| ■45035 / ) |
Re[8]: つれづれなるままに 22
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/12/27(Sat) 18:33:04)
| No45034と同じようなことが書かれてあるのが資料(10)にあったので、
(10)-@――――――――――――― 反省する私は、その当の反省のうちでは把握できない。なぜなら、自分の体験を反省するときに、その当の「反省する」という作用そのものを反省することは不可能だからである。 このこと自体は、自分が遂行している反省を振り返り、その一般的構造を捉えることによって明らかになる。 この反省の構造には、特に不思議なことは含まれていない。指がその指それ自体を指すことはできず、目がその目それ自体を視野に入れることはできないのと同様である。だが、この反省に関する見解は、反省の反復により生じるものであるにもかかわらず、反省されるものの範囲を超え出たものを指し示している。その見解は次のような思考を導く。私が反省をするたびに捉えるものは、みな時間化(対象化)された客体にすぎず、私が現にそれを遂行している反省の作用そのものはどのような場合でも常に把握されえない。 つまり、体験を現に持つ主体、反省する主体としての自分自身を反省によって把握することはできない。 このように、体験と反省の一般的構造を理解し、それを前提することによって、生き生きした現在における自我の匿名性の問題が問題として理解されうるものとなる。これが生き生きした現在の匿名性が理解されるに至る思考の道筋であると考えられる。 ――――――――――――(p37)
で、結局、
(10)-A――――――――― 生き生きした現在の自我は客体化されたものとしては存在せず、またそれを主題化するような把握は不可能であると述べるしかない。 ――――――――――(p38)
なんだと思う。
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