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■19179 / inTopicNo.73)  ポーカーのチェック
  
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/21(Sun) 10:24:16)
    2021/11/21(Sun) 10:37:31 編集(投稿者)

    エースのフルハウス(これに勝てる役はフォーカードかストレートフラッシュしかない)が自分の役として成立している場合。
    初めのベット(チップを賭けること)でドカッと賭けてしまうと全員が降りてしまい、もの凄い役であるにもかかわらずその勝負では場代しか儲からないという事態にもなりかねない。ここが麻雀とポーカーの大きな違い。

    勝負に付いて来させる策略として初回のベットにチェック(レイズせずに参加する)すれば、誰かがレイズしてくる確率が高まる。
    要するにほぼ勝てる役を持っているにもかかわらず、わざと弱気とも思えるチェックにとどめ、他のプレーヤーを泳がせてみるということ。

    誰かがドカンっとレイズすればしめたもの。
    次回のベッドでさらにドカン、ドカンとレイズする。

    ここで相手が降りればまだ大負けはするが致命傷にはならない。
    降りずにさらに勝負をしかけてくると相手にとっては致命的な勝負となり、これに負ければ取返しがつかない。

    わしゃYahoo!掲示板時代から「池乃めだか叩き」をやろうと思った相手にはこのチェック的策略でもって泳がせ、さまざまな言説を取る。
    ほめられた手法ではないが、なんか楽しいんやなぁ〜。

    毒入りパニチェとすれば。。。

    https://www.youtube.com/watch?v=bo5KJE6ls-U

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■18958 / inTopicNo.74)  長い長い
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/16(Tue) 22:20:25)
    言い訳めいた屁理屈コキの返信はええで。

    引用してくれたらそれでええねんから。

    引用できないなら、ザビビのフクロ的藁人形論法決定!!
引用返信/返信 削除キー/
■18957 / inTopicNo.75)  毒入りパニチェ
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/16(Tue) 21:46:34)
    No18926に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > 私はいつまでこのニークラにいられるかわかりませんが、それはさておき、

    安心しろ。
    わしから追い出すようなことはないから。
    なんか久しぶりに毒入りパニチェをやりたくなった(爆)
    悪趣味ながら、こんな楽しいことはない!
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■18931 / inTopicNo.76)  Re[7]: シャーロキアン
□投稿者/ flora -(2021/11/16(Tue) 03:33:51)
    No18926に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    ザビビのふくろうさん、ご丁寧なお返事ありがとうございました。

    > レスをありがとうございます。
    > ホームズの話は、また改めて、田秋さんのトピのほうへ、お二人に向けて書かせていただきますm(__)m

    田秋さん、きっと喜ばれますよ!^^
    *********
    デカルトのcogito ergo sumに関して哲学関連の方々が色々書かれていたと思いますが、
    私にとっては、ホームズの「パイプ三服分の問題」(!)どころか、百万回吸ってもわからない問題でした。特に「私」と「考える」がなぜ繋がるのか、ずっと理解ができないでおりました。 アリストテレスの論理学の捉え方を伺い、主語とその属性という物事をとらえ方ということを伺い理解できるようになりました。やはりなんでもそうですが、学問というのは途中の一部分を切り離しても理解できるものではないと身に沁みて感じました。ど素人の質問にご丁寧にお答えくださりありがとうございました。

    > 私はいつまでこのニークラにいられるかわかりませんが、それはさておき、
    > こちらこそ、よろしくお願いします。

    こちらこそ引き続きよろしくお願いします。m(__)m
引用返信/返信 削除キー/
■18926 / inTopicNo.77)  Re[6]: シャーロキアン
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/16(Tue) 00:16:48)
    floraさん

    レスをありがとうございます。
    ホームズの話は、また改めて、田秋さんのトピのほうへ、お二人に向けて書かせていただきますm(__)m
    ************
    レスを読ましていただいて、私の書いたことを理解していただいたようで、うれしく思っています。

    >偽の状況(夢や幻想等)においても「考えている」行為は真である、その主体は自分であり、考えて自分が真である限り、考える自分は存在する・・・か・・・
    >色々とどうもありがとうございました。 クリシュナムルティなどは、「思考者はなく思考だけ」が存在する等を色々なところで公演さなったりしたと思いますが、この発想は西洋哲学の基本である思考の属性を取り払ったものなのですね・・・ どうもありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。

    クリシュナムルティのことは私わかりませんが、おそらくそれは無主体論と言われる考え方に近いのじゃないかと思います(違っていたらすみません)。
    後に、そういう、実体としての自我を否定する考えは西洋哲学でも生まれました。
    また、No18471に、全く同じというわけではないと思いますが、近い考えを少しだけ述べました。

    私はいつまでこのニークラにいられるかわかりませんが、それはさておき、
    こちらこそ、よろしくお願いします。

引用返信/返信 削除キー/
■18923 / inTopicNo.78)  Re[5]: シャーロキアン
□投稿者/ flora -(2021/11/15(Mon) 20:56:07)
    ザビビのフクロウさん、大変ご丁寧なお返事ありがとうございます。

    >私は中学生のとき、ホームズ作品全編を読破したホームズファンでもありましたので、
    田秋さんのトピでの、floraさんが撮影されたと思われるベーカー街221番地Bの写真を見て、お〜っ、と思っておりました^^

    お〜〜そうだったのですか^^、あの写真はネットから拝借したものなんですが(爆)、あなたもSHのファンだと伺い大変うれしく思います^^。ところでジェレミーブレットがSHを演じる英国のTVシリーズもご覧になられましたか?

    >この住所かドイルのところか忘れましたが、たしかホームズ探偵譚が執筆されていたころ、彼が実在の探偵と信じた人から仕事依頼の手紙が届いた、というような話を読んで、ワクワクしていたことを懐かしく思い出しました。

    非常に記憶に薄いんですが、時代はもっと遡り、ファンレターがたくさん届いた時期にはその住所は不動屋産の事務所があり、一名のスタッフが専属で返事を書いていたということをどこかで読みました。現在はホームズ博物館になっていますね^^
    ****************

    >まず、いわゆるデカルト的懐疑はよろしいでしょうか?
    >彼は本当に確実だと言えるものを求めて、真理だと思われているもの、確実だと思われているものすべてを疑った。これはいわゆる思考実験です。
    >そうして現実だと思われているものすべては夢かもしれない、今風?に言えば、映画「マトリックス」的に、ひょっとするとすべてコンピュータに見せられている幻にすぎないかもしれないと疑うことができ、確実と言えるものは何一つないかに思われた。

    つまり例えば夢の中やマトリックのような状態に自分があったとしても、その状態の中でさえ、「私は考えている」ことは真であるということなんですね?

    >自分の身体でさえ、幻かもしれないわけだから。

    そうすると「私」と「その考え」はどのように結びつけるのかという疑問を読みながら持ったのですが、ザビビのふくろうさんのご投稿にのちのほうにアリストテレス論理学のご説明を下さり、

    >西欧の思考は、その言語の「主語―述語」という文形式を範型にして、事物の在り方を捉えていました。たとえば、
    >「この花は赤い」
    >は、主語の指示対象である“この花”、これが基体(実体)であり、
    この基体(実体)の“この花”が、述語「赤い」の意味する属性「赤い色」を有する、という捉え方。
    > つまり、基体(この花)に、属性(赤い色)が属する
    >という形式で、事物の在り方を捉えていたわけです。
      主語―述語 
    ∽ 基体―属性 
    ∽ この花―赤い色

    >このこと自体は、要するに、「(実体としての)物が、何等かの性質を有している」ってことだな、というふうに理解すれば、そんなに不自然ではないと思います。

    >それで、この範型で「私は考える」を捉えると、
    > “私”という基体(実体)が、“思惟”という属性を有している
    >というふうに解釈できるわけです。

    とご説明いただきました。西洋哲学の思考の基本の部分として、動作(動詞等)が主語と属性として密接に結びついているという風にとらえれば、自分があり、「考えている」場合必然的に疑いもなく自分が考えているという解釈が導かれるということなんですね。話はそれますが、ラテン語、ギリシャ語等は、動詞に主語はすでに組み込まれているんですよね〜。(動詞の変化で主語がわかる)そういうことからも属性ということ、理解できたような気がします^^;

    >直感的・シンプルに、まとめておきます。
     「今自分は考えている」「今自分は考えている」「今自分は考えている」…
    と考えているとき、このことが偽であると、すなわち「今自分は考えていない」と考えることは不可能である。
    すなわち、自分が今考えている限り、このことは疑い得ない。。
    よって、考える自分(=私)は存在する!

    偽の状況(夢や幻想等)においても「考えている」行為は真である、その主体は自分であり、考えて自分が真である限り、考える自分は存在する・・・か・・・
    色々とどうもありがとうございました。 クリシュナムルティなどは、「思考者はなく思考だけ」が存在する等を色々な色々なところで公演さなったりしたと思いますが、この発想は西洋哲学の基本である思考の属性を取り払ったものなのですね・・・ どうもありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。

引用返信/返信 削除キー/
■18921 / inTopicNo.79)  Re[4]: ミネルヴァのふくろう
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/15(Mon) 20:40:26)
    No18874
    ザビビのふくろうさん、あとアットちゃん、
    ありがとね。意味わかったよ。

    わたし「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」っていうのけっこう気に入ってるのね。「アテネ」っていうのもいいけど、「悪魔ちゃん」を改名するんだったら「ミネルヴァ」かな〜?
    あ、これわたしごとだからどうでもいいことね。

    これだけじゃなんだから、
    「存在」についてなんだけど、わたし、
    「存在とは何か?」っていう問いの設定は無意味、ってしてる。



引用返信/返信 削除キー/
■18916 / inTopicNo.80)  シャーロキアン
□投稿者/ 田秋 -(2021/11/15(Mon) 20:25:23)
    2021/11/15(Mon) 20:29:25 編集(投稿者)

    こんばんは、ザビビのふくろうさん

    ホームズ物を全部読まれたとのこと、おめでとうございます(というのもヘンですが)。

    floraさんもボクもシャーロキアンで、時々ホームズ関連で盛り上がっています。
    ザビビのふくろうさんの一番のお気に入りの事件というのがもしあればお聞かせください。因みにボクのお気に入りは《空き家の冒険》と《赤ひげ同盟》です。

    自己紹介をしておきます。
    https://tvuch.com/search/254/
    ビオラセクション(客席から見て指揮者の右側)の4プルト(4列目)の表(客席側)で弾いている白髪頭のおっさんがボクです。2016年とありますから退団の1年前です。

引用返信/返信 削除キー/
■18907 / inTopicNo.81)  floraさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/15(Mon) 16:21:22)
    floraさん、初めまして。
    レスをありがとうございます。
    私は中学生のとき、ホームズ作品全編を読破したホームズファンでもありましたので、
    田秋さんのトピでの、floraさんが撮影されたと思われるベーカー街221番地Bの写真を見て、お〜っ、と思っておりました^^
    この住所かドイルのところか忘れましたが、たしかホームズ探偵譚が執筆されていたころ、彼が実在の探偵と信じた人から仕事依頼の手紙が届いた、というような話を読んで、ワクワクしていたことを懐かしく思い出しました。
    ****************
    >デカルトのcogito, ergo sum, これはデカルト本人の表現ではなく、デカルトのフランス語を訳者がそのようにラテン語に訳したということですね。 ここのsumが今お話になられている或るという動詞に当たると思います(ラテン語では動詞の変化に主語が含まれる)

    そうらしいですね。もとのフランス語
    「je pense,donc je suis」
    で考えたほうが、たぶんデカルトの意図をよく示しているのではないかと思います。
    主語がきちんと書かれていますので(私はラテン語も仏語もわかりませんが(;^_^A)。

    >デカルトはEgo(自分)があるのは「あーだこうだと考えている自分だけは存在する」と言っているのでしょうか? そうすると自分=自分の思考でしょうか?
    >まったく素人で申し訳ないのですが、長年理解できずにいることで、お力をお借り出来れば幸いに思います。

    私も専門家ではありませんが、私が勉強した限りで、答えさせていただきます。
    哲学の常でいろいろな解釈はあると思いますが、一応代表的な解釈になろうかと思います。
    また、わかりやすさを優先しますし、能力的にも正確さに欠けるかもしれませんが、ご了承ください。

    「デカルトはEgo(自分)があるのは「あーだこうだと考えている自分だけは存在する」と言っているのでしょうか? そうすると自分=自分の思考でしょうか?」

    このように疑問を書いてくださったんですが、いまひとつfloraさんの腑に落ちないポイントが正確にはわかりませんので、とりあえず、一般的な説明をさせてください。実は前にも、こういう説明を別の掲示板で何度か行ったことがあり、一部、それを利用します。

    まず、いわゆるデカルト的懐疑はよろしいでしょうか?
    彼は本当に確実だと言えるものを求めて、真理だと思われているもの、確実だと思われているものすべてを疑った。これはいわゆる思考実験です。
    そうして現実だと思われているものすべては夢かもしれない、今風?に言えば、映画「マトリックス」的に、ひょっとするとすべてコンピュータに見せられている幻にすぎないかもしれないと疑うことができ、確実と言えるものは何一つないかに思われた。自分の身体でさえ、幻かもしれないわけだから。
    ところがその懐疑の果てに、「私は考えている(je pense)」ということだけは、疑い得ない、不可疑であるということを見出したわけです。
    これ、私も昔、実感したときけっこうおもしろかったので、floraさんにもちょっと実際にやってみていただきたいのです。これはおそらく、デカルトの思考の追体験になるかも、と思います。

    「私は今考えている」と、我々は考えることができますね。
    floraさんも、実際に今、頭の中で、このように考えてください。
    「私は今考えている」「私は今考えている」「私は今考えている」「私は今考えている」…
    考えましたか?
    で、「私は今考えている」と考えているとき、この事実が偽(間違い)であると考えられるでしょうか?

    次のように質問を言い換えてもいいでしょう。
    「私は今考えていない」が真(本当)であると考えられますか?
    実際に、
    「私は今考えていない」
    と繰り返し、頭の中で考えてください。
    「私は今考えていない」「私は今考えていない」「私は今考えていない」「私は今考えていない」「私は今考えていない」…

    この自分の思考「私は今考えていない」が、正しいと考えられますか。
    この「私は今考えていない」という文が、真でありうると考えられますか。
    考えられないはずです。
    「私は今考えていない」
    といくら頭の中で考えても、これは偽であることが自分にはわかるはずです。
    だって、これが夢の中であろうと、「私は今考えていない」とまさに今“考えている”からです。
    つまり、どう考えたって、
    「私は今考えていない」という命題は、偽でしかありえない、すなわち、
    私が今考えていることは、絶対に真でしかありえない、不可疑である、というわけです。

    ということで、
    私は今考えている
    の真をデカルトはめでたく樹立したわけです。
    このことは、現実と思っている世界が夢であろうが、自分がVRゲームのモブキャラであろうと、何であろうが関係なく成り立ちます。仮に自分の体が存在しなくたって、自分が考えている限り、この「私が考えている」ということを疑うことは不可能ということです。

    そうすると今度は、次のように考えることは論理的に全く自然ではないでしょうか。
    すなわち、「私が考えている」が真理なら、当然、「考えている私がいる」も真理である、と。
    なぜなら、考えている私がいないのなら、私が考えている、ということも成立のしようがないから。
    たとえば、「私は走っている」が真だと仮定しましょう。
    この、「私は走っている」ということ自体は確実とは言えません。そう思っていたとしても夢かもしれないわけですから。
    しかし、真であると仮定したら、当然、「走っている私が存在する」も真だろう。私が存在しないのなら、私が走っているということは成立しようがないから。
    ところが「私は考えている」は実際に自分が考えている限り偽ではありえない、すなわち真なのですから、当然、考えている私が存在する、と言えるはずです。
    「私は考えている」 ⇔ 「考えている私は存在する」

    ここにはある推論が働いています。
    少し詳しく説明します。
    私がアリストテレス論理学云々といったのは、ここに関わるのですが、
    西欧の思考は、その言語の「主語―述語」という文形式を範型にして、事物の在り方を捉えていました。たとえば、
    「この花は赤い」
    は、主語の指示対象である“この花”、これが基体(実体)であり、
    この基体(実体)の“この花”が、述語「赤い」の意味する属性「赤い色」を有する、という捉え方。
     つまり、基体(この花)に、属性(赤い色)が属する
    という形式で、事物の在り方を捉えていたわけです。
      主語―述語 
    ∽ 基体―属性 
    ∽ この花―赤い色

    このこと自体は、要するに、「(実体としての)物が、何等かの性質を有している」ってことだな、というふうに理解すれば、そんなに不自然ではないと思います。

    それで、この範型で「私は考える」を捉えると、
     “私”という基体(実体)が、“思惟”という属性を有している
    というふうに解釈できるわけです。
    したがって、次の推論が可能になるはずです。
    「この花が赤い」が真なら、「赤いこの花(基体)が存在する」が真でなければならない」
    「私が考える」が真なら、「考える私(基体)が存在する」が真でなければならない。

    このようにして、デカルトは「考える私」、いわゆるデカルト的自我の存在を導いた、と解釈できるのです。

    [簡単なまとめ]
    直感的・シンプルに、まとめておきます。
     「今自分は考えている」「今自分は考えている」「今自分は考えている」…
    と考えているとき、このことが偽であると、すなわち「今自分は考えていない」と考えることは不可能である。
    すなわち、自分が今考えている限り、このことは疑い得ない。。
    よって、考える自分(=私)は存在する!

    こんな感じでいかがでしょうか。
    後に、いろんな哲学者に批判されますが、
    それなりに十分面白いと私は思います。
    だって、普通に考えて、
    自分が考えているとき、自分が存在しないなんて考えられるでしょうか?
    「私は存在しない」「私は存在しない」「私は存在しない」「私は存在しない」
    真だと考えられますかね?

    floraさんは、どうお感じになられたでしょうか。

    なお、以上の解釈は、『方法序説』の議論に基づいています。
    参考になれば幸いです。

引用返信/返信 削除キー/
■18901 / inTopicNo.82)  Re[6]: アートポットさんへ
□投稿者/ アートポット -(2021/11/15(Mon) 11:47:47)
    No18878に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > アートポットさん
    > こんばんは。
    >
    > >ザ掲示板 → ザBBS → ザ ビービーエス → ザビビ
    >
    > >ていうわけです。
    > >ザ掲示板 で サーチすれば、掲示板に辿り着けるよ。
    >
    > なんと簡にして要を得た補足説明!
    >
    > ありがとうございます〜
    >

    おはようございます、ザビビのふくろうさん

    どういたしまして。 (゚∀゚)
引用返信/返信 削除キー/
■18879 / inTopicNo.83)  Re[2]: 存在とは何か
□投稿者/ flora -(2021/11/14(Sun) 22:01:46)
    No18839に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    ザビビのふくろうさん、こんにちは フローラと申します。
    初めまして

    私は哲学に関してまったく無知です。それであなたに質問していいのかどうか迷ったのですが、以下よろしくお願いします。



    > もうひとつ。「〜とは…である」という形式の語る定義の問題点。
    > 「私とは何か?」と言う問いをアリストテレス的名辞論理学の存在論(物的世界観)を前提にして答えようとするとき、「私」の指示対象としての実体(基体)である自我が措定されることになった。
    > 同じように「存在」の意味を、「存在とは何か?」と文から切り離して問う場合、いわばあらゆる「ある」に共通する意味としての“存在”があるということが前提、ドグマとなってしまう。

    デカルトのcogito, ergo sum, これはデカルト本人の表現ではなく、デカルトのフランス語を訳者がそのようにラテン語に訳したということですね。 ここのsumが今お話になられている或るという動詞に当たると思います(ラテン語では動詞の変化に主語が含まれる)
    デカルトはEgo(自分)があるのは「あーだこうだと考えている自分だけは存在する」と言っているのでしょうか? そうすると自分=自分の思考でしょうか?

    まったく素人で申し訳ないのですが、長年理解できずにいることで、お力をお借り出来れば幸いに思います。


引用返信/返信 削除キー/
■18878 / inTopicNo.84)  アートポットさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/14(Sun) 22:01:41)
    アートポットさん
    こんばんは。

    >ザ掲示板 → ザBBS → ザ ビービーエス → ザビビ

    >ていうわけです。
    >ザ掲示板 で サーチすれば、掲示板に辿り着けるよ。

    なんと簡にして要を得た補足説明!

    ありがとうございます〜

引用返信/返信 削除キー/

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