると、「意識の生」っていうのが出てくんね。まれに「生(なま)」って訳されてる。
    でね、わたしこう言うの、〈生(なま)の意識〉って言うことにしてる。

    〈生(なま)の意識〉って言うの、〈今、意識のなかでどのようなことが起こっているのか〉見たいなこと。このようなことについて言っているのが、
    No12118に書き写した「内的時間意識」なんだと思う。

    ノエシスなんだけど、
    No12267No16050で、
    わたし「ノエシス」を〈する〉とか〈している〉、「ノエマ」をそれによって〈されたもの〉とか〈したもの〉ってして、これを区別して見るってした。たとえば、〈感じる〉と〈感じられたもの〉、〈書いている〉と〈書かれたもの〉みたいにいろいろ使えるから便利。

    でね、
    〈ノエシス〉は、〈生(なま)の意識〉と重なってくる感じがしてる。

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■18774 / inTopicNo.78)  Re[77]: 現象学の
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/13(Sat) 15:28:57)
    現象学で使われてる主要な用語、だいたい書き写せたかも。
    現象学の、ここでわたしなりにちょっと整理して見る。

    フッサールの現象学の志向は、
    No11345
    に書き写したところでだいたいOKかな?

    メルポンの志向は、
    (a)人間考察。人間と世界とを理解すること。
    (b)生(なま)の意識を見ようとすること。
    メルポンの現象学は、
    (1)「すでにそこにある」ことを認め、「事実性」から出発しようとする。
    (2)その方法として、言葉のざわめきの下に遡って、その原初的世界を描き出すこと。
    (3)世界との素朴な触れあいを再発見すること。そしてそれに哲学的資格を与えること。

    すっごく簡単に見ちゃって、だいたいこんな感じだとわたし思う。

    〈人(私)、世界、そして人(実存私)と世界との原初的な関係性〉を見ようとすること、そして、哲学者じゃないわたしのような、素朴的人間、素朴的経験、素朴的意識、ん〜ん、生活世界の非反省的な生?を端緒とするようなフィロソフィア。こんなところにわたし興味があるのかもしれない。

    で、そのための手法として、
    メルポンはこんなことを言っている。
    【なぜ、現象学がながい間、初歩的な状態にとどまり、問題性と願望の域をでなかったかが、理解されるであろう。】(『知覚の現象学』)って。
    現象学的態度は、「初歩的な状態にとどまり続ける」「永遠初心者」「いつも最初からやり直す」ということみたい。
    また、メルポンは【地の上に図を描いたら、それを再び地に戻してみる】とも言ってる。

    現象学はこのような態度(手法)をとることによって、原初的世界へ近づこうとしているような感じ。

    これが、ここでのWhat do you want to do? に対するわたしのひとつの欲望かな?

引用返信/返信 削除キー/
■18782 / inTopicNo.79)  Re[78]: メルポンの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/13(Sat) 18:40:50)
    メルポンの『知覚の現象学』の目次は、
    序文
    緒論 古典的偏見と現象への復帰
    第一部 身体
    第二部 知覚された世界
    第三部 対自存在と世界における(への)存在
    ね。
    たぶん、わたしが最初思ったのは、“へ〜、哲学者って身体についても考えてるんだ〜、哲学者って身体についてどんな見方してるんかな〜”、っていうのだったと思う。

    『知覚の現象学』と『行動の構造』のなかかから、
    メルポンの、「私」、「私と身体との関係性」、「私と世界との関係性」についての見方、ちょっと書き出して見る。

    【私は絶対的な根源である。私の実存は、私の経歴、私の自然的・社会的環境から由来するのではない。私の実存はこれらに向かってゆき、これらを支える。】

    【私は私の身体の前にいるのではない。私は私の身体のなかにいる。いやむしろ私は私の身体である。】

    【身体とは、われわれが一つの世界をもつ一般的な手段である。】

    【身体は「世界における(への)存在」の媒体である。身体をもつということは、生きるものにとって、一定の環境にくわわり、若干の企投と一体となり、たえずこれに自己を拘束するということである。】

    【〈身体の媒介〉というものは、たいていのばあい、私によって見逃されているものである。】

    【身体の理論はすでに知覚の理論である】

    やっぱ、私、世界、そして私と世界と関係性について見てゆこうとするとき、身体ははずせないと思う。
    だから、わたし、私のうちに身体を入れてる。これを〈身体のある私〉って呼ぶことにする。こう言い方をするのは、わたし私には身体と精神があるってしてるけど、身体を忘れないようにね。
    あ、これって当たり前でしょ? なのよね〜。

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■18818 / inTopicNo.80)  Re[79]: メルポンの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/14(Sun) 10:29:52)
    メルポンの、わたしがおもしろいな〜って思ったところ(前にもどこかで書いたと思うけど)、

    『見えるものと見えないもの』に、
    反省と問いかけ[ 知覚的信念とそのあいまいさ ]ってあって、
    【われわれは物それ自体を見ており、世界はわれわれの見ている当のものである、――こういうたぐいのきまり文句は、自然的人間と哲学者に共通の信念を表しており(哲学者といえども、眼を開くやなやそう考えざるをえまい)、われわれをわれわれの生活に含まれている声なき「臆見」の深い地層に送り返すのである。だが、この信念には奇妙なところがあって、もしそれを命題や言表に明確に表現しようとすれば、つまりわれわれとは何であり、見るとは何であり、物とか世界とは何であるのかを自問してみるならば、われわれはさまざまの難問や矛盾の迷宮に入り込むことになるのだ。
    [この章の表題の向かい側に、著者の注]――信念という概念を明確化すべし。これは決断的な意味における信念ではなく、一切の定位以前にあるものという意味での信念であり、動物的および[?的]信念である。】

    の、(哲学者といえども、眼を開くやなやそう考えざるをえまい)っていうところ。
    メルポンだって哲学者くせに、って。でもこういうところわたしの好み。

    『知覚の現象学』の、
    【コギトとは、三世紀以前にデカルトの精神のなかで形成されたあの思想であるか、それとも彼がわれわれに残したさまざまなテキストの意味であるか、あるいはまた、それらを貫いて現れる永遠の真理であるか、いずれにせよ、私の思惟が捉えようとするとうよりも、むしろ、なじみ深い環境において私の身体がもろもろの事物のさなかにあって、これらの事物をはっきりと表象するまでもなく、おのずと方向をとって進んでゆくのと同じように、私の思惟が向かってゆくところの、一個の文化的存在なのである。】
    っていうところ。
    〈コギト(私は考える)も一個の文化的存在〉って見ているところね。
    これからわたし「世界」を〈文化的存在〉と〈自然的存在」に分節すことを思いついたのね。

    他にもあるけど、今想いついたところを書いといたよ。

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■18827 / inTopicNo.81)  Re[80]: 『論考』の
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/14(Sun) 12:42:58)
    再びね

    No18494の5・6〜5・632についてなんだけど、
    5・6,5・61,5・631,5・632についてはわたしの勝手なのを書いて見たけど、

    No18782書いてて、ちょっと思っちゃたんで、
    5・63 私は私の世界である。(ミクロコスモス)の、
    「私は私の世界である」っていうところ、
    メルポンの、
    「私は私の身体の前にいるのではない。私は私の身体のなかにいる。いやむしろ私は私の身体である。」
    の「私は私の身体である」って、な〜んか似てない?
    メルポンのは、このフレーズで、「私は私の身体である」の意味わかるけど。

    ちょっとこのように「私は私の世界である」を書いて見ると、
    「私は私の世界の前にいるのではない。私は私の世界のなかにいる。いやむしろ私は私の世界である。」(a)
    こうして見ると、何か分かる感じなんだけど、でもこれだと私は世界内存在になっちゃう。
    でも、これ、違う!だって「世界」の意味がメルポンとウィトちゃんのとは違う見たいだから。
    ウィトちゃんの「世界」っていうの、〈考える(言語の)領分(世界)〉ってわたし見ちゃったから、
    で、(a)の「世界」を〈これ〉に置き換えて見ると、
    「私は私の〈考える(言語の)領分(世界)〉の前にいるのではない。私は私の〈考える(言語の)領分(世界)〉のなかにいる。いやむしろ私は私の〈考える(言語の)領分(世界)〉である。」(a)’
    ん〜ん、こっちの方があってるかな?
    たしか、5・61で、
    【それゆえわれわれは、論理の内側にいて、‥‥もし事実だとすれば、論理は世界の限界を超えていなければならない。そのとき論理は世界の限界を外側からも眺めうることになる。‥‥。】
    って言ってたと思う。
    これから、(a)’を、
    「私は私の〈考える(言語の)領分(世界)〉の“外”にいるのではない。私は私の〈考える(言語の)領分(世界)〉のなかにいる。いやむしろ私は私の〈考える(言語の)領分(世界)〉である。」
    ってした見たけど、こっちのほうがより近くなったかな?

    ついでにもうちょっと、「ミクロコスモス」で見て見ると、
    〈小さい宇宙〉って言うことになるのかな。宇宙は世界ともいう見たいだから、
    5・63はけっきょく〈私は小さな宇宙である〉とか〈私が世界〉って言ってるのかな?
    こういうのが、「独我論」に結びついてくのかな。

    で、5・62になるんだけど、このつづきはまた後で。

引用返信/返信 削除キー/
■18833 / inTopicNo.82)  Re[81]: 『論考』の
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/14(Sun) 16:59:37)
    5・62なんだけど、

    ウィトちゃんは、「独我論の言わんとするところは全く正しい」っていうことから、独我主義、って見るよ。

    訳注によると、「独我論」っていうの、
    〔なんらかの意味で自分と他者とが対比されて捉えられる場面において、他者の存在を否定し、ただ自分だけが存在すると主張する場合を「独我論」と呼ぶ。どのような自他の対比を拒否しているのかに応じていくつかのヴァリエーションがあることになる。典型的な独我論は、すべてを私の意識への現れとして捉え、他の意識主体たる他者を、私の意識のうちへは現れえないという理由で拒否するものである(現象主義的独我論)。『論理哲学論考』の独我論はこのタイプのものではないように思われる。では、それはどのような独我論であったのか。これは『論理哲学論考』の解釈に関わる問題である。〕
    のうよう。
    でね、訳者の言う、
    〔すべてを私の意識への現れとして捉え、他の意識主体たる他者を、私の意識のうちへは現れえないという理由で拒否するものである(現象主義的独我論)〕
    っていうところがちょっと引っかかるのね。これって現象学のことを言ってるのかしら?

    現象学のは、「私の外にあるものものは、私の意識のうちで構成されたもの」って見てるんだとわたし思ってるけど(カントのもそういうんだとわたし見てる)、でも、独我主義じゃないと思う。
    あ、これが言いたかったのね。

    他者経験の問題については、
    No15221に少し書き写して置いた。

    いづれにしても、ウィットちゃんは独我主義で、現象学のはそうじゃない、っていう違いがわかったよ。

    あ、勘違いしないでほしいんだけど、わたし独我論が正しいとか正しくないとかそんなこと言ってるんじゃないからね。ほかの哲学者のと比較して、見方・考え方の違いを見ようとすることで、現象学のがより見えるようになるんじゃないかっていう気がしてるからね。
    もっともわたし現象学派だから、我独りしか存在しない、っていう見方は受け入れないけどね。

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■18835 / inTopicNo.83)  Re[82]: 『論考』の
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/14(Sun) 17:36:03)
    独我論の次に来るのが、【5・621 世界と生は一つである。】
    で、その次が【5・63 私は私の世界である。(ミクロコスモス)】よね。この中にどうして5・621が出てきてるのかわかんない。

    5・621の「世界」っていうの、〈事実の総体〉の方で見て見ると、
    「〈事実の総体〉と生は一つである」ってなって、
    〈考える(言語の)領分(世界)〉で見て見ると、
    「〈考える(言語の)領分(世界)〉と生は一つである」ってなる。
    どちらで見ても、べつにおかしくなさそう。
    ウィトちゃんは、言語の世界は生である、的なことを言おうとしてるのかな?

    メルポンの現象学は、「事実性」から出発する、とか「生の意識」を、だったりしているけど、ま、これとは関係ないか。

    ウィトちゃんの、ノエシスの記述っていうフィロソフィアにとって欠かせないところが抜けてるから、これに関してはもういいかな。

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■18849 / inTopicNo.84)  Re[83]: 『論考』の
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/14(Sun) 19:03:29)
    なんか、いいこと思いついちゃった〜、かな?

    pipitさまのところで、たしか、うましかんだったと思うんだけど、紹介してくれた、圓谷裕二さんの「カントの超越論的哲学とメルロ=ポンティの現象学の比較研究」(a)
    のなかで、
    「身体なしに思惟する自己意識」っていうのがあって、なんかおもしろい表言だな〜、って。
    このとき、「自己意識」ってなあに?って思ったんだけど、〈自己の意識〉、意識のうちには〈自己〉っていう場がある、ってして見て、わたしのいい方では「自己意識」じゃなっくて〈我意識〉ってなるんだけど、ま、これはいいわ。

    でね、ちょっと思ったんね。
    No18782でわたし〈身体のある私〉(私のうちに身体を含めるっていうこと)ってして見たんだけど、これに対して、『論考』のウィトちゃんの「私」っていうの、〈身体のない私〉なんじゃないかって。

    こう思いついたわたしがね、
    No18506(2-p82)の5・631で、わたしが勝手に見た、【これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において主体が存在しないことを示す方法である】は、〔これはすなわち〈私の身体〉を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において〈私の身体〉が存在しないことを示す方法である〕ってなったところを見て見ると、よくわかんなかったんだけど、
    ウィトちゃんの言う「私」っていうのを〈身体のない私〉ってして見たら、なんかそうなのかもね。

    私について見ようとするとき、私を〈身体のある私〉としているのか、〈身体のない私〉としているのか、で見るの、いいかも。

    圓谷さんによれば、カントの、「身体なしに思惟する自己意識」ってして見てるようだし、ってすると、わたしの見方で、カントの『純粋理性批判』は〈身体のない私〉って見られるのね。カントの「純粋な」よね?身体が入り込む余地なし、っていう感じなんじゃないかって?
    あと他にデカルトの「我考える」も〈身体のない私〉かな。
    いま見たように、ウィトっちゃんの『論考』のなかに出てくる私も〈身体のない私〉って見ることで、わたしとしては了解しちゃったよ。

    メルポンのは当然〈身体のある私〉のほうね。

    ひと段落、っていうことで、今日のわたしの物語りは、
    おしまい、おそまい〜、ってね。

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