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■23134 / inTopicNo.37)  Re[9]: 純粋理性批判B135.136あたりの英訳
  
□投稿者/ pipit -(2022/05/07(Sat) 20:22:41)
    No23133の続きです。

    For the ego, as a simple representation, presents us with no manifold content; only in intuition, which is quite different from the representation ego, can it be given us, and by means of conjunction it is cogitated in one self-consciousness.

    なぜなら、単純な表象としての【私(自我)】は多様な内容を私たちに与えることはないからである。
    【私(自我)】という表象とは全く異なる直観の中でのみ、多様な内容が私たちに与えられ、結合という方法によってのみ、一つの自己意識の中で考慮されるのである。

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap43
引用返信/返信 削除キー/
■23133 / inTopicNo.38)  Re[8]: 純粋理性批判B135.136あたりの英訳
□投稿者/ pipit -(2022/05/07(Sat) 20:04:53)
    No23046に返信(pipitさんの記事)
    > J. M. D. Meiklejohnさん英訳のpipit日訳
    > この「統覚の必然的統一」の基本原理は、確かに同一的な、したがって分析的命題である。が、それでもやはり、直観による多様の総合の必要性を説明するものであり、それなしには自己意識の同一性は考えられないだろう。<

    ちょっと、自信なくて足踏みしていましたが、仕方ないので、とりあえずの読解で先に進みます。

    「私は考える」がすべての意識に伴い得る、は、
    同一的な、分析的命題 であるが、



    (pipit私見)
    すべての意識から同一の「私は考える」を抽出することは、分析的命題であるが、
    (例えば、赤い屋根、赤い薔薇、赤いポスト、全てに含まれる「赤い」は分析的統一による抽出であるように、すべての意識に張り付く「私」を分析&抽出して話題にしている)


    直観による多様の総合の必要性を説明するものであり



    (pipit私見)
    すべての意識に伴い得る、の、すべては結合されたものでなければならない。

    自己意識の同一性、というなら、すべて=個別の総合

    ということかなと思いました。
    自信なしです。
    (;ω;)ススモヲ
引用返信/返信 削除キー/
■23120 / inTopicNo.39)  お昼休み日記
□投稿者/ pipit -(2022/05/07(Sat) 12:46:57)
    >◇この現象はいつでも二つの側面を持っているのであって、一方は客観〔*1〕がそれ自体そのもので考察される側面であり(この場合にはこの客観を直観する様式にかかわりなく考察され、まさにこのゆえにこの客観の性質はいつでもあくまでも問題としては残る)、他方はこの対象の直観の形式が考慮される側面であり、この形式はその対象自体そのものの内にではなく、その対象がそれに現象する主観〔*2〕のうちに求められねばならないが、それにもかかわらず、その対象の現象に、現実的かつ必然的に帰属するのである。<


    もしかしたら、
    1+1=2
    という数式(現象)があった時、
    二つの側面がありますよね。

    人間の認識形式を考慮せず、客観として数式を扱う場合と、

    数式をある形式に現れる現象としての客観として考慮してみる場合と、(基礎数理論?全然詳しくないけど( ; ; ))

    外れてるかもだけど、先程思いました。

引用返信/返信 削除キー/
■23115 / inTopicNo.40)  Re[6]: 超越論的感性論 第七項:[−2
□投稿者/ pipit -(2022/05/07(Sat) 06:57:36)
    うましかさん、こんにちは!
    No23113
    > カント沼感性論、少しでも進まねば…( ノД`)シクシク…<

    うましかさん、泣かないでー
    、、、と言いたいですが、pipitも、、、
    (;_;)ヌマすぎるー

    > ※1「客観を直観する」ってよく分からないなあ??(;´・ω・)、、、しかし有福孝岳訳(カント全集4、p.114)でも「その客観を直観する仕方」とある。中山元訳1p.111では「客体がどのように直観されるか」とある。<

    御子柴善之清水、
    『カント純粋理性批判』角川選書、p102-105の解説は、うましかさんにとって該当箇所の説明となるものでしょうか?

    p104のCに、
    『人間ならざる知性的存在』についての言及があったり、
    p105には、『人間の直観』についての言及もあります。

    pipitは、

    >「客体がどのように直観されるか」<

    で、感性を経由せず、物自体という客体を直観するのが、知的直観で、
    物という客体を直観するのが、感性的直観という区分を、カントはしてるのかなー、と今のところ思いました。

    中山先生訳本第一巻p130
    独自タイトル『076 知的直観と自己意識について』も、関連の話題段落と思いました。
    p133文中に出てくる(41)知的直観 が、初出箇所なのか、訳注がついて、p263に中山先生の説明が少しだけありました。

    読解おつかれさまです!

引用返信/返信 削除キー/
■23113 / inTopicNo.41)  超越論的感性論 第七項:[−2
□投稿者/ うましか -(2022/05/06(Fri) 23:59:52)
    2022/05/07(Sat) 00:02:56 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    カント沼感性論、少しでも進まねば…( ノД`)シクシク…

    *******

    T 超越論的原理論
    第一部門 超越論的感性論

    第二節 時間について
     第七項 解明

    ◆ 時間に、経験的実在性は承認するが、絶対的かつ超越論的実在性は否認する、この理論に対して、私は洞察力の優れた人々が異口同音に一つの異議を唱えるのを耳にしたので、このことから私は、その異議を、このような考察に不慣れなあらゆる読者のところでも当然みられるに違いないと推測している。その異議とは、次のようなものである。すなわち、変化は現実的に存在する。このことはたとえ人が全ての外的現象をその変化と共に否認しようとするとしても、私たち自身の表象の転変が証明する。ところで変化は時間の内でのみ可能である。従って時間は、何か現実的なものであるというのが、それである。これに対する解答はなんら困難ではない。私はその全論拠を認める。時間はもちろん何か現実的なもの、すなわち、内的な直観の現実的形式である。それゆえ、時間は、内的経験に関する主観的実在性を持っている。言い換えれば、私は時間とその中での私の諸規定についての表象を現実的に持っている。それゆえ、時間が現実的とみなされ得るのは、客観としてではなく、客観としての私自身を表象するその表象様式としてである。しかし、もし私自身が、或いは他の存在者が、感性のこの条件無しで、私を直観し得るなら、私たちが今変化として表象しているのとまさに同一の規定は、時間の〔表象が〕、従ってまた変化の表象が、そこでは全然現れない一つの認識を与えるだろう。それゆえ残るのは、あらゆる私たちの経験の条件としての時間の経験的実在性である。今述べたところに従って、絶対的実在性だけは時間に認められることはできない。時間は、私たちの内的直観の形式以外の何ものでもない。もし人が時間から私たちの感性の特殊な条件を除き去るならば、時間という概念も消滅し、だから時間は、諸対象自身に結びついているのではなく、それらの諸対象を直観する主観に結びついているに過ぎない。

    --- No.23091 からの続き ---

    ◇しかし、こうした異議がこのように異口同音になされ、しかも、それにもかかわらず、空間の観念性についての説に対して何ら明白な反論を示し得ない人々によってなされる原因は次の通りである。

    ◇ 彼らは空間の絶対的実在性を確然的に立証し得るとは期待しなかった。というのも彼らは観念論に直面しており、その観念論に従えば外的な諸対象の現実性は何ら厳密に証明され得ないが、これに反して私たちの内的感官の対象(私自身と私の状態)の現実性は、直接的に意識を通じて明瞭であるからである。

    ◇彼らの見解によれば、外的な諸対象は単なる仮象であり得たかもしれないが、内的感官の対象は何か現実的なものであることは拒みがたいというわけである。しかし、彼らは表象としての両者の現実性は拒否され得ないとしても、それにもかかわらず両者とも現象にだけ属しているということを見落としていた。

    ◇この現象はいつでも二つの側面を持っているのであって、一方は客観〔*1〕がそれ自体そのもので考察される側面であり(この場合にはこの客観を直観する様式にかかわりなく考察され、まさにこのゆえにこの客観の性質はいつでもあくまでも問題としては残る)、他方はこの対象の直観の形式が考慮される側面であり、この形式はその対象自体そのものの内にではなく、その対象がそれに現象する主観〔*2〕のうちに求められねばならないが、それにもかかわらず、その対象の現象に、現実的かつ必然的に帰属するのである。

     *1 石川文康訳では上の段落中の「客観」は「客体」と訳される。
     *2 同じく「主観」は「主体」と訳される。

     ※1「客観を直観する」ってよく分からないなあ??(;´・ω・)、、、しかし有福孝岳訳(カント全集4、p.114)でも「その客観を直観する仕方」とある。中山元訳1p.111では「客体がどのように直観されるか」とある。



    † 原佑訳上巻、p.168〜p.169参照。他に、石川文康訳上巻、有福孝岳訳(カント全集4)、中山元訳1を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******
    [−1 No.23091、[−2 No.23113
    Z−4 No.22690、Z−5 No.23032
    Z−1 No.21262、Z−2 No.21969、Z−3 No.22067
    Y−1 No.20986
    X−4 No.20772
    X−1 No.20568、X−2 No.20578、X−3 No.20699
    W−10 No.20434
    W−7 No.19817、W−8 No.20105、W−9 No.20168
    W−4 No.19542、W−5 No.19668、W−6 No.19682
    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682,19817,20105,20168,20434
    第四項 No.20568,20578,20699,20772
    第五項 No.20986
    第六項 No.21262,21969,22067,22690,23032
    第七項 No.23091,23113

引用返信/返信 削除キー/
■23097 / inTopicNo.42)   日記・お兄ちゃんと公共の時間
□投稿者/ pipit -(2022/05/05(Thu) 21:34:46)
    2022/05/05(Thu) 21:39:27 編集(投稿者)

    うちのお兄ちゃんがコロナ禍でリモート授業を受けてた時の話。

    前に出席確認の『はい。』が先生に全然届かず、『あれ?◯◯くん?◯◯くん?あ、いるね。』となって、きっと実家のインターネット回線が弱くて、先生に音声が届くのが遅れてると考えたお兄ちゃんは、
    次の授業の時は、先生の点呼より前に、『はい。』と答えるようにしたんだって。

    。。。。大丈夫?

    ちゃんと狙ったタイムラグ現象は起きたのかなぁ
    (^◇^;)
引用返信/返信 削除キー/
■23096 / inTopicNo.43)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/05/05(Thu) 20:14:09)
    全然関係ないかもだけど、
    要素、で、英訳タイトル思い出した。


    I. Transcendental Doctrine of Elements


    そういえば、理性認識を有機体で表現している箇所もあったような
    一つはみんなのために、みんなは一つのために
    すべてが連動して動くシステム体。。。

    ドイツ語タイトル原文見てみよう。

    I. Transzendentale Elementarlehre


引用返信/返信 削除キー/
■23093 / inTopicNo.44)  Re[5]: 超越論的感性論 第七項:[−1
□投稿者/ pipit -(2022/05/05(Thu) 19:36:05)
    うましかさん、こんばんはー
    (o^^o)

    No23091

    >pipitさんの記述から的外れかもしれませんがヴントの心理学〜ゲシュタルト心理学を想起しました。<

    そうなんですね。ヴントさんのお名前覚えておこうっと。(カントと似てるからpipitには覚えやすいです(^ ^))

    >  そうそう、マールブランシュ、興味ありました(でも今は気が散らないよう抑えていますけど…(;´Д`A ```)以前話題にした山口裕之『語源から哲学がわかる事典』に頻出する人物なんですが、<

    !すっかり忘れてます(・・;)

    >分からないのでとりあえず(;´・ω・)木田直人『ものはなぜ見えるのか − マルブランシェの自然的判断理論』を買ってあります、、、まだ読んでないけど…( ノД`)シクシク…<

    私も読みかけ一桁ページの本がコロコロ。。。

    > すなわち、変化は現実的に存在する。このことはたとえ人が全ての外的現象をその変化と共に否認しようとするとしても、私たち自身の表象の転変が証明する。ところで変化は時間の内でのみ可能である。従って時間は、何か現実的なものであるというのが、それである。<

    うん、ここまでは文意わかります。

    >時間が現実的とみなされ得るのは、客観としてではなく、客観としての私自身を表象するその表象様式としてである。<

    > 感性のこの条件無しで、私を直観し得るなら、私たちが今変化として表象しているのとまさに同一の規定は、時間の〔表象が〕、従ってまた変化の表象が、そこでは全然現れない一つの認識を与えるだろう<

    いつもながらややこしいですね
    (^^;)
    同一の規定、の意味するところが、わからないな。

    カントは感性的直観とは別物としての知的直観を認めていますもんね。

    知的直観で私を知ると、(感性的直観と思考で作成する)時間の中にある私とは別の私がみえるのかな。

    うましかさん、読書おつかれさま!

引用返信/返信 削除キー/
■23091 / inTopicNo.45)  超越論的感性論 第七項:[−1
□投稿者/ うましか -(2022/05/05(Thu) 17:29:11)
    2022/05/05(Thu) 19:07:49 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    世間の三連休もあとわずか(;´・ω・)

    連休後のコロナ感染者数、どうなるのかなー

    No.23053 、ありがとうございました。
     物と物自体との区別の説明分かりやすいです。「感官経由に与えられたデータから作られた」対象を「物」とするということですね。後、最近「集合」に関心がおありだとか。pipitさんの記述から的外れかもしれませんがヴントの心理学〜ゲシュタルト心理学を想起しました。
     そうそう、マールブランシュ、興味ありました(でも今は気が散らないよう抑えていますけど…(;´Д`A ```)以前話題にした山口裕之『語源から哲学がわかる事典』に頻出する人物なんですが、分からないのでとりあえず(;´・ω・)木田直人『ものはなぜ見えるのか − マルブランシェの自然的判断理論』を買ってあります、、、まだ読んでないけど…( ノД`)シクシク…


    とにかく時間があるうちに、カント沼で水浴び(/・ω・)/パシャパシャ


    *******

    T 超越論的原理論
    第一部門 超越論的感性論

    第二節 時間について
     第六項 これらの概念からの結論  

    ◆ したがって、私たちの主張が教えるのは、時間の経験的実在性≠ナあり、言い換えれば、いつかは私たちの感官に与えられるかもしれない、全ての対象に関する客観的な妥当性である。そして、私たちの直観はいつでも感性的であるから、経験においては、私たちには時間の条件のもとに属さない対象は決して与えられない。これに反して、私たちは時間に絶対的な実在性に対する全ての要求を否認する。というのも、つまり、それでは実在性は、私たちの感性的直観の形式を顧慮しなくても、端的に諸物に条件ないしは固有性として結びついていることになってしまうからである。諸物自体に帰属するそうした固有性は、私たちには感官を通じては決して与えられない。それゆえ、この点に時間の超越論的観念性≠ェあるのであって、この超越論的観念性に従えば、時間は、感性的直観の主観的な諸条件が捨象される時には全然何ものでもなく、諸対象自体そのものには(私たちの直観との諸対象の関係無しでは)基本的なものとしても、内属的なものとしても、帰せられることはできない。それでもこの観念性は、空間のそれと同様、感覚のすり替えと比較されてはならない。というのも、感覚のすり替えの際には、このすり替えに基づく諸述語がそこに内属している現象自身については、その現象が客観的実在性を持っていることが前提とされているのに、時間の超越論的観念性の場合には、そのような客観的実在性は、この実在性が単に経験的である限りの他は、言い換えれば、その対象自身を単に現象とみなす限りの他は、全面的に抜け落ちているからである。この点については、第一節の前述の注意を参照されたい。

    (以上、 No.23032 より)

    *******

     第七項 解明 〔§7. Erlaeuterung 〕

    ◇ 時間に、経験的実在性は承認するが、絶対的かつ超越論的実在性は否認する、この理論に対して、私は洞察力の優れた人々が異口同音に一つの異議を唱えるのを耳にしたので、このことから私は、その異議を、このような考察に不慣れなあらゆる読者のところでも当然みられるに違いないと推測している。その異議とは、次のようなものである。すなわち、変化は現実的に存在する。このことはたとえ人が全ての外的現象をその変化と共に否認しようとするとしても、私たち自身の表象の転変が証明する。ところで変化は時間の内でのみ可能である。従って時間は、何か現実的なものであるというのが、それである。

    ◇ これに対する解答はなんら困難ではない。私はその全論拠を認める。時間はもちろん何か現実的なもの、すなわち、内的な直観の現実的形式である。それゆえ、時間は、内的経験に関する主観的実在性を持っている。言い換えれば、私は時間とその中での私の諸規定についての表象を現実的に持っている。それゆえ、時間が現実的とみなされ得るのは、客観としてではなく、客観としての私自身を表象するその表象様式としてである。

    ◇ しかし、もし私自身が、或いは他の存在者が、感性のこの条件無しで、私を直観し得るなら、私たちが今変化として表象しているのとまさに同一の規定は、時間の〔表象が〕、従ってまた変化の表象が、そこでは全然現れない一つの認識を与えるだろう〔*1〕。それゆえ残るのは、あらゆる私たちの経験の条件としての時間の経験的実在性である。今述べたところに従って、絶対的実在性だけは時間に認められることはできない。

     *1 石川文康訳ではこうなる。「しかし、仮に私自身、あるいは他の存在者が、この感性の条件なしに私を認識することができるとすれば、われわれが今変化として思い浮かべているまさに同一の規定がもたらす認識は、時間の観念をも、したがって変化の観念をもまったくともなわないものとなってしまうであろう。」(上巻p.92)

    ◇ 時間は、私たちの内的直観の形式以外の何ものでもない。もし人が時間から私たちの感性の特殊な条件を除き去るならば、時間という概念も消滅し、だから時間は、諸対象自身に結びついているのではなく、それらの諸対象を直観する主観〔*2〕に結びついているに過ぎない。

     *2 石川文康訳では、「主体」と訳されている。

    † 原佑訳上巻、p.167〜p.168参照。他に、石川文康訳上巻を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******
    [−1 No.23091
    Z−4 No.22690、Z−5 No.23032
    Z−1 No.21262、Z−2 No.21969、Z−3 No.22067
    Y−1 No.20986
    X−4 No.20772
    X−1 No.20568、X−2 No.20578、X−3 No.20699
    W−10 No.20434
    W−7 No.19817、W−8 No.20105、W−9 No.20168
    W−4 No.19542、W−5 No.19668、W−6 No.19682
    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682,19817,20105,20168,20434
    第四項 No.20568,20578,20699,20772
    第五項 No.20986
    第六項 No.21262,21969,22067,22690,23032
    第七項 No.23091
引用返信/返信 削除キー/
■23053 / inTopicNo.46)  うましかさんへ (^_^)
□投稿者/ pipit -(2022/05/04(Wed) 15:20:54)
    2022/05/04(Wed) 17:14:33 編集(投稿者)

    うましかさん、沼こんにちっすー
    こちらは五月晴れだけど寒いすー
    o(・x・)/

    No23052
    > カントは、感性的な直観の形式を顧慮しなければ、物の実在性がその条件ないしは固有性として私たちの感官には与えられないと考えているということかな(;´・ω・)<

    私見書きます。
    カントは、物、と、物自体、を概念的に区別していて、
    『物の実在性』というときは、
    感官経由に与えられたデータから作られた一つとしての対象、を、『物』としてるのではないかなと思いました。
    そして、その『物』対象を作る過程で、純粋知性概念である【実体】なども使用されているし、知覚の実在性なども全部『物』に関わる(コネクト、付与)されるものかと、思いました。
    対象の二重性については、第二版序文]][(中山元先生訳本第一巻p172)の『しかし批判は、客体を二つの意味で、すなわち現象としての客体と、物自体としての客体として考えることを教えるのであり、』を思い出しました。


    > 時間の超越論的な観念性とは、生まれた時から嵌め込まれていた色眼鏡によって生じた(見られた)色の限界を示しているのるのかなー?(;´・ω・) もしその色眼鏡を剥がしてしまったら、それによって生じていた色は何ものでも無くなる…??<

    最近わたし、集合、とかの概念も気になってるんです。

    目で見る色の集まり、と、
    耳で聞く音の集まり。
    違う集合体なのに、対象として一体化する。

    限界、とかも気になってて、
    私が先に例え話で色眼鏡を出したから、うましかさんは色の限界、と、表現されましたけど、

    色眼鏡で見える色と、外した色と、対象は同じ色という類仲間で、その時の、それは青色ではなかった、という否定表現と、

    色と音の対象としての違い、例えば、冷蔵庫の音を、それは白色ではなかった、という否定表現、

    もしこの両者を区別するなら、
    現象と物自体は一つの集合体内における否定関係ではなく、
    現象という一つの集合体【ではない】という表現によって、現象の集合体を限界づけるのが、物自体ではあるけど、物自体として集合体となってるのかどうかは、確定されてないような。。。

    ここらへん、勉強したいと思いながら、まだ石川求先生の本、全く読んでません。


    > (-ω-;)ウーン
    >
    > 事実「逃れられない」ならば、"逃れられないこと"すら意識はできない、とも"言えます"(・・;) 言葉ってありがたいですね。辛うじて「逃れている自分」を(たとえそれが錯誤であったとしても)感じられる余地は与えてくれますから。<

    純粋理性批判第二版の序文 ]]Z
    中山先生訳本第一巻p171
    『ここで注目しなければならないのは、わたしたちはこの対象を物自体として認識することはできないものの、少なくとも思考することは可能でなければならないという考えが、まだ保持されていることである(注)』

    で、同p177のカントによる注釈箇所 (第二版序文]]E)
    中山先生訳本第一巻p177
    独自タイトル『V14n 概念の客観的な妥当性』
    あたりが、うましかさんのご興味に関連あるのかな???と思いました。

    >
    > >感覚のすり替えって何でしょうか? (pipitさん)
    >
    > おお! 実はうましか、この「すり替え」と訳された"Subreptionen"で立ち往生しました。原佑訳では「詐取」とあり、??(;´・ω・)と。手持ちの独和辞書には載っていないいないため、他の訳で調べたところ、有福孝岳訳では「もろもろのすり替え」、石川文康訳では「虚偽陳述」、宇都宮監訳では「すり替え」とありました。
    >
    > ところで、この"Subreption"って、この概念だけで、研究テーマになるらしいのですよ!沼ですねー (/・ω・)/
    >
    > https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy1952/2000/51/2000_51_210/_article/-char/ja/

    よく探されましたね!!

    ほんの少し冒頭を読んだのですが、やっぱりカント先生のせいや、と、恨みつらみでそうな気が
    ( ̄▽ ̄;)

    先程思い出したのですけど、
    黒崎政男先生の『カント『純粋理性批判』入門』講談社選書メチエ
    p64-
    『3 伝統的な真理観』の箇所も、もしかしたらうましかさんのご興味の箇所かなあ、そうだったらいいな、と、思いました。
    N・マールブランシュの言葉として、
    『感性と想像力は誤謬や錯覚のつきせぬ源泉である。』
    などもあって、カント以前の伝統的真理観についての説明が少しあります。

    書き込みありがとうございます!うれしいです
    p(^_^)q

    沼が思いのほか役立ったらすてきだな 


引用返信/返信 削除キー/
■23052 / inTopicNo.47)  pipitさんへ (;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2022/05/04(Wed) 11:16:53)
    2022/05/04(Wed) 11:22:02 編集(投稿者)

    こんにち沼っス(`・ω・´)ゞ

    No.23043 (pipitさん)

    >何故カントは、『諸物自体に帰属するそうした固有性は、私たちには感官を通じては決して与えられない。』って言い切るのでしょうか?
    >あ、そうか、
    >色眼鏡を通して見える景色は、眼鏡の色の影響下に置かれている。
    >感官を通じている限り、感官の形式に従ったものしか得られない。
    (pipitさん)


    なるほど! (゚д゚)!


    >◇私たちは時間に絶対的な実在性に対する全ての要求を否認する。というのも、つまり、それでは実在性は、私たちの感性的直観の形式を顧慮しなくても、端的に諸物に条件ないしは固有性として結びついていることになってしまうからである。諸物自体に帰属するそうした固有性は、私たちには感官を通じては決して与えられない。<

    「色眼鏡」とは、私たちの「感性的直観の形式」の喩えですね。
    カントは、感性的な直観の形式を顧慮しなければ、物の実在性がその条件ないしは固有性として私たちの感官には与えられないと考えているということかな(;´・ω・)



    >色眼鏡が生まれた時から眼球に嵌め込まれてたとしたら、死ぬまでずっと、色眼鏡により生じた色を見るしかない。(pipitさん)


    時間の超越論的な観念性とは、生まれた時から嵌め込まれていた色眼鏡によって生じた(見られた)色の限界を示しているのるのかなー?(;´・ω・) もしその色眼鏡を剥がしてしまったら、それによって生じていた色は何ものでも無くなる…??


    >刹那のセンスデータ的接触記録を編集して、顕在意識に表すシステムが脳みそに組み込まれてるなら、顕在意識で思考する限り、システムの形式から逃れられない。(pipitさん)


    (-ω-;)ウーン

    事実「逃れられない」ならば、"逃れられないこと"すら意識はできない、とも"言えます"(・・;) 言葉ってありがたいですね。辛うじて「逃れている自分」を(たとえそれが錯誤であったとしても)感じられる余地は与えてくれますから。


    >感覚のすり替えって何でしょうか? (pipitさん)

    おお! 実はうましか、この「すり替え」と訳された"Subreptionen"で立ち往生しました。原佑訳では「詐取」とあり、??(;´・ω・)と。手持ちの独和辞書には載っていないいないため、他の訳で調べたところ、有福孝岳訳では「もろもろのすり替え」、石川文康訳では「虚偽陳述」、宇都宮監訳では「すり替え」とありました。

    ところで、この"Subreption"って、この概念だけで、研究テーマになるらしいのですよ!沼ですねー (/・ω・)/

    https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy1952/2000/51/2000_51_210/_article/-char/ja/


    >中山先生は、『感覚の錯誤』と訳されていました。(第一巻p107、中山先生独自番号064)(pipitさん)


    中山元訳も調べてみますね! m(__)m
    感謝です!!


    >感覚のすり替えの際には、このすり替えに基づく諸述語がそこに内属している現象自身については、その現象が客観的実在性を持っていることが前提とされている<


    >Aさんにとって信号は緑色、
    >Bさんにとって信号は青色、
    >一般的には、信号自体の色が客観的実在性を持ってることが前提とされている。(pipitさん)


    分かりやすい説明ですね!
    考察の参考になります。

    ありがとうございました(/・ω・)/ワーイ沼






引用返信/返信 削除キー/
■23046 / inTopicNo.48)  Re[7]: 純粋理性批判B135.136あたりの英訳
□投稿者/ pipit -(2022/05/03(Tue) 21:36:42)
    No23001

    J. M. D. Meiklejohnさん英訳
    This fundamental principle of the necessary unity of apperception is indeed an identical, and therefore analytical, proposition; but it nevertheless explains the necessity for a synthesis of the manifold given in an intuition, without which the identity of self-consciousness would be incogitable.

    英訳のpipit日訳
    この「統覚の必然的統一」の基本原理は、確かに同一的な、したがって分析的命題である。が、それでもやはり、直観による多様の総合の必要性を説明するものであり、それなしには自己意識の同一性は考えられないだろう。
引用返信/返信 削除キー/

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