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■18876 / inTopicNo.85)  Re[4]: 悪魔ちゃんへ
  
□投稿者/ アートポット -(2021/11/14(Sun) 21:52:12)
    こんばんは、ザビビのふくろうさん、悪魔ちゃん

    ザ掲示板 → ザBBS → ザ ビービーエス → ザビビ

    ていうわけです。

    ザ掲示板 で サーチすれば、掲示板に辿り着けるよ。
引用返信/返信 削除キー/
■18874 / inTopicNo.86)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/14(Sun) 21:40:20)
    >「存在とは何か」につてのわたしのは後にするとして、
    >ねえ、「 ザビビのふくろう」の「 ザビビ」っていう言うの、どういう意味なの?

    「ザビビ」っていうのは、今ある新生Fc2ザ掲示板の前身で、2009年に閉鎖した旧ザ掲示板の略称だよ。
    私はそこの哲学板で「ふくろう」のHNで活動してた。
    宿題さんとも、そこで出会ったんだよ^^

    あと、ミネルヴァのふくろう気取りはおこがましいので、
    ビビビのねずみ男の仲間というキャラ設定なんだよね。

    ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つが、
    ザビビのふくろうはビビビのねずみ男たちと夜中に墓場で運動会 ♪♪
    なんちゃって〜

引用返信/返信 削除キー/
■18859 / inTopicNo.87)  Re[2]: 存在とは何か
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/14(Sun) 20:49:34)
    「存在とは何か」につてのわたしのは後にするとして、

    ねえ、「 ザビビのふくろう」の「 ザビビ」っていう言うの、どういう意味なの?
引用返信/返信 削除キー/
■18839 / inTopicNo.88)  存在とは何か
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/14(Sun) 18:17:14)
    「存在とは何か?」という問題を考察する哲学の分野は存在論と呼ばれる。
    これは,ときに形而上学と同一視されることもある,認識論,価値論とともに,いわば由緒正しい哲学の中心的分野である。
    ここでは,この問いに解答を与えようとするのではなく,この問い,つまり「存在と何かに答えること」,すなわち「存在とは何かを定義すること」について,若干の考察を行う。言うまでもなく,前提として,「定義」を「言語的定義」に絞るものとする。

    「存在とは何か?」に対する解答は、これが「存在」の本質を問う問いであることに対応して、「〜とは…である」という形式の定義、いわば被定義項の本質を語る形式の定義を予想・要求している。
    このことについて、二つの視点から,述べてみたい。
    まず,考えるべきは,そもそも「存在」をこのような形式で定義することは可能なのか?ということである。実際,ギリシャの昔から存在は定義できないとされてきた。というのは,存在とは「ある」(be動詞)で表されることがらだが,「存在とは〜である」と定義したら,もうそこに「ある」が含まれざるをえないので,循環定義にしかならない,というわけだ。もちろん,これは荒すぎる議論だが,的は捉えている。というのも,言語によって定義するのであれば,言語の有意味性は前提とならざるをえない。そして,もし,言語が有意味であるとき,「存在」という概念の有意味性が既に前提されているなら,やはりその意味で循環定義になるからだ。
    また、「〜とは…である」という語る形式の定義、これは通常本質規定とされるが、明らかなのは,すべての概念をこの形式で定義することはできない,ということだ。定義される語(被定義項)と,それを定義する言葉(定義項)がある。その定義に使用した言葉も定義するとなると,無限後退せざるを得ない。したがって,どこかに無定義で置かれ,そこから他のすべての概念を定義するような,そんな無定義概念が出発点として幾つかは必ず必要である。事実,そのようにして,数学の公理体系は構成されている場合がある。
    ここから得られる教訓は、その概念が言語にとって根本的、本質的であれば、この語る形式の定義では目的を果たせない、ということだ。
    しかし、この語る形式の定義ではない定義、例えば再帰的定義(帰納的定義)と呼ばれる定義であれば、循環を避けることが可能である。これはいわば「本質を示す定義」と解釈できる。そこで、数学や、論理学ではこの定義が用いられている。『論考』はこうやって、言語の本質、すなわち世界の本質を示そうとしたのである。

    もうひとつ。「〜とは…である」という形式の語る定義の問題点。
    「私とは何か?」と言う問いをアリストテレス的名辞論理学の存在論(物的世界観)を前提にして答えようとするとき、「私」の指示対象としての実体(基体)である自我が措定されることになった。
    同じように「存在」の意味を、「存在とは何か?」と文から切り離して問う場合、いわばあらゆる「ある」に共通する意味としての“存在”があるということが前提、ドグマとなってしまう。
    しかし、西欧語の存在を表すbe動詞には「である」と「がある」とがあって、これらに共通する「ある」の意味といったところで、これらをもともと区別している我々日本人には違和感があるだろう。
    つまり、この形式で本質を問うことは、それだけで或るドグマを前提することになってしまうのである。
    しかし、フレーゲが生み出した論理学の言語では、名辞ではなく命題、つまり文が基本単位となるので、そのため、「がある」と「である」はもちろん、同一性や集合の所属関係、包含関係など、自然言語の「ある」に対応する様々な論理的概念の差異を明示できるようになり、その上で存在命題の意味として、その意味が定義されることになったのである。
    そして、二値命題論理の言語から、非古典論理まで拡張された現代論理学の言語までを前提すれば、より一般的な回答が与えられる可能性もあるだろう。そのような研究が現在行われている。しかし、当たり前だが、それはやはり、きちんと勉強しなければ理解は困難だろう。

    以上、長々と述べてきたが、結局論理学がわからないので、よくわからない、ということに終わったかもしれない。
    要するに、「存在とは何ぞや」に直接的答えを求めることは、残念ながらないものねだりの「儚き夢」であり、答えられるはずだと思うのは、単なる思い込み、ドグマにすぎない、ということである。

    生と死を分かつ瞬間についても、同様のドグマ。

    そうか。哲学はこういったドグマ、迷妄を払ってスッキリできる、ってことは言えるな。
    ふむ、役に立つじゃん。

引用返信/返信 削除キー/
■18747 / inTopicNo.89)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ 時 -(2021/11/12(Fri) 20:23:45)
    No18738  ザビビのふくろうさんへ

    こんにちは。コメントをありがとうございます。

    > これね、正直、時さんは読む必要ないんじゃないかと(笑)

    ザビビのふくろうさんと今回会話をしていただいた後の今の結論を書きますと、私は多分読まないだろうと思います。(すみません)

    > というのも、これ、ウルトラ私訳、スーパー意訳ですけど、『論考』の意図っていうのは、要するに、二値言語(科学言語・哲学言語)の分際を弁えさせることで、この言語で表現できることはこれだけわずかしかないんだ、そして真に重要な人生の意味、倫理・芸術・宗教についてはこの言語で表現できる外側なんだから、これらに口出しせず黙っとけ、ってことなんです(笑)

    そうだったのですか。ザビビのふくろうさんの解釈、意訳ということでの理解はできているつもりです。

    > で、ウィトゲンシュタイン本人はその外側の人間だからってことで、『論考』を書いた後、すっぱり一度哲学をやめちゃうんです。つまり、『論考』は、二値言語が重要と考える人たちに分際を弁えさせるために、その根拠を示そうとした書物なのです。

    あらら?では逆になっていますね。(笑)逆に、強化されてしまっているとか・・・

    > とは言え皮肉なことに、『論考』を最も高く評価した論理実証主義者たちはほとんど科学主義者だったので、意図に関してはある意味真逆の解釈をしちゃったんです。二値言語で語れないことは無意味で科学じゃないんだから、それ以外は学問であるかのような顔をするな、って感じです。

    ・・・。ですので、持論を譲らない方が多いですね。「在るじゃないか!在るということが分からないのか!」と。(笑)私としては、そのあなたの表現する「在る・存在する」とは、どういった定義なのですか?と尋ねているつもりなのですが、どなたもその分野での答えを示していただけませんので、そういうものかという感じでした。そのようなことで無駄な時間を使いたくなかったというのが正直な気持ちですが、万が一がありますので、それでも機会があるたびに「在るとは、どのような定義で・・」とお聞きしてみるのですね(笑)

    > 実際書かれた内容である論理的考察に関しては、彼らの解釈は大きく間違ってはいないと、私は思うんですけどね。

    はい。当時の状況を知るすべはないのですが、現代の科学的解釈でもおそらく同じような基礎の上に確立されているのだろうなと思います。私個人としては、それは間違いではなく正しいと言ってもよいが・・・土台が揺らいでいるのではないかなぁと、特に深く思考が起こるときには感じているのですね。

    > >ここでご説明していただいている論理的真理としての「世界は存在する」というのが何を根拠にして論理的真理としているのかが理解できないのですね。

    > こういった論理的真理が、
    > (1) キーパーだけはボールを手に持ってよい(サッカーのルール)
    > (2) 独身者は未婚である
    > (3) 日曜日の次の日は月曜日である
    > (4) 1mは100pである
    > などといった文と同じく、何か世界の事実を根拠にした真理ではない、公理と同じくゲーム成立のための前提だ、ということを理解されたのであれば、なぜ上のような疑問を抱かれるのが、どうもわからない、というのが正直なところでした。
    > しかし、ふと思ったのですが、時さんが私の考えている以上に哲学的な方であれば、一応哲学的には、もう少しきちんとしたというか、詰めた答え方はあるんです。的外れかもしれませんが(笑)
    > それを念のために書きます。
    > 少なくとも二通りの答え方があると思います。
    > @ 規約による真理
    > A 意味による真理

    > これ、どちらも説明要らないくらいかもしれませんが、一応します。
    > @については、上の(1)を見れば明らかですが、これが正しいのは、「そのように取り決めたから」という答えです。
    > (2)〜(3)も定義とみなせますので、要は規約によって正しいと決められたから真だ、ってことです。
    > Aは、実質@と同じように思われるかもしれませんけど、分けたほうがいいんです。
    > まあ(2)が一番わかりやすいかもしれませんが、「独身者」という概念の意味に、「未婚」という意味が含まれている、ってことです。他の場合も、同様にとらえるわけです。

    > この@の「規約による真理」というのは、何度か出ている論理実証主義が『論考』の影響を受けて、数学的真理、および論理学的真理を、科学の経験的真理と区別してそのように特徴づけたものです。
    > これ、実は、後にクワインという哲学者によって批判され、間違いってことになってます。
    > で、Aの考え方は、むしろカントなんかのより古い考え方で、私自身は、『論考』のウィトゲンシュタインの考えはこっちじゃないかと思っています。本人は、はっきりとは言ってないと思いますが。前のレスで、恒真命題を、意味の論理計算に基づいて真理が確定する命題、みたいに説明したと思うんですが、あれです。

    以前に少しお話したと思いますが、私自身は、学問としての哲学は全く知りません。ですので、クワインだウィトゲンシュタインだカントだ論考だイデアだと表現されても「それは何ですか?」の次元なのですね。私自身が行ってきたのは、分類するのであれば、自身の人生における哲学です。身の回りに日々起きる事柄でのロジックであり「私・神・現象・楽しい感情・思い違いはなぜ起こるのか・自由意志・運命・・」等々です。そしてこれらは一応解決しました。同時にこれらは、人に説明して賛同を得るためではなく、単に私が納得できれば良いものですね。例えばですが・・

    No18680
    > 「存在」が無定義概念だと言ったのは,
    > 「存在とは何ぞや」の答えとして,「存在とは〜」という定義はない,ということを念頭に置いていたのでそう言ったんですが,存在命題としての意味は定まっています。
    > テクニカルな定義は措くと,さっきの説明と実質あまり変わらないんですが,
    > ちょっと異なる言い方をすると,基本の意味は経験命題としての場合で,「世界の中に〜のものが存在する」,(∃x[φx])ということです。

    論理記号で示されるの「世界の中に〜のものが存在する」,(∃x[φx])が、すでに理解不能なのですね。学問として学んでいない哲学で、当然、論理記号でも理解できません(笑)それと多分ですが「世界の中に〜のものが存在する」という意味の記号表記が、(∃x[φx])ですね。私としては、単純に「存在とは何ぞや」の答えとして「存在とは〜」というものがいただきたかったのですね。しかしここは無定義概念ですね。でも、それはそれで納得なのです。後は・・

    > それと、こだわってらっしゃる消滅ですが、今一つこだわりポイントがわからないんですけどね(笑)
    > 例えば、ある時点区間t(0≦t<5)において、視空間上のある地点には赤い光が存在せず、5≦t<10 の区間には存在し、10≦tの区間に存在しないのであれば、赤い光は時点5において現象し、時点10において消滅した、ということになるでしょう。
    > これでは、納得できないですかね?(笑)

    特段拘ってはいないのですが、可能ならば教われるかな?という気持ちからでしたが、お書きいただいたことは理解できますし、このような説明になること自体は間違いではないのです。私の場合でも人に説明する場合には、このように説明すると思いますので。私の中の問題としては、例えば、0と1というところですかね。

    どの時点をもって0とするのか?どの時点をもって1とするのか?なのですね。通常は考えないと思いますので、おかしいでしょ?(笑)

    例えばですが、現象としての鳥が生まれて(0)から死ぬ(1)までを想像すると・・・

    卵が生まれた時なのか、卵は鳥ではありませんので、ヒナが生まれた瞬間にしましょう。とします。で、そのヒナはいつ生まれたのか?ですが、卵の殻をつついてひびが入った瞬間なのか?体全体がでた瞬間なのか?ヒナの足がカラから離れた瞬間なのか?では、もしも足がないヒナの場合は・・しかし、そのヒナはその生まれる直前もヒナのはずなので・・・なんて想像したりしていたのですね。これはどの地点を0とするのか?です。

    同じく鳥の死という瞬間もの同じことなのです。鳥の死の定義は、何なのか?なのです。これはどの地点を1とするのか?です。

    ですので、例えば、ある時点区間t(0≦t<5)においてと書いていただいた場合に、もちろん表現されているものの理解はできるんです。しかし感性的に完全納得には至っていないんですね。何を土台としているのだろうか?と。(笑)

    > >というところです。私の結論は、このフィルム上にも変化はあると捉えます。しかし実際にはそのフィルム上での変化は認識できないだろうと思われます。(フィルムの場合、これ自体の劣化消滅までの時間的な経緯を継続的に認識できないでしょう)きっとこの辺りが理解の分岐点のような気がしますし、経験命題での縛り(条件)だろうと思います。

    > ムムム…、ここはポイントがずれているのではないでしょうかね?
    > 私が問題にしているのは、スクリーンの動画映像として立ち現れている鳥の飛翔という事象の生成変化であり、フィルムの劣化は何の関係もないと思うんですが…

    返信していないところで申し訳ありませんが、ここのご指摘も投稿以前に十分に理解していました。すみません。

    > なので、コメントはけっこうです。もし、読まれて、ご面倒でなかったら、読んだ旨だけレスいただければ嬉しいです。

    無意味なコメントもつけてしまい、遅くなりましたが、拝読しました。
    わざわざコメントをしていただいて、ありがとうございます。
引用返信/返信 削除キー/
■18738 / inTopicNo.90)  時さんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/12(Fri) 17:11:20)
    時さん

    議論の終了後、議論をつらつら振り返りながら思い浮かんだことをいくつか、順不同で補遺として書きます。
    なので、コメントはけっこうです。もし、読まれて、ご面倒でなかったら、読んだ旨だけレスいただければ嬉しいです。

    *****************************
    No18682
    >後は、私自身が著書を読むのなら読んでの理解ですね。まずは読めよという突っ込みもなく(笑)

    これね、正直、時さんは読む必要ないんじゃないかと(笑)
    というのも、これ、ウルトラ私訳、スーパー意訳ですけど、『論考』の意図っていうのは、要するに、二値言語(科学言語・哲学言語)の分際を弁えさせることで、この言語で表現できることはこれだけわずかしかないんだ、そして真に重要な人生の意味、倫理・芸術・宗教についてはこの言語で表現できる外側なんだから、これらに口出しせず黙っとけ、ってことなんです(笑)
    で、ウィトゲンシュタイン本人はその外側の人間だからってことで、『論考』を書いた後、すっぱり一度哲学をやめちゃうんです。つまり、『論考』は、二値言語が重要と考える人たちに分際を弁えさせるために、その根拠を示そうとした書物なのです。
    とは言え皮肉なことに、『論考』を最も高く評価した論理実証主義者たちはほとんど科学主義者だったので、意図に関してはある意味真逆の解釈をしちゃったんです。二値言語で語れないことは無意味で科学じゃないんだから、それ以外は学問であるかのような顔をするな、って感じです。
    実際書かれた内容である論理的考察に関しては、彼らの解釈は大きく間違ってはいないと、私は思うんですけどね。

    というわけで、別に時さんは、読まなくてかまわないんじゃないかと思うんです(笑)
    それでも、もし読む気になられたとしたら、私としては丘沢訳より野矢訳をすすめます。
    *******************
    あと、これはメビリンでSumioBabaさんにも理解してもらえなかった問題です。

    >ここでご説明していただいている論理的真理としての「世界は存在する」というのが何を根拠にして論理的真理としているのかが理解できないのですね。

    こういった論理的真理が、
    (1) キーパーだけはボールを手に持ってよい(サッカーのルール)
    (2) 独身者は未婚である
    (3) 日曜日の次の日は月曜日である
    (4) 1mは100pである
    などといった文と同じく、何か世界の事実を根拠にした真理ではない、公理と同じくゲーム成立のための前提だ、ということを理解されたのであれば、なぜ上のような疑問を抱かれるのが、どうもわからない、というのが正直なところでした。
    しかし、ふと思ったのですが、時さんが私の考えている以上に哲学的な方であれば、一応哲学的には、もう少しきちんとしたというか、詰めた答え方はあるんです。的外れかもしれませんが(笑)
    それを念のために書きます。
    少なくとも二通りの答え方があると思います。
    @ 規約による真理
    A 意味による真理

    これ、どちらも説明要らないくらいかもしれませんが、一応します。
    @については、上の(1)を見れば明らかですが、これが正しいのは、「そのように取り決めたから」という答えです。
    (2)〜(3)も定義とみなせますので、要は規約によって正しいと決められたから真だ、ってことです。
    Aは、実質@と同じように思われるかもしれませんけど、分けたほうがいいんです。
    まあ(2)が一番わかりやすいかもしれませんが、「独身者」という概念の意味に、「未婚」という意味が含まれている、ってことです。他の場合も、同様にとらえるわけです。

    この@の「規約による真理」というのは、何度か出ている論理実証主義が『論考』の影響を受けて、数学的真理、および論理学的真理を、科学の経験的真理と区別してそのように特徴づけたものです。
    これ、実は、後にクワインという哲学者によって批判され、間違いってことになってます。
    で、Aの考え方は、むしろカントなんかのより古い考え方で、私自身は、『論考』のウィトゲンシュタインの考えはこっちじゃないかと思っています。本人は、はっきりとは言ってないと思いますが。前のレスで、恒真命題を、意味の論理計算に基づいて真理が確定する命題、みたいに説明したと思うんですが、あれです。

    **********************
    とりあえず以上です。

    では。

引用返信/返信 削除キー/
■18730 / inTopicNo.91)  おくたがわさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/12(Fri) 12:44:20)
    おくたがわさん

    お気遣い、痛み入ります。
    では、大急ぎで書けるだけ書きます。。


    >少し温度差があるように思うのですが、私はウィトゲンシュタイン(?)の「世界に私は含まれない」と「私は私の世界である」が命題だとしたら論理的には問題が生じると考えただけなので、ザビビのふくろうさんが問題は生じないという説明を書かれたのでしたら投稿をぜひお願いします。もし破棄された場合も、上述の点に絞って書いていただけるとありがたいです。相手が理解できるかどうか考えすぎずに、ウィトゲンシュタインのように、分かる誰かを想定して書かれると気分的に楽なのではないでしょうか。

    No18528

    「私は私の世界である」の「私」を含むNo18528で私が引用した諸命題に登場する「私」は、いずれも形而上学的主体を意味するものですので、言うまでもなく「経験命題」ではありません。
    「世界に私は含まれない」の「私」も形而上学的主体を意味するものとする限り、この命題も当然、経験命題ではありません。
    これらはすべて、本来示されるべきことを述べた文であり、それゆえ経験的内容を欠く、しいて言うなら形而上学的命題と呼ぶべきものだと思います。

    今書いた点については、おくたがわさんも同様のように理解されているのではないでしょうか?
    だとしたら、それはそれでいいと思います。

    それより問題は、No18691の最初に書かれた議論にありました。
    正直、あれは論理的にはまともなものとは言えないんです。
    前件が偽な条件命題は真であるということをご存知なので、論理学をかじられたことはあるのかもしれませんが、残念ながら、そもそも表現があいまいすぎて、簡潔に書くとしても、論証に最低限必要な形式がきちんと示されていないんです。
    私がなんとか推測したのは、次です。(間違っていたら、その原因は、あなたの書き方が曖昧過ぎる、ミスリーディングだということです。)
    (1) 私は世界に含まれない ならば 私は世界である
    (2) 私は世界に含まれない ならば 私は団子である
    (3) 私は世界に含まれない ならば 私は数式である
    このような条件命題で、前件が偽なら、(1)〜(3)は後件がどんな命題であっても真だから、「私は世界である」の真偽に何も関係ないし、意味がないのでは?と言いたいのでは、と解釈しました。
    しかし、最後の「つまり、意味がないのではないか」というのは、何が意味がないのか、はっきりわかりません。また、「だったら」というのも、なぜ「だったら」なのかわかりません。「私は私の世界である」は上の議論に含まれていませんし、論理的関係が明示されていませんから。
    しかも「私は世界に含まれない」を、この議論では、あなたは偽な命題と前提されているようですが、『論考』ではこれは正しいとされています。
    しかも、(1)自体を、ウィトゲンシュタインは主張していません。あなたが勝手に述べた文であって、これをもとに意味がない、というのは無理があります。
    また、細かいことを言うと、「私は団子である」も「私は数式である」も真の可能性がない無意味な疑似命題で、例文として不適切です。

    時間がないので、ダーッと一気に書きましたが、まあ、昨夜書いたのもこんなもんです。
    表現としては、これでも昨夜のものよりかなりやさしめです(笑)

    >なお私は議論を長引かせるタイプではないので、そのような点でご迷惑をおかけすることもないでしょう。

    すみません。
    私が議論を長引かせるタイプなので困るんです(笑)

    あとひとつ。
    どっちにしたって、私はどこの馬の骨ともわからぬ奴にすぎません。
    信用する必要もないし、何を言われても気にする必要もありません。

    では。

引用返信/返信 削除キー/
■18726 / inTopicNo.92)  Re[5]: ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ おくたがわ -(2021/11/12(Fri) 11:10:01)
    2021/11/12(Fri) 12:39:53 編集(投稿者)

    No18719に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    こんにちは。返信ありがとうございます。
    長い返信をすでに書かれたことは書かれたんですよね。ありがとうございました。
    破棄していない場合は投稿していただけないでしょうか。
    読み始めたばかりのウィトゲンシュタインを理解できないくらいのことで傷つきませんので。そこまで思い上がった人間ではありません。
    また掲示板投稿は公開ですから、理解できる人が見ている可能性があります。外から検索でたどり着く人もいるでしょう。資料として過去ログに蓄積されれば知的な財産となります。いつか私が理解して読む場面もあるかもしれません。
    なお私は議論を長引かせるタイプではないので、そのような点でご迷惑をおかけすることもないでしょう。
    どうぞよろしくお願いいたします。

    編集追記:
    >『論考』理解に真剣に取り組んでおられること、私の文章を読み、真摯な態度で質問いただいたことはよくわかっています。
    >て、No18528を理解してもらうのは

    少し温度差があるように思うのですが、私はウィトゲンシュタイン(?)の「私は世界に含まれない」と「私は私の世界である」が命題だとしたら論理的には問題が生じると考え、しかしウィトが単純であからさまなミスをするはずはないだろうから、辻褄の合う解釈ができるのだろう。そう考えてザビビのふくろうさんに質問させていただきました。問題は生じないという説明を書かれたのでしたら投稿をぜひお願いします。もし破棄された場合も、上述の点に絞って書いていただけるとありがたいです。相手が理解できるかどうか考えすぎずに、ウィトゲンシュタインのように(?)、分かる誰かを想定して書いていただけると気分的に楽なのではないでしょうか。

引用返信/返信 削除キー/
■18719 / inTopicNo.93)  おくたがわさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/12(Fri) 00:30:03)
    おくたがわさん
    こんばんは。レスをどうもです。

    >私の「何者」という表現がまずかったため、お手数をおかけしてしまったと思います。もうしわけありませんでした。
    >以下のようなことを考えていたのです。
    >「私は世界に含まれない」が真であるとき、「私は世界である」が命題であるなら、それは常に真。しかしその場合「私は団子である」「私は数式である」などなど右辺が何であっても真(左辺が必ず偽なので)。つまり意味がないのではないか。
    とするとウィトゲンシュタインの書いた「私は私の世界である」は何であるのか。

    >ところが、さっき気づいたのは、

    >5.62 〜独我論が言わんとすることは、全く正しい。しかしそれは語られることではなく、おのずから示されることなのである。

    >つまり命題でなく=語られることでなく、示されたものを一般言語で表現した。
    ということなのでしょうか。

    >未だ私の誤解がありましたらご指摘お願いいたします。

    実は、上記レスを細かく検討して、けっこう長い返信を用意したんです。
    が、読み返してみて、結局理解してもらうのは難しいのじゃないか、
    結果、おくたがわさんに不快な思いさせてしまう、あるいは傷つけてしまうんじゃないかという思いがしてならないんです。
    おくたがわさんが『論考』理解に真剣に取り組んでおられること、私の文章を読み、真摯な態度で質問いただいたことはよくわかっています。
    しかし、結論だけで申し訳ないんですが、今のおくたがわさんの予備知識や読み込み方から考えて、No18528を理解してもらうのは無理があるように思います。
    あの文章は、PN氏がかなり勉強されているようだと思い、かなりの読み込み、予備知識を前提して、ものすごく簡略化して述べたものです。
    これを、初学者(失礼m(__)m)の方にわかってもらうように説明するのは、とうていこのような場では無理と思わざるを得ないのです。
    なので、やはり今回書いた文章の投稿は控えたほうがよいと結論しました。
    おそらく、このレス自体、よい気分のものではないと思いますが、ご容赦ください。
    せっかく読んでレスいただいたのに、申し訳ありません。

引用返信/返信 削除キー/
■18691 / inTopicNo.94)  Re[3]: ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ おくたがわ -(2021/11/11(Thu) 13:50:45)
    No18640に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    こんにちは。返信ありがとうございます。
    私の「何者」という表現がまずかったため、お手数をおかけしてしまったと思います。もうしわけありませんでした。
    以下のようなことを考えていたのです。
    「私は世界に含まれない」が真であるとき、「私は世界である」が命題であるなら、それは常に真。しかしその場合「私は団子である」「私は数式である」などなど右辺が何であっても真(左辺が必ず偽なので)。つまり意味がないのではないか。
    とするとウィトゲンシュタインの書いた「私は私の世界である」は何であるのか。

    ところが、さっき気づいたのは、

    5.62 〜独我論が言わんとすることは、全く正しい。しかしそれは語られることではなく、おのずから示されることなのである。

    つまり命題でなく=語られることでなく、示されたものを一般言語で表現した。
    ということなのでしょうか。

    未だ私の誤解がありましたらご指摘お願いいたします。
引用返信/返信 削除キー/
■18682 / inTopicNo.95)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ 時 -(2021/11/11(Thu) 01:35:11)
    No18680 ザビビのふくろうさんへ

    > 時さん、
    > 久しぶりにお付き合いくださり、ありがとうございました。
    > こちらがきちんと説明したら、ちゃんと理解してもらえる相手と思っているので、ついつい話が長くなってしまいました。お疲れになったでしょう?(笑)
    > また突っ込みもいいのが来たので、私としてはひさびさに、けっこう深いところまで話ができて楽しかったです。疲れましたけど(笑)

    > では、また機会があれば、よろしくお願いします。

    後は、私自身が著書を読むのなら読んでの理解ですね。まずは読めよという突っ込みもなく(笑)ザビビのふくろうさん、こちらこそ久しぶりの長い会話をありがとうございました。

    正直少し疲れだしていましたが(笑)いずれにしても有意義な時間を過ごせたと感じています。

    ふくろうろうさんもお疲れが出ませんように。

    では、またいつかどこかでお付き合いいただければと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■18680 / inTopicNo.96)  時さんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/11(Thu) 01:10:15)
    時さん

    >事実=真なる経験命題・・・事実とは、その人物の実体験したことではないのかなぁなんて思っています。例えば、UFOを100人で観たというニュースが流れた場合に、その証明は今のところできていないと思いますが、その100人にとっては、UFOが飛んでいたのを見たというのは経験命題の真になるのではないのでしょうか(笑)これがもしも1000人、10000人単位での目撃ならば、それが80億人ならば・・・そしてこの中には哲学者も含まれます。なんて考えてしまいますね。要は、その境目が理解できないのです。理解不足も甚だしい頭での書き込みですので、ご容赦・スルーくださいませ。(笑)

    いいえ、これは時さんのせいではなく、ウィトゲンシュタインの責任です。
    書かれてないんです。
    ラフに言うと(ほんとは少しズレますが)、内容的には、『論考』を書いた当時、自分は論理学者だと思っていたので、これがどういうものかを決めるのは、自分の役割ではないと思っていた、みたいなことを弟子に言ったようです。なので、事態が何か、対象が何か、ということの解釈ゲームが未だになされ、定説はない、というのが実情です。

    >なるほどー、よくわかりません。(笑)分からないということがわかるという意味でです。
    >存在は無定義概念であり、かつ、解釈次第では「現象(表象)の立ち現われ(生成)」との捉え方も可能ならば、存在は「現象の生滅変化」=「無常」でも可能なようにしか今は思えません。もしかして「現象の生起」だけですかね?きっと、そのようなことはありませんね。生起したものは必ず滅尽しますので、生滅の変化で「無常」 ・・・しつこいですねw やはり存在の定義的なものがない(無定義概念)不安定な土台の上に成立しているようにしか今は理解が及びませんかね。

    あー,これはすみません。
    私の言い方が悪かったです。訂正します。
    「存在」が無定義概念だと言ったのは,
    「存在とは何ぞや」の答えとして,「存在とは〜」という定義はない,ということを念頭に置いていたのでそう言ったんですが,存在命題としての意味は定まっています。
    テクニカルな定義は措くと,さっきの説明と実質あまり変わらないんですが,
    ちょっと異なる言い方をすると,基本の意味は経験命題としての場合で,「世界の中に〜のものが存在する」,(∃x[φx])ということです。
    ところが,ある形式の論理的命題(一応書いておくと∃x[φx∨¬φx])に登場すると,
    「〜の(性質をもった)ものが存在する」という意味ではなく,「何らかのものが存在する」という意味になり,これは要するに,「世界は空ではない」ということを意味するんです。また,2階表現を用いると∃ψ[ψ∨¬ψ]という式で,「何らかの事実が存在する」ということを意味します。
    これらを前に述べた,私の視覚世界を記述する言語としますと,「少なくとも一つ何かが見える」「少なくとも一つ,何か視覚事象が存在する」ということになるわけです。
    これらは視覚世界が存在する,と同等です。

    それと、こだわってらっしゃる消滅ですが、今一つこだわりポイントがわからないんですけどね(笑)
    例えば、ある時点区間t(0≦t<5)において、視空間上のある地点には赤い光が存在せず、5≦t<10 の区間には存在し、10≦tの区間に存在しないのであれば、赤い光は時点5において現象し、時点10において消滅した、ということになるでしょう。
    これでは、納得できないですかね?(笑)

    >はい。世界は存在するというのが論理的真理とするならば、ニュアンス的にそれを自明の真理とするのではないのでしょうか?論理的真理で「世界は存在する」というのを前提とするということですよね?

    う〜ん、これは世界についての自明の真理を語る命題ではなく、「キーパーだけがボールを持てる」とか、「独身者は未婚である」などと同じような自明の真理である、ということですが、よろしいんでしょうかね?

    >はい。うーん、問題ないはずですが。私の認識が違っているのでしょうか?言語ゲームの前提として一切が無ならば語ることは不可能なので、語れる以上、世界は存在するを前提とします。そしてその世界は存在するを論理的真理として言語ゲームの土台に据えます。論理的真理という地名の「世界は存在する」というフィールド上で、言語というボールを使用したゲームをするというイメージなのですが。この意味で、世界の存在は言語の前提だということですね?

    はい、これはこれでいいと思うんですが…。
    問題は、
    >ここでご説明していただいている論理的真理としての「世界は存在する」というのが何を根拠にして論理的真理としているのかが理解できないのですね。

    という疑問が解消したかどうか?です。解消していればOKです。
    でなければ、……やっぱり大事なところの理解がまだ得られていないと言わざるを得ないと思います。

    >うーん。。「生成変化」とは,「同一のものの生成変化である」・・同一のもの・・一切は無常ゆえに、このような”もの”があるのでしょうか?と考えてしまうわけです(笑)

    一切は無常=すべてのものごとは無常

    ではありませんかね?

    >というところです。私の結論は、このフィルム上にも変化はあると捉えます。しかし実際にはそのフィルム上での変化は認識できないだろうと思われます。(フィルムの場合、これ自体の劣化消滅までの時間的な経緯を継続的に認識できないでしょう)きっとこの辺りが理解の分岐点のような気がしますし、経験命題での縛り(条件)だろうと思います。

    ムムム…、ここはポイントがずれているのではないでしょうかね?
    私が問題にしているのは、スクリーンの動画映像として立ち現れている鳥の飛翔という事象の生成変化であり、フィルムの劣化は何の関係もないと思うんですが…

    > >「世界が私の表象であるなら、当然、私は世界である、ということになる」というのは、理解できそうですが、しかしここでの「私は世界である」は、誰の言葉なのでしょうか?(笑)
    > >世界が私の表象であるならば、私は世界であるので、その私は何も語れないのではないでしょうか?
    > >この場合語っているのは、常住的な私(語りうる私)ですね。

    > 「>世界が私の表象であるならば、私は世界であるので、その私は何も語れないのではないでしょうか?」
    > というのはどうしてでしょうか?

    >語ってしまった瞬間に「語りうる私」が立ち現れるからだという理解だったからですが、ん?ウィトゲンシュタインの言う「語りえぬもの」とは、経験命題以外ということで、語りうるのは経験命題のみですね?つまりは、語りうるものは二値での真偽判定が可能なものであり、語りえないものとは、それ以外の論理的命題になるということでしょう。ですので多分ですが論考においては、論理的命題は排除されているという理解です。

    >この場合語っているのは、常住的な私(語りうる私)ですね。

    >> そうではないんです。
    >> 例えば、
    >> 私は語る
    >> =私は言葉を語る
    >> として、これを、次と類比してみてください。
    >> 稲妻は閃光を放つ
    >> 言葉もまた、私の表象なのです。
    >> つまり、
    >> 私は私の言葉である
    >> ということです。

    >私が見た稲妻が閃光を放ちました。
    >私が見た稲妻が閃光を放ちました。と私は語りました。
    >つまりは、私も私の言葉である。

    >ん?私とは表徴である。では? 却下ですね?(笑)
    >言葉も、私の表象であり、それも又、言葉である。と。
    >詰めれば当たり前に「言葉」になるということでしょう。で、「私は言葉である」とのザビビのふくろうさんの解釈により「私は私の言葉である。」との結論に至るとの私の理解です。
    >視点を変化させてみると「私は私の言葉である」と当たり前に見る(解釈する)ことは可能なようですね。

    このあたりのレスを読むと、かなり誤解があるようです。
    まずは私のミスが原因としてもあるようですが。
    ちょっと話がそれますが、時さんと話していて面白いのは、これだけ着いてきてくれているから大丈夫だろうと思って、ちょっと理路を省略したり、私が路をついそれたりしたら、必ずはぐれる、ってことです(笑)
    で、ここで私の「語る」という言葉の使い方が、正確さを欠いたのでミスリードしてしまったことがひとつありますね。すみません。
    ただ、誤解と言いましたが、時さんがどう受け取られたかについては、ちゃんとは理解できないのでとりあえず措き、再度、説明しておきます。
    くどく感じられるだけかもしれませんが、申し訳ありません。

    まず、言葉遣いについてですが、これはウィトゲンシュタインの表現自体、普通に考えたらいろいろ問題があるので、こちらが整合的に意図を解釈する必要があると思います。本来言おうとしていることはそんな難しくなくても、「語る」「話す」「言う」
    述べる」「主張する」「記述する」「描写する」といった似たような概念がありますので、ややこしいんですね。
    なので、訳語としてはこれも問題ありなんですが、以下では便宜的に、「語る」は当初通り「命題」を語る場合に用いて、「言う」は普通の言葉として、語るのかわりに用いてもいいし、上記の他の語の代わりに用いてもいいこととします。

    >>「「>世界が私の表象であるならば、私は世界であるので、その私は何も語れないのではないでしょうか?」
    >> というのはどうしてでしょうか?

    >語ってしまった瞬間に「語りうる私」が立ち現れるからだという理解だったからですが、ん?ウィトゲンシュタインの言う「語りえぬもの」とは、経験命題以外ということで、語りうるのは経験命題のみですね?つまりは、語りうるものは二値での真偽判定が可能なものであり、語りえないものとは、それ以外の論理的命題になるということでしょう。ですので多分ですが論考においては、論理的命題は排除されているという理解です。

    ここ、あくまできちんと「語る」を術語として理解していらっしゃることから、逆にわかりにくくなっているかと思います。
    あんまりここは難しくなく、経験命題を語ろうと、「世界は存在する」と言おうと、私の言葉の現象であると、とりあえず受け取っていただければOKなんです。
    そして、この私の言葉の現象というのは、「射手が弓をはなつ」からイメージされるような、ある主体(実体)が、別の対象に何かした、というものではなく、
    稲妻の閃光という夜空における現象と類比的に、それは私の世界(表象世界、生)において立ち現れたただ一つの現象(私の表象)であり、そこに言葉を言う主体(実体)としての私などない、ということです。
    つまり、思考も、知覚も、言葉も、みんな形而上学的主体としての私の表象ということ。
    その意味で、私は私の思考であり、私は私の知覚であり、私は私の言葉である、というわけです。

    まあ、とりあえず以上にしておきます。
    これで理解を得られないなら、理解を阻む、何等かの理由があるでしょうし、それが私に原因があろうと時さんにあろうと、あまり関係ないでしょう。

    私としては、ここまで話ができたことだけでもなかなか稀有のことですし、よかったです。ありがとうございました。


    >時として宗教哲学や仏教哲学といった表現を目にしたりするのですが、特に哲学の世界でいう「仏教哲学」とは、どのような内容を指しているのでしょうか?大まかにでも簡単にでも教えていただければ幸いです。というのも、私にとっての仏教は、哲学ではないのですね。単なる思想の一つなのです。

    申し訳ないんですが、これに回答する適任者は、少なくとも私ではありません。
    というか、そういった分野の本を読まれたら、一番早い気が…(笑)
    ********************
    時さん、
    久しぶりにお付き合いくださり、ありがとうございました。
    こちらがきちんと説明したら、ちゃんと理解してもらえる相手と思っているので、ついつい話が長くなってしまいました。お疲れになったでしょう?(笑)
    また突っ込みもいいのが来たので、私としてはひさびさに、けっこう深いところまで話ができて楽しかったです。疲れましたけど(笑)

    では、また機会があれば、よろしくお願いします。

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