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Re[16]: しかし、何だべな。
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□投稿者/ エフニ -(2021/02/12(Fri) 22:45:27)
| ■No10826に返信(パニチェさんの記事) > おはようございます、エフニさん。 > > ■No10719に返信(エフニさんの記事) > >><私>にも当てはまるというのに同意です。 > >>この明らかに矛盾している命題を、不二一元論(アドバイタ)の創始者シャンカラは、「すべてはブラフマンの見る夢」として、矛盾を解消させました。 > >>私もシャンカラのひそみに倣(なら)って、「すべてはカプセルに眠るキアヌ・リーブスが見る、マトリックス上の夢」と独我論を位置づけ、この矛盾を解消できるものとしています。 > > なるほど、同意です。 > knowing itselfさんともレス交換したのですが、参考までに教えていただければ有難いです。 > エフニさんにとって〈私〉と無我あるいは非我などの仏教的な教説とは相容れますか?
パニさん、こんばんは。
仏教的な教説では、唯識が<私>と相容れているかなと思っています。
無我や非我は、大乗仏教では空が前提となっているので、<私>とは感触が違うかなと思っています。
ただ唯識は非常に難解で、根本的なところを私は解っていません。
直観的には<私>に近いかなと思っているのですが、具体的に述べることが出来ません。
私が1番<私>と親和的だと思っているのは、バラモン教のヤージナバァルキャのアートマンですね。
彼はアートマンを、ナイチーナイチーのアートマン(〜でない、〜でないのアートマン)と呼んで、認識の対象としては世界内に無いとしました。
それは、アートマンは認識する主体であり、世界がそこから開ける原点だからなのですが、これって<私>だと思っています。
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