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■214 / inTopicNo.85)  未熟なものが欲するもの
  
□投稿者/ rami -(2017/05/12(Fri) 09:39:01)
    >未完成のもの、未熟な未人は永遠を欲する。


    ここなのですが、未熟なものが欲すのは永遠ではなく、自分自身ではない強いもの、明るいものだとあります。



    未熟なものたち→自分では無く強い子どもを求める、憧れの気持ち


    ましな人間→この世が熟れたときに幸せのあまり死にたいと思う気持ち


    更に岩波書店p321での「ましな人間たちよ、あなたがたの所へは匂ってこないのか?ひそかに湧き上がるひとつの匂いがある」というツァラの考えがでてきます。

    その湧き上がる匂いというのが、「また戻ってきてくれ!」という永劫回帰なんでしょうね。


    ここでの場面の永劫回帰は、「未熟な人間にとっての然り!」というよりむしろ、完全に熟したはずのものが、さらなる深い苦悩を欲しがる、というニュアンスを感じます。


    なんとなく、以前パニにも聞いたことあったと思うのですが「この世は深い、昼が考えたよりも更に深い」の意味がわかりかけた気がするんです。


    次の昼がある、ということそのものが証というか、前の夜で嘆きの深さより深い永遠を求める気持ちが勝ったということではないでしょうか。


    でなければ、夜に熟れた状態のまま死ねば良いことになる、と思うのです。



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■213 / inTopicNo.86)  獅子について
□投稿者/ rami -(2017/05/12(Fri) 08:45:03)
    何でニーチェは獅子をツァラの連れに選んだか?について、なのですが、もしかしたらホロスコープも一役かってるのでは?と突然思いつきました。


    太陽が1年で最も高い位置になり、昼が長いのは、ホロスコープで言うと獅子座の辺りですよね。(実際には、ずれがあるようなのですが)。


    それプラス獅子の持つ強さからツァラの連れに獅子を選んだのではないでしょうか。
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■212 / inTopicNo.87)  かわもとまことさんの
□投稿者/ らみ -(2017/05/11(Thu) 22:43:07)
    歌はキラキラじゃなくて、ピカピカでした・・・
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■210 / inTopicNo.88)  パニへ♪
□投稿者/ らみ -(2017/05/11(Thu) 10:53:52)
    お久しぶりです(^^)こんにちは!G.Wいかがでしたか?

    わたしの為にすごくわかりやすいご説明をありがとうございました!


    結局、「最も醜い人間」というのは、「ましな人間」の中で最もましな人間ということなのでしょうか?

    彼らは老いているものが多く、それなりの人生経験を積んできた人たちですね。



    >完成したもの、熟したものは、幸福のうちに死ぬことを欲するが
    >未完成のもの、未熟な未人は永遠を欲する。


    実は、この部分に対してだけは別なように感じます。

    酔歌の9に、『「完全になったもの、すべての熟れたものは死にたいと思う!」とお前は言う』と、いうセリフがあるのですが、これを言っているのはツァラなので、つまりこの思想?の持ち主は葡萄の木ですよね。


    「完成したものや熟したものは、幸福のうちに死ぬことを欲する」というのは、まだ完全になったことのないものが感じる想像なんじゃないでしょうか。

    彼ら(完成したもの)はむしろ、まだ未完成な部分が沢山あるような、深い苦悩を持つ出来損ないの人間に憧れていると描かれています。
    なぜなら、自分自身を欲する為には、断腸の悲しみはなくてはならないものだから。


    それってすごくマゾ的だなって思います。

    昔、川本真琴さんの曲で「キラキラ」というのがあって好きだったのですが、その中に「キラキラってそっとつぶやく。もっといっぱい新しい傷がほしいほしい」という歌詞があって、それを思い出しました(スミマセン)



    所で、連休中にサファリパークに行ったのですが、ツァラの友達の獅子さん達は群れ群れしていましたよ^^

    ライオンに群れる性質があるということを、ニーチェは知らなかったのかなと思います。

    その他のトラやクマなどは皆一匹ずつ離れて過ごしていました。


    なので、どうせならツァラの友達は狼とかにすれば良かったのに、と思いました笑








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■194 / inTopicNo.89)  Re[11]: 酔歌
□投稿者/ パニチェ -(2017/04/23(Sun) 08:59:52)
    2017/04/23(Sun) 10:13:30 編集(管理者)

    永劫回帰には暗黒面が影のように付き纏う。
    快楽や喜びが無数度に訪れることに対して「然り!」と欲することは容易い。
    同様に苦悩や悲しみが無数度に訪れることに対しても「然り!」と欲することができるか?

    快楽や喜びのみの生などありえないし、影なくして光が存在しないように
    苦悩や悲しみは快楽や喜びが存在しうる条件でもある。
    暗黒面をも伴う永劫回帰という深い問いに「然り!」と答え
    運命愛に到達するには苦悩や悲しみをも欲する勇気と覚悟が必要である。

    人間の醜い部分を全て背負いつつ、その醜さを自覚することが、
    醜い人間を超克しようとする力の源泉ともなる。

    完成したもの、熟したものは、幸福のうちに死ぬことを欲するが
    未完成のもの、未熟な未人は永遠を欲する。

    これを知る者が最も醜い人間であり
    彼が語ろうとする永劫回帰は真夜中に語るに相応しい
    暗黒面が強調されたより深い思想である。

    ディオニュソスとは酩酊であると同時に混沌である。
    混沌においては正午と真夜中、光と闇
    快楽と苦悩が渾然一体となった世界そのものである。

    永劫回帰は正午と真夜中
    瞬間と永遠が同じものの表裏であることを象徴する。
    そしてツァラトゥストラは彼の洞窟を離れ、再び没落することを欲する。

    永劫回帰という思想は最も影が短くなる昼が考えるよりも深い。
    最も高貴な自己肯定とは今現在の自己を形成した
    ありとあらゆる体験を肯定することである。

    過去においても未来においても、ある決断の際に無数度にわたって
    同じことが繰り返されたとしても同じ決断をするか?という問いが重くのしかかる。

    これに「然り!」と答えることが、最も高貴な自己肯定であり
    自らの運命を愛することとツァラトゥストラは語る。

    永劫回帰と運命愛の思想は表裏であり、最も高貴かつ究極の自己肯定である。


    「酔歌」がマゾヒスティックな匂いがするのは、こういうことが書かれてあるからではないかと、解釈してみますた。^^

引用返信/返信 削除キー/
■192 / inTopicNo.90)  酔歌
□投稿者/ パニチェ -(2017/04/20(Thu) 22:24:18)
    No187に返信(らみさんの記事)

    > >・・・「然り!」と答えることがきる選択を行い続けることによって人事が及ぶ範囲のところは自らの自由意志で選択していく。


    > こちらを読むと永劫回帰とか運命愛の思想って、なんだかとても前向きでシンプルなイメージを持つのですが、ツァラトゥストラを読んだ時のイメージでは私はむしろマゾヒズムっぽさを感じていました。

    > というか、「力への意思」こそがマゾ的なのか?


    > わたしは下巻の「酔歌」の章が好きなのですが、あの箇所って永劫回帰を「人事を尽くして天命を待つ」のような意味として読むと、ちょっと違和感を感じます。あの章は、マゾ的な気質を持って浸りながら読みたいです笑。


    ツァラトゥストラはやっぱ難解だし、読み応えがありますね。

    酔歌の章を読み解くキーワードは。。。

    「最も醜い人間」

    最も影が短くなる正午に対して影が主役となる「真夜中」

    永劫回帰の暗黒面

    「甘いブドウ酒に酔っていた」=ディオニュソス

    こんなところですかねぇ〜

    ちゃんと読み直して返信します。^^

引用返信/返信 削除キー/
■178 / inTopicNo.91)  船に乗れ!
□投稿者/ パニチェ -(2017/04/13(Thu) 06:42:51)
    その人流儀の生き方や考え方に関する哲学的な全般的是認が、
    それぞれの人にどういう影響を及ぼすか
    (──すなわち温め祝福し実らせつつ特別にその人を照らす太陽のように)、
    また、そうした是認は、どんなに人を毀誉褒貶から自由にし、
    自足させ、豊かにし、幸福や好意を恵むうえで気前良くさせるか、
    また、それはどんなに絶え間なく悪を善に改造し、
    あらゆる力を開花・成熟させ、
    大小とりまぜての怨恨や不機嫌の雑草を
    皆目生ぜしめないようにするか、

    ──そうしたことを考えると、
    とうとうわれわれは待ちきれなくなって叫びを上げるのだ。
    ──おお、もっと多くのそういう新しい太陽が
    創造されたらいいのに!
    悪人も、不幸者も、例外人も、自分の哲学、自分の正当の権利、
    自分の太陽の光を持つべきだ!彼らに同情する必要などはない!

    ──これまで永いこと人類は同情というやつを覚えこみ、
    それの稽古をつんできたけれども、
    そうした高慢不遜の思い付きを
    われわれは忘れ去らねばならぬ、──

    彼らのために聴罪師も設けてやる必要はない
    彼らに必要なのは、むしろ、ひとつの新しい正義なのだ!
    また、一つの新しい解決なのだ!
    さらには、新しい哲学者たちなのだ!

    道徳的地球だって円い!
    道徳的地球だってその対蹠人をもっている!
    対蹠人らにだって生存の権利がある!
    さらに別の一世界が発見されねばならぬ
    ──いな、一つに限らず多くの世界が!
    船に乗れ、君ら哲学者たちよ!

    ──ニーチェ著「悦ばしき知識 第289番」より──

    ----------------------------------------------------------

    体制にも反体制にも
    右にも左にも
    大衆にも金持ちにも
    ノイジーマイノリティーにも
    サイレントマジョリティーにも
    国家にも宗教にも
    ナショナリズムにも
    グローバリズムにも
    もちろんマスメディアにも
    迎合しない言論
    船に乗れってか?
    どうすっかなぁ〜
引用返信/返信 削除キー/
■67 / inTopicNo.92)  比類なき私
□投稿者/ パニチェ -(2016/12/25(Sun) 12:01:39)
    あれ?『〈仏教3.0〉を哲学する』の中で永井均氏が「比類なき私」という表現をP60で使ってる、というかこの著書によれば、仏教に造詣の深い宮崎哲弥氏が呉智英氏との共著「知的唯仏論」の中で『いったん「比類なき私」というのを提示しておいて、それば大事なんだけれども、それをさらに否定するところが仏教のいちばんすごいところなんだ、というふうにおっしゃっている(P29)”』とある。

    宮崎哲弥氏が「比類なき私」という表現を用いたそうな。。。
    永井均氏の専売特許は「〈私〉の存在の比類なさ」で「比類なき私」という表現にはちょい驚いた。

    まぁ、文脈からすればそのような表現になるには必然とも言えるけども、十数年前に掲示板でキダマサ氏から命名してもらった呼び名が「比類なき先言の〈私〉」だったことからして、やっぱ同じ(同じであって、同じではないが・笑)対象について語っていることは間違いなさそうだとは思う。

引用返信/返信 削除キー/
■48 / inTopicNo.93)  Re[7]: ルサンチマンと創造(2)
□投稿者/ パニチェ -(2016/11/21(Mon) 21:04:05)
    No45に返信(ramiさんの記事)
    > パニ、返信に気づくのが遅くなりごめんなさい<(_ _)>

    いえいえ、お互い時間のある時に返信すればいいわけで。。。^^

    > とてもわかりやすい説明を有難うございました(^^)!又何かあったらよろしくお願いします!

    どういたしまして。
    久々にニーチェ絡みのレス交換ができて楽しかったし、調べて勉強にもなりますた。
    (^^)v


引用返信/返信 削除キー/
■45 / inTopicNo.94)  Re[6]: ルサンチマンと創造(2)
□投稿者/ rami -(2016/11/20(Sun) 23:54:17)
    パニ、返信に気づくのが遅くなりごめんなさい<(_ _)>


    とてもわかりやすい説明を有難うございました(^^)!又何かあったらよろしくお願いします!









引用返信/返信 削除キー/
■40 / inTopicNo.95)  ルサンチマンと創造(2)
□投稿者/ パニチェ -(2016/11/18(Fri) 23:14:03)
    2016/11/19(Sat) 12:23:05 編集(投稿者)

    > ニーチェの言うルサンチマンは、コンプレックスや心の琴線だけで終わりではなく、弱者が力への意思という真理の中では生きられない為に、そこから逃げ勝手に価値を転換してしまうこと迄を含んでるのかなと思っています。

    力への意志はさまざまなかたちで表出します。
    真理への意志も力への意志のいち側面であり、ニーチェは以下のように述べています。

    『真理への意志とは、固定的なものをでっちあげること、真なる・持続的なものをでっちあげること、あの偽りの性格を度外視すること、このものを存在するものへと解釈し変えることである。それゆえ「真理」とは、現存する或るもの、見出され、発見されるべき或るものではなく、──つくりだされるべき或るもの、過程に代わる、それのみならず、それ自体では終わることのない征服の意志に代わる名称の役目をつとめる或るもののことである。すなわち、真理を置き入れるのは、無限過程、能動的に規定するはたらきとしてであって──それ自体で固定し確定しているかにみえる或るものの意識化としてではない。それは「権力への意志」の代名詞である。(力への意志 第552番)』

    ルサンチマンも力への意志であり、その表出として固定的なものをでっちあげる真理への意志という創造力によってユダヤ的な世界や奴隷道徳をでっちあげる。

    > コンプレックスを克服しようと前を向き努力する姿はルサンチマンでしょうか。何というか、やはり自分仕様に価値を転換することが結果として含まれていなければ、ルサンチマンという言葉が合わなく感じてしまいます。

    コンプレックスを克服しようとするベクトルはルサンチマンとは思いません。
    先の投稿で私が言いたかったのは無意識的なところで、その人の琴線や逆鱗になているのはコンプレックスであることが多く、それがその人の力の源泉になっているところもあるのではないか?ということです。

    下世話な話で申し訳ないのですが、私が知るかつての上司は女性に対する執着が人一倍強かった、異常なまでに女性の目を気にしている。それがその人の仕事への活力やある種のスマートさの理由でもあったし、女性に好かれる男でいたいという願望からきていた。

    その深層には母親を早くなくしたことからくる強烈なマザコンにあると(私には)映りました。

引用返信/返信 削除キー/
■39 / inTopicNo.96)  ルサンチマンと創造(1)
□投稿者/ パニチェ -(2016/11/18(Fri) 23:00:21)
    こんばんは、らみぃ〜♪


    No36に返信(ramiさんの記事)

    > これって、ニーチェはユダヤ教をルサンチマンが創造力として表出したものと捉えてるんでしょうか。むしろその創造は妄想ということを言ってたんじゃないでしょうか?

    ニーチェが言うところの創造には捏造も妄想も含まれるのだと思います。
    以下のアフォリズムではルサンチマンが創造的になりうることを示しています。

    『道徳における奴隷一揆は、ルサンチマンそのものが創造的となり、価値を生み出すようになったときにはじめて起こる。(道徳の系譜 第一論文10)』

    『すなわち、根本においてはそれは、そのような世界があればとの願望である。同時に、苦悩をひきおこす世界に対する憎悪は、別の、もっと価値のある世界が空想されるということのうちに表現されている。すなわち、現実的なものに対する形而上学者たちのルサンチマンがここでは創造的となっているのである。(力への意志 第579番)』


    で、究極のところニーチェは私たちは真理のための器官を持っていないと断言しています。肯定的に言えば私たちは解釈によって自分が創造主として自分の世界を創造しているし、否定的に言えば私たちは誤謬によって各々の世界をでっちあげているってことだと思います。

    『認識の起源──知性が非常に永い時間をかけて造り出したものは、誤謬以外の何ものでもなかった。その誤謬の幾つかは、有益で種属保持に役立つものとなった。(悦ばしき知識 第110番)』

    『われわれは認識のための、「真理」のための器官を、全く何ひとつ有(も)っていない。われわれは、人間群畜や種属のために有用だとされるちょうどそれだけを「知る」(あるいは信ずる・あるいは妄想する)のである。(悦ばしき知識 第354番)』


    続きます
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