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■22953 / inTopicNo.61)  日記
  
□投稿者/ pipit -(2022/04/29(Fri) 20:09:42)

    No22868
    > めっちゃ軽く考えたら、
    >
    > 手を上げようとして、手を上げるのも、
    > 精神が身体に影響を与えてる、、、
    >
    > 身体が精神に影響を与えてる可能性も?
    > (受動意識仮説)<


    仏教トピで、
    No22951

    英訳略

    「どのような意思による形成であれ、、、意思による形成の集まり、これが行蘊(ぎょううん)と呼ばれます。

    英訳略

    「どのような意識であれーー過去のものでも、未来のものでも、現在のものでも、
    内部の意識でも、外部の意識でも、
    大きいものでも、微細なものでも、
    品質の悪いものでも、品質の良いものでも、
    遠くにあるものでも、近くにあるものでもーー意識の集まり、これが識蘊(しきうん)と呼ばれます。<

    と訳したんだけど、

    手を上げようとして 手をあげる
    が、

    volitional formations

    身体が精神に影響を与えてる可能性も(受動意識仮説)

    の精神(受動意識)が、
    consciousness

    なんて考えることも可能????

    なーんて、思いました(怒られ案件)

引用返信/返信 削除キー/
■22869 / inTopicNo.62)  Re[17]: 神経症
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/04/25(Mon) 20:17:21)
    お邪魔しま〜す。
    ごめんね、じっくり見てなかったんだけど、
    馬鹿さん、

    >『S.フロイト 自我論集』p.314の中山元解説に次のような説明がありました。<
    >神経症とは、心的な葛藤が身体に象徴的に表現される疾患である。患者たちはあるいは身体に疼痛を覚え、あるいは言語機能を失い、手足が麻痺して行動の自由を失い、眠りを失う。人間の心的な機能が身体に表現されるありかたに基づいて、神経症は強迫神経症、ヒステリー、恐怖症(フォビア)などに分類される。この疾患において重要なのは、デカルト以来の近代の哲学的な伝統においては〈主体〉であるはずの人間が、〈客体〉であるはずの身体において拘束され、自由を失い、精神の働き自体が犯されるということである。<

    ><内は、中山さんの言?それともフロイトの言?
引用返信/返信 削除キー/
■22868 / inTopicNo.63)  Re[16]: エイプリルうましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/04/25(Mon) 20:06:20)
    こんばんはー(^○^)

    No22857
    > 色蘊は物質的存在(の総称)とのことで、
    >
    > 身体と、それ以外(例えば、先に私がだした石とかうどんとか (;´・ω・))
    >
    > と考えてしまったけど
    >
    > そもそも、五蘊って
    >
    > >人間の肉体と精神を5つの集まりに分けて示したもの。
    >
    > とのことだから、色蘊には、身体(肉体)以外の物質は想定されていないってことなのかなー<

    あ、わたしも忘れてました(^^;;
    そうか、人間存在を五つに分けたんだった。


    > >でも、経典には、物質と精神作用はお互いに依存する、みたいなのもあるかも?<
    > (pipitさん)
    >
    > そうなんですね!
    >
    > これ「物質」じゃなくて、肉体(身体)と精神作用はお互いに依存する、なら、私にとってはそれほど違和感ないです(・ω・)ノ♪
    >
    >
    > 【追記】
    >
    > 先述の『S.フロイト 自我論集』p.314の中山元解説に次のような説明がありました。
    >
    > >神経症とは、心的な葛藤が身体に象徴的に表現される疾患である。<

    そうかぁ、心の変化が身体の変化を引き起こす。


    >患者たちはあるいは身体に疼痛を覚え、あるいは言語機能を失い、手足が麻痺して行動の自由を失い、眠りを失う。人間の心的な機能が身体に表現されるありかたに基づいて、神経症は強迫神経症、ヒステリー、恐怖症(フォビア)などに分類される。この疾患において重要なのは、デカルト以来の近代の哲学的な伝統においては〈主体〉であるはずの人間が、〈客体〉であるはずの身体において拘束され、自由を失い、精神の働き自体が犯されるということである。<


    精神の働きは、主体なのかな
    主体なのに、客体を自由にコントロールできない。
    仏教では、生老病死もコントロールできない領域に含めるかも??



    > 「神経症」という例にもあるように、身体と精神は相互に影響を及ぼし合っていると考えてもよいのかなー、と(;´・ω・) それを「依存」と呼んでよいかどうかはわかりませんが…
    >

    めっちゃ軽く考えたら、

    手を上げようとして、手を上げるのも、
    精神が身体に影響を与えてる、、、

    or

    身体が精神に影響を与えてる可能性も?
    (受動意識仮説)

    o(^▽^)o ヌマっ!
引用返信/返信 削除キー/
■22865 / inTopicNo.64)  エイプリルうましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/04/25(Mon) 18:08:40)
    エイプリル うましかさん、こんばんはー

    No22856
    >
    > 中山元が『純粋理性批判』の訳をだした光文社古典新訳文庫でフロイトを訳していますねー
    >
    > 『人はなぜ戦争をするのか − エロスとタナトス 』
    >
    > https://www.kotensinyaku.jp/books/book49/

    中山先生はたくさんの方の翻訳されてて本当にすごいなー(尊敬)

    > 【追記】
    >
    > こんな論文がありました(´・ω・`)
    >
    > https://www.jstage.jst.go.jp/article/ellfk/25/0/25_55/_article/-char/ja/
    >
    > ちなみに、この論文で言及される『快感原則の彼岸』の翻訳を収めている、ちくま学芸文庫『S.フロイト 自我論集』という本があって、竹田青嗣 編・中山元 訳でした。<

    論文のご紹介をありがとうございます!
    わたしには難しかったのですが、雰囲気だけでもおもしろく感じました。

    わたしは仏教の認識論の一部も好きで、その世界観が刹那の生滅の世界なんです。

    リズムとか断滅とか間とか、通じる雰囲気があって、
    そしてわたしはこの刹那の生滅の世界観と、カントの認識論と、自分の中ではそれほど齟齬なく考えれそうな気持ちもあって、
    全然違うかもだけど、そのうち考えられたらいいなと思ってるんです。

    いつもありがとうございます!
引用返信/返信 削除キー/
■22858 / inTopicNo.65)  エイプリルうましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/04/25(Mon) 06:11:32)
    No22856に返信(エイプリル うましかさんの記事)
    > 2022/04/24(Sun) 22:37:09 編集(投稿者)
    >
    > pipitさん、こんばんはー
    >
    > *******
    >
    > 中山元が『純粋理性批判』の訳をだした光文社古典新訳文庫でフロイトを訳していますねー
    >
    > 『人はなぜ戦争をするのか − エロスとタナトス 』
    >
    > https://www.kotensinyaku.jp/books/book49/
    >
    >
    >
    >
    >
    > フロイトはカント沼にハマったことがあるのかな。。。(;´・ω・)
    >
    >
    >
    > それより感性論だよ、、感性論(´;ω;`)ウッ…
    >
    >
    > では〜
    >
    >
    > 【追記】
    >
    > こんな論文がありました(´・ω・`)
    >
    > https://www.jstage.jst.go.jp/article/ellfk/25/0/25_55/_article/-char/ja/
    >
    > なみに、この論文で言及される『快感原則の彼岸』の翻訳を収めていてる、ちくま学芸文庫『S.フロイト 自我論集』という本があって、竹田青嗣 編・中山元 訳でした。
    >

    おはようございます!

    わーー、すごくおもしろそうな論文ご紹介していただいたのに、朝の用意はじめなきゃのタイムリミット(時間!)がー 。゚(゚´ω`゚)゚。

    論文のごく最初までしか読めなかったんですけど、(後でゆっくり読ませていただきますね!)

    論文引用
    >今日では議論の余地のあるものになっている.われわれの知っ ているところでは,無意識的な心のプロセスはそれ自体,「無時間的」である.〔...〕わ れわれの抽象的な時間表象は,大部分が知覚-意識系の機能から引き出されたように思 われる4).<

    わたし今のところ、カントの認識論って、無意識から作られた『意識』についての論だと思ってるんです。

    そして意識から知識を作る過程への論、みたいな感じにとらえてて。

    またゆっくり、エイプリルうましかさんの二つの投稿を読ませていただいて、返信いたしますね。

    それではいったん失礼しますm(_ _)m
    書き込みありがとうございます!
引用返信/返信 削除キー/
■22857 / inTopicNo.66)  pipitさんへ (;´・ω・)
□投稿者/ エイプリル うましか -(2022/04/24(Sun) 22:09:16)
    2022/04/25(Mon) 07:26:28 編集(投稿者)

    おはようございますー

    昨夜の投稿の追記挿入版です(・ω・)ノ

    *******

    No.22798 (pipitさん)

    Wikipediaの説明しか読んだことがないけど、


    >色蘊(しきうん) - いろ、形あるもの。認識の対象となる物質的存在の総称。一定の空間を占めて他の存在と相容れないが、絶えず変化し、やがて消滅するもの。

    色蘊は物質的存在(の総称)とのことで、

    身体と、それ以外(例えば、先に私がだした石とかうどんとか (;´・ω・))

    と考えてしまったけど

    そもそも、五蘊って

    >人間の肉体と精神を5つの集まりに分けて示したもの。

    とのことだから、色蘊には、身体(肉体)以外の物質は想定されていないってことなのかなー

    >でも、経典には、物質と精神作用はお互いに依存する、みたいなのもあるかも?<
    (pipitさん)

    そうなんですね!

    これ「物質」じゃなくて、肉体(身体)と精神作用はお互いに依存する、なら、私にとってはそれほど違和感ないです(・ω・)ノ♪


    【追記】

    先述の『S.フロイト 自我論集』p.314の中山元解説に次のような説明がありました。

    >神経症とは、心的な葛藤が身体に象徴的に表現される疾患である。患者たちはあるいは身体に疼痛を覚え、あるいは言語機能を失い、手足が麻痺して行動の自由を失い、眠りを失う。人間の心的な機能が身体に表現されるありかたに基づいて、神経症は強迫神経症、ヒステリー、恐怖症(フォビア)などに分類される。この疾患において重要なのは、デカルト以来の近代の哲学的な伝統においては〈主体〉であるはずの人間が、〈客体〉であるはずの身体において拘束され、自由を失い、精神の働き自体が犯されるということである。<

    「神経症」という例にもあるように、身体と精神は相互に影響を及ぼし合っていると考えてもよいのかなー、と(;´・ω・) それを「依存」と呼んでよいかどうかはわかりませんが…








引用返信/返信 削除キー/
■22856 / inTopicNo.67)  カント沼大先輩の中山元訳(;´・ω・)
□投稿者/ エイプリル うましか -(2022/04/24(Sun) 21:35:57)
    2022/04/25(Mon) 07:08:52 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    *******

    中山元が『純粋理性批判』の訳をだした光文社古典新訳文庫でフロイトを訳していますねー

    『人はなぜ戦争をするのか − エロスとタナトス 』

    https://www.kotensinyaku.jp/books/book49/





    フロイトはカント沼にハマったことがあるのかな。。。(;´・ω・)



    それより感性論だよ、、感性論(´;ω;`)ウッ…


    では〜


    【追記】

    こんな論文がありました(´・ω・`)

    https://www.jstage.jst.go.jp/article/ellfk/25/0/25_55/_article/-char/ja/

    ちなみに、この論文で言及される『快感原則の彼岸』の翻訳を収めている、ちくま学芸文庫『S.フロイト 自我論集』という本があって、竹田青嗣 編・中山元 訳でした。








引用返信/返信 削除キー/
■22812 / inTopicNo.68)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/04/23(Sat) 19:05:56)
    統覚のとこ読んでるけど、疲れた。。。

    ちょっと他の本読もうかな。。。

    『カントと無限判断の世界』読もかな。。。

    萱野先生の本も読もかな ( ^ω^ )♪
引用返信/返信 削除キー/
■22805 / inTopicNo.69)  Re[4]: 純粋理性批判B133.134あたり
□投稿者/ pipit -(2022/04/23(Sat) 17:52:43)
    2022/04/23(Sat) 17:58:49 編集(投稿者)

    (J. M. D. Meiklejohnさんの英訳 )
    And thus the synthetical unity of apperception is the highest point with which we must connect every operation of the understanding, even the whole of logic, and after it our transcendental philosophy; indeed, this faculty is the understanding itself.

    (pipit日訳)
    このように、統覚の総合的な統一は、理解のために働く知性のあらゆる作動(論理学全体、そして超越論的哲学に至るまでも)と結びつけなければならない最高点である。
    この機能(統覚の総合的統一)は知性そのものである。
引用返信/返信 削除キー/
■22804 / inTopicNo.70)  Re[3]: 純粋理性批判B133.134あたり
□投稿者/ pipit -(2022/04/23(Sat) 17:38:08)
    No22583に返信(pipitさんの記事)
    > No22551
    > No22552
    > の続きです。
    >
    >
    > A representation which is cogitated as common to different representations, is regarded as belonging to such as, besides this common representation, contain something different;
    >
    > 異なる表象に共通して考えられるある表象は、この共通する表象の他に、何か違うものを含むものに属すると考えられている。
    >
    > consequently it must be previously thought in synthetical unity with other although only possible representations, before I can think in it the analytical unity of consciousness which makes it a conceptas communis.
    >
    > したがって、共通概念が作られる意識の分析的統一が思考できる前に、
    > 共通表象は、可能な表象としてであったとしても、他との総合的統一の中で前もって思考されていなければならない。


    ★上記の続きです。

    And thus the synthetical unity of apperception is the highest point with which we must connect every operation of the understanding, even the whole of logic, and after it our transcendental philosophy; indeed, this faculty is the understanding itself.

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap43
引用返信/返信 削除キー/
■22798 / inTopicNo.71)  エイプリルうましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/04/23(Sat) 12:54:32)
    エイプリルうましかさん、こんにちは(^○^)♪

    No22789
    > 身体は物質でもあり、その物質自体が認知機能を有するとすれば、精神と物質と分ける考え方はちょっとどうなのかなー?っておもいました。
    >
    > でも同じく物質でも、例えば、石やうどんがそれ自体、認知機能を有するとはおもえません。この場合は精神と物質の二元論になるのかなー(・・?
    >

    やっぱり二元論かなー

    仏教の本で、
    家の中にいて窓から外を見てるとして、窓が外を見てるのではない。
    が、窓が塞がれて壁だけでは外が見えない、みたいな例え(初心者へのわかりやすさを優先した説法かもですが)を読んだ記憶があります。

    でも、経典には、物質と精神作用はお互いに依存する、みたいなのもあるかも?

    もし興味出た時は調べるので遠慮なくおっしゃってくださいねー
    (*^▽^*)


    (/・ω・)/ヌーマー

引用返信/返信 削除キー/
■22789 / inTopicNo.72)  感覚の帝国に皇帝はいるか(;´・ω・)
□投稿者/ エイプリル うましか -(2022/04/23(Sat) 07:40:01)
    pipitさん、おはようございますー

    >>・「五蘊」は、人間の心身の機構を羅列的に挙げ、それによって人間の生存およびその環境の全てを表そうとしたものである。<
    >
    > お!うましかさんにその存在を教えていただいたユクスキュルさんや、アフォードという言葉をなんか思い出しましたー
    > (的外れな思い出しだったらすみません!


    (/・ω・)/わーい沼! 思い出していただき、ありがとうございましたー
    大丈夫です! 私も思い出しなので(;´Д`A ```



    >>■色蘊(しきうん) - いろ、形あるもの。認識の対象となる物質的存在の総称。
    >>
    >> 一定の空間を占めて他の存在と相容れないが、絶えず変化し、やがて消滅するもの。
    >>
    >>●受蘊(じゅうん) - 感受作用。肉体的、生理的な感覚。
    >>
    >> 苦・楽・不苦不楽などの印象、感覚。
    >>
    >>●想蘊(そううん) - 表象作用。概念的な事柄の認識。
    >>
    >> 事物の形象を心の中に思い浮かべること。対象のあり方を心の中に把握すること、表象すること。
    >>
    >>●行蘊(ぎょううん) - 意識を生じる意志作用。意志形成力。
    >>
    >> 心がある方向に働くこと。
    >>
    >>●識蘊(しきうん) - 認識作用。
    >>
    >> 対象を得て、区別して知るもの。知り分けること。
    >>
    >>*******
    >>
    >>五蘊というのは、いわゆる心身二元論的な考えなのかなあ?精神(受想行識蘊)と物質(色蘊)としてもいいのかなあ?<
    >
    > pipitは今のところそのように捉えています。
    >
    >
    > >でも身体が物質だとしても、受想行識蘊はその身体の認知機能ともおもえます (;´・ω・)<
    >
    > 私見書きます。
    > 例えば、今画面の文字見てますが、純粋な物質と、それを認知する非物質的な働きが、文字による意見交換を成り立たせている。
    >
    > 物質がある時、非物質的な働きも生じる。
    > 非物質的な働きがある時、物質を使っての非物質的な働きも生じる。
    >
    > など、複数のパターンは思考できるとpipitは考えています。


    (-ω-;)ウーン

    pipitさんの私見からズレますけど、、、

    身体は物質でもあり、その物質自体が認知機能を有するとすれば、精神と物質と分ける考え方はちょっとどうなのかなー?っておもいました。

    でも同じく物質でも、例えば、石やうどんがそれ自体、認知機能を有するとはおもえません。この場合は精神と物質の二元論になるのかなー(・・?

    ※物理学的な話しは度外視してくださーい(・ω・)ノ


    >>ところで五蘊の説明を読むと、自己意識あるいは精神、心身二元の「心」に相当するものが無いような… 四つの蘊の束が「私」?飛躍してるような(;´・ω・)
    >>
    >> 
    >>(-ω-;)ウーン
    >>(-ω-;)ウーン     
    >>(-ω-;)ウーン
    >>(-ω-;)ウーン
    >
    > 四蘊さん♪(^_^)
    >
    > 一応、識蘊が「知る」塊とすれば、
    > 「知る」という働きは、感じる、概念、衝動が、含まれる?
    > うーん、確かに、不思議な区別、、、
    >
    > ちょっとwiki見てみます。
    > ↓
    > wikiからのwiki『識』より抜粋引用
    > 『人間の構成要素を五蘊(ごうん)と分析する際には、識蘊(しきうん, vijnana skandha)としてその一つに数えられる。この識は、色・受・想・行の四つの構成要素の作用を統一する意識作用をいい、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって、六境(色・声・香・味・触・法)を認識する働きを総称する[5]。事物を了知・識別する人間の意識に属する。例えば、桜を見てそれが「桜」だと認識すること[6]。
    > また古い経典には、識住(vijnanasthiti)と言われて、「色受想行」の四識住が識の働くよりどころであるとする。この場合、分別意識が、色にかかわり、受にかかわり、想にかかわり、行にかかわりながら、分別的煩悩の生活を人間は展開しているとする。
    > しかしながらいずれも、人間は「五蘊仮和合」といわれるように、物質的肉体的なものと精神的なものが、仮に和合し結合して形成されたものだと考えられており、固定的に人間という存在がある、とは考えられていない。』
    > 抜粋引用終了
    >
    > 『この識は、色・受・想・行の四つの構成要素の作用を統一する意識作用をいい』
    >
    > やゃ、統覚???Σ(・□・;)チガウノー?
    >


    (゚д゚)!ウーン?!!!

    >この識は、色・受・想・行の四つの構成要素の作用を統一する意識作用をいい、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって、六境(色・声・香・味・触・法)を認識する働きを総称する[5]。事物を了知・識別する人間の意識に属する。

    おお! 識蘊様が感覚の帝国の皇帝陛下ってわけですね!

    しかし、色蘊は、認識の対象となる物質的存在、、、これをも統一する意識(識蘊様)とは何者なのかなー(;´・ω・)


    統覚、、、識蘊様をそう考えるとすると、統覚とは「私」の謂いなのか?



    (/・ω・)/ア―レ―


    >>そういえば、pipitさんから教えていただいた『カントと無限判断の世界』、どこ置いたっけ?(´;ω;`)ウッ…
    >
    > わたくし、まだ3ページ目くらい(;ω;)ウゥ

    うましかはまだスタートすらできておりません(´;ω;`)ウゥゥ

    では〜


    【追記】

    タイトルの「感覚の帝国」は、大昔観た、故大島渚監督の"L'Empire des sens"を思い出したものです。兵隊の行進とそれに主人公が一人逆行するシーンが印象に残っています。
引用返信/返信 削除キー/

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