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Re[17]: つれづれなるままに 22
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/01/07(Wed) 17:52:49)
| わたしの物語りつづけるよ
No45090までで No45032(事典D)の(d)ところまでまできたと思うんだけど、つぎに「原自我」について書かれてあるところを見てく。
(事典D)(e)――――― (あ)〈原自我の〉「自己共同化」ともいわれるこの自己統一は、反省以前のものであから、 (い)〈原自我は〉自我にとってはいつもすでに「原受動的」に生起している。 (う)超越論的自我のなかでは、この意味での自我、つまり「原自我」(Ur-ich)が、 (え)その能動的な構成過程に先立っていつもすでに(先—)存在しているのである。 (事典E)―――――――― (お)〈原自我は〉自我と他我の区別に先立つもの (か)原自我の未分化性 ―――――――――――― ってして見て、あと、 資料の中から「原-自我」について書いてあるところをざっと書き出して見たよ。 〈原自我は〉 資料(8)-S―――――― (き)まさに働いている自我 (く)その存在に気づかれているだけで、未だ自我とさえ明示的に構成されてないもの (け)匿名的な自我 資料(9)-A―――――― (こ)あらゆる存在者に対してその対をなすもので、対象ではなくあらゆる対象に対する原象 (さ)本来的には自我と呼ばれるべきではないし、断じてそう呼ばれてはならない (し)存在者ではなく、把捉する、評価するなどと言った仕方で『機能する者』([das],.Fungierende”) 資料(9)-B―――――― (す)生き生きした現在における生の極化した機能を名指すためにもちいられた語 (せ)「現象学する目覚めた私」によって「適切な反省」において見出される、「私の」機能 (そ)時間化しつつ時間化される(自我)生において捉えざるを得ないもの
資料(5)-H―――――― (た)原-自我とは、さしあたり、〈生き生きした現在〉において「作動するもの(dasFungierende)」(XXXIII. S. 278)と定義できる。「作動する」とは、ヒュレーとの関係で言えば、〈今この瞬間〉に生き生きと触発されること(Affiziertwerden)に他ならない。このような《触発される極》、〈今〉の一点において究極的に《作動する極》としての自我の位置づけが、自我から時間性を、つまり、時間的に「構成された」対象性としての資格を剥奪してしまう。 (ち)原‒自我は「時間的に延長されたものではなく」(Ibid., S. 280)、それゆえ流れ去ることもない。「“立ち止まりかつ留まり続ける”」(Ibid.)自我である。容易に理解されるように、この「立ち留まり」性は、いかなる時間様態でもない。それは無時間性・先時間性を暗示する言葉である。 ―――――――(p220)
〈このようなもの〉が存在する、ってフッサールは“考えてる”みたい。
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