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Re[7]: つれづれなるままに 22
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/12/27(Sat) 18:27:58)
| No45033っていうことで、 わたしせっかっく考えたので、以下はざ〜と流してくね。
No44718の(事典D)のところについてついては No44414の資料に書かれてあるみたいなので、このなかから書き写して見てくことにする。
資料(8)から、
(8)-@――――――――――― フッサールは、反省を基本的な方法に据えて自我(das Ich)を分析する。この分析の対象には、まさに働いている自我も含まれる。 つまり、彼は、まさに働いている自我を反省によって捉えることができると見做している。 晩年の草稿、いわゆる「C草稿」では、彼は、そうした自我がいつも対峙的には捉えられていない「匿名的」なものであり、反省においてもまさに反省している自我が「匿名的」なものとなっていることを認めたうえで、次のように述べている。 とはいえ、こうしたことを私は、まさにこの同じ反省によって見て取るのであり、その反省を行いながら、同時に私は、今まさに匿名的であった自我をこれと対峙するものとともに、私と対峙的に(gegenüber)見出すことができる。〔・・・〕私は、この絶え間ない自我の自己分離(Sich-Spalaten)と再同一化において、原的な極、すなわち根源的に機能している自我、および、この原-自我にとって対峙して存在するようになった自我を見出す。(MatVIII,2) この一節にあるように、フッサールによれば、自我が、対峙的に見出される自我とそうではない匿名的な自我とに自己を分離するとしても、両者は再同一化されており、それゆえ反省において、根源的に機能している自我、すなわち、まさに働いている自我が捉えられうる。 ―――――――――――(p115)
(8)-D――――――――――― ザハヴィは次のように論じている。 私が対象に向かって没頭しているとき、私は私自身を主題的に意識してはいない。それゆえ、自我を主題化するためには反省が必要である。しかし、その反省においては、そこでまさに反省している自我が、主題的に意識されていない。つまり、その祭、反省による主題化の過程そのものが、そこで主題化されている内容に属していないため、まさに反省している自我は見出されない。たとえ、その反省している自我を主題化するために、新たに反省の反省をしてみても、この反省の反省をまさにしている自我が、先ほどと同様に、そこで主題的に意識されていない。まさに働いている自我は、機能する主観性である以上、非主題的地点としてつねに残り続ける。 ―――――――――――(p117) (8)-E――――――――――― 先行研究によれば、反省において主題的に捉えられている自我は、そこでまさに働いている自我ではなく、すでに過ぎ去った自我である(cf.Held[1966,80-81,96,119-120]、斎藤[2000,85-86]、Zahavi[1999,190]。 ―――――――――――(p117) (8)-F――――――――――― (ヘルト)自我は、絶えず流れ続けてゆくとともに、自己自身からの原初的な隔たりを生み出すからこそ、いつでも自己自身へと遡ることができる。それゆえ、反省は、フッサールが『第一哲学』の中で呼ぶように、「後から覚認すること(Nachgewahren)」(VIII,89)であり、反省によって捉えられているものは、すでに過ぎ去ったものにほかならない。 ―――――――――――(p117)
フッサールが問題としてる「自我」っていうの、 No44743でわたしが見た、 (Fe-A)〈生き生きと流れる現在(今)においてまさに働いている経験的自我(考える我)〉について、 っていうことで見てくよ。
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