| 2023/10/24(Tue) 06:07:43 編集(投稿者) 2023/10/23(Mon) 23:21:44 編集(投稿者)
パニチェさん、こんばんは。 レスをありがとうございます。
■No34618に返信(パニチェさんの記事) > こんばんは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。 > > ■No34612に返信(ザビビのふくろうさんの記事) >>>>>生の形式としての「不動の今」「絶対の今」=「永遠の今」の「永遠」のことである、 >>>>という捉え方には違和感がある、つまり異なる考え方だということですか? > > >>いえ、全く異論はないですよ。 > >>田秋さんのレスもザビビのふくろうさんのレスも先の私のレスも、私からしてみれば今という瞬間について違う言い方をしていますが論旨は同じと考えていますので、その違いが分からないという旨の質問でした。 > > >>ふむふむ、なるほど、なかなか面白いですね。 >>だとすれば、これはやはりパニチェさんと私の「独我論的私」の解釈の違いと相即していると考えられますね。 >>つまり、この場合、 >> 絶対の「今此処に在る私」 >>の、〈今〉とは何か?に対する解釈の違いと思います。 > >>なので、議論を詰めようとしても、平行線になるのは必至と思われますので、お互いの解釈の違いとして、そのままにしておいても良いのじゃないでしょうか? >>田秋さんもついて来れないと思いますし。 > >>それとも、パニチェさんは違いがよくわからないということなので、このまま放置すると気持ち悪いですかね? >>せめて私の考える、お互いの解釈の違いを一応説明したほうがよいですか? >>まあただ、独我論的私のときと同様、理解してもらえる自信はあんまりありませんが(笑) >>でも、お望みなら言ってください^^ >>どうしましょうか? > > 議論を前提としてではなく、是非教えて下さい。 > 興味があります。 >
いやいや、教えるなんて(笑) 一応私なりの考えを述べてみます。 参考になれば幸いです。
細かい抽象的ロジックの説明をしてもかえって理解が困難になると思いますので、なるべくイメージをつかみやすいように説明したいと思います。
私の理解では、「経過時間=0の瞬間」というのは、「時間の流れが止まった瞬間」としての無時間性とも言えると思うんですね。 そうすると、違うかもしれませんが、私のベタな具体的イメージとしては 「ボールが止まって見えた」 by 川上哲治 って感じかなと(笑)。 間違っていたら言ってください。 あと、イメージ的にはこんな感じでしょうか。
「人が[現に]生きているのは、瞬間にすぎないこの現在だけである」(M.アウレリウス) 「生きることができるのは刻一刻の〈今ここ〉だけ」「一瞬の存在がすべて」(古東哲明『現代思想としてのギリシア哲学』(講談社メチエ)からの引用)
それに対して私の言う無時間性=永遠は、たとえば、ピタゴラスの定理は永遠の真理だ、という場合の無時間性のイメージですね。 ですから、時間の流れが止まるんじゃなくて、時間(川の流れ)の外に出て、いわば岸辺(不変・不動)の視座(幾何学的観点)に立つ、という感じです。 で、この視座から捉えられる対象が「永遠の相の下で」捉えられた対象だ、ということになります。 これは平たく言うと、対象を「イデア」として見る、ってことです。
ですから、幾何学的真理のような、この無時間的=永遠の真理というのは、「(流れる)時間を超越した」真理、とも言えますよね。 これと同様な意味で、 《私》は《今》《此処》に《在る》 という独我論的(形而上学的)真理も、(流れとしての)時間を超越した無時間的真理であり、したがってこの《今》は「永遠の今」でもあるわけです。
ということで、パニチェさんの解釈と私の解釈の違いは、この絶対の「今」を、時間の流れを止めて観る一瞬一瞬とみなすか、それとも、それ自身は時間の流れの外にあって、流れがそれに対して流れる同一・不変の形式とみなすか、の違いとも言えるように思います。 (思い付き補足:「瞬間としての今」に対して「イデアとしての今」と言ったほうが、イメージ的には違いがはっきりするかも。) なので、パニチェさんの〈今、ここ〉は、特異点、原点といった点のイメージですよね。 それに対して、私の考える《今、此処》は、あくまで抽象的な場、座標形式のイメージです。 少なくとも私にとっては、これらは全く異なるものなんです。 ちなみにこれは、ショーペンハウアー図とマッハ図の違いとも相即していると私は考えています。 ******************** 最後に補足として、ちょっとネタばらし的なことを書いておきます。 少し引用した古東哲明さんて方の本を読まれたことあります? knowingitselfさんにも言ったのですが、 『瞬間を生きる哲学』(筑摩選書) という著作は、今のテーマともろかぶりだと思うんですが、改めて読み直さないと内容についてきちんと言えないので措きますが、先ほど引用した 『現代思想としてのギリシア哲学』(今は という著作について言えば、むしろパニチェさんと似た考え方じゃないかと思うんですね。 つまり、この方は、私が分離・区別した捉え方を、一つのものとして観ておられるわけです。 しかもその語り口が大変魅力的で、説得力があるんですよ。 なので、ひょっとしたら究極同じかもしれないという思いもあるんですが、私としては『論考』のはしごを上って見えてくる風景は上に述べたようなものに思えるので、私なりに詰めた考えとして提示しました。 面白かったらいいんですが^^
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