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■11409 / inTopicNo.25)  Re[19]: しかし、何だべな。
  
□投稿者/ つばめ -(2021/03/14(Sun) 12:40:34)
    No11214に返信(エフニさんの記事)

    > もしかしたら、「エフニ命」を書き間違えて「エトス命」と書いたのかなぁって、妄想していました。


    そうでした。

    「エフニ命」を書き間違えて「エトス命」と書いてしまったのでした〜。


引用返信/返信 削除キー/
■11362 / inTopicNo.26)  Re[15]: しかし、何だべな。
□投稿者/ つばめ -(2021/03/09(Tue) 21:26:26)
    No10983に返信(エフニさんの記事)

    >小乗の場合は出家者だけが救われるので、みんなが救いを目指して出家しちゃうと、食を生産・供給する人がいなくなるから、原理的にみんなが救われるというのが不可能なんです。

    あ、そうですね。

    誰でも彼でも望めば出家できるというわけではなさそうですね。
    働かなくても食べられて自由度の高い人たちが望めば出家できただけとかかな。
    そもそも庶民?一般人?が救い、出家を望んだかどうかもわからないし。

    >みんなで個人の救いを目指すというのは、大乗的なメンタリティーなんです。

    ああ。そっかぁ。
    「みんなで個人の救いを目指す」という発想を小乗仏教さんは持たない?・・・
    それはそれで自然なことなのかもしれないなと。
    そういう世界だったのだろうと思ってみたり。

    >大乗仏教は般若教と阿弥陀仏信仰が融合することによって生まれました。

    >同時に、因果応報、自業自得、カルマ、輪廻転生、などをすべて解体する、全世界、全人類を震撼させた、「回向(えこう)」が生まれます。

    ええと。般若教と阿弥陀仏信仰が融合して大乗仏教になり、「回向(えこう)」が生まれたわけですね。

    般若経は私の知る範囲(とても乏しいですが)では、色即是空 空即是色 (姿かたち、拡大解釈で現れすべては、これすなわち空。空は空中の空。空はこれすなわち姿かたちである。・・・ええと、つまり、どういうこと? ・・・空だけがある。)
    で、阿弥陀仏信仰にはなじみがないので、(「南無阿弥陀仏)と唱えながら西に向かう愚直な人を主人公にした小説を読んだことがある気がする・・・。)さらっと検索すると、

    「梵名のアミターバは「量(はかり)しれない光を持つ者」[1]、アミターユスは「量りしれない寿命を持つ者」[1]の意味で[2]、これを漢訳して・無量光仏、無量寿仏ともいう。西方にある極楽浄土という仏国土(浄土)を持ち(東方は薬師如来)、五智如来において西方に位置する観自在王如来と同一視するが、真言宗では阿弥陀が法蔵菩薩であったときに師事した仏として、別尊とする。」(ウキペディア)

    ・・・よくわかりません。よくわかりませんが、とにかく


    私の脳裏に浮かぶのは「極楽浄土」という言葉と平等院鳳凰堂の雲中供養菩薩像かな。

    色即是空と極楽浄土が合わさって大乗仏教が生まれ、回向が生まれた。
    ・・・南無阿弥陀仏と唱えるだけで(仏の力で)誰でも救われる(・・・かな。)

    月落ちてさ夜ほの暗く未だかも弥勒は出でず虫鳴けるかも  斎藤茂吉

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■11223 / inTopicNo.27)  Re[19]: しかし、何だべな。
□投稿者/ パニチェ -(2021/02/27(Sat) 11:25:13)
    エフニさん、おはようございます。
    返信ありがとうございます。

    No11213に返信(エフニさんの記事)

    > 私は不二と相性がいいものとして、独我論を含めたウィトゲンシュタインの「語り得ないもの」を考えています。

    > 「不二」は語り得ないもの なのですが、語り得ないということすら語ってはいけなくて、沈黙しなければならない。

    > 沈黙しなければならないということすら語ってはならず、ただ沈黙。

    > この辺が「不二」とウィトゲンシュタインが通底しているところだと思っています。

    なるほど、同意します。
    まさしく「維摩の一黙、雷の如し」ですね。
    ここらあたりは同じ不二でも仏教とヴェーダーンタ学派では多少の温度差があるかもしれません。
引用返信/返信 削除キー/
■11215 / inTopicNo.28)  Re[19]: しかし、何だべな。
□投稿者/ エフニ -(2021/02/26(Fri) 23:05:49)
    >ごめんなさいでした。せっかく哥哥が訂正してたのにそのままコピーしてしまいました。<

    全然、全然ァ

    全然謝ることはないですよ廂

    だって、私は、「つばめ命」
引用返信/返信 削除キー/
■11214 / inTopicNo.29)  しかし、何だべな。
□投稿者/ エフニ -(2021/02/26(Fri) 22:58:25)
    >哥哥でも見間違いをすることがあるのですね。安心しました宦

    こんばんは〜

    やっぱり私の見間違いでしたか。

    もしかしたら、「エフニ命」を書き間違えて「エトス命」と書いたのかなぁって、妄想していました。

    世の中そんな甘くないですね。

    とぼとぼ。
引用返信/返信 削除キー/
■11213 / inTopicNo.30)  Re[18]: しかし、何だべな。
□投稿者/ エフニ -(2021/02/26(Fri) 22:40:55)
    パニさん、こんばんは。

    返信ありがとうございます。

    私は不二と相性がいいものとして、独我論を含めたウィトゲンシュタインの「語り得ないもの」を考えています。

    「不二」は語り得ないもの なのですが、語り得ないということすら語ってはいけなくて、沈黙しなければならない。

    沈黙しなければならないということすら語ってはならず、ただ沈黙。

    この辺が「不二」とウィトゲンシュタインが通底しているところだと思っています。
引用返信/返信 削除キー/
■10990 / inTopicNo.31)  Re[17]: しかし、何だべな。
□投稿者/ パニチェ -(2021/02/13(Sat) 10:21:30)
    エフニさん、おはようございます。レスありがとうございます。

    No10982に返信(エフニさんの記事)

    > 仏教的な教説では、唯識が<私>と相容れているかなと思っています。

    同意です。

    > 無我や非我は、大乗仏教では空が前提となっているので、<私>とは感触が違うかなと思っています。
    > ただ唯識は非常に難解で、根本的なところを私は解っていません。
    > 直観的には<私>に近いかなと思っているのですが、具体的に述べることが出来ません。
    > 私が1番<私>と親和的だと思っているのは、バラモン教のヤージナバァルキャのアートマンですね。
    > 彼はアートマンを、ナイチーナイチーのアートマン(〜でない、〜でないのアートマン)と呼んで、認識の対象としては世界内に無いとしました。
    > それは、アートマンは認識する主体であり、世界がそこから開ける原点だからなのですが、これって<私>だと思っています。

    全く同じです。
    不二とかアドヴァイタとは相性がいいのですが、無我とか非我とは相性が悪い。
    但し、言語的に形成される私をもって我とするなら、そのような我は無いとか、本来の〈我〉には非ずという意味であれば無我や非我は合点がいきます。
引用返信/返信 削除キー/
■10986 / inTopicNo.32)  Re[17]: 情報
□投稿者/ エフニ -(2021/02/13(Sat) 04:03:40)
    ピピットちゃん、情報ありがとう。

    大乗仏教よりかなり後年になって、上座部やヒンドゥー教も回向の概念を取り入れましたね。

    ヒンドゥー教はカルマ、輪廻転生を解体する回向を取り入れましたが(阿弥陀仏信仰と同じ論理を取り入れたので)、上座部は借り物の感が拭えません。

    大乗のように、何故回向が可能なのか、何故そう言い得るのかを理論的に精緻化したものではありません。

    そもそも大乗の回向のように成仏の為のものではありません。

    現在の南伝仏教国の人生訓話的に活用しているのではないでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/
■10985 / inTopicNo.33)  Re[16]: 情報
□投稿者/ pipit -(2021/02/12(Fri) 23:59:04)
    すみません、wikiの『十福業事』にリンクされないので、記事を抜粋引用します。


    十福業事(じゅうふくごうじ、巴: dasapuññakiriyavatthu)とは、上座部仏教(上座部大寺派)で説かれる善行の分類である。十善業事(じゅうぜんごうじ)とも和訳される。 同じく上座部の無畏山寺派においては十二の福業事が説かれていたとされる。[1]

    布施(dāna)- 分かち与えること。施しを行うこと。
    戒(sīla)- 五戒に始まる様々な戒律を守ること。
    修習(bhāvanā)- サマタ(止)やヴィパッサナー(観)を実践すること。止・観の二種の実践を基本的に修習と呼ぶ。しかし道徳に反しない世俗の知識を学ぶこともここに含まれる。[2]
    尊敬、恭敬(apacāyana)- 目上の者や年長者を敬うこと。
    作務(veyyāvacca)- 看病することや、他人の用事や仕事を無償で手伝ってあげること。
    回向、所得の施(pattidāna)- 自分の成した善行為の功徳を他に振り向けること。
    功徳の随喜、所得の随喜(pattānumodana)- 他人が廻向して自らにめぐってきた善行為に共感し喜ぶこと。
    聞法(dhammassavana)- 法を聞くこと。道徳に反しない世俗の知識を聞くこともここに含まれる[3]
    説法(dhammadesanā)- 法を説くこと。
    見直業(diṭṭhijukamma)- 正しい見解(正見)を持つこと。善悪の行いに報いがあるとすることなど。』

    失礼しました m(_ _)m
引用返信/返信 削除キー/
■10984 / inTopicNo.34)  情報
□投稿者/ pipit -(2021/02/12(Fri) 23:53:48)
    No10983

    エフニさん、こんばんは(^ ^)

    テーラワーダさんでも、回向の概念がないわけではないようです。回向は、十福業事の中の一つとされてるみたいです。回向の文も唱えられているのを聞いたりします。
    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/十福業事

    大乗仏教は純度がめちゃ高の利他精神ですごいと思いますけどね(^ ^)

    大乗仏教にいい影響を受けて、テーラワーダさん内の文化も変化しつつあるのかもしれませんしね。

    いろんな可能性があるのかなあ、と、エフニさんの記事を読んで思いました。


    、、、あ、そうかぁ、全員が悟れるくらいの回向力が阿弥陀様などにあるとされているかんじなのかな?と、さっき、思いました。

    とりあえず、回向という概念は、いつからかは知りませんが、大乗仏教以外にも入ってたかも、という情報を投稿しますね。
    おつかれさまです(^O^)
引用返信/返信 削除キー/
■10983 / inTopicNo.35)  Re[14]: しかし、何だべな。
□投稿者/ エフニ -(2021/02/12(Fri) 23:14:51)
    >みんなで個人の救いを目指せばいいんじゃないかと。<

    小乗の場合は出家者だけが救われるので、みんなが救いを目指して出家しちゃうと、食を生産・供給する人がいなくなるから、原理的にみんなが救われるというのが不可能なんです。

    みんなで個人の救いを目指すというのは、大乗的なメンタリティーなんです。

    大乗仏教は般若教と阿弥陀仏信仰が融合することによって生まれました。

    同時に、因果応報、自業自得、カルマ、輪廻転生、などをすべて解体する、全世界、全人類を震撼させた、「回向(えこう)」が生まれます。

    恩寵(おんちょう)と救済の世界宗教、大乗仏教の誕生です。

    回向は話せば長いので、これもサクッと、かつボチボチとお話していきますね
引用返信/返信 削除キー/
■10982 / inTopicNo.36)  Re[16]: しかし、何だべな。
□投稿者/ エフニ -(2021/02/12(Fri) 22:45:27)
    No10826に返信(パニチェさんの記事)
    > おはようございます、エフニさん。
    >
    > ■No10719に返信(エフニさんの記事)
    >
    >><私>にも当てはまるというのに同意です。
    >
    >>この明らかに矛盾している命題を、不二一元論(アドバイタ)の創始者シャンカラは、「すべてはブラフマンの見る夢」として、矛盾を解消させました。
    >
    >>私もシャンカラのひそみに倣(なら)って、「すべてはカプセルに眠るキアヌ・リーブスが見る、マトリックス上の夢」と独我論を位置づけ、この矛盾を解消できるものとしています。
    >
    > なるほど、同意です。
    > knowing itselfさんともレス交換したのですが、参考までに教えていただければ有難いです。
    > エフニさんにとって〈私〉と無我あるいは非我などの仏教的な教説とは相容れますか?


    パニさん、こんばんは。

    仏教的な教説では、唯識が<私>と相容れているかなと思っています。

    無我や非我は、大乗仏教では空が前提となっているので、<私>とは感触が違うかなと思っています。

    ただ唯識は非常に難解で、根本的なところを私は解っていません。

    直観的には<私>に近いかなと思っているのですが、具体的に述べることが出来ません。

    私が1番<私>と親和的だと思っているのは、バラモン教のヤージナバァルキャのアートマンですね。

    彼はアートマンを、ナイチーナイチーのアートマン(〜でない、〜でないのアートマン)と呼んで、認識の対象としては世界内に無いとしました。

    それは、アートマンは認識する主体であり、世界がそこから開ける原点だからなのですが、これって<私>だと思っています。
引用返信/返信 削除キー/

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