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■23043 / inTopicNo.49)  うましかさんへ (^○^)
  
□投稿者/ pipit -(2022/05/03(Tue) 18:37:28)
    2022/05/03(Tue) 19:11:33 編集(投稿者)
    2022/05/03(Tue) 19:08:19 編集(投稿者)

    新緑5月のうましかさん、こんばんは!

    No23032
    > 5月ですねー
    >
    > 「エイプリルうましか」改め「うましかめぇ」にでもしようかなとおもったのですが、毎月変えるの?と面倒になったので、元のうましかに戻ります(・ω・)ノ

    はいー
    わたしは、「うましかめぇ」で、トトロのメイちゃん思い出しましたー
    (o^^o)



    > ---  No.22690 からの続き ---
    >
    > ◇ したがって、私たちの主張が教えるのは、時間の経験的実在性≠ナあり、言い換えれば、いつかは私たちの感官に与えられるかもしれない、全ての対象に関する客観的な妥当性である。そして、私たちの直観はいつでも感性的であるから、経験においては、私たちには時間の条件のもとに属さない対象は決して与えられない。
    >
    > ◇ これに反して、私たちは時間に絶対的な実在性に対する全ての要求を否認する。というのも、つまり、それでは実在性は、私たちの感性的直観の形式を顧慮しなくても、端的に諸物に条件ないしは固有性として結びついていることになってしまうからである。諸物自体に帰属するそうした固有性は、私たちには感官を通じては決して与えられない。<

    何故カントは、『諸物自体に帰属するそうした固有性は、私たちには感官を通じては決して与えられない。』って言い切るのでしょうか?

    難しい。。。

    あ、そうか、

    色眼鏡を通して見える景色は、眼鏡の色の影響下に置かれている。

    感官を通じている限り、感官の形式に従ったものしか得られない。

    > ◇ それゆえ、この点に時間の超越論的観念性≠ェあるのであって、この超越論的観念性に従えば、時間は、感性的直観の主観的な諸条件が捨象される時には全然何ものでもなく、諸対象自体そのものには(私たちの直観との諸対象の関係無しでは)基本的なものとしても、内属的なものとしても、帰せられることはできない。<

    色眼鏡が生まれた時から眼球に嵌め込まれてたとしたら、死ぬまでずっと、色眼鏡により生じた色を見るしかない。

    刹那のセンスデータ的接触記録を編集して、顕在意識に表すシステムが脳みそに組み込まれてるなら、顕在意識で思考する限り、システムの形式から逃れられない。


    > ◇ それでもこの観念性は、空間のそれと同様、感覚のすり替えと比較されてはならない。<

    感覚のすり替えって何でしょうか?
    中山元先生訳を見てみました。
    中山先生は、『感覚の錯誤』と訳されていました。(第一巻p107、中山先生独自番号064)
    なるほど、カントテキストとしてはB45、中山先生独自番号053の事柄が念頭に置かれてるのかなと思いました。


    >というのも、感覚のすり替えの際には、このすり替えに基づく諸述語がそこに内属している現象自身については、その現象が客観的実在性を持っていることが前提とされているのに、<

    Aさんにとって信号は緑色、
    Bさんにとって信号は青色、
    一般的には、信号自体の色が客観的実在性を持ってることが前提とされている。


    >時間の超越論的観念性の場合には、そのような客観的実在性は、この実在性が単に経験的である限りの他は、言い換えれば、その対象自身を単に現象とみなす限りの他は、全面的に抜け落ちているからである。<

    信号機という形態が、感官を離れれば、無と扱われてる場合、
    感官を経由しない信号機自体の述語という意味かな?(対象を規定するような、例えばそのものに属する色とか?)の客観的実在性は、抜け落ちている。


    >この点については、第一節の前述の注意〔*1〕を参照されたい。
    >
    >  *1 第一節 空間について「前述の諸概念からの結論」参照。原佑訳上巻p.155〜
    >
    >
    > † 原佑訳上巻、p.166〜p.167参照。他に、石川文康訳上巻、有福孝岳訳、宇都宮芳明監訳上巻も参照。
    > †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    > † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    > † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    > † ◆〜は原典における段落とします。

    うましかさん、おつかれさまです!
引用返信/返信 削除キー/
■23032 / inTopicNo.50)  超越論的感性論 第六項:Z−5
□投稿者/ うましか -(2022/05/02(Mon) 23:33:06)
    2022/05/02(Mon) 23:34:13 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    5月ですねー

    「エイプリルうましか」改め「うましかめぇ」にでもしようかなとおもったのですが、毎月変えるの?と面倒になったので、元のうましかに戻ります(・ω・)ノ


    *******

    T 超越論的原理論
    第一部門 超越論的感性論

    第二節 時間について
     第六項 これらの概念からの結論

    ◆もし私たちが、私たち自身を内的に直観し、この直観を介して全ての外的直観をも表象力の内でとらえる私たちの@l式を捨象し、したがって、諸対象を、それらがそれ自体そのもので存在するとおりのものだと解すれば、時間は何ものでもない。時間は現象に関して客観的な妥当性を持つに過ぎない。というのは、 現象というものが既に、私たちが私たちの諸感官の諸対象≠ニして想定する諸物に他ならないからである。しかし、私たちの直観の感性が、したがって私たちに特有であるような表象様式が捨象され、諸物一般≠ェ問題とされる場合には、時間は、もはや客観的ではなくなる。それゆえ、時間はもっぱら私たちの(人間的な)直観(私たちの直観はいつでも感性的である。言い換えれば、私たちが対象によって触発される限り、そうである。) の一つの主観的な条件であり、だからそれ自体では主観を離れては何ものでもない。それにもかからず、時間は、全ての現象に関しては、したがって経験において私たちに現れ得る全ての物に関しても、必然的な仕方で客観的である。私たちは、「全ての物は時間の内にある」とは言い得ない。というのは、諸物一般という概念を問題とする場合、諸物の直観のあらゆる様式が捨象されるが、しかしこの直観は、時間がそのもとでの対象の表象に属する本来の条件であるからである。ところで、この条件が物という概念に付加され、「全ての物は現象(感性的直観の対象)として時間の内にある」と言われるなら、この原則はその十分な客観的正当性とア・プリオリな普遍性をもつのである。

    ---  No.22690 からの続き ---

    ◇ したがって、私たちの主張が教えるのは、時間の経験的実在性≠ナあり、言い換えれば、いつかは私たちの感官に与えられるかもしれない、全ての対象に関する客観的な妥当性である。そして、私たちの直観はいつでも感性的であるから、経験においては、私たちには時間の条件のもとに属さない対象は決して与えられない。

    ◇ これに反して、私たちは時間に絶対的な実在性に対する全ての要求を否認する。というのも、つまり、それでは実在性は、私たちの感性的直観の形式を顧慮しなくても、端的に諸物に条件ないしは固有性として結びついていることになってしまうからである。諸物自体に帰属するそうした固有性は、私たちには感官を通じては決して与えられない。

    ◇ それゆえ、この点に時間の超越論的観念性≠ェあるのであって、この超越論的観念性に従えば、時間は、感性的直観の主観的な諸条件が捨象される時には全然何ものでもなく、諸対象自体そのものには(私たちの直観との諸対象の関係無しでは)基本的なものとしても、内属的なものとしても、帰せられることはできない。

    ◇ それでもこの観念性は、空間のそれと同様、感覚のすり替えと比較されてはならない。というのも、感覚のすり替えの際には、このすり替えに基づく諸述語がそこに内属している現象自身については、その現象が客観的実在性を持っていることが前提とされているのに、時間の超越論的観念性の場合には、そのような客観的実在性は、この実在性が単に経験的である限りの他は、言い換えれば、その対象自身を単に現象とみなす限りの他は、全面的に抜け落ちているからである。この点については、第一節の前述の注意〔*1〕を参照されたい。

     *1 第一節 空間について「前述の諸概念からの結論」参照。原佑訳上巻p.155〜


    † 原佑訳上巻、p.166〜p.167参照。他に、石川文康訳上巻、有福孝岳訳、宇都宮芳明監訳上巻も参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******
    Z−4 No.22690、Z−5 No.23032
    Z−1 No.21262、Z−2 No.21969、Z−3 No.22067
    Y−1 No.20986
    X−4 No.20772
    X−1 No.20568、X−2 No.20578、X−3 No.20699
    W−10 No.20434
    W−7 No.19817、W−8 No.20105、W−9 No.20168
    W−4 No.19542、W−5 No.19668、W−6 No.19682
    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682,19817,20105,20168,20434
    第四項 No.20568,20578,20699,20772
    第五項 No.20986
    第六項 No.21262,21969,22067,22690,23032

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■23004 / inTopicNo.51)  Re[24]: 日記
□投稿者/ pipit -(2022/05/02(Mon) 00:18:44)
    YouTubeでウルフルズ聴くと、雰囲気で関連させて?エレファントカシマシの宮本さんでてきました。

    https://youtu.be/cWHU2-WnZqc
    エレファントカシマシ ♪俺たちの明日
引用返信/返信 削除キー/
■23003 / inTopicNo.52)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/05/01(Sun) 23:58:42)
    久々にウルフルズの曲聴いたなー

    ウルフルズ ♪ええねん
    https://youtu.be/bssK6prrHrQ

    今日はおやすみなさーい (( _ _ ))..zzzZZ
引用返信/返信 削除キー/
■23002 / inTopicNo.53)  Re[7]: 純粋理性批判B135.136あたりの英訳
□投稿者/ pipit -(2022/05/01(Sun) 23:52:15)
    中山元先生の本では、第二巻p121.122、中山先生独自番号では『146 自己統合の意識における根源的で総合的な統一』の箇所です。
引用返信/返信 削除キー/
■23001 / inTopicNo.54)  純粋理性批判B135.136あたりの英訳
□投稿者/ pipit -(2022/05/01(Sun) 23:49:30)
    This fundamental principle of the necessary unity of apperception is indeed an identical, and therefore analytical, proposition; but it nevertheless explains the necessity for a synthesis of the manifold given in an intuition, without which the identity of self-consciousness would be incogitable. For the ego, as a simple representation, presents us with no manifold content; only in intuition, which is quite different from the representation ego, can it be given us, and by means of conjunction it is cogitated in one self-consciousness. An understanding, in which all the manifold should be given by means of consciousness itself, would be intuitive; our understanding can only think and must look for its intuition to sense. I am, therefore, conscious of my identical self, in relation to all the variety of representations given to me in an intuition, because I call all of them my representations. In other words, I am conscious myself of a necessary &#224; priori synthesis of my representations, which is called the original synthetical unity of apperception, under which rank all the representations presented to me, but that only by means of a synthesis.

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap43
引用返信/返信 削除キー/
■23000 / inTopicNo.55)  Re[5]: 純粋理性批判B133.134あたり
□投稿者/ pipit -(2022/05/01(Sun) 23:45:12)
    No22805に返信(pipitさんの記事)
    > 2022/04/23(Sat) 17:58:49 編集(投稿者)
    >
    > (J. M. D. Meiklejohnさんの英訳 )
    >      略
    > (pipit日訳)
    > このように、統覚の総合的な統一は、理解のために働く知性のあらゆる作動(論理学全体、そして超越論的哲学に至るまでも)と結びつけなければならない最高点である。
    > この機能(統覚の総合的統一)は知性そのものである。

    こんじょおー

    続きはここから。@(・●・)@
引用返信/返信 削除キー/
■22983 / inTopicNo.56)  Re[22]: 引用
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/01(Sun) 11:04:20)
    ■22972、
    pipitさま、ありがとございま〜す。
引用返信/返信 削除キー/
■22980 / inTopicNo.57)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/05/01(Sun) 09:01:11)
    カントが執筆した論文『世界市民という視点からみた普遍史の理念(一七八四年)』からの一節を引用します。

    『人間の営みを世界という大きな舞台で演じられたものとして眺めてみよう。すると、ときには賢明さがうかがえるところもあるが、最終的にはそのすべてが愚かしさ、子供っぽい虚栄心、そしてしばしば幼稚な悪意や破壊欲によって織りなされていることがわかり、思わず憤慨してしまうほどなのだ。そして最後には、ほかのすべての生物よりも傑出していると思い込んでいるこの人間というものをどう理解すればよいのか、途方にくれてしまうのである。
     この舞台を眺めている哲学者にとっては、人間とその営みの背後に、理性的で、人間に固有の意図をみいだすことはできない。それだけに人間の行動という矛盾した営みを動かしている自然の意図のようなものがないかどうかを、調べるしかなくなるのである。
    人間という被造物が、固有の計画を推進していないとしても、ある自然の意図にしたがった歴史というものを考えることはできないだろうか。この論文では、このような歴史を書くための〈導きの系〉を発見できるかどうかを調べてみたい。ただしこの導きの糸にしたがって実際に歴史を書くことができるような人間を育てるのは自然に委ねよう。
    自然はすでにケプラーを育てあげ、惑星が離心的な軌道で運行きていることを示す予想外の法則を発見させた。
    そしてすでにニュートンを育てあげ、この法則を一般的な自然の原因から説明させたではないか。』

    『永遠平和のために/啓蒙とは何か他3編』
    カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫
    p34.35より引用。

    ==============

    まだ未読なのですが、みのりさんからひろがったご縁で、買ったまま未読の本の一節が目に入りました。
    カント先生、この時はかなり悲観的な気持ちになってたのかな(・・;)

    みのりさんやみなさまにすごーく感謝してます!

    ん?わたしについてる?カント好きの幽霊さんもなんか思ってる?

    (´・Д・)」ナマケスギヤデー(幽)

    そう、まだ、純理の二律背反にも入れてない。。。

    演繹論ー (ノ_<)


引用返信/返信 削除キー/
■22972 / inTopicNo.58)  引用
□投稿者/ pipit -(2022/04/30(Sat) 20:59:00)
    悪魔ちゃんへ
    こんばんは!

    No22970

    『永遠平和のために/啓蒙とは何か他3編』
    カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫
    p202、203より引用

    『しかし戦争そのものにはいかなる特別な動因も必要ではない。戦争はあたかも人間の本性に接ぎ木されたかのようである。それどころか戦争は何か高貴なものとみなされて、利己的な動機なしに栄誉を求める気持ちから行われるもののようである。だからアメリカの未開な民族も、ヨーロッパの騎士時代の人々も、戦う勇気というものはそれだけで重要な価値のあるものと判断したのであり、この勇気は戦争のさなかだけでなく(それは当然のことだから)、戦争を始める際にも高く評価されたのだった。こうした戦う勇気を示すためだけにも戦争が始められることが多かったのであり、戦争そのもののうちに、内的な尊厳のようなものがあるとされたのである。そして「戦争は悪である。戦争は多数の悪人たちを滅ぼすが、さらに多数の悪人を作りだすからだ」というギリシアの格言を忘れて、哲学者たちまで、戦争は人間性を高めるものと称えるのである。しかし自然がみずからの目的のために、動物の一つの類である人間に行ってきたことについてはこのくらいにしておこう。』

    以上、一箇所の引用でしたー
引用返信/返信 削除キー/
■22966 / inTopicNo.59)  Re[19]: 探偵日記
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/04/30(Sat) 15:27:11)
    ■22954、
    >【中山元解説に次のような説明がありました】と最初の方にあるから、中山先生の言かしら<
    そうですね、pipitさま、失礼しました。
引用返信/返信 削除キー/
■22954 / inTopicNo.60)  探偵日記
□投稿者/ pipit -(2022/04/29(Fri) 20:14:42)
    No22869
    > >『S.フロイト 自我論集』p.314の中山元解説に次のような説明がありました。<
    > >神経症とは、心的な葛藤が身体に象徴的に表現される疾患である。患者たちはあるいは身体に疼痛を覚え、あるいは言語機能を失い、手足が麻痺して行動の自由を失い、眠りを失う。人間の心的な機能が身体に表現されるありかたに基づいて、神経症は強迫神経症、ヒステリー、恐怖症(フォビア)などに分類される。この疾患において重要なのは、デカルト以来の近代の哲学的な伝統においては〈主体〉であるはずの人間が、〈客体〉であるはずの身体において拘束され、自由を失い、精神の働き自体が犯されるということである。<
    >
    > ><内は、中山さんの言?それともフロイトの言?


    【中山元解説に次のような説明がありました】と最初の方にあるから、中山先生の言かしら

    |( ̄3 ̄)| 名推理のよかん
引用返信/返信 削除キー/

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