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■23149 / inTopicNo.1)  人間社会のドグマ
  
□投稿者/ knowingitself -(2022/05/08(Sun) 13:09:29)
    横レス的な書き込み失礼します。

    ドグマということでいえば、現に生きている人間世界の方が強固にドグマに支配されていると考えるのが、普遍的宗教だと思います。キリスト教も仏教もこの点は同じ。この二つだけでなく、例えばイスラム学の世界的碩学井筒俊彦が取り上げるような東西の宗教ならほぼ同じでしょう。井筒俊彦といえば、永井均氏が最近の著者の中で、中村元とならべて二人を貶していましたが(笑)。

    井筒俊彦や中村元はともかく、ありのままの人間の方が、何重にもこの世のドグマに支配されているのであって、普遍宗教は世のドグマからの脱出、解放が目的で、その解放の道を原理的に説くときに統一的な教えを提供するけれど、それはドグマの盲信というのとは違うと思う。
引用返信/返信 削除キー/
■23144 / inTopicNo.2)  Re[52]: リアリズム
□投稿者/ パニチェ -(2022/05/08(Sun) 08:27:31)
    2022/05/08(Sun) 09:03:05 編集(投稿者)

    おはようございます、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。

    No23142に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > 白鳥さんの件、私が言い出しっぺですが、パニチェさんの見解については、私はノーコメントということで(笑)
    > ま、私の言を信じず、自身で確かめられたほうがいいかも^^

    ごもっとも。何事においても他人の言うことを鵜呑みにせず自分で確かめるというのは重要ですね。^^

    > パニチェさん、ここまで言いたいことを言わせてもらい、ありがとうございました。
    > とりあえず、今回、私からは以上にさせてもらいたいと思います。
    > パニチェさんが言い残されたことがあれば、述べていただいてもちろんかまいません。
    > それに対して、どうしても言いたくなったらレスをするかもしれませんが(笑)、一応、私のレスは以上ということでお願いします。

    こちらこそ、ありがとうございました。私も言いたいことを言わせてもらってます。
    以下も同様ですが以降のレスについてはこれまた上記のザビビのふくろうさんと同じです。

    まず私は先にザビビのふくろうさんが述べられたようにリアルというか何がより現実かについてはバーチャルリアリティ、言い方を変えれば実証主義的を基準として捉えます。
    少なくとも私が生きてきたリアルにはアダムとイブに起因する原罪や最後の審判や創造論などは微塵もないし、先の返信で述べた最新の科学的知見も仏教的な世界観に反しないし、むしろ裏付けにさえなりうるものもある。

    そういう意味でより現実(リアル)であると思えるのは仏教的な世界や自己、人間への洞察や達観です。
    解釈は批判的に言えば意味や価値の捏造であるし、好意的に言えば意味や価値の創出ってことになります。

    リアルには意味も価値もない。そこにあるのは唯一無二の全体運動だけである、と。
    ニーチェも指摘している『仏教は、キリスト教に比べ百倍も現実主義的だ。──仏教は、問題を客観的に、冷静に提出する者からの遺産を身につけている。仏教は、幾百年とつづいた哲学運動の後に出現しているのだ(アンチクリスト 第20番)』に共感します。

    世界や人間への洞察もよりリアルで深い。
    言語を有する人間はラベリングという言語機能によって一つながり、本来は分離できないものを分断化している(虚妄分別)。
    自他、過去・現在・未来、善悪もこれに同じ。ここに我愛や排他性、後悔・憂い・不安、独善などなど、言語を有さない動物とは違った苦悩(煩悩)や弊害が生じる。

    言語は人間を人間たらしめている尊厳的かつ特権的なものである一方で多くの弊害や暗黒面もある。ロゴスなどという言語を美化するような側面だけをクローズアップするのは現実的ではない。

    ザビビのふくろうさんやknowing itselfさん的な原罪解釈は論旨では同意します。
    ただ「人間は自然から逸脱した存在」や「地球をも破壊しうる動物」はリアルであるとは思えませんし、むしろこういう発想が人間の思い上がりであるとさえ思います。

    地球史からすれば人が住めるような環境はごくごく直近のことである、その大部分は人間など寄せ付けないような環境であったことは科学的な事実です。
    人間は人間が住めるような現時点での環境を自ら破壊しているのであって、皮肉的な言い方をすればせっせと原始地球の環境に戻していると言えます。
    人間が絶滅しても地球という惑星は自転しながら公転運動を続けるでしょうし、人間の力で地球を破壊することなど不可能です。

    そういう視点に立てば人間も人間の活動も自然の一部であり、草食動物が増えすぎて草を食いつくして絶滅へと向かっていることと何ら変わらない。
    自然に対する人工というあたかも対義語のようなラベリングは「地球に優しい」という偽善的な言葉と同じく人間を過大評価あるいは誇大妄想のなせる業(カルマ)だと思います。

    もの凄く荒っぽい表現で反発されるであろうことを覚悟して述べれば仏教はザビビのふくろうさんが言うようにフィクションや信仰の側面があるように、世界や人間(自己)を直視し、よりリアルとは何かを追究した哲学的な側面もあります。

    カントのコペルニクス的転回やニーチェやフッサールを起点とした現象学は仏教では唯識思想として1600年以上も前に達観されているし、ウィトゲンシュタインの「語りえないことについては沈黙しなければならない」は1900年前に成立した維摩経の「維摩の一黙、雷の如し」と相通じるところがあるし、ハイデッガーの「存在と時間」に至っては760年前に書かれた道元禅師による正法眼蔵の「有時」の焼き直しであったりします。

    これらが示しているものの方がキリスト教的なドグマよりもはるかにリアルであり現実に即していると思われるということです。

引用返信/返信 削除キー/
■23142 / inTopicNo.3)  Re[51]: リアリズム
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/05/07(Sat) 22:18:19)
http:// 
    2022/05/08(Sun) 07:11:40 編集(投稿者)

    パニチェさん
    レスをありがとうございます。
    また、本の紹介、ありがとうございました。
    引用については、とりあえず結構です。ありがとうございます。
    ググったら、そういう関係の論文も読めそうなので、余裕ができたらまた読んでみます。

    白鳥さんの件、私が言い出しっぺですが、パニチェさんの見解については、私はノーコメントということで(笑)
    ま、私の言を信じず、自身で確かめられたほうがいいかも^^

    それと、繰り返しになりますが、やっぱりキリスト教のドグマという言い方が気になりますね。
    キリスト教がドグマなら、無神論もドグマ、仏教もドグマ、聖書がフィクションなら仏典もフィクション、というのが私の見解です。
    もちろん、物語としては聖書も仏典もこの現実世界と相対的に区別してフィクションと言えますし、それはギリシャ神話であろうが、ドストエフスキーであろうが、芭蕉の句であろうが、同じことです。
    しかし、フロイトがエディプスの物語を人間精神の構造を示すものとして解釈したように、これらはすべて人間のリアルを描出しています。
    しかし、それらは「示されている」のであり、それは解釈によって見出し得るものなのです。
    例えば、芭蕉の句、たとえば「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という句は、松尾芭蕉という人物が江戸時代に山形県の立石寺での経験を詠んだ作品ですが、私はそれを今此処に立ち現れる《私》の経験(リアル)として読みます。聖書にせよ、ドストエフスキーの作品にせよ、語られた歴史的事実は現代日本の私たちには無関係なものにすぎませんが、《私》のリアルを描いている、と読めます。ニーチェだって同じでしょう。これ、自分のことを言ってる、って思った若者は多いはずです。
    つまり、聖書が示しているものにこそ宗教的意味があるのに、パニチェさんは語っているものにしか目がいかず、それゆえに荒唐無稽なフィクションにすぎないと思っているんじゃないでしょうか。
    言い過ぎかもしれませんが、語られているものは、本当はある意味どうでもいいのです。
    それが示しているものこそが真に重要なのです。
    また逆に、真に重要なものは、語られ得ず、ただ示され得るだけなのです。
    それゆえ、解釈が必要であり、また、文学・芸術・宗教等は、その理解=解釈に深浅があるのです。一義的ではない、ということです。物語(テキスト)の解釈は主体的行為なのです。

    …って、また、断言してしまった(笑)

    今、knowingitselfさんと対話されているようですが、参考までに、「原罪」についての私の極浅解釈をアバウトに述べておきます。

    自然的存在である動物は罪を犯しません。
    本能が壊れた動物と言われることもある人間は、自然から逸脱した存在であり、
    それは知恵・言葉(ロゴス)を有することと同等です。
    そして、それは人間が罪を犯す動物である(倫理的動物・地球をも破壊しうる動物)、という事実とも同等です。
    その意味で、人間が知恵をもつということは、人間が悪をなしうることを可能ならしめた条件でもあると言えるのではないでしょうか。
    そして、このことは、私が人間である限り、常に既にそうであらざるをえない人間の根本条件とも言え、いうなれば知恵・言葉(ロゴス)をもつことによって初めて悪をなしうる(罪を犯し得る)存在=人間となったという意味で、それは「原−罪」である、と言えるのではないでしょうか。

    あくまで、これは非キリスト者であるふくろうの、個人的解釈にすぎません。
    聖書を携えて歩む信仰者は、それぞれの人生において、聖書のリアルな意味=実存的意味を見出すのだと思います。
    ************************
    パニチェさん、ここまで言いたいことを言わせてもらい、ありがとうございました。
    とりあえず、今回、私からは以上にさせてもらいたいと思います。
    パニチェさんが言い残されたことがあれば、述べていただいてもちろんかまいません。
    それに対して、どうしても言いたくなったらレスをするかもしれませんが(笑)、一応、私のレスは以上ということでお願いします。

    【「原罪」についての補足】
    私は時折、私もそうであるところの“人間”というもののどうしようもない罪深さを感じざるを得ないことがあり、そしてやりきれないことにそれが人間のアプリオリな本質·本性とも思われます。
    控えめに言っても、地球上で最も邪悪な生き物とは何かという答えは人間以外にないように思います。
    地球をも破壊し、全生物を死滅させる能力、〈知恵〉をもつことは、いわば人間が人間になったとき負ってしまった〈原罪〉ではないか?
    このことにおいてーー私はけして反出生主義者ではないのですがーー人間は消え去るべきであるとする思想が分かる気がするのです。
引用返信/返信 削除キー/
■23131 / inTopicNo.4)  Re[53]: 質問というか
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/05/07(Sat) 19:28:12)
    2022/05/07(Sat) 20:57:52 編集(投稿者)

    田秋さん
    こんばんは。

    *****************************
    田秋さん、有意義な質問をありがとうございます。
    この問い自体、ある意味哲学的な問いでもありますので、あまりテキトーに書いてすますことが無理なので、ご迷惑とは思いつつ、長くなるのを覚悟で説明させてもらいます。
    ご容赦ください。

    >ボクが疑問に思うのは、哲学者にとって、自分の著作が一通りにではなく様々に解釈されるということは本望なのか?ということです。自分の主張を正確に伝えたい(音楽で言うとソルフェージュ的、演奏者の解釈は許さない)のではないかと思うのですが、その辺りはどうなのでしょうか。

    端的に答えを言うと、「許さなかった」ということになると思います。
    現在『論考』にあるラッセルの序文はその解説と批判を含みますが、そのどちらに対してもウィトゲンシュタインは同意できないと述べ、一度、その序文付きでの出版を拒否しています。
    このとき、最も理解を期待できるラッセルすら理解していないことに絶望して、自殺まで考えたと言っています。
    また、後年、自分の弟子がウィトゲンシュタインの哲学について書いた論文を、間違っているからと言って止めたにもかかわらず雑誌に発表したことに激怒し、破門にしています。
    そういう話はほかにもあって、自分の哲学に対する誤解が出回ることを嫌悪していました。なので、もし彼が生きていて自分の哲学の研究書・解説書を見たら、ほとんどに怒り狂ったただろうなと思います(笑)

    >ザビビのふくろうさんによれば《論考》は結果の集まりで、その結果に至るまでの経過が書いてないので、そこに解釈が生まれるということですが、その形で出版したということは、ウィトゲンシュタインは様々に解釈されることを許している(解釈されたい?)ように見えます。そういうことなのですか?

    上述のように、そういうことではない、と思います。
    実は、ラッセルがこういう話をのこしています。

    >私(ラッセル)は彼(ウィトゲンシュタイン)に、自分が真だと考えることをたんに言明するだけではなく、それを支持する議論を与えるべきだと言いました。すると彼は、議論はその美しさを損なうし、まるで泥だらけの手で花を汚すように感じる、と言うのです。(略)知性の領域での芸術家はたいへんまれです。(モレル宛ラッセル書簡)(『哲学の歴史11』(中央公論新社)

    おそらく、その強烈な美意識により、彼には説明・議論を与えることがどうしてもできない、と言ったほうが実情に近いのではないでしょうか。
    その自覚があったからか、『論考』のウィトゲンシュタイン自身の序文で、この書は自分でも同じもしくは類似のことを考えたことのある人にしか理解できないだろうと述べ、だから教科書ではない、と言っています。
    つまり、いわば同じ山を登ったことのある人にしかわからないであろうことを書いており、頂上に至る登山ルートを詳しく書いてはいない、ということでしょう。
    にもかかわらず、誤解には激怒するという困った人なんですね。
    まあ、数少ない例外はあったようですが。
    また、『論考』序文の他の箇所ではこのようにも言っています。

    「この著作に価値があるとすれば、二つの側面から捉えられる。ひとつは、ここに表現された思想という点においてである。その側面からすれば、思想がうまく表現されていればいるほど、核心をついていればいるほど、価値は大きいものとなるだろう。――この点において、なお改善の余地がおおいに残されていることを、私は自覚している。理由は端的に、その課題を果たすのに私では力量不足ということである。――だれか、よりよく果たせるひとの現れんことを。」(野矢茂樹訳『論考』より)

    ですから、仮にウィトゲンシュタインと同じ頂上に達したとわかる人が、彼と異なるルートを示したとしても、それは許したように思います。実際には現れなかったようですが。
    ***************
    それともうひとつ、多様な解釈がありえてしまう理由として、説明がない、ということより、ある意味本質的な理由があります。
    次の引用は、ラッセルが『論考』についてウィトゲンシュタインに質問の手紙をだしたのですが、その返事からのものです。

    「ところであなたは私の主要な論点を本当に把握されていないのではないでしょうか。論理的命題に関する作業は、私の主張な論点からすればたんに付随的なことにすぎません。主張な論点は、命題によって――すなわち言語によって――表現し(語り)得るもの(そして同じことですが、思考し得るもの)と命題によって表現され得ないで、ただ示され得るものについての論究なのです。この論究こそ哲学の中心問題だと信じます。」(岡田雅勝『ウィトゲンシュタイン』(清水書院))

    この語りえず、ただ示され得るものとは、いわゆる独我論や倫理の問題、より一般に価値の問題が含まれるのですが、これについて、『論考』出版の打診をしたフィッカーという雑誌編集者に、自著の説明をした手紙でこう述べています。

    「私の著作は二つの部分、つまりここに提示されていたものと私の書かなかったことのすべてとからなっています。そして重要なのはまさにこの第二の部分なのです。倫理的なものは私の本によっていわば内側から限界づけられ、そして私の確信するところでは、それは厳密にはそのようにしてのみ限界づけられうるもです。多くの人々が今日おしゃべりしていることのすべてを、それらについて沈黙することにより、私は私の本の中でしっかりあるべき場所に置いたと信じています。」(『哲学の歴史11』(中央公論新社))

    彼は『論考』を、その意味で「倫理の書」であるとまで述べているんです。
    実は、論理の問題、いわゆる理論哲学についての部分は、現在では解釈は確定していないまでも、可能な候補としてはほぼほぼ絞れていると言ってよいと思います。
    これらの問題は、ラッセル・フレーゲをはじめ、当時の科学哲学者たちと共有していた部分なので、けっこうわかるわけです。
    しかし、この語られていない部分(独我論・価値論)についての解釈は、ラッセルも全くわからず、出版当初はほぼ無視され、現在でもその観点を強調する研究はありますが、理論哲学の部分と同レベルで解明されているとは言えないと思います。
    それで日記や草稿といったウィトゲンシュタインの遺稿研究や、伝記的資料による彼の宗教観や芸術観についての研究が盛んになされているということもあります。

    で、この「語りえるもの」と「語りえず、ただ示され得るもの」という対比を少し絞って言いますと、事実―価値の対比に相当します。
    田秋さんの音楽に関する言葉で言えば、語りえるものとは、「ソルフェージュ的正確さだけで」表現できるものであり、それでは捉えられず、解釈によってのみ到達することが可能になる作品の意味・価値が「示されるもの」、ということになると思います。
    いわば、演奏においては、楽譜に表現されたもの(語られたもの)だけではなく、楽譜に示されたもの(示された作曲家の意図)こそが重要である、と言えるのではないでしょうか。
    『論考』に関しては、本人の言によると、この語られず、示される部分こそが重要なのに、実際ほとんど書いていないから、誰にもその意図が理解されないわけです(笑)
    いわば、五合目まではソルフェージュ的正確さだけでなんとか到達できるものの、それ以上は、実際にのぼったことのある人間にしか理解できないような、御託宣にしか思えないような言葉があるだけで、普通の人には頂上まで登れないというか、ひどい場合、五合目が頂上だとみなされたりしたのです。
    しかし、この語られていない頂上こそがいわば虚焦点のようなもので、この点から逆照射してこそ、全体が芸術作品にも似たひとつの緊密に構成された体系であることが本当に理解できるのではないかと私は思います。
    また、『論考』に惹かれる多くの者が、よくはわからないけれども、ウィトゲンシュタインが凝視する真・美の一点から、極限まで無駄を削り取った作品であることを感じるがゆえに、その魅力にはまるのではないか、というように感じます。

    簡単にまとめますと、科学は事実を扱うから語ることができ、多義性を排除できる。
    文学・芸術等は、語りえぬものを目的とするから、論理(語りの限界)を超えて、作品において意義を示す。そこには本質的に解釈による多義性が含まれる。
    哲学は語りえないものと語りうるものとの限界を、あくまで論理の内側にとどまりつつ表現しようとする。ここに哲学のジレンマがあり、そのため立場によっては、より文学・芸術に近い方法をとる立場もある(ハイデガー)。
    『論考』は論理の内側にとどまることによって解釈の多義性は排除しているつもりなのでしょうが、本質的にそれを超えたものを見つつの作業であるから、ウィトゲンシュタインと同じもの(頂上からの風景)を見れない者にはその原理がわからないので、解釈が多くなってしまう原因になるのではないかと思います。
    *****************
    以上が主に『論考』についての、田秋さんのご質問に対する私なりの答えになります。
    ただ、次の田秋さんの言葉

    >自分の考えを正確に伝えることよりもそれを人に考えてもらう、それが一番重要ということなのでしょうか、哲学者にとっては?
    >まるで音楽と同じのように見えます。。。

    これを読むと、どうしても後期の話にも触れざるをえないように思います・・・
    ウィトゲンシュタインは、『論考』を書いて10年ほど、哲学問題は本質的に解決したと信じ、自分にはもうやれることはないと思って哲学を離れます。
    そのブランクの後、復帰してから、『論考』の文体について「独断論的だった」と反省し、文体を変えます。
    後期の主著『哲学的探究』で用いられたこの新しい文体には自信をもっていたようですが、そして確かに変わったのですが、やっぱり短文の寄せ集めみたいなもので、よくわからない(笑)
    というか、表面的にはわかるけど、結局それがどういう意図で言われているのかがわからない、という感じです。だから、また解釈するしかない、ということになるわけです。
    しかし、ウィトゲンシュタイン自身が、この著作についてどう思っていたかということはその序文に記されているのですが、これを先ほどの田秋さんの言葉に照らすと、なかなか興味深く感じます。
    彼は、『探究』において、意味、理解、命題、論理など多くの主題に関する思想を、すべて短い分節からなる覚え書きとして書き下した、といいます。そしてそれは主題から主題への飛躍を含む遍歴と言うべきものであるとして、次のように述べているのです。

    「この書物に盛られている哲学的覚え書きは、いわば、これらの長く錯綜した遍歴から生まれた、一連の風景スケッチである」
    「私は自分の書いたものによって他のひとが自分で考える労を省くようになるのを望まない。できることなら、誰かが自分自身で考えていくための励ましになりたいと思っている。」(『哲学的探究』序文――藤本隆志『人類の知的遺産73 ウィトゲンシュタイン』より)
    *****************
    長くなりましたので、このへんにしておきます。
    ありがとうございました。

引用返信/返信 削除キー/
■23126 / inTopicNo.5)  Re[53]: キリスト教的進化論
□投稿者/ パニチェ -(2022/05/07(Sat) 17:06:46)
    こんにちは、knowing itselfさん。レスありがとうございます。

    No23121に返信(knowingitselfさんの記事)
    > >>原罪というのは歴史の時間軸の中で闘いながら進んでいかざるをえなくなることなので、進化とつながると思います。

    >>よかったら教えて下さい。
    >>上記の原罪はアダムとイブに起因するものですか?
    >>もしそうであるとするなら「原罪というのは歴史の時間軸の中で闘いながら進んでいかざるをえなくなる」っていうのはもう少し詳しく言えばどういうことでしょうか?

    > 旧約聖書の記述は象徴的、神話的なので、解釈はいろいろありうると思います。

    > アダムとエバが木の実を食べた直後の章(創世記4章)では、エバが産んだカインが弟アベルを嫉妬によって殺して、土を耕しても実を結ばないようになり、地上をさまよう運命になる。しかし主はカインを守ると約束した。アベルはキリストの前表・予型と解釈されるますが、カインはキリストならざる罪人、つまりアダムにつながるすべての人間の生き方を象徴しているともいえます。

    > 聖書から引いてくる説明は、いまいちピンとこない人がほとんどだと思いますが、「原罪」とはいかなる状態なのかを、宗教を超えて普遍的に鮮やか伝えるモデルは、曹洞宗の禅僧、内山興正による「第四図」ですね。くどくどコトバで説明されるのを聞くより、あの「第四図」を見れば瞬時にわかると、個人的には思っています。

    つまり原罪とは生得的に備わっている煩悩みたいなものということですか!?
    もしそうだとすると私にとってはちょっと画期的な発想です。
    今、ふっと思いましたが、みのりさんが引用しているカントの「人間の本性は戦争に向かいやすい傾向性を宿している」ってのも上記の原罪=煩悩のことを言ってるのかもしれませんね。
    同時にこれを制御する理性も持ち合わせている、と。

引用返信/返信 削除キー/
■23125 / inTopicNo.6)  Re[50]: リアリズム
□投稿者/ パニチェ -(2022/05/07(Sat) 16:51:37)
    2022/05/07(Sat) 17:19:43 編集(投稿者)

    こんにちは、ザビビのふくろうさん。
    レスありがとうございます。

    No23098に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    以下、おそらく平行線になるとは思いますが私なりの意見を返信してみます。

    > 「極論すれば仮にこの世界が「水槽脳が見る夢」であったとしても、その世界がリアルだということです。」
    > ということについては、完全に同意できます。
    > そして、それは解釈世界(意味世界)である、と私は考えているということです。

    > >リアルと思える仏教的世界観というのは華厳の事事無礙や密教の汎神論、倫理観で言えば先に述べた煩悩の汚れの度合いで分別する「善、悪、無記(有覆無記、無覆無記)」です。

    > という仏教的世界観も解釈世界。
    > キリスト教的世界観も同様。
    > ここに、フィクション、リアルの差別を持ち込むことは、「水槽の中の脳」あるいは「マトリックス」の教訓を無効にすることだと私自身は考えます。
    > ただし、私は科学が記述する客観的世界は、意味・価値を捨象した世界として、意味・価値を含む主観的世界=生世界と相対的に区別できると考えており、創造論とか原罪、最後の審判などは、進化論と並び立つものと考えてはいません(よって、矛盾もしない)。

    もちろん、事事無礙は私にとって(バーチェルとしての)リアルです。
    その一方でキリスト教的なドグマや世界観、原罪や最後の審判や創造論は(これらを信仰することについては否定しませんが)普通に考えれば誰もバーチェルとして経験したり体験したことがないはずで、そこにリアルさを感じることなんてできる人がいないのではないか、ということです。

    また上記でザビビのふくろうさんが述べている科学が記述する客観的世界観も事事無礙と相性のよい知見が(ステレオタイプかもしれませんが)多々あります。
    例えば生物学的には新陳代謝(エネルギー代謝含み自他は分離しておらず繋がっているということ)や散逸構造系であること、量子力学的には不確定性原理や非局所的長距離相関(量子もつれ)やヒッグス場などなどです。

    > ***************************

    > ところで、私の引用が竹内さんのところのものか、今となっては定かではありませんが(笑)、読んだことはあるかもしれません。
    > しかし、ちょっと話はそれますが、白鳥さんが、パニチェさんの言ったような本を出していることに驚きました。
    > というのも、昔、白鳥さんは、『この一冊で「哲学」がわかる』という本で、ニーチェをかなりケチョンケチョンに述べていたからです(笑)
    > 意外じゃないですか?

    意外ですね。
    ニーチェの対極である大衆迎合的な甘ったるいニーチェの言葉に変換して金儲けに走ったんじゃないですか(笑)
    上記が事実なら節操がないし哲学者にあるまじき転身ってことになります。

    > で、以下は、パニチェさん自身の思想は措いて、あくまでニーチェ像について述べますが、パニチェさんの竹内章郎さんのニーチェ解釈に関する評価はわかりましたが、現在のところ、私としては自分のニーチェ解釈が覆ることはありません。

    了解です。

    > ただ、前にも言いましたが、ニーチェについては全然勉強不足で、
    > >ニーチェと仏教は相性がいいし、仏教と対比させた解説書も多いです。
    > というような本は勉強したことがないですし、またそういう解釈もあるということを頭に置いておきます。
    > 【補足】
    > ニーチェと仏教思想を結び付けて解釈したような手頃な著作をご存じであれば、教えてもらえますか?

    余談ですが、もともと独自の見解としてニーチェと仏教の共通点を見出した時にはひそかに一人興奮しましたが、後に先人が同じ目線でニーチェを研究していることを知りがっかりしたことがあります(笑)。
    駒井義昭の「ニーチェと道元」(これは手元にありません)や新田章著「ヨーロッパの仏陀」(これは手元にあります)などなどがあり、ニーチェ事典でも仏教との親近性に触れた箇所が多々あります(引用しましょうか?)。

    ニーチェが若い頃に影響を受けたショペンハウアーは、仏教の土台となったヴェーダーンタ哲学のシャンカラの思想を用いていますし、仏教について(読んだ書籍が偏っていることからの誤解もありますが)好意的なアフォリズムはいくつもあります。また静養中にシルヴァプラナ湖畔での至高体験(「永劫回帰」の受胎)を綴った文章は見性(仏教的な悟り)をかすったかのように思わせる記述となっています。

    > ニーチェの真理基準…力の高揚に有益か否か

    これも余談というか補足にはなりますがもともと「力への意志」はニーチェ自身の判断で発刊を中止にした書籍というか思想ですから、ニーチェ哲学にとって力云々は排泄物という解釈もできます。

    > パニチェさんの真理基準…世界平和に有益か否か

    紛争や戦争、分断や差別や無理解は煩悩のなせる業だと考えています。

    > *******************
    > ところで、私はウィトゲンシュタインの哲学、とりわけ『論考』については自分なりに長年読み込んできたと思っているので、プロに対してさえ遠慮なくゴーマンかましますが(かましたところで誰も気にしませんし(笑))、他については多少の知識はあったとしてもただのアマチュアなので、たぶんそんなにエラそうには言ってないと思いますよ^^
    > ただ、普通の人よりは、さしあたりであっても自分なりの解釈をはっきり提示したりするので(そういう訓練はしているので)、自信過剰に見えるのかもしれませんが。

    いえ、とても謙虚な返信だと思っています。^^

引用返信/返信 削除キー/
■23121 / inTopicNo.7)  Re[52]: キリスト教的進化論
□投稿者/ knowingitself -(2022/05/07(Sat) 12:48:51)
    パニチェさん レスありがとうございます

    >>原罪というのは歴史の時間軸の中で闘いながら進んでいかざるをえなくなることなので、進化とつながると思います。
    >
    > よかったら教えて下さい。
    > 上記の原罪はアダムとイブに起因するものですか?
    > もしそうであるとするなら「原罪というのは歴史の時間軸の中で闘いながら進んでいかざるをえなくなる」っていうのはもう少し詳しく言えばどういうことでしょうか?

    旧約聖書の記述は象徴的、神話的なので、解釈はいろいろありうると思います。

    アダムとエバが木の実を食べた直後の章(創世記4章)では、エバが産んだカインが弟アベルを嫉妬によって殺して、土を耕しても実を結ばないようになり、地上をさまよう運命になる。しかし主はカインを守ると約束した。アベルはキリストの前表・予型と解釈されるますが、カインはキリストならざる罪人、つまりアダムにつながるすべての人間の生き方を象徴しているともいえます。

    聖書から引いてくる説明は、いまいちピンとこない人がほとんどだと思いますが、「原罪」とはいかなる状態なのかを、宗教を超えて普遍的に鮮やか伝えるモデルは、曹洞宗の禅僧、内山興正による「第四図」ですね。くどくどコトバで説明されるのを聞くより、あの「第四図」を見れば瞬時にわかると、個人的には思っています。
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■23114 / inTopicNo.8)  Re[52]: 質問というか
□投稿者/ 田秋 -(2022/05/07(Sat) 06:23:41)
    2022/05/07(Sat) 06:24:30 編集(投稿者)

    おはようございます、ザザビのふくろうさん

    丁寧で詳しいお返事ありがとうございます。哲学と音楽とはかなり違う分野だと思うのですが、大家の作品は奥が深いという共通点がもあるのすね。

    >『論考』が強烈な美意識に貫かれて構築されたものである
    兄がピアニストでしたし、美に対する感覚(哲学美?)が鋭かったのだと思います。

    音楽、特に西洋音楽では作曲者の意志(意図)は楽譜を通して演奏家に伝わります。
    この楽譜というもの、面白いことに(奇妙なこと9に)精密と大雑把が同居しています(私見です)。良い作品は本当に隅々にまで作曲家の目が行き届いています。何年も経って「あ、そういうことか!」と気づくこともあります。一方、f(フォルテ:強く)とかmoderato(モデラート:中庸に)とか、強くってどのくらい?、中庸と言われても・・・とか、演奏者の解釈に委ねられる部分も決して少なくありません。
    また音程にしてもリズムにしてもソルフェージュ的正確さだけでは人を感動させる音楽にはなりません。そこに演奏者の解釈が入って初めて【作曲家+演奏者】の合体が生まれ人の心を打ちます。

    ボクが疑問に思うのは、哲学者にとって、自分の著作が一通りにではなく様々に解釈されるということは本望なのか?ということです。自分の主張を正確に伝えたい(音楽で言うとソルフェージュ的、演奏者の解釈は許さない)のではないかと思うのですが、その辺りはどうなのでしょうか。

    ザビビのふくろうさんによれば《論考》は結果の集まりで、その結果に至るまでの経過が書いてないので、そこに解釈が生まれるということですが、その形で出版したということは、ウィトゲンシュタインは様々に解釈されることを許している(解釈されたい?)ように見えます。そういうことなのですか?

    そう言えば《ツァラトゥストラ》にも様々に解釈されます。

    自分の考えを正確に伝えることよりもそれを人に考えてもらう、それが一番重要ということなのでしょうか、哲学者にとっては?

    まるで音楽と同じのように見えます。。。
引用返信/返信 削除キー/
■23110 / inTopicNo.9)  Re[52]: わたしごと
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/06(Fri) 19:22:17)
    お邪魔しま〜す。

    『論考』、ウィットちゃんの思考においては”途中の”、だったんじゃないかしら?
    だから、彼の結論めいた言、

    7 語りえぬものについては沈黙せねばならない。

    彼に対するわたしのいちばんの不満がこれ。

    もし、
    語りえぬものについては沈黙せねばならないのだろうか。
    っていう問い的なので終わっていれば、わたし彼に共感もったかもしれない。



引用返信/返信 削除キー/
■23107 / inTopicNo.10)  Re[51]: 質問というか
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/05/06(Fri) 11:45:37)
    田秋さん
    レスをありがとうございます。

    No23105に返信(田秋さんの記事)
    > おはようございます、ザビビのふくろうさん
    >
    > 質問というか感想をお聞きしたいのですが。。。
    >
    > 例えばバッハをずっと勉強してたらその偉大さが少しずつ見えてきて、山登りで言うと5合目くらいまでは登ったかなと思っていたら、実はまだ裾野でうろうろしている自分に気がついた、みたいな感じ。
    >
    > そんな感じをウィトゲンシュタインの論考を読み込んでいて感じることってありますか?

    似たようなことなのかもしれませんが,ちょっとズレがある気もするので,私の言い方で説明させてください。

    ひとつのたとえとして,『論考』というのは答えだけで途中の説明が何もない数学の問題集みたいなもので,『論考』を解釈するということは,省略されているその答えに至る過程の証明を与える作業という感じになります(ある意味,骨格に肉付けするような)。
    私も含めて,解釈者は,部分的にここはこうに違いない,というようなことはあるのですが,たぶん,『論考』全体に対して,その省略された部分を全部再構成できた人は未だいないと思います。
    『論考』が強烈な美意識に貫かれて構築されたものであることは誰もが感じることだと思うのですが,その一貫しているであろう原理が誰もよくわからない(笑)
    だからプロの哲学者であっても,全体を解釈しようとすると,つぎはぎになるか,無理に一貫性をもった解釈をすると,得られた像は明らかに凡庸化され,『論考』のもつ超然とした孤高の魅力は失われてしまう,という感じになってしまうんですね。

    もうひとつ別のたとえで言いますと,これは音楽の専門家に対して言うのは気が引けるのですが,偉大な作曲家の作品を演奏することが,ひとつの作品に対する解釈することだとして,
    『論考』という作品(テキスト)と読解(解釈)は,音楽作品(楽譜)とその解釈(演奏)に類比できるのではないかと思います。
    この類比では,いわゆるプロのウィトゲンシュタイン研究者は,プロの演奏家に比されます。
    プロの研究者は,それぞれの解釈に基づいて『論考』を演奏する(研究書を著わす)わけですが,全曲は無理なので,部分的においしいところだけの演奏になることが多いんです。入門書は、そのさわりの部分だけの演奏CDみたいな感じというか。
    いずれにしても言えることは,どんな演奏がなされても,『論考』の真価は汲みつくせていない,と多くの研究者が感じるので,新たな解釈がいまだに量産されているのだと思います。
    この解釈ゲームを批判する向きもありますが,これが「古典(クラシック)作品」ってものじゃないかなと,私などは考えています。

    そういうわけで,私自身,全体がわかったと思ったことは一度もありません。
    ン十年,わからない,わからないで来ました(笑)
    いろんな,それこそ数えきれない登り口からアプローチしたけど,なかなか五合目までも到達できない,って感じでしょうか。
    ただ,その成果はあって,ようやく私自身の解釈の枠組みみたいなものが固まり,初めてこれなら『論考』全体を一貫した像として描けるのじゃないかと自分では思える段階に至ったところです。
    だから,これがようやく自分に適したルートを見つけて五合目に到達した気がしている,ということに当たるかな。なんとか,頂上が見える地点に達したって感じ。
    学術的価値のあるレベルまで完成度を高めるには,もっと詰めないといけませんが,『論考』のアイデアの本質(頂上)は,ようやく見えたかなあ,と自分では思っています。ただの思い込みかもしれませんが(笑)
    でもまあ,そう思い込めるようになるだけでもン十年と要したわけですし,個人的にはそうなっただけでもとりあえずよかったなという感じです^^

    つい長くなってすみませんm(__)m

引用返信/返信 削除キー/
■23105 / inTopicNo.11)  質問というか
□投稿者/ 田秋 -(2022/05/06(Fri) 08:26:07)
    おはようございます、ザビビのふくろうさん

    質問というか感想をお聞きしたいのですが。。。

    例えばバッハをずっと勉強してたらその偉大さが少しずつ見えてきて、山登りで言うと5合目くらいまでは登ったかなと思っていたら、実はまだ裾野でうろうろしている自分に気がついた、みたいな感じ。

    そんな感じをウィトゲンシュタインの論考を読み込んでいて感じることってありますか?
引用返信/返信 削除キー/
■23098 / inTopicNo.12)  リアリズム
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/05/05(Thu) 22:09:34)
    2022/05/06(Fri) 17:12:55 編集(投稿者)

    パニチェさん
    こんばんは

    >>この質問の背景には,次のような疑念というとあれですが(笑),疑問があるんです。
    >>ニーチェは,真理は解釈だと言いながら,自分の解釈が実在を捉えており,キリスト教は虚偽・虚構だ,としているように見えるわけです。
    >>で,パニチェさん自身についても,一連のやりとりになったNo24のタイトルは「リアリズム」ですよね。
    >> たとえば,具体的内容は私にはわかりませんが,とりあえずパニチェさんの世界観が仏教的世界観だとして,それこそがリアリズムで,キリスト教世界観はフィクションだ,というような考えがあるのでは?ということです。

    >その通りです。
    >但し、大方の大乗佛典(法華経とか浄土三部経、維摩経など)や釈尊を神格化したような原始佛典もフィクションだと思っています。
    >リアルと思える仏教的世界観というのは華厳の事事無礙や密教の汎神論、倫理観で言えば先に述べた煩悩の汚れの度合いで分別する「善、悪、無記(有覆無記、無覆無記)」です。

    やはり、このパニチェさんの考えには、私は同意できないですね。
    あなたがリアルと感じる世界観も解釈であることに変わりはないのであって、他の人にとっては別解釈がリアルであるというだけではないでしょうか。

    >>ちなみに私見を述べれば,世界像が解釈だというのは同意なんです。
    >> そして,それはフィクションなどではなく,それこそがリアルだと考えます。
    >> ちょうど,従来「ヴァーチャルリアリティー(VR)」にはイコール仮想現実イコール非現実という含意があったと思いますが,最近では,VRこそがリアルだという考えになってきていると思っているのですが,(その正否はともかく)それとパラレルなイメージです。
    >>つまり,一神教的世界解釈による世界像もリアル,仏教的世界像もまたリアル,ってことです。

    >面白い発想ですし、同意できるかもしれません。
    >ただ私にとっての「ヴァーチャルリアリティー(VR)」ってのは実証主義(観測可能なものだけを俎上に載せる)なんですね。
    >極論すれば仮にこの世界が「水槽脳が見る夢」であったとしても、その世界がリアルだということです。
    >ザビビのふくろうさんは創造論とか原罪、最後の審判などキリスト教的な世界観をVRとして考えられますか。


    「極論すれば仮にこの世界が「水槽脳が見る夢」であったとしても、その世界がリアルだということです。」
    ということについては、完全に同意できます。
    そして、それは解釈世界(意味世界)である、と私は考えているということです。

    >リアルと思える仏教的世界観というのは華厳の事事無礙や密教の汎神論、倫理観で言えば先に述べた煩悩の汚れの度合いで分別する「善、悪、無記(有覆無記、無覆無記)」です。

    という仏教的世界観も解釈世界。
    キリスト教的世界観も同様。
    ここに、フィクション、リアルの差別を持ち込むことは、「水槽の中の脳」あるいは「マトリックス」の教訓を無効にすることだと私自身は考えます。
    ただし、私は科学が記述する客観的世界は、意味・価値を捨象した世界として、意味・価値を含む主観的世界=生世界と相対的に区別できると考えており、創造論とか原罪、最後の審判などは、進化論と並び立つものと考えてはいません(よって、矛盾もしない)。

    ***************************
    ところで、私の引用が竹内さんのところのものか、今となっては定かではありませんが(笑)、読んだことはあるかもしれません。
    しかし、ちょっと話はそれますが、白鳥さんが、パニチェさんの言ったような本を出していることに驚きました。
    というのも、昔、白鳥さんは、『この一冊で「哲学」がわかる』という本で、ニーチェをかなりケチョンケチョンに述べていたからです(笑)
    意外じゃないですか?
    で、以下は、パニチェさん自身の思想は措いて、あくまでニーチェ像について述べますが、パニチェさんの竹内章郎さんのニーチェ解釈に関する評価はわかりましたが、現在のところ、私としては自分のニーチェ解釈が覆ることはありません。

    ただ、前にも言いましたが、ニーチェについては全然勉強不足で、

    >ニーチェと仏教は相性がいいし、仏教と対比させた解説書も多いです。

    というような本は勉強したことがないですし、またそういう解釈もあるということを頭に置いておきます。


    >>No.22885とNo.22884で言いたかったことは。。。。
    >> >ユダヤ・キリスト教的な善悪二元論とか西洋的な善悪デジタル思考より、東洋的というか、さらに言えば日本で完成された大乗仏教的な教説のひとつ唯識思想にある善、悪、無記(有覆無記、無覆無記)の方が世界平和に有益だということです。
    >> ここであなたは真理の基準を力の高揚に換えて,「世界平和に有効」という考えを述べています。

    >ここちょっと分かりません。何故、三性(善、悪、無記)的な倫理観が真理の基準を力の高揚に換えることになるのでしょうか。

    ニーチェの真理基準…力の高揚に有益か否か
    パニチェさんの真理基準…世界平和に有益か否か

    *******************
    ところで、私はウィトゲンシュタインの哲学、とりわけ『論考』については自分なりに長年読み込んできたと思っているので、プロに対してさえ遠慮なくゴーマンかましますが(かましたところで誰も気にしませんし(笑))、他については多少の知識はあったとしてもただのアマチュアなので、たぶんそんなにエラそうには言ってないと思いますよ^^
    ただ、普通の人よりは、さしあたりであっても自分なりの解釈をはっきり提示したりするので(そういう訓練はしているので)、自信過剰に見えるのかもしれませんが。

    【補足】
    ニーチェと仏教思想を結び付けて解釈したような手頃な著作をご存じであれば、教えてもらえますか?

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