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Re[46]: :つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/11/01(Sat) 18:43:15)
| フッサールの「意識」についてのわたしのお喋りはひとまず、っていうことで、つぎに、 カントのカッコで括られた私—(私)から、フッサールの「原-自我」を想い出して、フッサールの「自我」について調べて見てるところなんだけど、その前に、「カントの(私)」、について、簡単におさらいしとくと、
No44110(2)の、 Iそれだから私の認識において、一切の意識が一つの意識(『私』という自己意識)に属するということが絶対に必要である。 っていうところから、 No44153の(ワ)で、『私』→(私) Iでは『私』、Nでは(私)ってなてて、いずれにしても私がカッコで括られてるっていうことで、( )での括りの方で統一することにした。 で、 No44360 (Ks-a)「一つの意識((私)という自己意識)」 → <(私が存在す)と(私は考える)>の<一にして同一である(私)> っていうふうに見たんだけど、このカントの(私)についてね。
No44093、No44106のところから、前にも少しまとめて見たんだけどもう一度ね。 (1)「私とは・・・」と反省的に自分自身について思いを巡らすという困難さのなかで、 (2)これを十分に理解していたカントは、 (3)「超越論的主観=X」としてしか表現することができず、我々はこれを決して知り得ることはできない、とした。 そして、 (4)自我を反省的に捉えようとする試みがカント自身において行われていない。 こういうなかで、カントの(私)っていうの、 (5)意識主観であるところの私の存在意識は、「感じ」のような、「私の現存在は常にもっぱら感性的なものに留まる」。 そして中島さんによると、 (6)「自我」=作用体=超越論的統覚 そして、 (7)「統覚」としての「私」
わたいのばあい、「私」っていのは身体を含めての、ってして見てて(意識だけじゃないっていうことね)、「我」を〈考える我〉ってして見てて、「自我」っていうのを〈自における考える我〉ってして見てる。 No44315にあるようなカントの有名な言葉を、 〔表象〈私が私の前に何ものかを立てる〉がすべて〈我考える〉に関係づけられていなればならない〕 ってわたし見てって、カントのは「私」って言うより「自我」ってして見た方がいいんじゃないかしら、って思って、 だから、ここでは「私」っていう用語じゃなくて、「自我」っていう用語を使うことにして見たのね。 ようするに、私じゃなくて、自我をカッコで括って(自我)ってする、っていうことね。
こういうふうにして見ると、(7)の「私」は「自我」ってなって、 (7a)「統覚」としての「自我」 そして、 (6a)「自我」=作用体=超越論的自我 ってなって、 この「超越論的自我」っていうのを(自我)ってして見たのね。
ちなみに、(1)の〔困難さ〕っていうの、 No44414(6)で見たんだけど「無限遡及」っていうのあったから、 〔(自我)をめぐる無限遡及の問題〕ってして見た。
わたしのこんなふうな見え(…のように見える)のなかで、 カントの(自我)っていうの、超簡単にして見たのが、
(KA-a)超越論的統覚するもの(作用体)としての(自我)は、感性の領域での“感じ”のようなもので、我々はこれを知り得ることはできないとして(X)。そして、そのような(X)は存在する。
ね。
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