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■No37550に返信(悪魔ちゃんさんの記事) > いまのわたしの物語りは、 > No37496の(a-q)。 > > No37499の「内的時間意識」について、わたしのもうちょっとあるんだけど、後にするとして、 > 次に、「キネステーゼ」っていうの、 > No37189で少し抜粋したけど、めんどくらいから全部書き写しちゃうヨ〜。 > > (K-1)‥‥‥‥・・・ > 「キネステーゼ」は、ギリシャ語のキネーシス〔運動〕(κίνησις)とアイステーシス〔感覚〕(αΐσθησις)とから合成された述語で、それを直訳してドイツ語でBewegungsempfindungと表示されることもある。フッサールでは、1907年のいわゆる「物」講義(『物よ空間』)や『受動的綜合の分析』、『危機』などで論じられているもので、通常その言葉から想像されるような「運動の感覚」を意味するのではなくて、むしろ運動と感覚との不可分な結合、ないしは運動としての知覚を意味する。 > 物は射映する、つまり自らを主体の体験に一挙に与えることなく、つねに多面的に自己を呈示するのであるが、その過程は、フッサールによれば、さらに遡って、その過程に相関的なキネステーゼ的過程と結びついている。たとえば、物はいつもある側面において与えられているが、それは知覚の過程とともに多様に変化して推移してゆくのであって、それを何かの自己呈示態としてとりまとめることではじめて、それは何かある物の現出となる。感覚的に与えられるものには質的契機と延長的契機という二つの契機があり、それぞれアスペクト与件と位置与件と呼ばれるのであるが、これら二つの契機が一体となって働くことではじめて、そのつど感覚に与えられるものが何かある物の自己呈示態となる。言いかえると、物が自己を呈示するときのそのアスペクト与件の変化や交替われわれが身体を自由に動かすことによって可能になる位置与件の変化や交替によって制約されており、感覚する働きはこの身体の運動と一体となることではじめてその呈示機能をはたすことができる。そしてこの感覚と運動の不可分の統一態が「キネステーゼ」と呼ばれるものである。そしてその上で次のように言われる。 > 「連続的な知覚においては、一つの物が、直接的な現前という端的な存在確信のうちで私に対して立ち現われている。すなわち、私が、自分の運動感覚を働かせながら、ともに経過するさまざまの呈示を、ともに帰属しあうものとして体験するとき、多様な仕方で自分を呈示する一つの物が顕在的に現前しているという意識が維持される。この物のさまざまな呈示は変移するキネステーゼに帰属している…。顕在的なキネステーゼはキネステーゼ的能力の体系のうちにあるのであるが、この体系には一律調和的に帰属しあう可能的諸契機の体系が相関しているのである。そしてこれが現前している事物をめぐるあらゆる存在確信の志向的背景をなす」と。 > ここでキネステーゼ的能力と言われるのは、身体そのもののもつ構成機能のことである。身体は一方で、その各部分肢が感覚の器官として機能しているわけであるが、他方でそれはいるも「ここ」という位置においてある現出空間の絶対的原点であり、「方向づけの零点」でもある。そしてその身体の各部分肢に局所づけられた感覚が、その身体の変移する位置と連動しながら、物の現出過程を織りなしていく。言いかえると、物の現出の連続的連関と、キネステーゼ的に機能する身体性とが一つに結びついて、物の現出を「キネステーゼ的に動機づけている」わけである。この過程は一方で、主体での方向で、私がいまここにいるという「絶対的ここ」の意識として「私は動く」「私はなす」という自己意識を発生させるとともに、他方では、対象への方向で、その相関者としてキネステーゼ的な領野を「自然の基底」として構成してゆく。こうした身体の根源的機能としてのキネステーゼ的意識は、あらゆる物の経験において、その存在確信の基盤として、いつもすでに世界意識と一体となって働きだしているものである。このようにして物の構成につねに居合わせている、それ自身は主題化されることのないこの構成する身体は、「みずからを呈示することなく呈示を可能にする」ものであって、その意味でまさに「根元的身体」として、われわれの経験の「大地」をなすものであると言ってよい。 > なみに、こうしたフッサールのキネステーゼ論を背景に、さまざまの知覚障害・運動障害の事例を引きながら、感受性(sensibillité)と運動性(motricté)との根源的な連繋関係ならびに「方向づけられた空間」を分析し、そこから身体を世界に対する実践的能力として捉え返したのは、『知覚の現象学』第1部のメルロ=ポンティである。 > ‥‥‥‥・・・ > > もうひとつ見つけたの、 > 【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の訳注のなかに、 > (K-2)‥‥‥‥・・・ > Kinasthese:ギリシア語のkinesis(運動)とaisthesis(感覚)からつくられた造語である。当時の心理学界でも「或る特別な筋肉感覚」としての「運動感覚」が論じられていたが、フッサールはそれを根本的に異質な現象学的概念へと改造して使った。「筋肉感覚」は、すでに特定の生理学的・解剖学的知識を前提とする概念であるが、「運動感覚」は、そうした知識をすべて判断停止した後にも残存する、還元すれば、「筋肉」という物体的身体の客観的な運動の手前にある、主観的な働きの感覚である。それは、運動についてもつ感覚なのではなく、むしろ、運動する感覚であるような、動く感覚である。それはまさに、ランドグレーベ門下のウルリッヒ・クレスゲスの言うように、現象学的還元によって獲得される「純粋現象」であった。 > ‥‥‥‥・・・ > ってあった。 > > 長くなっちゃたので、これについての、わたしのは後にする。 >
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■37625
/ inTopicNo.1)
Re[81]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/06/29(Sat) 16:48:08)
ついでに、時間でいうと過去にあたる「記憶」についてネットで調べて見たら、
https://nakamaaru.asahi.com/article/14889125
っていうのあって、この中にあったのをペイントして見たので添付しま〜す。
今わたしが見てるのと比べて見ると
「即時記憶」が現象学で言う「内的時間意識」っていうのに当たるのかも。
「記憶」と「身体」との関係が、「手続記憶」にあたるのかも。
〔過去を主題に振り返る「想起」、未来を主題的に見通す「予期」〕が「長期記憶にあたるのかも。
内容についての分類で、わたしのばあい、「陳述記憶」を「言語的記憶」、「非陳述記憶」っていうのを「身体的記憶」ってして見ようかな、って。
そこはかとなく。
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■37624
/ inTopicNo.2)
Re[80]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/06/29(Sat) 16:18:21)
■
No37613
、
やっぱ、ニーチェでよかったみたい。
パニさん、ありがとございま〜す!
転記してくれたの読んでみて、なんか現象学のと似てる感じ。
(a)「内的世界」の現象論、とか「内的経験」、これ現象学の「内的意識」っていうのと似てて、こういうのから見てる。
(b)現象学で言うと、現在における〔知覚的対象は単なる現前ではなくつねに付帯現前〕だったり、〔投影〕されてるもの。
(c)(b)のような記憶が想起されてる。
みたいなところ。
メルポンは、【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】のなかで、
『現象学はずっと以前から、その道を歩みつつあったのである。その信奉者たちはいたるところに、ヘーゲルやキルケゴールはもちろん、マルクス、ニーチェ、フロイトにもまた、現象学を見出すのである。』
って言ってる。
もっともニーチェのほうがフッサールより先だから、マルクス、ニーチェ、フロイトのとフッサールのとが、間(相互)主観的にフッサールのうちに「現象学」っていうのが抽出されてきたのかも、だけどね。
>個人的な記憶と経験に基づいて捏造される<
ってあるけど、わたしのばあい「捏造」って言うより、「思い込み」かな。
個人的な記憶や経験は、文献(昔の制度・文物を知るよりどころとなる記録や言い伝え。文書。)じゃないし、ようするに「記憶」と「記録」とは異なる、ってわたし見てるいうこと。
だから、「記録」に重きを置くと、『文献学の欠如』っていう見方になるのかも。
でもね、「記録」されてるその内容にも、付帯現前化(思い込み)されてることもあるんじゃないかしら?
引用返信
/
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■37613
/ inTopicNo.3)
Re[79]: つれづれなるままに
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□投稿者/ パニチェ
-(2024/06/28(Fri) 20:26:20)
こんばんは、悪魔ちゃん。横レス失礼!
■
No37609
に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
> ニーチェだっけ? 「原因は結果の先にあるものではない」って言ってたような?(違ったらごめんだけど)を想い出してる。
> これどういうことなのかな?ってずーっと考えてたんだけど、
悪魔ちゃんは記憶力凄いね。
> 結果(今)から振り返って見て、原因はあれ“だった”、ってすると、〔原因は結果より時間的に必ず先行する〕なのかも、だけど。
> でもね、
> 原因となることが行われているその時には、その結果となるべきことは存在してないわけだから、
> その結果が存在するようになって初めて原因が存在するものとして現れてくる、っていうことになるんじゃないかしら。
> そういう結果(今)の“後に”原因が考えられて“存在する”ようになる、ってして見ると、
> 「原因は結果の先にあるものではない」っていうのもありかな、って。
同意です。
以下、ニーチェのアフォリズムの引用も含め『Panietzsche Room > ニーチェU > 第5章ニヒリズム > 10.原因と結果』より転記します。
『「内的世界」の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、「内的経験」の根本事実である・・・同じことが、順々とあらわれる思想についてもあてはまる、──私たちは、まだそれを意識するにいたらぬまえに、或る思想の根拠を探しもとめ、ついで、まずその根拠が、ひきつづいてその帰結が意識されるにいたるのである。・・・私たちの夢は全部、総体的感情を可能的原因にもとづいて解釈しているのであり、しかもそれは、或る状態のために捏造された因果性の連鎖が意識されるにいたったときはじめて、その状態が意識されるというふうにである。
全「内的経験」は、神経中枢の興奮に対して一つの原因が探しもとめられ表象されるということ──また、みいだされた原因がまず意識されるにいたるということにもとづいているが、この原因は本当の原因に対応するということは絶対にない。──それは、以前の「内的経験」を、言いかえれば記憶を根拠とした一つの手探りである。しかるに記憶は、古い解釈の、言いかえれば誤った原因性の習慣をも保存しているのであり、──そのため「内的経験」は、以前につくられた偽りの因果という虚構すべての帰結をもそれ自身のうちにになわざるをえないのである。私たちが瞬間ごとに投影している私たちの「外界」は、根拠についての古い誤謬に解けがたく結びつけられている。それゆえ私たちは「事物」その他の図式でもって外界を解釈するのである。
私たちが「内的経験」を意識するにいたるのは、ようやく、個人が理解することのできる言葉をそれがみだしたのち──言いかえれば、或る状態が個人にとっていっそう熟知の諸状態へと翻訳されたのちにおいてである──。「理解する」とは、言いかえれば、ただ単純に、何か新しいものを何か古い熟知のものの言葉で表現しうることにほかならない。たとえば、「私は気分が悪い」という場合──そうした判断は観察者の偉大な老成した中立性前提する、──ところが幼稚な人間は、これこれのことが私の気分をわるくさせると、つねに言っている──そうした人間は、気分のわるいことの根拠をみとめるときにはじめて、おのれが気分がわるいことが明瞭となる・・・このことを名づけて私は文献学の欠如と言う。その間に解釈をまじえずに原典を原典として読とりうるということは、「内的経験」の最もおくれてあらわれる形式である──おそらくはほとんど不可能な形式であるかもしれない・・・(力への意志 第479番)』
善因善果、悪因悪果などは、その典型例である。事象が起こってからはじめて、その原因をさかのぼり捏造する。しかもそれは個人的な記憶と経験に基づいて捏造されるのである。
仮に善因などというものが先にあるとすれば、悪い結果にも影響を与えているべきであるし、悪因に関しても同様である。
意識の流れや、事象や現象は点在する原因からパラレルワールドの如く、お互いが何の干渉もせず時間軸を進み、それぞれの果が生じるということはないのである。
果は別の因になり、因は別の因の果である。またそれぞれの因が別々に存在するのではなく、時間軸上にも空間軸上にも相互作用を及ぼしあっており、その相互作用(空間的作用)の変化が運動(時間)としてあるのみである。
このことは先に述べたように、因や果などというもの自体が、我々の認識によって捏造されたものであることを指し示している。
馬鹿馬鹿しい話だが、予言書などというもののカラクリも上の通りである。事が起こってから、その事に該当するような予言を探し、予言書を予言書たらしめるべく捏造するのである。
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■37612
/ inTopicNo.4)
Re[79]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/06/28(Fri) 20:16:55)
そこはかとなく、
わたしの、「死んだら終わり」っていうのどういうことなのかな〜、って考えて見たのね。
生きてるときに、
「死にたくない」とか「死にたい」って思ってたことすら無くなる、っていうことなのかな?
「私はいつか死ぬ」っていうのは確かだし。
死後の世界が存在する、っていう、生きてるときの信念は、生きてるとき「死にたくない」って思ってる人にとっては希望をもたせるかもしれないけど、「死にたい」って思った人にとっては残酷な話ね。だって、生きてる世界も死後の世界もも、”ある世界の中で生きること”を強いられてることにはかわりないんだもの。
ふと。
引用返信
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■37611
/ inTopicNo.5)
悪魔ちゃんへ
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□投稿者/ pipit
-(2024/06/28(Fri) 20:10:04)
悪魔ちゃん、返信ありがと!
No37608
>身体や感性、わたしのばあい、「不思議」っていうより、「超越的」かな。<
>AI(人口知能)ロボットが、「テーブルの上のコップに入ってる麦茶を飲む」ことができるのかしら?
人間だったら生後数年でできるようになるとおもうけどね。これができるようになるのは「知能」じゃないのよ。<
私、行為が演算って思いがちだから、
逆に(?)生命ってすごい!!って思っちゃうんだよね。
人工知能を超越した生命のスーパー知能
でもそういうpipitみたいな考え方(演算生命)、一回忘れたほうが、もっとおもしろいものが見えるかもしれないね
ありがとうねー(^O^)/
引用返信
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■37609
/ inTopicNo.6)
Re[78]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/06/28(Fri) 19:44:55)
ネットで調べたんだけど、
【因果律】(英)causality
デジタル大辞泉から、
〔哲学で、すべての事象は、必ずある原因によって起こり、原因なしには何ごとも起こらないという原理。…‥古典物理学では、哲学と同じくすべての事象の原因と結果の間に一定の関係が存在し、原因は結果より時間的に必ず先行すると考え、ある時刻の系の状態が与えられれば、それ以後あるいは以前の系の状態が必然的かつ一意的に決定する。・・・・〕
ってあった。
簡単に見ると、「結果には必ず原因がある」っていうことなのかな。
たとえそうだとしても、原因がどのようなものだったの?の方が関心的問題なんじゃないかしら?
あ、わたしが気になったのはこれじゃなくて、
「原因は結果より時間的に必ず先行すると考え」
っていうところ、ほら、いま現象学の「内的時間意識」を見てるし。あ、これ、「想起」と「予期」っていうのと違う次元のこと見たいなんだけど、いづれにしても「時間」を問題としてる。
あ、これはいいわ。
ニーチェだっけ? 「原因は結果の先にあるものではない」って言ってたような?(違ったらごめんだけど)を想い出してる。
これどういうことなのかな?ってずーっと考えてたんだけど、
結果(今)から振り返って見て、原因はあれ“だった”、ってすると、〔原因は結果より時間的に必ず先行する〕なのかも、だけど。
でもね、
原因となることが行われているその時には、その結果となるべきことは存在してないわけだから、
その結果が存在するようになって初めて原因が存在するものとして現れてくる、っていうことになるんじゃないかしら。
そういう結果(今)の“後に”原因が考えられて“存在する”ようになる、ってして見ると、
「原因は結果の先にあるものではない」っていうのもありかな、って。
引用返信
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■37608
/ inTopicNo.7)
Re[77]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/06/28(Fri) 19:33:59)
pipitさま、こんばんは〜^^
つれづれなるままに――孤独であるのにまかせて――、で、それでもいいかな、って思ってたんだけど、
それでもやっぱ、しばらくだれもここに遊びに来てくれないからちょっと寂しかった。ありがと。
最近わたしデカルトの言う「cogito(コギト)」っていうの、「より高度に発達した考えること」ってしてる。
身体や感性、わたしのばあい、「不思議」っていうより、「超越的」かな。
AI(人口知能)ロボットが、「テーブルの上のコップに入ってる麦茶を飲む」ことができるのかしら?
人間だったら生後数年でできるようになるとおもうけどね。これができるようになるのは「知能」じゃないのよ。
身体や感性は、コギトを超越してるみたいな。
>悪魔ちゃんは、不思議にはあんまり思わない?<
に応えられてるかどうかわかんないけど、ごめんねこれぐらいしか思いつかなった。
また遊びに来てね。
「因果律」どういうのか知らなかったから調べて見て、なんか思うことあったから次に書いて見るね。
引用返信
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■37600
/ inTopicNo.8)
Re[76]: つれづれなるままに
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□投稿者/ pipit
-(2024/06/27(Thu) 23:03:43)
悪魔ちゃんこんばんは!おじゃまですー
No37598
ふと思ったんだけど、体動かしたら麦茶飲めるというのも因果律で考えて行動してるのかなー
飲みたい欲があって、目的に向かって身体を使って行動できる。
無意識で原因と結果を考えてるのかなー。
身体も不思議なんだよね
世界に、自分の意志で位置を変化しやすい物質(身体)と、変化しにくい物質があるのが、なんか不思議と言えば不思議な気持ちになって。
悪魔ちゃんは、不思議にはあんまり思わない?
引用返信
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■37598
/ inTopicNo.9)
Re[75]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/06/27(Thu) 19:43:32)
No37595
のように内的時間意識っていうのを見たところで、
キネステーゼ(運動する感覚)と内的時間意識を絡めて、
「テーブルの上のコップに入ってる麦茶を飲む」
っていうことで見て見たのね。
現象学で言う「世界」っていうの、どうやら「生活世界」みたいなのね。そして現象学的還元を乳幼の頃に遡ってそのうちで見る、っていうことだとしたら、わたしの生活のなかでのわたしがやってることを見てみればいいんじゃないかなって。
〈re-tension(把持)〉−〈tension(現)〉−〈pro-tension(予持)〉で、
〈re-tension(把持)〉を〈re-〉、〈pro-tension(予持)〉を〈pro-〉、ってするよ。
〈現〉を、テーブルの上に麦茶が入ってるコップがあって、それを飲もうとする時、ってするね。
〈re-〉は、“麦茶を飲みたい”って思って、コップに麦茶をそそぎ、テーブルの上に置いた。
〈pro-〉は、これから麦茶を飲もうとすること。
ってして、
〈現〉から始めるね。
(A)そのコップを持つために、わたしの体をコップを持つことができるための姿勢にして(逆立ちしてちゃ上手に飲めないよね)、コップに届くための距離だけ腕を伸ばし、手は、コップの質感、どの程度の重さか、によってちょうどいい力加減で指でコップをつかみ、麦茶をこぼさないように持ち上げて、手や腕、体のバランスをとりながら、ちょうどいい速度で動かしながら、伸ばした腕を曲げてゆき、コップのはしが唇に上手に触れるように、頭の位置も調整しながら、動かしていく。麦茶を飲むときには、麦茶が口からこぼれないように唇を上手につぼめ、一回に飲める量だけが口の中にはいるように、上手にコップ傾けながら、頭は少し上に傾け、口の中に注ぎ込む。息を止め、口に中に入った麦茶をゴックン、って飲み込む。飲み込むときには、気管に麦茶が入り込まないように喉を上の方に動かして気道にふたをして食道の方に麦茶を流し込む。
「テーブルの上のコップに入ってる麦茶を飲む」というときの、〈自〉に現れるキネステーゼ(運動する感覚)的なのを言葉で表現してみたつもりなんだけど上手に言えてるかな。
いづれにしてもこういう一連の、その物とわたしの体の動かし方の関係において、ふだんわたし自然と無意識的にできてるのね。これを、麦茶を上手に飲めるために、そのコップの重さはどれくらいなのか?わたしとコップとの距離はどれくらいなのか?わたしの体をどのように動かしたらよいのか?みたいなの、いちいちわたし“観察したり、計測したり、考えて”ないのね。
“感じ”のなかでしてるんだと思う。“感じ”のなかで、上手に飲めることができる、っていうことは、その“感じ”は正確なもの、とも言えるかも。
そしてね、
〈現〉のとき、すでに(A)のような体の動かし方は無意識的にイメージされてるんじゃないかしら、って。
〔「いますぐに」来らんとすることを「もう」先取りする〕っていう〈pro-〉ね。
で、Aは、〈現〉の時の〈pro-〉になってる、ってして見た。
乳幼の頃は体験が少ないから、〈pro-〉があんまりなくて、コップを持とうとして倒したり、麦茶をこぼしたり、口から麦茶をこぼしちゃったりして、コップを使って飲むことが難しいのかも。
ん?ってすると、〈pro-〉をつくっているのは〈pre-〉って見ることもできるかも?
No37499
の〔未来予持は裏返しにされた過去把持〕っていうの、こういうことを言ってるのかな?
もっとも、乳幼児はまだ不器用だから、で済ましてしまってもいいんだけどね。
乳幼の頃は、まず体の使い方を覚えることから始まって(たとえば腕は内側にしか曲がらない、外側には曲げることができない、みたいな)、そして、外界の物と体の関係を覚えていく、こうすればこうなるということを楽しむかのように。
みたいなのをどこかで見た気がする。(乳幼の頃っていうのは生後生後6ヵ月〜18ヵ月の頃ってしてるよ)
「覚える」っていうのは〈(私の)自〉においてね。
〈(私の)自〉と〈(私の)体〉と「外界の物」との関係をキネステーゼや内的時間意識ということから見て見たのね。
たぶん、ふつうに大人になった人にとってはどうでもいいこと。
いま現象学に倣って乳幼の頃のこと見てるんだけど、
でもね、高齢になって‥‥っていうのあるみたい。
引用返信
/
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■37595
/ inTopicNo.10)
Re[74]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/06/26(Wed) 18:32:34)
今日はもうちょっと
No37594
で、フッサールのからわたしに浮かんだ〈自〉って名づけた“そのようなもの”の輪郭が少しづつ見えてきたところで、
「内的時間意識」に戻るね。
No37499
の訳注から、
〔In-tention(志向)〕って(志向)ってあるけど、〔In〕って言うのを〈内的〉とか〈意識内〉ってして、〔tention〕を英語の〈tension〉ってして、〈緊張〉。だから〔In-tention〕を〈内的緊張〉ってして見た。
〈tension〉に、(後ろに)のre-がついた〈re-tension〉を〔把持〕、(前に)のpro-がついた〈pro-tension〉を〔予持〕ってして見た。
〔原印象〕って日訳されてる〔Urimpression〕を〈tension〉、〔原印象〕を〈現〉ってして見た。
こういうのから、〔過去把持−原印象―未来予持〕を、
〈re-tension(把持)〉−〈tension(現)〉−〈pro-tension(予持)〉
ってして見ることにした。
〈tension(現)〉っていうのは、(たった今)の内的緊張のことで、「現在化」の〈端的な知覚〉みたいなの。
こういうの、〈自〉と絡めて見ると、
〈自〉のうちに、〈tension(現)〉が現れるんだけど、それは、流れ去る内的意識のなかで、〈re-tension(把持)〉と〈pro-tension(予持)という時間的幅を持った現在の地平をなしてる。
みたいな感じになるかな。
図にして見たので添付して、ちょっと書くと、
re-はre-tension(把持)、pro-はpro-tension(予持)の略ね。
aの時の現は、bの時にはre-、aのpro-はbの時には現・・・・こういうふうにつづいていくのね。
No37499
の、〔過去把持の過去把持〕っていうの、cの時の、〔「bの現」の「aの現」〕っていうことになるかな。
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■37594
/ inTopicNo.11)
Re[73]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/06/26(Wed) 18:21:42)
わたしの物語りつづける。
No37562
みたいなことを考えてるなかで、
わたしが想像してる〈自〉っていうの、
No37365
で見たように、フッサールのモナドと絡めて、
〈自〉=意識の原初自然な固有の媒介の場(領域)
っていまなってるんだけど、
媒介の場としての〈自〉に現れてくるものとして、
〈感知性(外界のものの感-知覚)〉、〈考知性(思-考)〉、〈記憶〉からの、の他に、〈身体の運動する感覚〉みたいなのも現れてきてることにしたよ。
〈感知性(外界のものの感-知覚)〉と〈身体の運動する感覚〉は、〈(私の)体〉を媒介とした私の外と内との間(相互)的関係にあるから、非対象化的・非主題的に見ることになるのかな。
あと、
〈自〉には、欲望や情や想像が住んでる、とも見てる。
ちなみにわたしが〈自〉って名づけたもの始まりは、
No36717
っていうことからね。
引用返信
/
返信
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■37585
/ inTopicNo.12)
Re[72]: つれづれなるままに
▲
■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/06/25(Tue) 18:37:24)
そこはかとなく、ね
世界の分類の仕方が異なると、そこから派生する見方・考え方が異なってるのかも。
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