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■1419 / inTopicNo.25)  Re[57]: 仏教の悟り
  
□投稿者/ パニチェ -(2019/06/29(Sat) 08:38:32)
    おはようございます、ピピットさん。投稿&レスありがとうございます。

    No1404に返信(pipitさんの記事)

    > パニチェさんは、人間は悟れると思いますか?
    > 悟りの区分は、わたしは預流果、一来果、不還果、阿羅漢果くらいしかわからないんですけど(今、記憶で書いてるので、正確な知識でなかったらすみません)、大乗仏教の区分で考えてもらってもいいんですけど、パニチェさんは悟りってあるって思われてるのかなー、って聞いてみたくなりました。

    私は悟りを脳のある状態と考えております。
    無我(無自性)を体得することによって個としての苦も無実体であることを身をもって知る。

    但し、禅定はスポーツとか入浴と同じで、悟って終わりではなく、繰り返し行うことで維持できたり深まったり、日常で汚れた真我を清浄することができるのだと思います。

    脳と見性に関しては、著名な脳科学者であるジル・ボルト テイラーが脳卒中から見性体験を経て回復するまでを記録した「奇跡の脳」が面白かったです。

    > ちなみにわたしは、悟りって実際にあったらいいなー、預流果になれたらいいなー、って思っています。
    > パニチェさんは、ブッダ目指す方 ?
    > それとも、そんなことは、わからないけど、自分というシステムを解明したい!みたいなかんじかなー
    > またよかったら、聞かせてもらえたら嬉しいけど、スルーしたかったらしてくださいね(^ ^)

    煩悩が完全に消滅することは少なくとも私に関してはありえないと思います。
    四苦(生苦・老苦・病苦・死苦)をはじめとした苦を克服することはなんとなくできそうな気はしますが、実際に病や死に対峙した時に、自分の見性悟道が本物だったかどうか分かるのでしょうね。

    禅定せずに、哲学的な自己探究(〈私〉に関する問いやテーマ)でもって有余涅槃に至れれば、それに越したことはないですが、たとえ悟れなくても、修証一等(修証不二または禅戒一如:悟りと修行は離れたところになく同じ。一寸坐れば一寸の仏)を指針としています。


引用返信/返信 削除キー/
■1404 / inTopicNo.26)  仏教の悟り
□投稿者/ pipit -(2019/06/24(Mon) 19:08:10)
    パニチェさん、こんばんは

    パニチェさんは、人間は悟れると思いますか?

    悟りの区分は、わたしは預流果、一来果、不還果、阿羅漢果くらいしかわからないんですけど(今、記憶で書いてるので、正確な知識でなかったらすみません)、大乗仏教の区分で考えてもらってもいいんですけど、パニチェさんは悟りってあるって思われてるのかなー、って聞いてみたくなりました。


    ちなみにわたしは、悟りって実際にあったらいいなー、預流果になれたらいいなー、って思っています。

    パニチェさんは、ブッダ目指す方 ?

    それとも、そんなことは、わからないけど、自分というシステムを解明したい!みたいなかんじかなー

    またよかったら、聞かせてもらえたら嬉しいけど、スルーしたかったらしてくださいね(^ ^)

    おつかれさまです!
引用返信/返信 削除キー/
■1357 / inTopicNo.27)  ピピットさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2019/06/16(Sun) 08:07:25)
    おはようございます。

    No1352に返信(pipitさんの記事)

    > 詳しく教えていただいてありがとうございます!

    どういたしまして。

    > 制御してなくてもあれこれ考えないの理想だなー
    > わからんから考える。
    > いまはわからんことが、わからんから考える。
    > わかってたら考えないのかなー、と思いました。

    > あと、『絶対青い馬のこと考えたらあかん!』って言われたら、
    > 青い馬のこと考えちゃうなんてこと思いました。
    > ほんとのこと、知りたいな !
    > ほんとのこと知れてなおかつ幸せ、というのが、大理想です。

    思秋期の頃っていろんなことに疑問や矛盾を感じてあれこれ考えますよね。きっと純粋ってか純真やからと思います。
    大方の人は年とともに疑問も抱かなくなるし、矛盾にも麻痺してしまって感じなくなる。妥協に妥協を重ねたり、多くの人の意見や感覚に迎合してしまう。
    そういうのってつまらんなって思います。
    子どものような好奇心や何に関しても疑ったり、矛盾を矛盾として解決はできなくとも感じていたいな、と思います。

    > 場を提供してもらって感謝です。ありがとうございますm(_ _)m

    どういたしまして2!^^
引用返信/返信 削除キー/
■1352 / inTopicNo.28)  Re[54]: ピピットさんへ
□投稿者/ pipit -(2019/06/15(Sat) 17:49:14)
    パニチェさんへ

    詳しく教えていただいてありがとうございます!

    制御してなくてもあれこれ考えないの理想だなー

    わからんから考える。

    いまはわからんことが、わからんから考える。

    わかってたら考えないのかなー、と思いました。

    あと、『絶対青い馬のこと考えたらあかん!』って言われたら、
    青い馬のこと考えちゃうなんてこと思いました。

    ほんとのこと、知りたいな !

    ほんとのこと知れてなおかつ幸せ、というのが、大理想です。

    場を提供してもらって感謝です。ありがとうございますm(_ _)m

    おつかれさまです(^_^)
引用返信/返信 削除キー/
■1351 / inTopicNo.29)  Re[55]: 哲学的考察
□投稿者/ パニチェ -(2019/06/15(Sat) 08:59:46)
    2019/06/15(Sat) 09:05:22 編集(投稿者)

    痛いフリも含めて、やっぱこの手のテーマは行きつくところが、自由意志の有無とか、ラプラスの悪魔とか、これに対抗する不確定性が出てくるのかなぁ〜・
引用返信/返信 削除キー/
■1350 / inTopicNo.30)  哲学的考察
□投稿者/ パニチェ -(2019/06/15(Sat) 08:53:43)
    2019/06/15(Sat) 09:04:57 編集(投稿者)

    No1349に返信(パニチェさんの記事)
    > ■No1343に返信(エフニさんの記事)

    >>>そういう前提で(ディベートみたく)大いに反論してもらいたいのですが、クオリアとか意味理解ってのは、例えば虫が餌と餌でないものを判定(反応あるいは反射)したり、水と光を区別していることと何がどう違うのか、さらに大昔にセキバという論者がこれもディベートみたくあえて「信号機にも意志がある」という側を持ったのですが「信号機が青から赤になることを意志していると言えない理由は何か?私たちが二者択一することと何が違うのか?」なんてことについてエフニさんの>>>意見を聞きたいところです。

    >>セキバ氏の信号機は、ただ単に「中国語の部屋」をパラフレーズしただけで、問題の本質は同じです。
    >>すなわち、「信号機には意味理解がない」
    >>虫については、これはウィトゲンシュタインの「犬は痛いふりができない」という言葉に収斂されていますが、意味理解とは、機械的なコードやアルゴリズム、本能を超脱した世界を現前させることだと、私は認識しています。
    >>つまり、過去に存在しなかったもの、現在存在していないもの、そして未だ存在していないもの、これらに対して、喜怒哀楽しているマインドが、意味理解の前提になっていると思います。

    > もっともです。同意します。さすがです、的を射抜いています。^^
    > ってか、やっぱ自分が支持してない側の意見を持っても、やっぱ反論というか議論できませんね。
    > 私はディベートには向いてないことが分かりました。
    > 返信ありがとうございました。

    いや、ちょっと待てよ。
    意味理解と言っても所詮は脳が反応した結果の内的感覚を後付けで意味理解って言っているだけではないか?
    脳が発火した結果の思考や意味理解と回路に通電した結果に赤から青信号になると何か変わりがあるのか?
    信号機だって信号機なりの意味理解があるとしてもよいのではないか?なんてことをセキバなら反論しそうな気がします。

    これに返信は求めませんが、興味がある方は(知的な遊びや刺激として)反論してみて下さい。

引用返信/返信 削除キー/
■1347 / inTopicNo.31)  ピピットさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2019/06/15(Sat) 07:57:33)
    おはようございます、ピピットさん。

    No1332に返信(pipitさんの記事)
    > こんにちは
    > 質問いいでしょうか?

    はい、喜んで♪^^

    > パニチェさんは、哲学的な思考はどのようにされていますか?
    > 制御されますか?

    特に制御はしてないんですが、平日の日中はあまり考えることがないというか、そういう機会がないですね。
    リアルで周りに哲学について話ができるような友人もあまりいませんし、職場では私が哲学好きなことを知ってる人もいるので、時々、特定のテーマについて質問されることはありますが最小限に答える程度で深入りしたり議論になることなんてのはありません。
    掲示板の全盛期にはレス交換するために書籍を調べたり、お薦めの本を教えてもらったり、自分の考えをまとめたり、見直したりできたので(掲示板利用の目的が同じ相手との議論やレス交換は)有り難かったです。
    今は休日に本を読んだりすることで自分が探究しているテーマなんかを深めたり、あれこれ考えたりするぐらいでしょうか。
    日常で何かの刺激でもってインスピレーションや突破口が思い浮かぶことがあればゆっくり考えられる時のためにメモをとったりはしています。

    > パニチェさんは仏教にも関心があるということで、私も仏教徒になりたいな・ありたいな
    > と願う者なので、どのように思考されてるのかなあと聞いてみたくなりました。

    無宗派の自称仏教徒ですが、仏教は信仰的側面はほとんど興味はなくて哲学的な側面に興味があります。あと仏教には八万四千の法門があると言われていて釈尊が相手の機根に合わせて説法した(対機説法)ことや仏弟子や高僧が自身の修行や学究から、さらに釈尊の教えてを展開したことから、さまざまな教えや道しるべ(法門や宗派)が残っているのだと思います。宗派や法門に深浅優劣をつけるのはナンセンスだと考えており、それこそ見取見(十根本煩悩のひとつ、自分の考えや自分の見解を絶対視し固執すること)や遍計所執性だと考えます。
    初期仏典も大乗仏典も広く浅く読んでおり、私の機根に合うのは四諦八正道、相依性縁起、四法印で、好きな宗祖は道元禅師やナーガールジュナ(龍樹)です。
    如何に生きるかは如何に死ぬかと同義だと考えているので、これに決着をつける指針として仏教は役に立ちますし、指針としては私にとって同類のニーチェが劇薬ってこともあるので仏教で中和してるってところもあります。^^

    あと仏教は自己探究であり、脳科学や哲学や物理なかも、私の探究しているテーマとリンクするので、これまた広く浅く読んでいます。

引用返信/返信 削除キー/
■1333 / inTopicNo.32)  ピピットさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2019/06/12(Wed) 21:20:04)
    こんばんは。レスありがとうございます。
    ちょんと返信したいので時間のある土日にレスさせてもらいます。
    よろしくです。^^
引用返信/返信 削除キー/
■1332 / inTopicNo.33)  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2019/06/12(Wed) 16:48:22)
    こんにちは
    質問いいでしょうか?

    私は、哲学のことを考える時間と、日常生活の時間を
    分けたいと思ってるのですが、
    考え出すと、すぐに頭の中であーかな、こーかな、と
    考えにひっぱられる状態になってしまいます。

    私としては、考える時に考えることを集中して、
    考えないと決めた時は考えないようにできたらいいな、
    と願うのですが、全然そのようにはできません。

    パニチェさんは、哲学的な思考はどのようにされていますか?
    制御されますか?

    パニチェさんは仏教にも関心があるということで、私も仏教徒になりたいな・ありたいな
    と願う者なので、どのように思考されてるのかなあと聞いてみたくなりました。

    もしよかったら、いつでもいいので、教えてもらえれば嬉しいです。
引用返信/返信 削除キー/
■1318 / inTopicNo.34)  世界に一つだけの花
□投稿者/ パニチェ -(2019/06/09(Sun) 11:00:27)
    2019/06/09(Sun) 11:07:49 編集(投稿者)

    『いまや、わたしはきみたちに、わたしを失い、みずからを見出せ、と命じる。そして、きみたちがみな私を否認したときに初めて、わたしはきみたちのもとへ帰って来ようと思う。まことに、わたしたちの兄弟たちよ、そのときわたしは、違った目で、自分の失った者たちを捜し求めるであろう。そのときわたしは、或る違った愛で、きみたちを愛するであろう。そして、さらにいつの日か、きみたちはわたしの友となり、同じ希望の子となっているであろう。そのとき、わたしは三たびきみたちのもとにあって、きみたちと共に大いなる正午を祝おうと思う。ところで、大いなる正午とは、人間が自分の軌道の真ん中にあって、動物と超人の中間に立ち、自分が歩み行くべき夕暮れへの道を自分の最高の希望として祝う時である。というのは、それは或る新しい朝への道だからだ。そのとき、没落して行く者は、自分がかなたへ渡って行く者であるというので、みずから自分を祝福するであろう。そして、彼の認識の太陽は、彼にとって真南に位置しているであろう。「すべての神々は死んだ。いまやわれわれは、超人が生きんことを欲する」──これが、いつの日か大いなる正午において、われわれの最後の意志であらんことを!──このようにツァラトゥストラは語った。(ツァラトゥストラ 贈与する徳について3)』

    世界に一つだの花に治まらず、自己は自分の生において、あらゆるものに価値や意味を付与する創造者であり唯一神であるということ。
    超人へ向かう没落者としての再会を経て、ツァラトゥストラとの三度目の再会いは各々がディオニュソス神(超人)となった大いなる正午に実現する。
引用返信/返信 削除キー/
■1142 / inTopicNo.35)  Re[50]: 覚者に問いたいのは
□投稿者/ パニチェ -(2019/04/21(Sun) 13:15:57)
    2019/04/22(Mon) 19:28:42 編集(投稿者)

    時間でけた!^^

    No1133に返信(転法さんの記事)
    > > 私と貴方と世界が不二なら、何故、私と貴方が共有しえない私秘性があるのかということ。

    > セッソー的には無常だからということになりまッしゃロかねー。
    > 無常の流れがそれぞれだからすれ違いばかりなんでっしゃロ。
    > 流れの外から無常を見る無常であれば、無我でッしゃろから、一切私ということで、私秘性は消滅するかもしれまへんが、そもそも私がなくなるんでッしゃろから、どうなるんでっかね?
    > ヨーわかりまへんがな。
    > (●´・ω・)y─┛~~

    密教の修行者であったゴウさんと〈私〉についてYahoo!textreamから、旧ニーチェクラブBBSでレス交換したことがあんねん。ゴウさんは愚さんのホームである東照寺の接心会に参加されて底が抜けたらしい。その後、愚さんのカキコから間接的に知ったんやけど、密教の修行で意識不明から植物人間状態?またはそれに近い状態になってしまったみたい。

    ゴウさんと永井均氏に共通する見解は〈私〉は真我と同義ってこと。ゴウさんとの会話はその途中になってしまって、わしはよく分からなかったけど、永井均氏によれば以下のような理屈になる。

    『〈私〉の存在は、科学的であれ歴史学的であれ、この世界の客観的事実を超えた超越的な存在なのである。と、このように語るとき、それは(私が語っているからといって)永井均のことを語っているのでもなければ、またもちろん一般的な自己意識としての「私」のことを語っているのでもない。実を言えば、それについて通常の言語で語ることはできないのである。だからじつは、ここでも語れていない。という意味では、実在してもいない。そして、これが「真我』の真の意味であろう。バラモン教(やヒンドゥー教)の説くところによれば、それぞれの個我の世界である小宇宙は大宇宙に偏在するその根本原理であるブラフマン(梵)と、通常は切り離されているのだが、アートマン(真我)という自分の真のあり方を自覚すれば、それと合一することができる。これは、世界にはたくさんの人間が並列的に存在し、それぞれに自我があるというような、通常の平板な世界解釈の内部だけ理解しようとすれば、何やら神秘的なお話のように見える。しかし、そのような平板な世界解釈を超えて、端的な事実をありのままに捉えれば、むしろ端的なありのままの事実をありのままに語っているだけだ、と見ることもできるだろう。たくさんの個我たちのなかになぜか〈私〉が存在しているとは、つまり一人だけ世界(宇宙)そのものと合一している不可思議なものが存在しているということであり、じつのところはそうとしか捉えようがない(通常の世界解釈では捉えられない)からである。そう捉えれば、「梵我一如」はむしろ単純で自明な事実にすぎないことになる。そのような捉え方によってしか、私はたくさんの人間のうちからどれが私であるかを識別できないからである。そして、この意味での真我はまた無我であらねばならない。なぜなら、それは本質的に属性を持たない空っぽの存在であって、そうでしかありえないからである。すなわち、それは必然的にだれでもなく、だれかであることができないからである。もしだれかとして(すなわち固有の属性を持った者として)捉えられてしまえば、そこには捉え違いの可能性が生じてしまうが、そういう可能性は存在しないからだ。属性の違いによる識別は、ここではそもそも働いていない。だから〈私〉は、だれでもないどころか、何でもないのだ。しいていうなら、ただこれでしかない。それが何であるかは決してわからない。いやむしろ、それは何であるかがない。さらにまた、〈私〉は、科学的に捉えられる一般的事象でもなければ、歴史学的に捉えられる個的事実でもないのだから、この世界に存在してはいない。この世界に実在しているのは、属性の違いによって他の人々から識別される一人の人間(たとえば永井均という人、物)だけである。彼が、彼だけが、なぜか〈私〉であるというあり方をしている、などという事実は、われわれの世界の中にはそもそも実在していないのだ。その意味で、〈私〉は、無我であるどころかむしろ端的に無である(永井均著「哲学探究2 世界の独在論的存在構造 付録 自我、真我、無我について」より引用)』

    祖師のレスの無我や一切〈私〉とも通じるところがあると思う。
    わしは上記の永井均氏も見解は8〜9割は納得するし支持できる。
    転法祖師はどう思う?まず永井氏のブラフマンやアートマンの捉え方は正確なんやろか?

引用返信/返信 削除キー/
■1136 / inTopicNo.36)  Re[50]: 覚者に問いたいのは
□投稿者/ パニチェ -(2019/04/20(Sat) 21:16:30)
    No1133に返信(転法さんの記事)
    > > 私と貴方と世界が不二なら、何故、私と貴方が共有しえない私秘性があるのかということ。
    >
    > セッソー的には無常だからということになりまッしゃロかねー。
    > 無常の流れがそれぞれだからすれ違いばかりなんでっしゃロ。
    > 流れの外から無常を見る無常であれば、無我でッしゃろから、一切私ということで、私秘性は消滅するかもしれまへんが、そもそも私がなくなるんでッしゃろから、どうなるんでっかね?
    > ヨーわかりまへんがな。
    >
    > (●´・ω・)y─┛~~

    これ大事に返信したいので、GWぐらいまで返信待ってちょ。
    最近、リアルが忙しいおまんねん。(笑)

    L(   ` ー ´   )_/☆Ωパォ〜ン♪

    >
    > 正法無常宗祖師 沙門転法(/\)南無一切無常絶対超越真理
引用返信/返信 削除キー/

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