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Re[18]: つれづれなるままに 22
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/01/10(Sat) 17:29:10)
| フッサールの「自我」、No44718に書かれてあるところについては資料のも含めてだいたい書き出せたかな。 No45111までで間主観的にわたしのうちに見えたのちょっと書いとく。 フッサールが問題としている「自我」、これを「(Hu)自我」って表記するね。
「(Hu)自我」について、 No45034の (8)-@〔フッサールは、反省を基本的な方法に据えて自我(das Ich)を分析する。この分析の対象には、まさに働いている自我も含まれる。〕 そして、 No45035の (10)-@〔反省する私は、その当の反省のうちでは把握できない。なぜなら、自分の体験を反省するときに、その当の「反省する」という作用そのものを反省することは不可能だからである。〕 (10)-A〔生き生きした現在の自我は客体化されたものとしては存在せず、またそれを主題化するような把握は不可能であると述べるしかない。〕 ここらへん、カントのと見くらべてみると、 No44559の (1)「私とは・・・」と反省的に自分自身について思いを巡らすという困難さのなかで、 っていうのと同かな。ようするに無限遡及になっちゃう、っていうことかな。 あと、カントの場合、 (4)自我を反省的に捉えようとする試みがカント自身において行われていない みたいなんだけど、 フッサールの場合(8)-@っていうなかで考えていってるみたい。
ちなみにわたしのちょっと書いとくと、 (8)-@の〔反省〕っていうのは〈コギトによるもの〉で、〔まさに働いている自我〕を「(Hu)原自我(Ur-Ich)」って呼んで呼んでるものってして見てる。 (10)-Aの〔客体化されたものとしては存在せず〕っていうとことを〈一つの対象ではない〉ってわたし見てる。 No44718の(事典@)に〔エゴーコギト―コギタートゥウム(自我―意識作用―意識対象)〕ってあるけど、この〔エゴ〕をわたし〈考える我〉ってして見てるから、フッサールの場合この〈考える我〉のうちで考えてるんだと思う。たぶんカントの括弧で括られた(私)っていうのもそうなんだと見てる。
っていうこととしといて、 つづけるよ。
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