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Re[6]: つれづれなるままに 22
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/12/27(Sat) 18:03:34)
| No45032のつづき(事典D)-(a)に、 「モナド」ってあるけど、 No37183 で見たんだけど、今では、 (Ahm)(Hu)モナド→客観的なものと地続きになっている、具体的で純粋な主観性。媒介的で相関者的な出来事そのもののこと。 見たいなんにして見てる。 現象学事典のを見て見たら、 〔元来ライプニッツのモナド(単子)論から由来する、フッサールの現象学的用語。フッサールは、さまざまな体験(cogitations)を担う基体である自我極(Ichpol)から区別して、人格的個別性・習慣性・歴史性といった具体性において捉えられた超越論的自我を「モナド」と呼んだ[CM 102]。〕 No44778 で見たように、「純粋意識」=「超越論的意識」=「超越論的主観性」 (事典C)では、 〔超越論的自我は超越論的主観性と同義〕ってあって、 (事典D)-(b)に、 〔構成の遂行者である超越論的自我自身が…行う営み〕ってあって、 こういうふうに見ると、 (Hu)「モナド」=超越論的主観性 みたいな感じ受けるのね。 (Ahm)のようなのからは、わたし「間主観性」を連想するんだけど。
わたし、「超越論的主観性」は「間主観性」じゃない、って思ってるから、 こういうのからフッサールのなんか怪しい感じしてる。 フッサールって、カントの「超越論的」っていうのに囚われる、っていうか、この言葉を使うことによって注目さるよね〜、みたいな? こんな人の言うことを真に受けてそれを手引きにするのはどうなのかな〜?ってわたし思ってる。 だから、フッサールの「自我論」、もういいかな、見たいになってきてるから、お喋りが進まないのかも。
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