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■23161 / inTopicNo.25)  日記
  
□投稿者/ pipit -(2022/05/08(Sun) 23:55:00)
    2022/05/09(Mon) 06:21:25 編集(投稿者)

    うましかさんからご紹介された論文、とてもありがたいです。

    河村克俊『統覚としての「私」 : カントの自我論』

    https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001338284367232

    pipitがあやふやに読んでいた統覚論の輪郭が河村先生の論文のおかげで、以前よりははっきりできた気がしています。

    総合、と、統合、の連続的でありながら区別する有様、初版と第二版の違いはあるだろうけど、初版からみることのできる、カントの当初の構想、また、現象でもなく物自体でもない!統覚の機能的稼働を縁に派生する自己意識「統覚としての私」、、、(山下和也先生の言う【直接知】だったかな、それを思い出しました。)
    過去レスを検索しました。
    No20518
    No20838

    pipitが今読んでるところはB135あたりなので、下記内容の箇所はもう少し後で出てくるのかな。先に下記の内容に触れることができたのは、今の読解のためにとても有益です。うましかさんに感謝だー
    ((o(^∇^)o))
    ※河村先生論文内より引用
    『「演繹論」で
    カントは以下のように述べている。
    「.諸表象の多様の超越論的総合一般のうちで、したがって統覚の総合 的で根源的な統一において、私は私自身を意識するのであるが、それは私 が私に現象するままに意識するのではなく、また私が自分自身において在 るがままに意識するのでもなくて、むしろただ私が存在するということを 意識するにすぎない。この表象は、ひとつの思惟であって、直観ではない」
    ( K r V B 157 )。
    先にみた「現象としての私」ならびに「私それ自体」とは異なるものとして、 ここで「統覚」が提示されている。すなわち「統覚の根源的統一」において「私 が私を意識する」ことは、先に見た1)「私が私に現象するまま wie ich mir erscheine)」に意識するのではなく、また2)「私が私自身として在るがまま に(wie ich an mir selbst bin)」意識するのでもない。先に見たようにここ での現象するがままの「私」が、直観された「私」であるのに対して、統覚に おける自己意識は、直観される「私」ではない。すなわち感性を介して把握さ れる対象ではない。また「あるがままの私」については、人間に固有の特殊な 認識のインストゥルメントでは対象化することのできないものとして考えられ ている。それは、認識する「私」の能力に対応する何かとしての対象ではなく、 感性と悟性というわれわれに固有の認識能力が把握することのできないもので ある。そしてこの「統覚」による統一のはたらきのうちに、3)「ただ私が存在し ているということ(nur daß ich bin)」の意識が生じると言われる。これは何 を意味するのか。ここで肯定的に述べられているのは、「現象」でも「ものそ れ自体」でもない「私」であり、「私」は自らの活動性に対する反省意識ない しは自覚として表象されている。また、この統覚による対象の統一のはたらき が何の媒介もなくただ直接的に意識されている、ということが意味されている とも考えられる。「ただ」を意味する”nu“r は、「単なる(bloß)」という言 葉と同様、カントの下では「純粋(rein)」につながる意味づけがみられる1)。 ここでの「ただ」を「純粋」に読み替えるならば、ここでの意識は、「純粋に 私が存在するということ」の意識であることになる。つまり、経験に基づくの ではなく、経験に先立ち経験を可能にする主観の活動性のうちに、ないしはこ の活動性との直接的な結びつきのうちに自覚されるような意識としての「私」 である。また、「この表象はひとつの思惟であり、直観ではない」という文で、それ があくまでも感性を伴う認識の道具立てによる把握対象ではないことが確認さ れている。では「直観(Anschauen)」と区別された「思惟(Denken)」とい う表現で何が意味されているのか。「直観」はカントのもとで「受容性
    (Rezeptivität)」の能力を意味し、「思惟」は「自発性(Spontaneität)」の能 力を意味する。「自発性」ないし自発的なはたらきである思惟は、それ自身を 対象化することが困難であるに違いない。これについては、「私」に関わる、 ないしはそれが「私」自身であるところの意識の自発的な活動性として自覚す ることができるに止まるだろう。「現象するままに」と区別され、「私が自分自 身において在るがままに」とも異なるものとして提示されている「ただ私が存 在するということ」で意味されているのは、この「思惟の自発性」についての 意識であるとも考えられる。この「思惟の自発性」は、感性の受容するもので はなく、また悟性がいわば(感性なしに)単独で構成するものでもない。それ は「私」自身の活動性ないしはたらきとして、ただ単に自覚される――これが、
    「ただ私が存在するということ」という意識の内実であり、カントが表現しよ うとする「統覚」としての「私」であると思われる。』


    また、
    河村克俊『ヴォルフの著書にみるドイツ語の諸概念 − 認識に関わるターミノロジー −』(言語と文化,(22),57-78 (2019-03-01))

    も、とても興味深かったです。

    っていうか、カント先生の、純粋理性は有機体発言,めっちゃ美しいなーと感動してたのに、体系を有機体に喩える点でのオリジナルはヴォルフ先生やったんかーい
    ψ(`∇´)ψ

    前にうましかさんと話題にしたことあるけど、やっぱりその哲学者がどのような空気を吸っていたか、みたいなのは、理解にとっては、時にすごく重要な要素となるんだろうなぁ。

    とても貴重な資料をありがとうございます!

引用返信/返信 削除キー/
■23153 / inTopicNo.26)  Re[13]: うましか@泥沼メモ
□投稿者/ pipit -(2022/05/08(Sun) 15:56:13)
    No23148
    うましかさん、こんにちは!
    書き込みありがとうございます(*^◯^*)

    統覚沼、泥沼ですー 。゚(゚´ω`゚)゚。

    ご紹介してくださった論文、一読したのですが、ものすごく整理されてる気がしました!
    後でまた、ゆっくり読み返してみます。ありがたいです。

    感性論はとても気になってるし、わたしには不思議です。

    前に仏教書で見た覚えがあるのですが、
    『見える、ということ自体に驚きが現れてくる』みたいな文章内容が頭に残っています。

    見える,聞こえる、感覚の不思議
    まあ、考えるのも不思議ですけどね(^^;;

    いつもありがとうございます。助かります!
引用返信/返信 削除キー/
■23152 / inTopicNo.27)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/05/08(Sun) 15:44:29)
引用返信/返信 削除キー/
■23148 / inTopicNo.28)  うましか@泥沼メモ
□投稿者/ うましか -(2022/05/08(Sun) 10:32:19)
    2022/05/08(Sun) 11:46:59 編集(投稿者)

    pipitさん、沼っス! (`・ω・´)ゞ

    pipitさんがカント沼「統覚」論で格闘されている頃、はるか浅瀬の「感性論」沼のぬかるみで泥まみれになっている私うましか( ノД`)シクシク… 


    「統覚」って沼恐ろしそうだなとおもいながら論文検索。


    すでにチェック済みであれば申し訳ございません。

    そういう私も以前みたかもしれないけど、、、忘れてしまった(;´・ω・)



    ■ 河村克俊『統覚としての「私」 : カントの自我論』

    https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001338284367232



    (/・ω・)/泥沼〜
    --------------

    【追記】


    河村の下記論文もおもしろそうです。
     

    ■ 河村克俊『ヴォルフの著書にみるドイツ語の諸概念 − 認識に関わるターミノロジー −』(言語と文化,(22),57-78 (2019-03-01))

    関西学院大学リポジトリで検索すると読めます(・ω・)ノ


    そういえば、石川文康訳上巻の「専門用語の訳語について」(『純粋理性批判 【上】』、筑摩書房、p.x〜)でも、ヴォルフの役割について触れていました(同p.xiv〜)。





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■23145 / inTopicNo.29)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/05/08(Sun) 08:53:40)
    No23133
    >直観による多様の総合の必要性を説明するものであり



    (pipit私見)
    すべての意識に伴い得る、の、すべては結合されたものでなければならない。
    <

    集合を形成してないといけない(多様の総合の必要性)、というようなイメージを持ちました。
    その集合が、統覚という場(中山元先生の表現だと、『自己統合の意識[=統覚]』)
引用返信/返信 削除キー/
■23143 / inTopicNo.30)  Re[10]: 純粋理性批判B135.136あたりの英訳
□投稿者/ pipit -(2022/05/08(Sun) 08:22:31)
    2022/05/08(Sun) 08:28:23 編集(投稿者)

    みなさま、おはようございます

    No23134の続きです。

    (原文のJ. M. D. Meiklejohnさんの英訳)
    An understanding, in which all the manifold should be given by means of consciousness itself, would be intuitive; our understanding can only think and must look for its intuition to sense.

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap43

    (英訳のpipit意訳)
    すべての多様が意識そのものによって(実存的に)与えられる知性は直観的であろう。(=直観できる知性・知的直観);

    だが私たち(人間の)知性は、ただ考えることができるだけであり、直観は感覚に求めなくてはならない。

    ===============

    (pipit雑感)
    純粋理性批判は【何を知ることができるか?】という理性の認識の仕組みがテーマなので、上記のような表現になっていますが、

    【何を為すべきか?】がテーマの実践理性批判になってくると、人間でありながら知的直観を認めてくる場合もあるのかな、と、中山元先生の訳注↓を読んで思いました。

    ※他箇所に出てくる【知的直観】の中山先生による訳注
    『純粋理性批判1』カント、中山元先生訳p263より引用。
    『(41)カントは主観がみずからを現象ではないものとして直観する営みを「知的直観」と呼ぶ。この奇妙な概念は、人間は道徳などの実践においては、物自体として行動することができるが、認識する場面においては、物自体としてふるまうことができないことを示すために用意されているのである。』
    引用終了

    ※カント哲学は解釈が様々なので、中山先生以外の解釈もあると思っています
    (^^;)

    知る、という働きにおいて知性には、実存を現前(直観)させることは不可能だが、
    為す、という働きにおいて、知性には、実存を現前(直観)させることが、、、どうなのかなぁ、まだ『実践理性批判』は購入さえしてないからなぁ
    実理に進んだ時のおたのしみ、ですね
    (*^▽^*)

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■23141 / inTopicNo.31)  Re[11]: 日記
□投稿者/ pipit -(2022/05/07(Sat) 21:22:30)
    >見たものを、わたしは見たと考える。<

    が、アプリオリな仕組みに経験的なものが実際乗っかった時の現実的な生起例になる、感じかなぁ
    カント的には
    同時的生起、なのかなぁ
引用返信/返信 削除キー/
■23140 / inTopicNo.32)  Re[10]: 日記
□投稿者/ pipit -(2022/05/07(Sat) 21:12:42)
    視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚
    種類の異なる感官生まれのデータを、私は考えるという自己意識で統合してるとカントは言ってるの???

    仏教では、第六は、意・識 ?
引用返信/返信 削除キー/
■23138 / inTopicNo.33)  Re[9]: 日記
□投稿者/ pipit -(2022/05/07(Sat) 20:48:07)
    導くシステムがアプリオリに用意されてる、かなぁ
引用返信/返信 削除キー/
■23137 / inTopicNo.34)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/05/07(Sat) 20:47:18)
    いや、違うか。

    事後的に見えても、アプリオリな仕組みとして事前にある、というのが、カントの統覚論なのかな??
引用返信/返信 削除キー/
■23136 / inTopicNo.35)  Re[11]: 純粋理性批判B135.136あたりの英訳
□投稿者/ pipit -(2022/05/07(Sat) 20:36:37)
    No23135に返信(pipitさんの記事)
    > ■No23134
    >>
    >>なぜなら、単純な表象としての【私(自我)】は多様な内容を私たちに与えることはないからである。
    >>【私(自我)】という表象とは全く異なる直観の中でのみ、多様な内容が私たちに与えられ、結合という方法によってのみ、一つの自己意識の中で考慮されるのである。
    >
    >
    > pipit私見です。
    >
    > 見たものを、わたしは見たと考える。
    > 聞いたものを、わたしは聞いたと考える。
    >
    > わたしという概念表象 が 見たもの(感性的直観) を 与えてるのではなく
    > わたしという概念表象 が 聞いたもの(感性的直観) を 与えてるのでもない。
    >
    > わたしという概念表象 とは 全く異なる類の (感性的)直観において 多様な表象 が 与えられているのだ。
    >
    > とカントは言ってるのかな?と思いました。

    だからと言って、多様が与えられているだけでは、認識にならない。

    多様が統合的結合しなくては。

    この統合的結合が、統覚の働きなのかなー。

    感官を通じて多様が与えられ、知性は多様を統合的総合としての認識へと導く。
引用返信/返信 削除キー/
■23135 / inTopicNo.36)  Re[10]: 純粋理性批判B135.136あたりの英訳
□投稿者/ pipit -(2022/05/07(Sat) 20:31:12)
    No23134
    >
    > なぜなら、単純な表象としての【私(自我)】は多様な内容を私たちに与えることはないからである。
    > 【私(自我)】という表象とは全く異なる直観の中でのみ、多様な内容が私たちに与えられ、結合という方法によってのみ、一つの自己意識の中で考慮されるのである。


    pipit私見です。

    見たものを、わたしは見たと考える。
    聞いたものを、わたしは聞いたと考える。

    わたしという概念表象 が 見たもの(感性的直観) を 与えてるのではなく
    わたしという概念表象 が 聞いたもの(感性的直観) を 与えてるのでもない。

    わたしという概念表象 とは 全く異なる類の (感性的)直観において 多様な表象 が 与えられているのだ。

    とカントは言ってるのかな?と思いました。

    。。。_| ̄|○ チガウカモデス 
                  _(┐「ε:)_
引用返信/返信 削除キー/

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