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■22926 / inTopicNo.37)  エイプリル うましかさんへ
  
□投稿者/ パニチェ -(2022/04/28(Thu) 22:38:17)
    No22923に返信(エイプリル うましかさんの記事)

    > >ユダヤ・キリスト教的な善悪二元論とか西洋的な善悪デジタル思考より、東洋的というか、さらに言えば日本で完成された大乗仏教的な教説のひとつ唯識思想にある善、悪、無記(有覆無記、無覆無記)の方が世界平和に有益だということです。
    >
    > わー
    > しまった!
    > 本日帰宅後、 No.22888 をせっせと編集・追記しているあいだに、パニチェさんから返信をいただいておりましたm(__)m
    > 私は仏教的な知識が皆無なので、パニチェさんの解説は課題としてとてもありがたいです。
    > というわけで、私の不味い追記はスルーしてくださいませ(´;ω;`)ウゥゥ

    全然、大丈夫ですし、むしろ補足の機会をいただきましたので以下に返信させてもらいます。


    No22888に返信(エイプリル うましかさんの記事)
    > ところで、

    > >生まれたばかりで飢え死にする子、監禁され輪姦されたあげくに惨殺された少女
    > >不慮の事故で命を落とした人たち、戦争や紛争の犠牲者などなど

    > これらの例(事実)をあげ「彼らの人生に意味や価値などない」とする主張を目にするとき、私にはその主張の奥に、彼らの生をそうした状況に貶めたものに対するのと共に、彼らのそうした状況にすら意味や価値を付与しようとするものに対する、或る種の「憎悪」を感じてしまうのです。

    > それはもしかしたら、あたえられた事実に、より高次の意味付けや価値付けをしようとするものに対する懐疑が根底にあるのではないか、ところでその懐疑はなにゆえ行われるのか、、、
    > うましかはそんなことをおもうのでした(;´・ω・)底だとおもったら未だだった沼

    彼らの人生に意味や価値がなかったというのは少し先の投稿とは論旨が違います。
    よく耳にする「人生で起きること全てに意味や価値がある」という私からすれば綺麗ごと(十悪の綺語)は「当人にとって当人の人生で起きること全てにプラスの意味や価値がある」という意味で用いられています。

    この文脈で「生まれたばかりで飢え死にする子は飢え死にした子にとってその出来事には意味や価値がない」ということであり、同様に当人にとって「監禁され輪姦されたあげくに惨殺されたこと」や「不慮の事故」「戦争や紛争で犠牲となったこと」にプラスの意味や価値などないということであって、彼らの人生に意味や価値がないということではありません。

    乳幼児はともかく、彼らの人生に意味や価値を見出しているかどうかは当人たちの問題であり、私たちがラベリングできるものではないと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■22924 / inTopicNo.38)  Re[37]: リアリズム
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/04/28(Thu) 21:26:45)
    パニチェさん
    こんばんは。

    一読して,やっぱり根本的に立場が違うな,という印象ですね。
    まあ,いわば世界解釈の枠組みの公理系が異なるようなものなんで,ここで少しぐらいゴチャゴチャ言っても仕方ないでしょう。
    なので,あとは蛇足かもしれませんが,ちょっとニーチェ絡みの感想だけ。

    >『自明なことであるが、──私が愚か者でないとすれば──、非倫理的と呼ばれる多くの行為は避けられるべきであり、克服されるべきであるということを、私は否定しない。同様に、倫理的と呼ばれる多くの行為は実践されるべきものであり、促進されるべきであるということを私は否定しない。──しかし前者も後者も、これまでとは別な理由からであると私は考える。われわれは学び直さなければならない。──結局おそらく極めて後のことかもしれないが、さらにそれ以上に到達するために、感じ直すために。(曙光103)』

    >『あらゆる時代の善人とは、古い思想の土を掘り起こし、それで収穫をあげる人間であり、精神の土百姓である。しかしついにはあらゆる土地が利用しつくされる、かくてくりかえし悪の犂頭が到来しなければならなくなる。──こんにちでは、とくにイギリスで名声嘖々たる道徳の根本誤謬があらわれている。それによると「善」と「悪」という判断は「目的に適う」と「目的に適わない」ということについての諸経験の蓄積の結果である。それによれば、善と呼ばれるものは種属を維持するもののことであるし、悪と称されるものは種属に有害なもののことである。だが実際には、悪の諸衝動は善のそれらとそっくり同様に高度に合目的のものであり、種属を維持するもの不可欠のものである、──違うのはそれらの機能の点だけである。(悦ばしき知識 第3番)』

    >上記のニーチェのアフォリズムはニーチェを読む以前から私も同じようなことを考えていました。
    >自分の考えていたことをスパッと表現してくれたのがニーチェとも言えます。


    ニーチェの思想は,キリスト教的神がもとからいない日本では「神の死」と言われても何ら大した問題ではなく,とりわけ哲学体質の反抗的若者にとっては,親,学校,社会etc.といった自分を抑圧・緊縛するものからの解放を正当化・後押ししてくれるから,けっこうヤラレル人は多いですよね。
    ナルシズムも充たしてくれて,ルサンチマンで自分の痛いところを抉られるのも意外によかったりして(笑)
    だから閉塞感が時代の気分であった80年代に流行したポストモダン思想のカリスマであったのも分かる気がします。自由への逃走って感じでしょうか。
    哲学は若者が一時的にかかるハシカみたいなものだというイメージがあるようですが,
    上の意味でニーチェはその代表かも。今となっては80年代のポストモダン思想の流行そのものが,ハシカの流行みたいなものだった感もありますしね。

    まあ,私はニーチェを読み込んだわけでもないし,ウィトゲンシュタインにヤラレタせいか、ニーチェ・ウィルスの感染者をちょっと意地悪くというか、冷めた目で見ていたので、ニーチェファンにはたぶん鼻につく感想になってしまいましたね。すみませんm(__)m

引用返信/返信 削除キー/
■22923 / inTopicNo.39)  パニチェさんへ
□投稿者/ エイプリル うましか -(2022/04/28(Thu) 21:25:13)
    2022/04/28(Thu) 21:27:18 編集(投稿者)

    こんばんはー(/・ω・)/

    >ユダヤ・キリスト教的な善悪二元論とか西洋的な善悪デジタル思考より、東洋的というか、さらに言えば日本で完成された大乗仏教的な教説のひとつ唯識思想にある善、悪、無記(有覆無記、無覆無記)の方が世界平和に有益だということです。

    わー

    しまった!

    本日帰宅後、 No.22888 をせっせと編集・追記しているあいだに、パニチェさんから返信をいただいておりましたm(__)m

    私は仏教的な知識が皆無なので、パニチェさんの解説は課題としてとてもありがたいです。

    というわけで、私の不味い追記はスルーしてくださいませ(´;ω;`)ウゥゥ
引用返信/返信 削除キー/
■22922 / inTopicNo.40)  Re[37]: 信じられるもの
□投稿者/ パニチェ -(2022/04/28(Thu) 20:57:16)
    こんばんは、悪魔ちゃん。
    レスありがとうございます。
    以下も勝手気ままに返信させてもらいます。

    No22900に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > 神は死んだ
    > 信じられるものが死んだ。
    > じゃあ、何を信じればいいの。

    何を信じるかは人それぞれだとは思いますが、私は私自身ですね。
    自洲・法洲(自灯明・法灯明)です。

    その前に悪魔ちゃんにとって神って本当に信じれるものなんですか?

    > で、信んじられるものの矛先はどこにむけられるのかしら?
    > 「信じられるものは存在しない」ってなったら、どうなるのかしら?

    それでも生きていけるなら信じられるものが存在しなくてもいいんだと思います。

    > 存在してる時空に意味があるんであって、死んじゃったら意味が無くなるんじゃないかしら?

    時空に意味があるのではなくて己の脳内で意味を創出してるのだと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■22921 / inTopicNo.41)  善、悪、無記(有覆無記、無覆無記)
□投稿者/ パニチェ -(2022/04/28(Thu) 20:50:05)
    こんばんは、エイプリル うましかさん。
    レスありがとうございます。

    No22888に返信(エイプリル うましかさんの記事)
    > *******
    >
    > No.22885 (パニチェさん)
    >
    > >戦場で軍人を突き動かすもの
    > >おそらく今も昔も国家への忠誠心や上官からの命令を上回るほどの敵に対する憎しみ。
    >
    > No.22884 (パニチェさん)
    >
    > >生まれたばかりで飢え死にする子、監禁され輪姦されたあげくに惨殺された少女
    > >不慮の事故で命を落とした人たち、戦争や紛争の犠牲者などなど
    > >これらの人たちに起こったことも必然であり全てに意味や価値があるというのか?
    > >人生で起きることに意味や価値などないし、人生自体にも意味や価値などない
    >
    > *******
    >
    > こんな研究があったのでメモ。
    > ●「うらみ」研究の概観と今後の課題
    > https://www.p.u-tokyo.ac.jp/shimoyama/08kaken/pdfs/2017/p53.pdf

    興味深い研究ですね。

    > -------
    >
    > 戦争を開始する動機はいろいろあるかもしれませんが、戦争を続ける大きな原因は、パニチェさんがいうように「憎しみ」なのかもしれません。

    > 渦中にある人間の心理は想像を絶するものとおもいますが、もし自分が当事者(もちろん殺し合いの、です。)であれば、そこで自分や他者(もちろん、"敵"、「憎しみ」の対象も含めて)の生きる意味、生きている意味や価値について考えるのか、考えるとすれば、どんなことをおもうのか、、、

    以下、返信にはならないかもしれませんがNo.22885No.22884で言いたかったことは。。。。
    ユダヤ・キリスト教的な善悪二元論とか西洋的な善悪デジタル思考より、東洋的というか、さらに言えば日本で完成された大乗仏教的な教説のひとつ唯識思想にある善、悪、無記(有覆無記、無覆無記)の方が世界平和に有益だということです。

    善悪は白黒ではなくグラデーション的なものであり、ある行為や感情の是非は煩悩の汚れの度合いによって決まる。
    代表的なものとして三毒(貧欲・瞋恚・愚癡)や四煩悩(我癡、我見、我慢、我愛)があります。

    どのような紛争や戦争であろうと双方ともに正義や大義がある。
    見取見(十根本煩悩のひとつ、自分の考えや自分の見解を絶対視し固執すること)という教説を知っていれば煩悩塗れである局所的な正義や大義を自覚できるかもしれない。
    仏教的な倫理観が世界のスタンダードになれば少なくとも今よりマシな世界にはなるような気がします。

    > 朝からつらい気持ちになりました( ノД`)シクシク…

    ごめんなさい。^^;

引用返信/返信 削除キー/
■22909 / inTopicNo.42)  Re[36]: リアリズム
□投稿者/ パニチェ -(2022/04/27(Wed) 22:22:37)
    2022/04/27(Wed) 22:52:26 編集(投稿者)

    こんばんは、ザビビのふくろうさん。
    レスありがとうございます。
    以下は都合レスというかレス付けたいところだけレス&引用してみます。

    No22898に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > 例えば,歴史的建造物,遺跡を故意に破損・破壊する者に対して,私たちは憤りを覚える場合がありますよね。
    > それは,その歴史遺産に価値がある,ということが前提になっています。
    > 何の価値もないものを壊したって,普通は憤らないでしょう。
    > その対象に対して価値,存在意義を認めているからこそ,それを故意に傷つけたり破壊するという行為に対して憤りを覚えるわけであり,その行為は「為してはならぬこと」という必然的意味をもつわけです。
    > 言いかえると,破壊行為が「なしてはならぬこと」である根拠が,その対象の存在意義である,ということ。

    > 同様にと言うべきかそれ以上にと言うべきか,いずれにせよ,パニチェさんが言うように,この現実世界においては不条理と言いたくなる悲惨な出来事というのは数多く存在します。
    > 特に,純粋無垢な幼児の命が無慈悲に奪われたりすると,それを正当化するいかなる理由・根拠もありえないと我々は感じます。こういったことをもって神などいようはずがない,というようなことはよく言われることです。少なくとも感情的には,それに共感する人も多いのではないでしょうか。

    > しかしながら,なぜ私たちはそこに憤りを覚えるのでしょうか?
    > 先に述べたように,その幼児という存在が存在することの意味,尊厳を前提しているからこそではないでしょうか。
    > もし,幼児,あるいは人の存在に何の意味も価値もないのであれば,その命を奪ってはならないなどとは言えない,というのが素直な理屈というものではないでしょうか?
    > その生命は,「奪ってはならないもの」という必然的意味を有するものであるからこそ,その行為は「悪」という倫理的意味をもつのではないでしょうか。

    遠近法的な価値基準というのはある意味共通していると思います。
    要するに自分に近しいものほど、あるいは対象に感情を移入するほど愛おしく価値が大であるということ。
    言い換えれば対象と自分との心理的な距離感による。早い話が自己愛(我愛)の変形です。
    カルガモ親子の道路横断を警察まで出動して安全を確保する。それがニュースにもなり、その映像を微笑みながら眺める一方で、何の躊躇もなく昼食で鴨南蛮をパクつく(笑)。

    人間の創出する善悪なんてものは人間という種族の維持、継続、発展に適うか適わないかの基準によってでっち上げられている。
    食人のための殺人は悪ではあるが、豚や牛や魚を食べるために殺すことの是非を問うことはほとんどない。
    極論すれば善玉菌と悪玉菌のラベリングがそのまま人間の善悪基準と同じ。

    > 現実の生世界において,不条理は存在します。
    > いやむしろ,カミュが描き出したように,現実世界は不条理である,と言ってもよいでしょう。
    > しかし,だとしてもこの事実は,生世界に意味がないことを帰結しないと私は考えます。
    > 例えば,社会における言語ゲーム,その現実のプレイ=言語実践では,言葉の非論理的使用(不条理な言語行為)が存在し,ゲームを無意味化してしまうことは実際にあります。
    > とは言え,そのことから言語そのものが無意味であることが帰結しないのも事実でしょう。非論理的言語活動は,有意味な言語を前提とするのです。
    > つまり,そもそも不条理の認識は,条理の存在を前提しているのではないか,ということです。
    > すなわち,条理なきところに不条理なし,ということ。

    条理や不条理も所詮人間が自分にとって都合がよい都合が悪いという価値観でもって創出した概念でしょう。
    これらを否定するつもりはありませんが、そういうものであることを自覚することはむしろ重要だと私には思えます。


    > ******************************
    > ニーチェは「神は死んだ」と言った。
    > とりわけ日本人にとって,この言葉の意味は,たぶん理解するのが相当に難しい。
    > 西洋的・キリスト教的な神を,もともと日本人はもっていなかったから。
    > すなわち,生=世界の意味の絶対的根拠としての神の死。
    > だから,私はずっと,この言葉は少なくとも,ドストエフスキーの次の言葉とセットで意味を考えられるべきだと思ってきた。
    > 「神が存在しないなら,すべてが許される」
    > そもそも,人の存在に,生に意味がないのであれば,それを奪ってはならない,ということは言えないはずだ。
    > それを悪とする絶対的根拠(神)が存在しないなら,そこに絶対的当為は存在しない。

    神からトップダウンで与えられたような普遍的な価値などないということでしょう。
    とりわけ生の価値や目的を最後の審判としたり、生に原罪を背負わすなど馬鹿げており、そんなものは神の死とともに消え失せる。
    神の死ととにも訪れるのが「何のために」という目的が喪失したニヒリズムであり、この克服こそ人間の超克に他ならない。
    世界や生は解釈の数だけ意味や価値が創出されるということ。

    > だったら,はく奪者にとって,被はく奪者の存在意味は,自分に奪われることにおいてのみ存在する。そう考えることに何の不都合があるだろう?(ラスコリニコフ問題?)
    > 生=世界に超越的・絶対的意味が存在せず,その意味,根拠が主観の裡にしか存在しないのであれば,すべての意味・価値の根拠は,畢竟人間主体の〈欲望〉に帰着するほかはない(欲望論的世界観)のだから。
    > そしてそれは,あらゆる意味・価値が,「誰か(たち)にとっての価値」,すなわち相対的価値(誰か(たち)の欲望依存)にすぎないということを意味するだろう。
    > いわば,「正義とは,それぞれの正義である」。(アメリカの正義,EUの正義…etc.)
    > とすれば,超越論的規範(絶対的当為)としての人倫は存在せず,道徳とは,原理的にはせいぜいある共同体において承認され受け入れられたルールでしかない。
    > 当然,その共同体外部に置いては無意味ということになろう。
    > ラグビー選手にとって,サッカーのルールが無意味であるように。
    > 人は本当にこのような世界観を受け入れることができるのだろうか?

    『自明なことであるが、──私が愚か者でないとすれば──、非倫理的と呼ばれる多くの行為は避けられるべきであり、克服されるべきであるということを、私は否定しない。同様に、倫理的と呼ばれる多くの行為は実践されるべきものであり、促進されるべきであるということを私は否定しない。──しかし前者も後者も、これまでとは別な理由からであると私は考える。われわれは学び直さなければならない。──結局おそらく極めて後のことかもしれないが、さらにそれ以上に到達するために、感じ直すために。(曙光103)』

    『あらゆる時代の善人とは、古い思想の土を掘り起こし、それで収穫をあげる人間であり、精神の土百姓である。しかしついにはあらゆる土地が利用しつくされる、かくてくりかえし悪の犂頭が到来しなければならなくなる。──こんにちでは、とくにイギリスで名声嘖々たる道徳の根本誤謬があらわれている。それによると「善」と「悪」という判断は「目的に適う」と「目的に適わない」ということについての諸経験の蓄積の結果である。それによれば、善と呼ばれるものは種属を維持するもののことであるし、悪と称されるものは種属に有害なもののことである。だが実際には、悪の諸衝動は善のそれらとそっくり同様に高度に合目的のものであり、種属を維持するもの不可欠のものである、──違うのはそれらの機能の点だけである。(悦ばしき知識 第3番)』

    上記のニーチェのアフォリズムはニーチェを読む以前から私も同じようなことを考えていました。
    自分の考えていたことをスパッと表現してくれたのがニーチェとも言えます。

引用返信/返信 削除キー/
■22900 / inTopicNo.43)  Re[36]: 信じられるもの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/04/27(Wed) 19:48:49)
    神は死んだ
    信じられるものが死んだ。
    じゃあ、何を信じればいいの。
    で、信んじられるものの矛先はどこにむけられるのかしら?
    「信じられるものは存在しない」ってなったら、どうなるのかしら?

    存在してる時空に意味があるんであって、死んじゃったら意味が無くなるんじゃないかしら?
引用返信/返信 削除キー/
■22898 / inTopicNo.44)  Re[35]: リアリズム
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/04/27(Wed) 18:49:26)
    >パニチェさん
    こんばんは。

    No22884に返信(パニチェさんの記事)
    > 2022/04/26(Tue) 21:33:12 編集(投稿者)
    >
    > 人生で起こる出来事に偶然などない。すべては必然であり起こるべくして起こる。
    > これらには全て意味や価値があり、無意味なことなど何もない。。。。
    >
    > 。。。などという台詞は能天気な有神論者や己が成功者だと自惚れている人間が語る戯言や寝言や自慢話でしかない。
    >
    > 生まれたばかりで飢え死にする子、監禁され輪姦されたあげくに惨殺された少女
    > 不慮の事故で命を落とした人たち、戦争や紛争の犠牲者などなど
    >
    > これらの人たちに起こったことも必然であり全てに意味や価値があるというのか?
    > 人生で起きることに意味や価値などないし、人生自体にも意味や価値などない
    >
    > 神は死んだ。。。。
    >
    > 逆説的に言えば意味も価値もない無垢なるキャンパスだから
    > 言語的動物である人間どもは、そこに意味や価値を創出する特権を有しているということ
    > これがニーチェの主張であり、ニヒリズムこそ究極のリアリズムだろう。
    > 世界や人生に意味や価値を付与しうる創造者とは神仏などではなく己自身である。
    >
    >
    > 『唯識無境(外界とは自己が対象化されたもの)、万法不離識(すべての外界は見るものの心を離れない)』
    >
    > 『ニヒリズムとは何を意味するのか?──至高の諸価値がその価値を剥奪されるということ。目標が欠けている。「何のために?」への答えが欠けている。(ニーチェ「力への意志 第2番」より)』
    >
    > 釈尊の遺言『自洲・法洲(この世で自らを島(洲)とし自らを頼りにして他人を頼りとせず、法を島(洲)とし法を拠り所として他を拠り所とせずにあれ。)原始佛典『大般涅槃経』より」
    >
    ********************

    いつもパニチェさんに反対してばかりいるようで申しわけない気がしますし,また,こういったことは個人の世界観・人生観の問題でもあるので,反論ぽいことはあまり言わないほうがよいのではないかとも思います。
    なので迷ったのですが,しかし,今回のパニチェさんの見解で明らかに否定されている世界観・人生観に立つ者としては,やはりそれに対する弁明というか,自己正当化の議論だけでも提出したいと思い,投稿します。
    ******************

    私は特定の教義・教団宗教の信者ではありませんが,真・善・美を生=世界の超越的意味として,言いかえると絶対的当為の根拠として信仰する者と言ってもよいのではないかと自分では思っています。
    ま,簡単に言えば,“真善美を神とする信仰者”ってことです。
    例えば,私の世界観から言えば,芸術家はみんなヴィーナスの信者である,という感じです。その意味で,私は一応ミネルヴァの信者だと思っています。
    また、普通の意味での宗教的世界観も尊重しています。
    以下は,このような観点から見た感想ということになります。

    例えば,歴史的建造物,遺跡を故意に破損・破壊する者に対して,私たちは憤りを覚える場合がありますよね。
    それは,その歴史遺産に価値がある,ということが前提になっています。
    何の価値もないものを壊したって,普通は憤らないでしょう。
    その対象に対して価値,存在意義を認めているからこそ,それを故意に傷つけたり破壊するという行為に対して憤りを覚えるわけであり,その行為は「為してはならぬこと」という必然的意味をもつわけです。
    言いかえると,破壊行為が「なしてはならぬこと」である根拠が,その対象の存在意義である,ということ。

    同様にと言うべきかそれ以上にと言うべきか,いずれにせよ,パニチェさんが言うように,この現実世界においては不条理と言いたくなる悲惨な出来事というのは数多く存在します。
    特に,純粋無垢な幼児の命が無慈悲に奪われたりすると,それを正当化するいかなる理由・根拠もありえないと我々は感じます。こういったことをもって神などいようはずがない,というようなことはよく言われることです。少なくとも感情的には,それに共感する人も多いのではないでしょうか。
    しかしながら,なぜ私たちはそこに憤りを覚えるのでしょうか?
    先に述べたように,その幼児という存在が存在することの意味,尊厳を前提しているからこそではないでしょうか。
    もし,幼児,あるいは人の存在に何の意味も価値もないのであれば,その命を奪ってはならないなどとは言えない,というのが素直な理屈というものではないでしょうか?
    その生命は,「奪ってはならないもの」という必然的意味を有するものであるからこそ,その行為は「悪」という倫理的意味をもつのではないでしょうか。

    現実の生世界において,不条理は存在します。
    いやむしろ,カミュが描き出したように,現実世界は不条理である,と言ってもよいでしょう。
    しかし,だとしてもこの事実は,生世界に意味がないことを帰結しないと私は考えます。
    例えば,社会における言語ゲーム,その現実のプレイ=言語実践では,言葉の非論理的使用(不条理な言語行為)が存在し,ゲームを無意味化してしまうことは実際にあります。
    とは言え,そのことから言語そのものが無意味であることが帰結しないのも事実でしょう。非論理的言語活動は,有意味な言語を前提とするのです。
    つまり,そもそも不条理の認識は,条理の存在を前提しているのではないか,ということです。
    すなわち,条理なきところに不条理なし,ということ。
    ******************************
    ニーチェは「神は死んだ」と言った。
    とりわけ日本人にとって,この言葉の意味は,たぶん理解するのが相当に難しい。
    西洋的・キリスト教的な神を,もともと日本人はもっていなかったから。
    すなわち,生=世界の意味の絶対的根拠としての神の死。
    だから,私はずっと,この言葉は少なくとも,ドストエフスキーの次の言葉とセットで意味を考えられるべきだと思ってきた。
    「神が存在しないなら,すべてが許される」
    そもそも,人の存在に,生に意味がないのであれば,それを奪ってはならない,ということは言えないはずだ。
    それを悪とする絶対的根拠(神)が存在しないなら,そこに絶対的当為は存在しない。
    だったら,はく奪者にとって,被はく奪者の存在意味は,自分に奪われることにおいてのみ存在する。そう考えることに何の不都合があるだろう?(ラスコリニコフ問題?)
    生=世界に超越的・絶対的意味が存在せず,その意味,根拠が主観の裡にしか存在しないのであれば,すべての意味・価値の根拠は,畢竟人間主体の〈欲望〉に帰着するほかはない(欲望論的世界観)のだから。
    そしてそれは,あらゆる意味・価値が,「誰か(たち)にとっての価値」,すなわち相対的価値(誰か(たち)の欲望依存)にすぎないということを意味するだろう。
    いわば,「正義とは,それぞれの正義である」。(アメリカの正義,EUの正義…etc.)
    とすれば,超越論的規範(絶対的当為)としての人倫は存在せず,道徳とは,原理的にはせいぜいある共同体において承認され受け入れられたルールでしかない。
    当然,その共同体外部に置いては無意味ということになろう。
    ラグビー選手にとって,サッカーのルールが無意味であるように。
    人は本当にこのような世界観を受け入れることができるのだろうか?

    【ふくろうの信念要約】
    戦争の犠牲者にも,惨殺された少女にも,虐待死させられた幼児にも存在意味はある。
    彼ら彼女らの存在が,無意味であったなどということがあろうか!?
    存在の意味こそが,「奪われてはならない」という絶対的当為(必然性)の根拠なのだ。
    生世界は確かに不条理ではあるが,けして無意味ではない。
    ******************
    例によって,長くなりました。
    前述したように,議論を目的とした反論を意図してのものではありません。
    とは言え,内容的にはやはりパニチェさんの見解への批判と受け取られても仕方ない点もあるので,もし私の述べたことに対して反論があるようでしたら,それはご自由にどうぞ。
    もちろん,信念の違いだね,ということでスルーされるのもご自由に。
    また,どなたでもご意見があればどうぞ。

引用返信/返信 削除キー/
■22888 / inTopicNo.45)  うらみ、憎しみ等の研究メモ(;´・ω・)
□投稿者/ エイプリル うましか -(2022/04/27(Wed) 08:05:42)
    2022/04/28(Thu) 21:15:32 編集(投稿者)

    管理人さま、おはようございますー

    別トピックの投稿ともあわせて興味ぶかい内容だったので、こちらに投稿することにしましたm(__)m

    *******

    No.22885 (パニチェさん)

    >戦場で軍人を突き動かすもの
    >おそらく今も昔も国家への忠誠心や上官からの命令を上回るほどの敵に対する憎しみ。

    No.22884 (パニチェさん)

    >生まれたばかりで飢え死にする子、監禁され輪姦されたあげくに惨殺された少女
    >不慮の事故で命を落とした人たち、戦争や紛争の犠牲者などなど
    >これらの人たちに起こったことも必然であり全てに意味や価値があるというのか?
    >人生で起きることに意味や価値などないし、人生自体にも意味や価値などない

    *******

    こんな研究があったのでメモ。


    ●「うらみ」研究の概観と今後の課題

    https://www.p.u-tokyo.ac.jp/shimoyama/08kaken/pdfs/2017/p53.pdf

    -------

    戦争を開始する動機はいろいろあるかもしれませんが、戦争を続ける大きな原因は、パニチェさんがいうように「憎しみ」なのかもしれません。

    渦中にある人間の心理は想像を絶するものとおもいますが、もし自分が当事者(もちろん殺し合いの、です。)であれば、そこで自分や他者(もちろん、"敵"、「憎しみ」の対象も含めて)の生きる意味、生きている意味や価値について考えるのか、考えるとすれば、どんなことをおもうのか、、、

    朝からつらい気持ちになりました( ノД`)シクシク…

    -------

    【追記】

    「憎しみ」について、Wikipediaでは「憎悪」で解説がありました。

    それによれば、

    >「憎しみ」や「憎悪」、というのは、結局(「誰か」や「何か」を)ひどく嫌う、ということであり、(当人の感覚としては、誰かや何かに対して)「××は、ひどく嫌いだ」と感じている心の状態(感情)のことである。<
    >結局、根底には、「好き / 嫌い」という感情(学術的にはしばしば漢字表現を選択し「好 / 悪」(こう / お)[4]の感情、と表現する)がある。根底にあるのは「好き / 嫌い」の感情である。<
    >では、どのような場合に、人は 誰か(や何か)を憎むか、激しく嫌いだ、と感じるか、というと、それは人それぞれ(各人各様)であり、感じる人の感性や度量によっても異なるし、また状況次第でもある。<
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%8E%E6%82%AA (引用は部分的に省略あり)

    というわけで、

    >基本的には、「好き」と感じている対象に危害が加えられた、と感じると憎しみ(憎悪)を感じる人は多い。<
    → 同上

    とのことでした。私なりには、自分が好ましいと感じている対象に危害が加えられたと感じたときに、危害を加えたものに対して抱く反感と説明付けることができるとおもいます。

    さてここで、(惨たらしい状況に陥った)人間の生(その状況も含む)に対する、意味Meaningや価値への問いかけについて考えてみると、

    自分がとくに好ましいと感じているわけではない対象についても、やはり危害を加えられた状況そのものに対して抱く反感はあるのではないかとおもいます。

    その反感は、もしかしたらその状況が"より低め(貶め)られている"という価値的感情であり、その感情は、果たしてそうした状況が意味ある生、価値ある生と呼ぶに値するのか?という問いかけとして表出されるかもしれません。

    そしてその問いかけのあり得る答えが、「人生で起きることに意味や価値などないし、人生自体にも意味や価値などない」である、とおもわれます。

    ところで、

    >生まれたばかりで飢え死にする子、監禁され輪姦されたあげくに惨殺された少女
    >不慮の事故で命を落とした人たち、戦争や紛争の犠牲者などなど

    これらの例(事実)をあげ「彼らの人生に意味や価値などない」とする主張を目にするとき、私にはその主張の奥に、彼らの生をそうした状況に貶めたものに対するのと共に、彼らのそうした状況にすら意味や価値を付与しようとするものに対する、或る種の「憎悪」を感じてしまうのです。

    それはもしかしたら、あたえられた事実に、より高次の意味付けや価値付けをしようとするものに対する懐疑が根底にあるのではないか、ところでその懐疑はなにゆえ行われるのか、、、

    うましかはそんなことをおもうのでした(;´・ω・)底だとおもったら未だだった沼












引用返信/返信 削除キー/
■22884 / inTopicNo.46)  リアリズム
□投稿者/ パニチェ -(2022/04/26(Tue) 20:50:18)
    2022/04/26(Tue) 21:33:12 編集(投稿者)

    人生で起こる出来事に偶然などない。すべては必然であり起こるべくして起こる。
    これらには全て意味や価値があり、無意味なことなど何もない。。。。

    。。。などという台詞は能天気な有神論者や己が成功者だと自惚れている人間が語る戯言や寝言や自慢話でしかない。

    生まれたばかりで飢え死にする子、監禁され輪姦されたあげくに惨殺された少女
    不慮の事故で命を落とした人たち、戦争や紛争の犠牲者などなど

    これらの人たちに起こったことも必然であり全てに意味や価値があるというのか?
    人生で起きることに意味や価値などないし、人生自体にも意味や価値などない

    神は死んだ。。。。

    逆説的に言えば意味も価値もない無垢なるキャンパスだから
    言語的動物である人間どもは、そこに意味や価値を創出する特権を有しているということ
    これがニーチェの主張であり、ニヒリズムこそ究極のリアリズムだろう。
    世界や人生に意味や価値を付与しうる創造者とは神仏などではなく己自身である。


    『唯識無境(外界とは自己が対象化されたもの)、万法不離識(すべての外界は見るものの心を離れない)』

    『ニヒリズムとは何を意味するのか?──至高の諸価値がその価値を剥奪されるということ。目標が欠けている。「何のために?」への答えが欠けている。(ニーチェ「力への意志 第2番」より)』

    釈尊の遺言『自洲・法洲(この世で自らを島(洲)とし自らを頼りにして他人を頼りとせず、法を島(洲)とし法を拠り所として他を拠り所とせずにあれ。)原始佛典『大般涅槃経』より」

引用返信/返信 削除キー/
■21183 / inTopicNo.47)  Re[33]: roninhikkiさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2022/02/28(Mon) 22:10:01)
    レスありがとうございます。

    No21182に返信(roninhikkiさんの記事)
    > 返信ありがとうございます。
    > まずはおすすめいただいた、「人と思想 22 ニーチェ」を手に取ってみようと思います。
    > そちらが理解できたら、ぜひここの皆さんの解釈なども読んでみたいと思います。

    了解しました。
    今後も何なりと自由に書き込んで下さい。
引用返信/返信 削除キー/
■21182 / inTopicNo.48)  Re[32]: roninhikkiさんへ
□投稿者/ roninhikki -(2022/02/28(Mon) 21:22:48)
    返信ありがとうございます。
    まずはおすすめいただいた、「人と思想 22 ニーチェ」を手に取ってみようと思います。
    そちらが理解できたら、ぜひここの皆さんの解釈なども読んでみたいと思います。
引用返信/返信 削除キー/

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