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■34624 / inTopicNo.73)  Re[11]: アドヴァイタと而今(にこん)
  
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/10/23(Mon) 23:13:56)
    2023/10/24(Tue) 06:07:43 編集(投稿者)
    2023/10/23(Mon) 23:21:44 編集(投稿者)

    パニチェさん、こんばんは。
    レスをありがとうございます。

    No34618に返信(パニチェさんの記事)
    > こんばんは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。
    >
    > ■No34612に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >>>>>生の形式としての「不動の今」「絶対の今」=「永遠の今」の「永遠」のことである、
    >>>>という捉え方には違和感がある、つまり異なる考え方だということですか?
    >
    > >>いえ、全く異論はないですよ。
    > >>田秋さんのレスもザビビのふくろうさんのレスも先の私のレスも、私からしてみれば今という瞬間について違う言い方をしていますが論旨は同じと考えていますので、その違いが分からないという旨の質問でした。
    >
    >
    >>ふむふむ、なるほど、なかなか面白いですね。
    >>だとすれば、これはやはりパニチェさんと私の「独我論的私」の解釈の違いと相即していると考えられますね。
    >>つまり、この場合、
    >> 絶対の「今此処に在る私」
    >>の、〈今〉とは何か?に対する解釈の違いと思います。
    >
    >>なので、議論を詰めようとしても、平行線になるのは必至と思われますので、お互いの解釈の違いとして、そのままにしておいても良いのじゃないでしょうか?
    >>田秋さんもついて来れないと思いますし。
    >
    >>それとも、パニチェさんは違いがよくわからないということなので、このまま放置すると気持ち悪いですかね?
    >>せめて私の考える、お互いの解釈の違いを一応説明したほうがよいですか?
    >>まあただ、独我論的私のときと同様、理解してもらえる自信はあんまりありませんが(笑)
    >>でも、お望みなら言ってください^^
    >>どうしましょうか?
    >
    > 議論を前提としてではなく、是非教えて下さい。
    > 興味があります。
    >

    いやいや、教えるなんて(笑)
    一応私なりの考えを述べてみます。
    参考になれば幸いです。

    細かい抽象的ロジックの説明をしてもかえって理解が困難になると思いますので、なるべくイメージをつかみやすいように説明したいと思います。

    私の理解では、「経過時間=0の瞬間」というのは、「時間の流れが止まった瞬間」としての無時間性とも言えると思うんですね。
    そうすると、違うかもしれませんが、私のベタな具体的イメージとしては
     「ボールが止まって見えた」  by 川上哲治
    って感じかなと(笑)。
    間違っていたら言ってください。
    あと、イメージ的にはこんな感じでしょうか。

    「人が[現に]生きているのは、瞬間にすぎないこの現在だけである」(M.アウレリウス)
    「生きることができるのは刻一刻の〈今ここ〉だけ」「一瞬の存在がすべて」(古東哲明『現代思想としてのギリシア哲学』(講談社メチエ)からの引用)


    それに対して私の言う無時間性=永遠は、たとえば、ピタゴラスの定理は永遠の真理だ、という場合の無時間性のイメージですね。
    ですから、時間の流れが止まるんじゃなくて、時間(川の流れ)の外に出て、いわば岸辺(不変・不動)の視座(幾何学的観点)に立つ、という感じです。
    で、この視座から捉えられる対象が「永遠の相の下で」捉えられた対象だ、ということになります。
    これは平たく言うと、対象を「イデア」として見る、ってことです。

    ですから、幾何学的真理のような、この無時間的=永遠の真理というのは、「(流れる)時間を超越した」真理、とも言えますよね。
    これと同様な意味で、
     《私》は《今》《此処》に《在る》
    という独我論的(形而上学的)真理も、(流れとしての)時間を超越した無時間的真理であり、したがってこの《今》は「永遠の今」でもあるわけです。

    ということで、パニチェさんの解釈と私の解釈の違いは、この絶対の「今」を、時間の流れを止めて観る一瞬一瞬とみなすか、それとも、それ自身は時間の流れの外にあって、流れがそれに対して流れる同一・不変の形式とみなすか、の違いとも言えるように思います。
    (思い付き補足:「瞬間としての今」に対して「イデアとしての今」と言ったほうが、イメージ的には違いがはっきりするかも。)
    なので、パニチェさんの〈今、ここ〉は、特異点、原点といった点のイメージですよね。
    それに対して、私の考える《今、此処》は、あくまで抽象的な場、座標形式のイメージです。
    少なくとも私にとっては、これらは全く異なるものなんです。
    ちなみにこれは、ショーペンハウアー図とマッハ図の違いとも相即していると私は考えています。
    ********************
    最後に補足として、ちょっとネタばらし的なことを書いておきます。
    少し引用した古東哲明さんて方の本を読まれたことあります?
    knowingitselfさんにも言ったのですが、
    『瞬間を生きる哲学』(筑摩選書)
    という著作は、今のテーマともろかぶりだと思うんですが、改めて読み直さないと内容についてきちんと言えないので措きますが、先ほど引用した
    『現代思想としてのギリシア哲学』(今は
    という著作について言えば、むしろパニチェさんと似た考え方じゃないかと思うんですね。
    つまり、この方は、私が分離・区別した捉え方を、一つのものとして観ておられるわけです。
    しかもその語り口が大変魅力的で、説得力があるんですよ。
    なので、ひょっとしたら究極同じかもしれないという思いもあるんですが、私としては『論考』のはしごを上って見えてくる風景は上に述べたようなものに思えるので、私なりに詰めた考えとして提示しました。
    面白かったらいいんですが^^

引用返信/返信 削除キー/
■34618 / inTopicNo.74)  Re[10]: アドヴァイタと而今(にこん)
□投稿者/ パニチェ -(2023/10/23(Mon) 20:38:47)
    こんばんは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。

    No34612に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > >>>生の形式としての「不動の今」「絶対の今」=「永遠の今」の「永遠」のことである、
    > >>という捉え方には違和感がある、つまり異なる考え方だということですか?

    >>いえ、全く異論はないですよ。
    >>田秋さんのレスもザビビのふくろうさんのレスも先の私のレスも、私からしてみれば今という瞬間について違う言い方をしていますが論旨は同じと考えていますので、その違いが分からないという旨の質問でした。


    > ふむふむ、なるほど、なかなか面白いですね。
    > だとすれば、これはやはりパニチェさんと私の「独我論的私」の解釈の違いと相即していると考えられますね。
    > つまり、この場合、
    >  絶対の「今此処に在る私」
    > の、〈今〉とは何か?に対する解釈の違いと思います。

    > なので、議論を詰めようとしても、平行線になるのは必至と思われますので、お互いの解釈の違いとして、そのままにしておいても良いのじゃないでしょうか?
    > 田秋さんもついて来れないと思いますし。

    > それとも、パニチェさんは違いがよくわからないということなので、このまま放置すると気持ち悪いですかね?
    > せめて私の考える、お互いの解釈の違いを一応説明したほうがよいですか?
    > まあただ、独我論的私のときと同様、理解してもらえる自信はあんまりありませんが(笑)
    > でも、お望みなら言ってください^^
    > どうしましょうか?

    議論を前提としてではなく、是非教えて下さい。
    興味があります。

引用返信/返信 削除キー/
■34612 / inTopicNo.75)  Re[9]: アドヴァイタと而今(にこん)
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/10/23(Mon) 14:35:52)
    パニチェさん、こんにちは。


    No34605に返信(パニチェさんの記事)
    > 2023/10/22(Sun) 19:41:21 編集(投稿者)
    >

    >>そうですか。
    >>では、確認させてもらいたいのですが、パニチェさんとしては、私の
    >
    >>>生の形式としての「不動の今」「絶対の今」=「永遠の今」の「永遠」のことである、
    >>という捉え方には違和感がある、つまり異なる考え方だということですか?
    >
    > いえ、全く異論はないですよ。
    > 田秋さんのレスもザビビのふくろうさんのレスも先の私のレスも、私からしてみれば今という瞬間について違う言い方をしていますが論旨は同じと考えていますので、その違いが分からないという旨の質問でした。


    ふむふむ、なるほど、なかなか面白いですね。
    だとすれば、これはやはりパニチェさんと私の「独我論的私」の解釈の違いと相即していると考えられますね。
    つまり、この場合、
     絶対の「今此処に在る私」
    の、〈今〉とは何か?に対する解釈の違いと思います。

    なので、議論を詰めようとしても、平行線になるのは必至と思われますので、お互いの解釈の違いとして、そのままにしておいても良いのじゃないでしょうか?
    田秋さんもついて来れないと思いますし。

    それとも、パニチェさんは違いがよくわからないということなので、このまま放置すると気持ち悪いですかね?
    せめて私の考える、お互いの解釈の違いを一応説明したほうがよいですか?
    まあただ、独我論的私のときと同様、理解してもらえる自信はあんまりありませんが(笑)
    でも、お望みなら言ってください^^
    どうしましょうか?

引用返信/返信 削除キー/
■34605 / inTopicNo.76)  Re[8]: アドヴァイタと而今(にこん)
□投稿者/ パニチェ -(2023/10/22(Sun) 19:05:40)
    2023/10/22(Sun) 19:41:21 編集(投稿者)

    レスありがとうございます、ザビビのふくろうさん。

    No34604に返信(ザビビのふくろうさんの記事)


    No34594に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > >>>>後の方の質問に関して:
    > >>>>現在という一瞬=時間経過がゼロ、という意味において無時間性ということなんですね(この理解で合ってますか?)

    >>>>はい、私の解釈はそうです。

    >>> 正直、私にはパニチェさんがこれを肯定されるのは腑に落ちないんですよ。
    >>> 私には、これは明らかに違うと思われますね。
    > 私見では、ここで言う無時間性とは、「経過するものとしての時間」における「経過時間=0」(相対的無時間性)という意味ではなく、生の形式としての「不動の今」「絶対の今」=「永遠の今」の「永遠」のことである、と思います。
    >>> パルメニデスやショーペンハウアーなどの「現在」も、そうではないでしょうか。

    >>> No34450におけるパニチェさんの説明なら、この私見と同じじゃないかと思うんですが、どうでしょうね?

    >> ここ少し分かりません。
    >> 田秋さんが述べられた「現在という一瞬=時間経過がゼロ、という意味において無時間性」というのは私がNo34450で返信した以下と同じだと考えていますし、またパルメニデスやショーペンハウアーなどの「現在」も同様だと解釈してますが、具体的には何がどう違うのかが私には分かりません。詳しく教えていただければ有難いです。

    > >>>今ここに過去はない、そして今ここに未来もない。
    > >>>今ここにあるのは今という瞬間であり、そこに過去も未来も集約される(道元禅師の“而今”今に生きると重なります)。
    > >>>永遠が過去から未来へ継続するような幻想的な時間のことではなく、この瞬間の無時間性であるなら、今この瞬間に生きているものは、永遠に生きるということだと思います。


    > ■No34602に返信(パニチェさんの記事)
    >>こんばんは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。

    >>■No34594に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > >>>>後の方の質問に関して:
    > >>>>現在という一瞬=時間経過がゼロ、という意味において無時間性ということなんですね(この理解で合ってますか?)

    >>>>はい、私の解釈はそうです。

    > >>正直、私にはパニチェさんがこれを肯定されるのは腑に落ちないんですよ。
    > >>私には、これは明らかに違うと思われますね。
    > >>私見では、ここで言う無時間性とは、「経過するものとしての時間」における「経過時間=0」(相対的無時間性)という意味ではなく、生の形式としての「不動の今」「絶対の今」=「永遠の今」の「永遠」のことである、と思います。
    > >>パルメニデスやショーペンハウアーなどの「現在」も、そうではないでしょうか。

    > >>No34450におけるパニチェさんの説明なら、この私見と同じじゃないかと思うんですが、どうでしょうね?

    >>ここ少し分かりません。
    >>田秋さんが述べられた「現在という一瞬=時間経過がゼロ、という意味において無時間性」というのは私がNo34450で返信した以下と同じだと考えていますし、またパルメニデスやショーペンハウアーなどの「現在」も同様だと解釈してますが、具体的には何がどう違うのかが私には分かりません。詳しく教えていただければ有難いです。

    > >>>>>今ここに過去はない、そして今ここに未来もない。
    > >>>>>今ここにあるのは今という瞬間であり、そこに過去も未来も集約される(道元禅師の“而今”今に生きると重なります)。
    > >>>>>永遠が過去から未来へ継続するような幻想的な時間のことではなく、この瞬間の無時間性であるなら、今この瞬間に生きているものは、永遠に生きるということだと思います。



    > そうですか。
    > では、確認させてもらいたいのですが、パニチェさんとしては、私の

    > >生の形式としての「不動の今」「絶対の今」=「永遠の今」の「永遠」のことである、
    > という捉え方には違和感がある、つまり異なる考え方だということですか?

    いえ、全く異論はないですよ。
    田秋さんのレスもザビビのふくろうさんのレスも先の私のレスも、私からしてみれば今という瞬間について違う言い方をしていますが論旨は同じと考えていますので、その違いが分からないという旨の質問でした。
引用返信/返信 削除キー/
■34604 / inTopicNo.77)  Re[7]: アドヴァイタと而今(にこん)
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/10/22(Sun) 18:39:41)
    パニチェさん、こんばんは。
    レスをありがとうございます。

    No34602に返信(パニチェさんの記事)
    > こんばんは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。
    >
    > ■No34594に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >>>>後の方の質問に関して:
    >>>>現在という一瞬=時間経過がゼロ、という意味において無時間性ということなんですね(この理解で合ってますか?)
    >
    > >>はい、私の解釈はそうです。
    >
    >>正直、私にはパニチェさんがこれを肯定されるのは腑に落ちないんですよ。
    >>私には、これは明らかに違うと思われますね。
    >>私見では、ここで言う無時間性とは、「経過するものとしての時間」における「経過時間=0」(相対的無時間性)という意味ではなく、生の形式としての「不動の今」「絶対の今」=「永遠の今」の「永遠」のことである、と思います。
    >>パルメニデスやショーペンハウアーなどの「現在」も、そうではないでしょうか。
    >
    >>No34450におけるパニチェさんの説明なら、この私見と同じじゃないかと思うんですが、どうでしょうね?
    >
    > ここ少し分かりません。
    > 田秋さんが述べられた「現在という一瞬=時間経過がゼロ、という意味において無時間性」というのは私がNo34450で返信した以下と同じだと考えていますし、またパルメニデスやショーペンハウアーなどの「現在」も同様だと解釈してますが、具体的には何がどう違うのかが私には分かりません。詳しく教えていただければ有難いです。
    >
    >>>>>今ここに過去はない、そして今ここに未来もない。
    >>>>>今ここにあるのは今という瞬間であり、そこに過去も未来も集約される(道元禅師の“而今”今に生きると重なります)。
    >>>>>永遠が過去から未来へ継続するような幻想的な時間のことではなく、この瞬間の無時間性であるなら、今この瞬間に生きているものは、永遠に生きるということだと思います。
    >
    >

    そうですか。
    では、確認させてもらいたいのですが、パニチェさんとしては、私の

    >生の形式としての「不動の今」「絶対の今」=「永遠の今」の「永遠」のことである、

    という捉え方には違和感がある、つまり異なる考え方だということですか?




引用返信/返信 削除キー/
■34602 / inTopicNo.78)  Re[6]: アドヴァイタと而今(にこん)
□投稿者/ パニチェ -(2023/10/22(Sun) 17:56:54)
    こんばんは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。

    No34594に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > >>後の方の質問に関して:
    > >>現在という一瞬=時間経過がゼロ、という意味において無時間性ということなんですね(この理解で合ってますか?)

    >>はい、私の解釈はそうです。

    > 正直、私にはパニチェさんがこれを肯定されるのは腑に落ちないんですよ。
    > 私には、これは明らかに違うと思われますね。
    > 私見では、ここで言う無時間性とは、「経過するものとしての時間」における「経過時間=0」(相対的無時間性)という意味ではなく、生の形式としての「不動の今」「絶対の今」=「永遠の今」の「永遠」のことである、と思います。
    > パルメニデスやショーペンハウアーなどの「現在」も、そうではないでしょうか。

    > No34450におけるパニチェさんの説明なら、この私見と同じじゃないかと思うんですが、どうでしょうね?

    ここ少し分かりません。
    田秋さんが述べられた「現在という一瞬=時間経過がゼロ、という意味において無時間性」というのは私がNo34450で返信した以下と同じだと考えていますし、またパルメニデスやショーペンハウアーなどの「現在」も同様だと解釈してますが、具体的には何がどう違うのかが私には分かりません。詳しく教えていただければ有難いです。

    > >>>今ここに過去はない、そして今ここに未来もない。
    > >>>今ここにあるのは今という瞬間であり、そこに過去も未来も集約される(道元禅師の“而今”今に生きると重なります)。
    > >>>永遠が過去から未来へ継続するような幻想的な時間のことではなく、この瞬間の無時間性であるなら、今この瞬間に生きているものは、永遠に生きるということだと思います。


引用返信/返信 削除キー/
■34599 / inTopicNo.79)  Re[5]: 論考解説
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/10/22(Sun) 14:54:18)
    田秋さん、こんにちは。
    レスをありがとうございます。

    No34595に返信(田秋さんの記事)
    > こんにちは、ザビビのふくろうさん。
    >
    > 説明ありがとうございます。
    >
    > >死は我々にとって何ものでもない。なぜなら、我々が存在するときには死はまだ訪れておらず、死が訪れたときには我々は存在しないのだから。
    > ここはやはり排他的存在故に経験できない、経験できないことだから《何ものでもない》という主張のように聞こえます。
    >

    直観的な説明は、わかりやすい反面、そういういう誤解が生じやすいのが難点ですね^^

    > 高校生か大学生の時の、興味ある授業や講義を聴くときのウハウハの気分を思い出します。

    今ひとつ意味がわかってないんですが(笑)、もしウィトゲンシュタインの哲学への興味が増したとすれば、私のレスも多少は役立ったのかな?と嬉しく感じます。
    ありがとうございましたm(_ _)m
引用返信/返信 削除キー/
■34596 / inTopicNo.80)  Re[6]: アドヴァイタと而今(にこん)
□投稿者/ 田秋 -(2023/10/22(Sun) 13:03:26)
    こんにちは、ザビビのふくろうさん

    一つ目の書き込みの御礼を書いたら、既に二つ目の書き込みがありました。

    >生の形式としての「不動の今」「絶対の今」=「永遠の今」の「永遠」のことである

    また考えなければいけなくなりました。
引用返信/返信 削除キー/
■34595 / inTopicNo.81)  論考解説
□投稿者/ 田秋 -(2023/10/22(Sun) 12:54:41)
    こんにちは、ザビビのふくろうさん。

    説明ありがとうございます。

    >死は我々にとって何ものでもない。なぜなら、我々が存在するときには死はまだ訪れておらず、死が訪れたときには我々は存在しないのだから。
    ここはやはり排他的存在故に経験できない、経験できないことだから《何ものでもない》という主張のように聞こえます。

    高校生か大学生の時の、興味ある授業や講義を聴くときのウハウハの気分を思い出します。
引用返信/返信 削除キー/
■34594 / inTopicNo.82)  Re[5]: アドヴァイタと而今(にこん)
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/10/22(Sun) 12:53:37)
    No34577に返信(パニチェさんの記事)
    > おはようございます、田秋さん。レスありがとうございます。
    >
    > ■No34487に返信(田秋さんの記事)
    >
    >>初めの質問に関して:
    >>やはり生と死は同時には存在はしない、というように感じてしまいます。独我論の我というのは生きているということが前提ではないのでしょうか。
    >
    > それはその通りだと思いますがウィトゲンシュタインが6.431〜6.4311で表明したいのは私の世界(ミクロコスモス=独我論)に「私の死は存在しない」ということだと思います。
    > 大修館書店「ウィトゲンシュタイン全集1 論理哲学論考」より引用しておきますね。
    >
    > ************************************
    > 6.431 また同じく、死に際しても世界が変わるのではなく、世界が終わるのである。
    > 6.4311死は生の出来事ではない。人は死を体験しない。
    > もし永遠ということで無限な時の継続ではなく無時間性が理解されているのなら、現在の中で生きる人は永遠に生きるのである。
    > 我々の視野が限界を欠くのと全く同様に、我々の生も終わりを欠いている
    > ************ 引用終わり ************
    >
    >>後の方の質問に関して:
    >>現在という一瞬=時間経過がゼロ、という意味において無時間性ということなんですね(この理解で合ってますか?)
    >
    > はい、私の解釈はそうです。
    >

    正直、私にはパニチェさんがこれを肯定されるのは腑に落ちないんですよ。
    私には、これは明らかに違うと思われますね。
    私見では、ここで言う無時間性とは、「経過するものとしての時間」における「経過時間=0」(相対的無時間性)という意味ではなく、生の形式としての「不動の今」「絶対の今」=「永遠の今」の「永遠」のことである、と思います。
    パルメニデスやショーペンハウアーなどの「現在」も、そうではないでしょうか。

    No34450におけるパニチェさんの説明なら、この私見と同じじゃないかと思うんですが、どうでしょうね?


    >>>ザビビのふくろうさんの解説もリクエストしたいなぁ〜。
    >>禿同
    >
    > ザビビのふくろうさん、よろしくお願いします。^^
    >

    お二人とも、このあたりでご勘弁をm(__)m
引用返信/返信 削除キー/
■34593 / inTopicNo.83)  Re[2]: 哲学全般、仏教、科学etc 15
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/10/22(Sun) 12:48:19)
    田秋さん、こんにちは。
    ここでは、直観的解釈ではなく、『論考』のむしろ本体であるところの「はしご(ロジック)」の観点からご質問に私なりの回答をします。
    とは言え、正直、『論考』の根本思想とも言うべき「語り」と「示し」の区別についてある程度理解していないと、このロジックの理解はむずかしいと思います。


    No34227に返信(田秋さんの記事)
    > こんにちは、パニチェさん
    >
    > 「秘密の日記」の話の流れから論考6・4311が出てきました。
    > 死は人生の出来事にあらず。人は死を体験せぬ。
    > 永遠が時間の無限の持続のことではなく、無時間性のことと解されるなら、現在のうちに生きるものは、永遠に生きる。
    > (秘密の日記より引用)
    > 二つ質問があります。
    > ・この「人は死を体験せぬ」というのは排他的論理和のように生と死は同時には成立しない、死ぬと生が終わるからという意味ですか?
    >
    > ・後半に出てくる「無時間性」はパルメニデスが主張した「あるものは常に現在において存在する」と同じ意味ですか?

    二つ目の質問については前レスにて述べましたので、ここでは一つ目の質問にのみ述べます。

    生と死(独我論的私の存在と無)を排他的論理和で語ることはできません。

    『論考』において、そもそも有る無しを語り得るとされるのは、その有無がともに私の経験世界(生)の内部の出来事=私に経験可能な事柄に限られます。
    したがって、自分の生死について語り得るためには、私が私の死を経験可能でなくてはなりません。
    しかし、死が生(経験世界)の終わり=限界である以上、私に死を経験することは不可能です。
    要は、自分の死は、自分の生(経験世界)の中の出来事ではなく、生そのもの(経験世界全体)の終わりだからです。
    それゆえ、生死についてその有無を語ることはできないのです。

    まとめます。
    質問(1)に対する私の回答はこうなります。

    いいえ、違います。生と死は排他的論理和で捉えることはできず、同時に成立しないとか、同時でないなら成立する、とも語り得ません。
    死ぬと生が終わるのではありません。
    死は生の終わり、即ち生(私の経験世界)の限界だから、死を経験することは不可能なのです。
    ちょうど、視野(視覚的世界)の限界を見ることができないように、です。



引用返信/返信 削除キー/
■34591 / inTopicNo.84)  Re[3]: アドヴァイタと而今(にこん)
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/10/22(Sun) 12:38:27)
    田秋さん、パニチェさん、こんにちは。
    正直なところ、わかりやすく、かつ、『論考』のロジックに沿ったきちんとした説明は、私には到底無理だと思いますので迷ったんですが、せっかくお二方にリクエストいただいたので、とりあえずトライします。


    No34450に返信(パニチェさんの記事)
    > こんばんは、田秋さん。レスありがとうございます。
    >
    > ■No34227に返信(田秋さんの記事)
    >
    > 『論考』の当該箇所を読み直して返信しますが、どうも私の解釈は禅的な発想が色濃く反映されており自信がないです。
    > 仮に私の解釈が正しければウィトゲンシュタインこそ「論理と言語による見性悟道」の実践者みたいに見えてくるから不思議です。
    >
    >>「秘密の日記」の話の流れから論考6・4311が出てきました。
    >>死は人生の出来事にあらず。人は死を体験せぬ。
    >>永遠が時間の無限の持続のことではなく、無時間性のことと解されるなら、現在のうちに生きるものは、永遠に生きる。
    >>(秘密の日記より引用)
    >
    >>二つ質問があります。
    >>・この「人は死を体験せぬ」というのは排他的論理和のように生と死は同時には成立しない、死ぬと生が終わるからという意味ですか?
    >
    > 「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」
    > 上記は独我論を言い表しています。独我論的世界には他者の死は存在しても「私の死」は存在しません。
    > 独我論的世界、言い換えれば「私の生(人生)の世界」であり、その意味において「人は(自分の)死」を「私の生(人生)の世界」では体験しないということではないでしょうか。
    >
    >>・後半に出てくる「無時間性」はパルメニデスが主張した「あるものは常に現在において存在する」と同じ意味ですか?
    >
    > 今ここに過去はない、そして今ここに未来もない。
    > 今ここにあるのは今という瞬間であり、そこに過去も未来も集約される(道元禅師の“而今”今に生きると重なります)。
    > 永遠が過去から未来へ継続するような幻想的な時間のことではなく、この瞬間の無時間性であるなら、今この瞬間に生きているものは、永遠に生きるということだと思います。
    >

    ここまでのパニチェさんによる説明は、『論考』のはしごを登って到達する(結果としての)思想内容の直観的説明としては、私としても違和感がありません。

    > 蛇足ですが、この発想は空間(アドヴァイタ)から見性へと導く禅的なアプローチと、時間(而今)から見性へ導く禅的なアプローチと相通じると思います。
    >
    >

    ここは私はよく知らないのでわかりませんが、田秋さんの二つめの質問

    >>・後半に出てくる「無時間性」はパルメニデスが主張した「あるものは常に現在において存在する」と同じ意味ですか?

    という質問については、私のパルメニデス理解が間違っていないとしたらですが、大体同じ意味としてもよいと思います。
    あと、死についての直観的説明としては、エピクロスの次の言葉も、示唆的ではないでしょうか。

    死は我々にとって何ものでもない。なぜなら、我々が存在するときには死はまだ訪れておらず、死が訪れたときには我々は存在しないのだから。

    他にも、思想内容が似ている思想家や思想はあると思います。
    これも詳しくないのではっきりしたことは言えませんが、梵我一如の思想は『論考』の独我論(ミクロコスモス=マクロコスモス)と似ているように思います。
    ********************

    次のレスでは、『論考』にもう少し沿った形で、田秋さんの質問に私なりの回答をしたいと思います。

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