| というわけで、p151最終行で 『いったい〈構想力〉よ、お前は何ものなのだ?』の続きで、 p152に書いてる内容の理解にチャレンジしてみます。
p152〜
のっけから、あれれ、ですが、
『特に「構想力」とは何なのか、それは認識諸能力のうちでどのような位置を 占めるのかという点になると、カントの論述ははなはだ心もとない。』p152
時には感性的なものとして位置づけられたり あるいは悟性の働きの一側面をあらわすものとされたりする。 このあいまいさの理由の一つとして、黒崎先生は、、、
演繹論・・・客観的認識の成立を論じる、にあたり、 上からの道、と、 下からの道、の二種に論じてる
上からの道は、統覚の側から論述を始める。 下からの道は、感性の側から論述を始める。
統覚の側から論述を進めるときは、 構成力は悟性の内官に対する影響として語られ、
逆に感性の側から論述を進める場合には、 構想力の感性的な面が強調されるという側面は確かにある、
が、このあいまいさは、論述の仕方だけには解消しきれない。
むしろ、このあいまいさは、
★ 構想力それ自身が感性的な面と悟性的な面の両面を未分化の形で有しており、 感性・悟性のいずれか一方に吸収されることのできなきものだ、 と考えた方がより真実に近いと思われる。
とのこと。
むむむむ、違うかもだけど、ちょっと、言いたい方向垣間見えてきたような。
山中伸弥教授が研究されてるips細胞(人工多能性幹細胞)、みたいな、 いろんな細胞に分化できる幹細胞のイメージでいいんじゃないかなぁ。 第一版の構想力。。。
未知の根、から、悟性と感性の幹、において、 ハイデッガーのカント解釈のように、 悟性と感性の根としての構想力。。。
違うかもだけど、とりあえず、読んでいきます。
構想力が感性的な面と悟性的な面の両面を未分化の形で有していることを はっきりと示しているのが、 「超越論的図式論」での「構想力」の役割だ、と、黒崎先生はおっしゃいます。p152
ちょっとだけのぞいておくことにしよう、ですって。
今日はここまで! 続きはp153から。
タイトルは「感性と悟性の〈共通の根〉」
おつかれさまです ☆彡
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