| 3675 現象学ていうか、メルロの、ね。 『知覚の現象学』の序文の書き出しにこんなことが書いてある。長いけど書き写して見ます。
【現象学とは何か。フッサールの最初の諸著作が世に出てからもう半世紀もたつのに、今なおこんな問いをたてなければあらないことは、一見、奇妙なことと思われるかも知れない。しかしこの問いはまだ解決されていはいない。現象学とは本質の研究である。現象学によれば、あらゆる問題は、もろもろの本質、例えば知覚の本質、意識本質などを定義することによって解決されるはずである。しかし現象学とは、また、本質を実存のなかに戻し、人間と世界とを理解するには、それらの「事実性」から出発するほかないと考える哲学でもある。それは自然的態度から生ずるさまざまな主張を理解するために、かえってこれらの主張を保留する超越論的な哲学ではあるが、しかしまた、世界がつねに反省に先だって、廃棄されえない現存として、「すでにそこに」あることを認める哲学でもある。そして世界との、この素朴な触れあいを再発見し、結局はそれに哲学的な資格を与えることに、あらゆる努力を傾注するのである。現象学は、「厳密学」たろうとする哲学の野心であるが、またそれと同時に、「生きられた」空間、世界についての報告でもある。それは、われわれの経験の心理学的な発生や、科学者、歴史家、もしくは社会学者が提供しうるような、その因果的な説明を願慮せずに、経験をあるがままに、直接、記述しようという試みである。だがフッサールは、晩年の諸著作のなかで「発生的現象学」、いや「構成的現象学」にまで言及している。こうした矛盾は、フッサールの現象学とハイデガーのそれを区別することによって、解決されるだろうか。しかし『存在と時間』はすみずみまで、フッサールの指示に由来するものであって、要するにこれは、フッサールが、その生涯の終わりに臨んで、現象学の最も主要なテーマとして提起した「自然的世界概念」あるは「生活世界」の、一つの解明にすぎないのだ。だから結局、上述の矛盾は、フッサール自身の哲学のなかに舞い戻ってくることになる。せっかちな読者は、このようにいっさいがっさいを主張してきた学説の境界を見きわめることを断念し、自己自身を定義できないような哲学について、がやがや騒ぐ値打ちがあるかどうか、こんなものは、むしろ一つの神話であり一つの流行にすぎないのではないかと、怪しみたくなるであろう。】
人間と世界を知ると、そして人間と世界との関係を知ること。 「世界における(への)存在」としての私を知ろうとすることを、哲学者の、じゃなくて、自然的態度を知ろうとすること。
「勉強」の意味を、 1.学問や技芸を学ぶこと。 2.気が進まないことしかたなくすること。 ってしたとき、少なくとも2じゃない。でも。1でもなさそう。
ただ、知ることを欲する、かな?
あ、悪魔ちゃんじゃなくなっちゃたかも。 でもね、悪の道に誘惑するために私秘性にアプローチするのは悪魔の手口のひとつなの。
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