| 2017/09/24(Sun) 17:28:36 編集(管理者)
米国の銃規制が進まないのはナッシュ均衡にある。法律で銃を規制したとして、これに従うのは善良な市民であり、無法者は相変わらず銃を所持したままとなる。結果的に法を順守する善良な市民が今以上に危険に晒されることになるため、良識的な市民でさえも銃規制には首肯しない。
核武装の論理もこれに同じで、攻撃されないために核武装するというという核保有国同士の均衡によって成立している。 実際、第二次大戦後は核保有国が攻撃されたことはない。現状の核保有国に核を保有をする権利がどこにあるのか? そんなものはない。核拡散防止条約とは現状の核保有国の安全を担保し、リスクを増やさないための取り決めであって、保有国優位の均衡を保つためのものでしかない。
世界唯一の被爆国として核のない理想世界を目指すために非保有国であり続けようとするならそれなりの覚悟が必要である。聖徳太子の教えに準じ敵と戦うことなく自害した太子一族のような高貴な死に方を受け入れるべきである。
もしくはアメリカの奴隷ではなく高貴な国家として、日本主導で理想世界に導こうとするなら核武装しかないだろう。
現実は何の予告もなく突然やって来る。 攻撃され多くの犠牲者が出てからでないと日本は敵国と交戦することはない。
銃社会で自らが銃を持たないことで銃規制を叫んだところでナッシュ均衡が崩れるはずもなく、誰も追随しないだろう。 これと同じく無抵抗で死ぬ覚悟もないままに、自分たちが非保有国であることをもって世界の非核化を実現しようとする発想は、国内はおろか世界中で戦争に賛成する国民や民族などいないにもかかわらず、戦争好きの仮想敵を想定し「戦争反対」を声高に叫びデモする自画自賛に陶酔する似非平和主義者と変わらない。
現実社会では無法者に攻撃されないために武装し、多くの戦闘は自国の平和や民族の自立を目的として生じているのだ。 社会主義や共産主義の挫折は性善説に基づいた国家論にあり、世界の非核化や戦争反対は、自らが善人で平和主義者であるかの如く自己陶酔した人間の寝言に等しい。
奴隷道徳が非道徳的であるのと同じく、世界の非核化を非保有国であることによって先導できるかのような甘っちょろい発想は、被爆国のルサンチマンの裏返しに過ぎない。
|