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■36445 / inTopicNo.25)  Re:『論考』と"transition"
  
□投稿者/ うましか -(2024/02/06(Tue) 01:16:59)
    田秋さん、こんばんはー

    専門家による視点からのコメント、ありがとうございましたm(__)m


    勉強になりました(;´Д`A```


    (;´・ω・) 袋小路うましか


    では〜

引用返信/返信 削除キー/
■36446 / inTopicNo.26)  翻訳への疑問
□投稿者/ 田秋 -(2024/02/06(Tue) 07:35:54)
    knowingitselさんのスレッドに書くかこちらに書くか迷いましたが、一応こちらに書くことにしました。

    哲学宗教日記の独文と英文が載っているサイトを見つけました。
    https://archive.org/stream/WittgensteinCorrespondance/Wittgenstein+-+Public+and+Private+Occasions_djvu.txt

    ページ内を”Beethoven”で検索すると該当箇所は簡単に見つけられます。
    独文
    Von dem letzten Satz eines der letzten Beethovenschen Quartette den er mehr als vielleicht alles andere liebte sagte er mir er fiihle dabei die Himmel seien offen.
    英文
    Of the last movement of one of Beethoven’s last quartets, a movement he loved
    perhaps more than anything else, he told me that it made him feel as if the heavens were open.

    なるほど(独)letzten Beethovenschen Quartetteも(英)Beethoven’s last quartetsもカルテットが複数形になっています。日本語では変ですが「ベートーベンの最後のカルテット[たち]」となり、その前が[eines der]、[one of]なので日本語訳は「ベートーベンの最後の弦楽四重奏曲のうちの一つ」となり、それを受ける「最後の楽章」は単数形なので、本の翻訳は全く正しいことなります。

    ところがこれをDeeplにかけると「ベートーヴェン最後の四重奏曲(の終楽章)」と訳してくるのです。

    Deeplが何故このように訳すのかはボクの語学力ではわかりません。が、ボクの推察とは一致します。
引用返信/返信 削除キー/
■36447 / inTopicNo.27)  Re[21]: 移行部
□投稿者/ flora -(2024/02/06(Tue) 13:24:58)
    No36444に返信(田秋さんの記事)

    田秋さん、うましかさん、こんにちは〜

    > ウィトゲンシュタインが「すべてがこめられていると思う《移行部》」、この《移行部》が何(どこ)を指すのかはわかりません。何故わからないのかというと・・・

    > 楽曲をアナリーゼ(分析)する際、移行或いは推移という言葉はよく使われます。例えばソナタ形式の場合、第2主題の前に移行部(推移)という部分が置かれます。何故置かれるのかと言うと、第1主題と第2主題とでは普通調性が違うからです。下図は第9の第1楽章の提示部の簡単なアナリーゼです。第9はニ短調です。ですから第1主題はニ短調ですが第2主題は変ロ長調で書かれています。ニ短調から変ロ長調へ滑らかに繋ぐ部分、それが移行部(推移)です。

    全くのド素人で申し訳ないのですが〜、この移行部は何調(?という表現ででいいのかももわからない?)で書かれているのですか?第一主題と第二主題のエッセンスが盛り込まれているということはないのですか? よろしくお願いします〜。

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■36451 / inTopicNo.28)  Re[22]: 移行部
□投稿者/ 田秋 -(2024/02/06(Tue) 14:46:56)
    2024/02/06(Tue) 15:29:19 編集(投稿者)

    おはようございます、floraさん

    シカゴ=ムーティ―の第9です。
    https://www.youtube.com/watch?v=rOjHhS5MtvA&t=260s
    3’51” 移行部(推移)d moll(ニ短調) ここで聴かれる旋律は第1主題と関係があります。
    4’05” 転調開始
    4'12"辺りからB durのカデンツ《V→I→V→》ここでは雰囲気も第2主題のように優しくなっています。
    4’23” 第二主題 B dur(変ロ長調)

    スコアを見ながらでないとなかなかわかりませんよね m(_ _)m

    追記
    スコアを付けました。
1000×1437 => 417×600

ikoubu.jpg
/343KB
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■36454 / inTopicNo.29)  Re[23]: 翻訳への疑問
□投稿者/ knowingitself -(2024/02/06(Tue) 16:39:23)
    田秋さん こんにちは

    > ページ内を”Beethoven”で検索すると該当箇所は簡単に見つけられます。
    > 独文
    > Von dem letzten Satz eines der letzten Beethovenschen Quartette den er mehr als vielleicht alles andere liebte sagte er mir er fiihle dabei die Himmel seien offen.
    > 英文
    > Of the last movement of one of Beethoven’s last quartets, a movement he loved
    > perhaps more than anything else, he told me that it made him feel as if the heavens were open.
    >
    > なるほど(独)letzten Beethovenschen Quartetteも(英)Beethoven’s last quartetsもカルテットが複数形になっています。日本語では変ですが「ベートーベンの最後のカルテット[たち]」となり、その前が[eines der]、[one of]なので日本語訳は「ベートーベンの最後の弦楽四重奏曲のうちの一つ」となり、それを受ける「最後の楽章」は単数形なので、

    結局、どの曲の終楽章であるかの特定はしていないのですね。

    しかし、「他の何よりも愛する」終楽章とはすごい表現です。人生には世界には自然には愛すべきものがたくさんあるのに。さまざまな芸術にも愛すべき作品は数多いし、クラシック音楽でも愛すべき曲は多いはず。

    そこまでいえるほどの弦楽四重奏曲とは?やはり16番ですか?

    ベートーヴェンの場合、同一ジャンルの最後の曲の最終楽章に特別な意味をもたせていることは少なくないと思います。、
    ピアノソナタなら、32番、交響曲なら、第九。前者について、被造物で最も愛するという人を知っていますし、後者について、人類の最高の発明は第九という人も知っています。

    これらの後に更に深めていったのが晩年の弦楽四重奏曲群だとされていますが、やはりこの場合も最後の曲の最終楽章になるのでしょうか。

    晩年の弦楽四重奏曲群は、私にはやはり難解ですね。


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■36455 / inTopicNo.30)  Re[23]: 移行部
□投稿者/ knowingitself -(2024/02/06(Tue) 17:21:44)
    「移行部」について。大指揮者フルトヴェングラーが移行部に細心の注意を払っていた、有機的な生き物のようにフレーズが呼吸していた、彼は推移の達人であったなどと評されます。

    ウィトゲンシュタインがレコードで「移行部」を何度も繰り返し聴いていた、そこからすべてを引き出したいと考えていたというエピソードは、フルトヴェングラーのベートーヴェンなどに対する音楽観とどこかで通じているのかも?

    ウィトゲンシュタインはバッハの「フーガの技法」を口笛で吹いていた、ベートーヴェンの九曲のシンフォニーの全楽章を口笛で吹けたといわれています。これは単一のキレイなメロディを歌うのとはまったく違いますね。フーガの技法ではそんなことをしても意味をなしません。ウィトゲンシュタインのアタマの中で曲の複雑な構造が再現されていて、それが口笛としてたまたま表現されていたと考えるべきでしょう。

    ウィトゲンシュタインには指揮者の適正があったのかもしれない。
引用返信/返信 削除キー/
■36463 / inTopicNo.31)  Re[24]: 移行部
□投稿者/ 田秋 -(2024/02/07(Wed) 07:43:35)
    おはようございます、knowingitselfさん

    >「移行部」について。大指揮者フルトヴェングラーが移行部に細心の注意を払っていた、有機的な生き物のようにフレーズが呼吸していた、彼は推移の達人であったなどと評されます。

    そうなんですか!知りませんでした。

    >ウィトゲンシュタインがレコードで「移行部」を何度も繰り返し聴いていた、そこからすべてを引き出したいと考えていたというエピソードは、フルトヴェングラーのベートーヴェンなどに対する音楽観とどこかで通じているのかも?

    この「移行部」がボクが第9を例に示した作曲技法上の移行部のことなのか、別の意味合いを持つのか、ちょっとわかりません。

    というのも作曲技法上の移行部は、例えば建物で言うと主要部分同士をつなぐボルト(溶接というよりはボルトという表現が方が合ってるかなあ?)のようなもの、という理解がボクにあるからです。確かに接合部分がしっかりしていないと建物が崩れてしまいますからね。

    ただ、建物の中でボルトが一番大事かと?自問してみると・・・(あくまでボクのイメージです)

    ブリッジという概念があります。作曲技法上の移行部とは(多分)少し異なる概念で、前の部分と次の部分を繋ぐパッセージみたいな意味です。あるメロディーの終わりが(少し)長い音で終わることってよくあります。そのあと次のメロディーが始まる訳ですが、最初のメロディの最後の長い音のとき、別のパートで中継ぎのようなパッセージを演奏して次へ繋ぐことがあります(リズム点がなくなり音楽が弛緩することを防ぐ役目もあります)。そういうのをブリッジというのですが、それを大事にしないと音楽が雑になってしまうことはあります。

    多分移行部に関してはボクの気が付いていない、或いは軽視していることがあるのかもです。今後気を付けて演奏、鑑賞しようと思います。
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■36466 / inTopicNo.32)  Re[25]: 移行部
□投稿者/ 田秋 -(2024/02/07(Wed) 18:16:09)
    floraさんがレシェック・コワコフスキのMY CORRECT VIEWS ON EVERYTHINGより「Wilhelm Furtwaengler」を紹介してくださいました。

    この中でフルトヴェングラーのtransitionについても語られています。

    https://mycorrectviewoneverything-wordpress-com.translate.goog/2020/01/20/wilhelm-furtwangler/?_x_tr_sl=auto&_x_tr_tl=en&_x_tr_hl=en-US&_x_tr_pto=wapp

    これを読んで思ったのですが、transitionは移行部と訳すより転調とした方が意味が通ると思います。そうするとボクが例をひいた第9の第1楽章の第1主題から第2主題への移行する部分も転調していますから意味が通ると思います。
    floraさんが
    >この移行部は何調で書かれているのですか?
    と尋ねられたのもtransition=転調という理解からだと今、わかりました^^;

    この文章にはバレンボイム、ブレンデルを始め、チェルビダッケやベルリンフィルの元ティンパニストの言葉が引用されていて面白いです。
引用返信/返信 削除キー/
■36468 / inTopicNo.33)  フルトヴェングラー 2
□投稿者/ 田秋 -(2024/02/08(Thu) 07:38:29)
    2024/02/08(Thu) 08:23:03 編集(投稿者)

    フルトヴェングラーについてよくある誤解は、彼もまた、作曲家や楽譜を顧みず、エゴイスティックな気まぐれに走りがちなオーバーロマン派の指揮者だったというものだ。確かに、今日の多くの演奏がメトロノミックで完璧で退屈なものであるとき、彼の録音は不規則に聞こえるかもしれない。しかし、上に示したように、彼の「風変わりさ」は、大きすぎるエゴの結果ではない。実際、フルトヴェングラーは、ベートーヴェンの第5番など何百回も演奏した作品でさえ、常に楽譜を研究し直していたことで知られている。バレンボイムは言う、

    彼が音楽的な自由や自発性を取り入れたのは、個人的な好みのためではなく、音楽の構造がそれを必要としたからだ

    ダニエル・バレンボイム「なぜヴィルヘルム・フルトヴェングラーは今日も私たちを感動させるのか」 https://danielbarenboim.com/why-wilhelm-furtwangler-still-moves-us-today/

    フルトヴェングラーの "奇抜さ "は常に楽譜に対する反応である。音楽を演奏したことのある人なら誰でも知っているように、音楽を演奏するということは、演奏者に自由を与えるどころか、選択を要求することでもある。作曲家がダイナミックマーキングを残していない場合、私はここでクレッシェンドをするか、デクレッシェンドをするか?解決にルバートを加えるか?このフーガの異なる声部のバランスをどうとるか?作曲家が非常に明確な指示を残している場合(ベートーヴェンが思い浮かぶ)でも、その反対のことをしようとほとんど病的な反応をしてしまうことがある。

    フルトヴェングラーにまつわるこのような誤った認識について考えるとき、私はいつもチャールズ・ローゼンのスヴャトスラフ・リヒテルについての言葉を思い出す。スヴャトスラフ・リヒテルは、フルトヴェングラーになぞらえて言えば、録音された中で最も偉大なピアニストだと私は考えているが、彼もまたフルトヴェングラーの熱烈な崇拝者であったことを知り、とても驚いた:

    リヒテルは非常に知的な音楽家であり、楽譜に重要なディテールがあるときはいつも、彼の解釈における反応によってそれが示された。

    Charles Rosen, "Old Wisdom and Newfangled Theory: 自由と芸術:音楽と文学に関するエッセイ』(2012年)所収。

    リヒテルと同様、フルトヴェングラーの選択は常に楽譜に基づいていた。それは人が望んだものでも好きなものでもなかったかもしれないが、それでも個人的な気まぐれではなく、常に楽譜に基づいていた。

    第三の特徴は、彼の演奏に見られる集中力の高さである。この集中力がなければ、フルトヴェングラーの演奏にあのような連続性を持たせることはできなかっただろう。こうした集中力は、彼の芸術に対するたゆまぬ献身と信念から生まれたものであることは言うまでもない。フルトヴェングラーといえば、ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー、ブルックナーといったロマン派の中核をなすオーストリア=ドイツのレパートリーの演奏が有名である。しかし、フルトヴェングラーが「シリアス」な音楽だけを得意としているという一般的な認識とは裏腹に、私はハイドンの交響曲やベートーヴェンの交響曲の中間楽章のような曲の録音も、その軽快さ、楽しさ、ユーモアの点では他の演奏家に引けを取らないと思う。チャイコフスキーの交響曲やスメタナのヴルタヴァも、彼がドイツ以外の作曲家を演奏できないという説を無意味なものにしている。彼の信念と真剣さは、気分ではなく態度にあった。

    これらすべては、フルトヴェングラーの音楽作りの超越性についての私の最初の指摘につながる。自分が生きている世界の代わりに、和声の緊張と解決、旋律、ベートーヴェンの『大いなるフーガ』における戦慄を誘うドラマ、ワーグナーにおける色彩、シュトラウスのトーンポエムにおけるような作曲家が意図したかもしれない音楽外の連想に満ちた抽象的で絶対的な世界に引き込まれるのだ。フルトヴェングラーは、演奏のたびに、音楽的に非常に完全でまったく説得力のある世界を創り出し、真に別世界の、精神的で超越的なものを聴いたと実感させてくれる。

    この投稿を終えるにあたり、フルトヴェングラーについて書くよりも、音楽について書くことに多くのスペースを費やしてしまったことを思い知らされた。多くの批評家がやりがちな、彼や作曲家の私生活のような些細なことよりも、逆説的ではあるが、音楽そのものについて多くを語るということだ。

    過去から現在に至るまで、フルトヴェングラーを最も偉大な指揮者とまでは言わないまでも、最も偉大な指揮者の一人であると考えている音楽家は非常に多く、そのリストは事実上、音楽界の伝説的な人物の名を連ねている。ダヴィッド・オイストラフ、ネイサン・ミルシュタイン、ユーディ・メニューイン、スヴャトスラフ・リヒテル、クラウディオ・アラウ、ヴィルヘルム・ケンプフ、エドウィン・フィッシャー、パブロ・カザルス、エマニュエル・フォイアマン、マリア・カラス、エリザベート・シュヴァルツコップ、キルステン・フラグスタッド、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ、カルロス・クライバー、 フルトヴェングラーを最も偉大な指揮者と認めている音楽家の一人に過ぎない。クラシック音楽ファンなら誰でも知っているはずだが、これらの音楽家は皆、それぞれの楽器で最も偉大な指揮者とみなされており、フルトヴェングラーに対して最も贅沢な賛辞を贈っている。しかし、私が出会った中で最も説得力のある証言は、ベルリン・フィルの元ティンパニ奏者、ヴェルナー・テーリヒェンによるものだ:

    私はティンパニの前に座っていた。私は作曲と指揮の勉強もしていたので、いつもティンパニで楽譜を開いていて、長い休みの間、それを見ながら演奏していた。楽譜を見ながら作曲を追っていたんだ。リハーサル特有の音に慣れる。突然、私はまったく新しい魅力的な音が生まれていることに気づいた。私は指揮台を見たが、そこには特別なものは何もなかった。そして同僚たちを見ると、みんな入り口をじっと見つめていた。入り口にはフルトヴェングラーが立っていた。彼の個性、存在感だけが、この信じられないほど美しい響きを生み出したのだ。自分の中に音を強く持っている人が、他の人の音を引き出す。オーケストラが経験できる最も美しいことは、この人が完全に心を開いていて、自分も招かれていることを知ったときだ。このような音楽ができるのはそのときだ

    ヴェルナー・テーリヒェン
    音楽家に対してこの言葉以上の賛辞を贈るのは難しい。

    追伸:フルトヴェングラーとナチズムについては、すでに多くのことが書かれているので(不名誉なことに、このような音楽家に対する正真正銘の侮辱である彼の音楽についてよりも、おそらくさらに多くのことが書かれている)、言及を避けたかったのだが、このテーマの政治的な性質を考えると避けられないように思われるし、彼とナチズムの「関連」はともかく、そもそもフルトヴェングラーについて知っている人は多くないだろうから、誤った印象を与えないように簡単に取り上げてみる。

    ナチスが政権を握ったとき、ドイツの芸術家の多くはユダヤ人であったため、あるいは主義主張のために逃亡した。フルトヴェングラーとリヒャルト・シュトラウスは、おそらく最も有名なドイツ人音楽家であっただろうが、二人ともナチスではなかった。彼らの残留の背景には、祖国への愛着、家族や友人、祖国の文化に対する責任感など、数多くの複雑な理由がある。フルトヴェングラーはナチスに公然と反対し、戦前から戦中にかけて数多くのユダヤ人を助け、救った。フリーデリンド・ワーグナーのこの回想は、フルトヴェングラーがナチスではなかったことを示すのに十分である: 「ヒトラーがフルトヴェングラーに向かって、宣伝のために党に利用されることを認めなければならないと言ったのを覚えている。ヒトラーは激怒し、フルトヴェングラーに、その場合は強制収容所を用意すると言った。フルトヴェングラーは静かに答えた: 「もしそうなら、ライヒスカンツラーさん、少なくとも私はとても良い仲間になれるでしょう」。ヒトラーは答えることもできず、部屋から消えてしまった」。あるいは、フルトヴェングラーの脱ナチス裁判の際に、フーゴ・シュトレリッツァーが印象深く語ったように、「私が今日生きているのは、この偉大な人物のおかげである。フルトヴェングラーは多くのユダヤ人音楽家を助け、保護した。ナチスの目をかいくぐって、ドイツでそれを行ったのだから、その態度は大きな勇気を示している。歴史が彼を裁くだろう」。

    もちろん、これは全容にはほど遠いのだが、前述したように、フルトヴェングラーの音楽よりも戦時中の行動についての方が多く書かれているのは恥ずべきことだと思うので、これ以上書く気はない。

    参考文献

    バレンボイム、ダニエル. "Why Wilhelm Furtwängler still moves us today" https://danielbarenboim.com/why-wilhelm-furtwangler-still-moves-us-today/

    バレンボイム、ダニエル。"私はバッハで育った" https://danielbarenboim.com/i-was-reared-on-bach/

    バレンボイム、ダニエル。"Interview with Daniel Barenboim" https://danielbarenboim.com/interview-with-daniel-barenboim/

    ブレンデル、アルフレッド。"ヴィルヘルム・フルトヴェングラーについて" https://www.nybooks.com/articles/1991/03/28/on-wilhelm-furtwangler/

    https://en.wikiquote.org/wiki/Sviatoslav_Richter#Quotes_about_Richter

引用返信/返信 削除キー/
■36469 / inTopicNo.34)  フルトヴェングラー 1
□投稿者/ 田秋 -(2024/02/08(Thu) 07:46:47)
    2024/02/08(Thu) 08:22:23 編集(投稿者)

    昨日floraさんが紹介して下さった「Wilhelm Furtwaengler」をDeeplで和訳したものをアップします。一応目を通していますが、不正確な所もあるかもしれません。おかしいなと思った時は原文を参考にしてください。

    全体を二つに分けてアップしています。
    ===

    ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、私や他の多くの人々にとって、これまで録音された中で最も偉大な指揮者であり(マーラーなど多くの有名な指揮者は録音されていない)、おそらく史上最高の指揮者である。

    簡単な経歴を紹介しよう: ベルリン近郊で生まれ、ミュンヘンで育った彼は、早くから才能を発揮し、私的な人文主義的教育を受けた。20歳で指揮者になったのは、父の死後、家族を養う必要性と自分の作品を広めたいという願望からだった。彼の出世はめざましく、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のディレクターやウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を歴任した。第二次世界大戦中もドイツに留まり、永続的な論争を引き起こした。1954年に逝去。

    フルトヴェングラーの名声を考えれば、彼と彼の音楽について書かれた文章が豊富にあるのは当然のことだ。同じように当然といえば当然なのだが、実際の音楽家が書いた数少ない言葉の方が、批評家の山よりもずっと示唆に富んでいる。特に、ダニエル・バレンボイムとアルフレッド・ブレンデルの言葉を引用しよう。彼らのエッセイは、フルトヴェングラーについての私の考えを確認し、音楽そのものの本質についての考えを私の中に呼び覚ました。

    フルトヴェングラーの音楽作りを一言で言うなら、"超越的 "だ。彼の録音は、まさに人生を変える、精神的・宗教的な体験だ。フルトヴェングラーは、私が考える音楽の最大の特質を体現している。それは、真に超越的であり、作曲家、演奏家、聴き手を現実とはまったく異なる世界にテレポートさせる可能性があるということだ。私にとって、音楽のこの超越的な性質は、その絶対性から来るものであり、このテーマを掘り下げるにはまったく新しい記事が必要になるだろう。

    これは、バレンボイムとブレンデルの両氏が言うフルトヴェングラーについての最大のポイント、彼がいかに音楽の絶対性を伝えているかということにつながる:

    文学や哲学やイデオロギーの回り道を経由して音楽にアクセスしようとしない私たちにとって、フルトヴェングラーはなくてはならない存在であり続けている。もしフルトヴェングラーが存在しなかったら、私たちは彼を発明しなければならなかっただろう。言語と言語学に魅了される現代では、言葉の助けなしに組織的な思考が可能であることを忘れがちである。指揮者フルトヴェングラーは、彼自身の純粋な音楽的根拠において、誰にも引けを取らない「思想家」であると私には思えるのだが...。

    アルフレッド・ブレンデル「ヴィルヘルム・フルトヴェングラーについて」 https://www.nybooks.com/articles/1991/03/28/on-wilhelm-furtwangler/
    ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、音楽の内容との関わりを大切にしていた。ベートーヴェンの交響曲を言葉で説明することはできない。もしそれが可能なら、交響曲は余計なものになるか、あるいはその部分自体が不可能になってしまうだろう。しかし、これは音楽に意味がないということではない。この音楽における内容の探求こそが、今日欠けているものなのだ。私たちは、輝かしい瞬間や冷たい建築、歴史的真実を探している。しかし、私たちは自分自身を切り捨てているのだ。

    ダニエル・バレンボイム「なぜヴィルヘルム・フルトヴェングラーは今日も私たちを感動させるのか」 https://danielbarenboim.com/why-wilhelm-furtwangler-still-moves-us-today/

    この2人の音楽家は、まったく独立した立場から(以前にも以後にも多くの音楽家が同じことを論じているので、ユニークとは言い難いが)、音楽の絶対的で不可解な本質に触れていると思う。バレンボイムが指摘するように、音楽とは、歴史的背景(このシューベルトのリートは作曲家が落ち込んでいたときに書かれた...)や、印象的なメロディ(ベートーヴェンの作品13の終楽章のテーマ)や、多くの人がそう考えるような構造(このブルックナーの交響曲は修正ソナタ形式である...)以上のものなのだ。和声的な分析(バッハは欺瞞的なカデンツァで解決を遅らせている...)よりも、人々が感情的にどう反応するか(ああ、このラフマニノフの前奏曲はとても悲しい...)よりも、もっともっと、これらすべてを超えたものなのだ。フルトヴェングラーは、ブレンデルが雄弁に言うように、歴史のような音楽外の連想を必要とせず、言葉のような音楽外のコミュニケーションを必要とせず、曲がそれ自体で有機的な単位として存在できるように、全体が浮かび上がるように音楽を作ったのである。

    フルトヴェングラーの指揮の重要な側面は、曲を首尾一貫した全体としてまとめることである。ここでも、バレンボイムとブレンデルの両者が、この点を非常に的確に示している:

    フルトヴェングラーは偉大なコネクターであり、トランジションのグランド・マスターだったのだ。フルトヴェングラーのトランジションが記憶に残るのはなぜか?フルトヴェングラーのトランジションは、細心の注意を払って成型されたものでありながら、それを孤立させることはできない。異なる性質の2つのアイデアをつなぐために挿入されたパッチワークではない。何かから生まれ、何かにつながっていく。それらは変容の領域なのだ。細かく観察すると、最初はほとんど気づかないうちに、テンポに影響を与え始めていることに気づく。ベートーヴェンの交響曲第4番の第1楽章のように、フルトヴェングラーのテンポ変更の振幅に同意できない場合でも、私は彼の感情の切迫感とコントロールの鋭さのどちらを賞賛すべきかわからない。

    アルフレッド・ブレンデル

    交響曲第7番をリハーサルしていたとき、彼はトランジションだけをリハーサルしていた。それはフレージングや実際のフレーズのバランスだけでなく、そこに至るまでの小節にも及んでいた。フルトヴェングラーのライヴを聴いて、私はこの綿密な準備を強く感じた......。

    Daniel Barenboim, A Life in Music (New York: Charles Scribner's Sons, 1991), 29

    ブレンデルが指摘するように、フルトヴェングラーのトランジションは、単にある部分から別の部分へ(例えば、ソナタ形式では展開部から再現部へ)つなげるだけでなく、文字通り音楽を新たな領域へと変化させる。聴き手が曲から受ける印象は、細部やフレーズの集まりではなく、ひとつの連続した統一体である。

    フルトヴェングラーがこの連続性を維持する方法のひとつは、信じられないほどシンプルだが重要なコンセプトである「起こることに従って演奏する」ことだ。衒学的に聞こえるかもしれないが、これはどういうことかというと、事前に考えた理論に従って演奏するのではなく(もちろん、どんな演奏家でも、演奏のずっと前から、その曲がどのような響きを持つべきかという構想を持ち、その構想を実現するためにたゆまぬ努力をしなければならないが)、フルトヴェングラーは、演奏されるはずだったものではなく、実際に演奏されたものに従って、必要に応じて演奏を修正するのである(これを即興と呼ぶ人もいる)。チェリビダッケは、彼のドキュメンタリーで1:30:51からこの点を正確に説明している。
    《田秋註:ここに動画があるが、再生できない》

    フルトヴェングラーから学んだこと:私の人生全体、そしてすべての勉強の扉を開いてくれたのは、このひとつの考えだった。この一文だ。若いチェリビダッケが彼に尋ねたときのことだ: 「マエストロ、このブルックナーの交響曲の転調、どうやればいいんですか?どのくらいの速さですか?ここで何を打つんですか?"

    「マエストロはこう答えた。"どんなふうに聞こえるかによるんだ!"

    豊かで深みのある、どこも同じような音がするときは、私は遅くなる。乾いた、もろい音のときは、速くしなければならない。つまり、彼は実際に聴いた音によって調整するのだ。理論ではなく、実際の結果に従って、特徴に従って!

    セルジュ・チェルビダッケ

    だからフルトヴェングラーは、リハーサルを厳格に繰り返すのではなく、その前にあるものを論理的に継承しつつ、その後に来るものを暗示する連続的な流れとして音楽を指揮するのだ。一般的な音楽の格言にあるように、「あなたが演奏しているものには、一番最初の小節と一番最後の小節の両方が含まれているべきだ」ということである。つまり、音楽は、細部、部分、メロディの集まりではなく、全体としての芸術作品として構想されるべきであるということだ。これは些細なことのように思えるかもしれないが、音楽家なら誰でも証明できるように、これを達成するのは極めて難しい。フルトヴェングラーにとって、演奏されるすべての音は、その前に演奏されたすべての音(そして沈黙!)に対する応答(継続であれ、拒絶であれ、何であれ)であり、同時にその後に演奏されるすべての音と沈黙を指し示すものだった。ちなみに、バレンボイムはインタビュー(https://danielbarenboim.com/interview-with-daniel-barenboim/)で、このやりとりを間違って解釈していたと思う。

    音大生なら誰でも知っているように、音楽の3大要素の中で最も重要なのは和声である。どんな音楽理論の入門クラスでも、基本的な和声と対位法から始まり、これらはすべての調性音楽の基礎となる。フルトヴェングラーにとって、これらの和声的変化は、やはり音大生なら誰でも知っているように、フレージング、ダイナミクス、テンポ、バランス、色彩、あらゆるものの基礎であった。

    フルトヴェングラーにとって、遅いか速いか、テンポが有機的に変化するかしないかは重要ではない。重要なのは、そして私にとってフルトヴェングラーが他の指揮者よりも抜きん出ているのは、他の指揮者では見られないような和声的緊張感によって、音楽的言説が影響を受け、刷り込まれることなのだ。例を挙げよう: ベートーヴェンの交響曲第4番で、序奏の直後にロ長調というまったく異質な調に突然移行するとしたら、そこに行くにはビザが必要なほど、この調は異質なのだ。フルトヴェングラーは、この移調を他に類を見ないほど見事に成し遂げた。なぜか?彼は新しい和声の実現を明確にすることができたからだ。

    ダニエル・バレンボイム「ダニエル・バレンボイム インタビュー」https://danielbarenboim.com/interview-with-daniel-barenboim/

    もちろん、まともな音楽家であれば、音楽理論や和声について何らかの形で熟知していなければならない。しかし、バレンボイムが述べているように、フルトヴェングラーのあらゆる決断は、彼の和声意識、音楽の基礎の把握に影響を受けているようであり、その結果、彼の音楽作りはとても自然で、流れるようで、論理的に聞こえるのである。実際、フルトヴェングラーのテンポの揺らぎは「悪名高い」にもかかわらず、それがしっかりとした論理と自然さを帯びていることを考えると、私はそれを異常なもの、場違いなものとして聴くことはほとんどない。

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■36472 / inTopicNo.35)  Re[28]: フルトヴェングラー 1
□投稿者/ knowingitself -(2024/02/08(Thu) 17:04:15)
    田秋さん 解説ありがとうございます

    >バレンボイムとブレンデルの両者が、この点を非常に的確に示している:

    >フルトヴェングラーは偉大なコネクターであり、トランジションのグランド・マスターだったのだ。フルトヴェングラーのトランジションが記憶に残るのはなぜか?フルトヴェングラーのトランジションは、細心の注意を払って成型されたものでありながら、それを孤立させることはできない。異なる性質の2つのアイデアをつなぐために挿入されたパッチワークではない。何かから生まれ、何かにつながっていく。それらは変容の領域なのだ。細かく観察すると、最初はほとんど気づかないうちに、テンポに影響を与え始めていることに気づく。ベートーヴェンの交響曲第4番の第1楽章のように、フルトヴェングラーのテンポ変更の振幅に同意できない場合でも、私は彼の感情の切迫感とコントロールの鋭さのどちらを賞賛すべきかわからない。

    >アルフレッド・ブレンデル

    >交響曲第7番をリハーサルしていたとき、彼はトランジションだけをリハーサルしていた。それはフレージングや実際のフレーズのバランスだけでなく、そこに至るまでの小節にも及んでいた。フルトヴェングラーのライヴを聴いて、私はこの綿密な準備を強く感じた

    翻訳は原文の大意を伝えていると思います。

    ウィトゲンシュタインについて他人が書いたエピソードの短文でトランジションとなっているのは、音楽家が使う一般用語としてのものか、若干違うニュアンスなのか。どちらとも矛盾しないように思います。

    極論をいえば、そもそも音楽は時間的な推移の芸術で、最初から終わりまで微妙に変化していきます。どこに勝負トランジションを発見するかは、ある程度の自由があるのかもしれません。

    ちなみに、フルトヴェングラーとウィトゲンシュタインは三つしか年が違わず、クラシック音楽の価値観はある程度、共通していたのかもしれない。ウィトゲンシュタインもドイツオーストリー音楽至上のところがあって、バッハ以前はあまり知らない、音楽の「神の子」はモーツァルトとベートーヴェンだと言っているようですし、ブラームス以後は好んでいなかった。本当に好きなのはバッハからブラームスまでという、現在からみれば狭すぎる趣味で、そのブラームスにもも機械的なものが忍び込んでいるとした。最も愛していたのは、やはりシューベルトだろうと推察されることが多いようです。


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■36480 / inTopicNo.36)  ドラマ
□投稿者/ 田秋 -(2024/02/09(Fri) 14:25:09)
    このところお堅い話題が続いていたので、ちょと息抜き。

    放送大学の試験が終わって、テレビドラマをよく見る。但し地上波で放映される新作ではなくBSで放映されている古いものだ。

    以前から時代劇は見ていた。中村吉右衛門の鬼平犯科帳、藤田まことの剣客商売、渡辺謙の御家人斬九郎、松平健の 暴れん坊将軍など。

    最近見ているのは、名取裕子の京都地検の女、沢口靖子の科捜研の女、 小林稔侍の税務調査官・窓際太郎の事件簿、藤田まことのはぐれ刑事純情派、内藤剛の警視庁・捜査一課長、渡瀬恒彦の十津川警部シリーズやおみやさんなど。

    先日科捜研の女の第1シリーズをやっていた。1999年作なので四半世紀前の作品となる。みんな若いし、辻本茂雄が蕎麦屋役で出ていたのにはびっくり。
    あと思うのはわき役の人たちが上手いことだ。十津川もののカメさん役の伊東四朗などはあきらかにわき役以上だ。渡辺いっけい、金田明夫、本田博太郎などみんな味がある。本田博太郎は鬼平犯科帳にもよく出ていた。


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