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No37613 の記事


■37613 / )  Re[79]: つれづれなるままに
□投稿者/ パニチェ -(2024/06/28(Fri) 20:26:20)
    こんばんは、悪魔ちゃん。横レス失礼!

    No37609に返信(悪魔ちゃんさんの記事)

    > ニーチェだっけ? 「原因は結果の先にあるものではない」って言ってたような?(違ったらごめんだけど)を想い出してる。
    > これどういうことなのかな?ってずーっと考えてたんだけど、

    悪魔ちゃんは記憶力凄いね。

    > 結果(今)から振り返って見て、原因はあれ“だった”、ってすると、〔原因は結果より時間的に必ず先行する〕なのかも、だけど。
    > でもね、
    > 原因となることが行われているその時には、その結果となるべきことは存在してないわけだから、
    > その結果が存在するようになって初めて原因が存在するものとして現れてくる、っていうことになるんじゃないかしら。
    > そういう結果(今)の“後に”原因が考えられて“存在する”ようになる、ってして見ると、
    > 「原因は結果の先にあるものではない」っていうのもありかな、って。

    同意です。
    以下、ニーチェのアフォリズムの引用も含め『Panietzsche Room > ニーチェU > 第5章ニヒリズム > 10.原因と結果』より転記します。

    『「内的世界」の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、「内的経験」の根本事実である・・・同じことが、順々とあらわれる思想についてもあてはまる、──私たちは、まだそれを意識するにいたらぬまえに、或る思想の根拠を探しもとめ、ついで、まずその根拠が、ひきつづいてその帰結が意識されるにいたるのである。・・・私たちの夢は全部、総体的感情を可能的原因にもとづいて解釈しているのであり、しかもそれは、或る状態のために捏造された因果性の連鎖が意識されるにいたったときはじめて、その状態が意識されるというふうにである。
    全「内的経験」は、神経中枢の興奮に対して一つの原因が探しもとめられ表象されるということ──また、みいだされた原因がまず意識されるにいたるということにもとづいているが、この原因は本当の原因に対応するということは絶対にない。──それは、以前の「内的経験」を、言いかえれば記憶を根拠とした一つの手探りである。しかるに記憶は、古い解釈の、言いかえれば誤った原因性の習慣をも保存しているのであり、──そのため「内的経験」は、以前につくられた偽りの因果という虚構すべての帰結をもそれ自身のうちにになわざるをえないのである。私たちが瞬間ごとに投影している私たちの「外界」は、根拠についての古い誤謬に解けがたく結びつけられている。それゆえ私たちは「事物」その他の図式でもって外界を解釈するのである。
    私たちが「内的経験」を意識するにいたるのは、ようやく、個人が理解することのできる言葉をそれがみだしたのち──言いかえれば、或る状態が個人にとっていっそう熟知の諸状態へと翻訳されたのちにおいてである──。「理解する」とは、言いかえれば、ただ単純に、何か新しいものを何か古い熟知のものの言葉で表現しうることにほかならない。たとえば、「私は気分が悪い」という場合──そうした判断は観察者の偉大な老成した中立性前提する、──ところが幼稚な人間は、これこれのことが私の気分をわるくさせると、つねに言っている──そうした人間は、気分のわるいことの根拠をみとめるときにはじめて、おのれが気分がわるいことが明瞭となる・・・このことを名づけて私は文献学の欠如と言う。その間に解釈をまじえずに原典を原典として読とりうるということは、「内的経験」の最もおくれてあらわれる形式である──おそらくはほとんど不可能な形式であるかもしれない・・・(力への意志 第479番)』

    善因善果、悪因悪果などは、その典型例である。事象が起こってからはじめて、その原因をさかのぼり捏造する。しかもそれは個人的な記憶と経験に基づいて捏造されるのである。
    仮に善因などというものが先にあるとすれば、悪い結果にも影響を与えているべきであるし、悪因に関しても同様である。
    意識の流れや、事象や現象は点在する原因からパラレルワールドの如く、お互いが何の干渉もせず時間軸を進み、それぞれの果が生じるということはないのである。

    果は別の因になり、因は別の因の果である。またそれぞれの因が別々に存在するのではなく、時間軸上にも空間軸上にも相互作用を及ぼしあっており、その相互作用(空間的作用)の変化が運動(時間)としてあるのみである。
    このことは先に述べたように、因や果などというもの自体が、我々の認識によって捏造されたものであることを指し示している。
    馬鹿馬鹿しい話だが、予言書などというもののカラクリも上の通りである。事が起こってから、その事に該当するような予言を探し、予言書を予言書たらしめるべく捏造するのである。

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