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■3517 / inTopicNo.61)  Re[9]: pipitさまへ
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/04(Sat) 21:36:39)
    3506
    <悪魔ちゃんさんの言葉をパッとみて、あ、受精卵の方がips細胞より、いいな!と思ったんだけど、ちゃんと読んだら、未受精卵子、なんだね。>
    ありがと! 

    <未受精卵子の方が悪魔ちゃん的にはいいの?>
    うん、そう。受精卵の場合すでに他者が入ってる状態よね。

    わたしの言う「初期化」の意味は後で欠くね。

    ニーチェに絡めますね。
    「大いなる正午」っていうのありみたい。
    わたしの真上に太陽があって、そのとき私の身体の影は地面に現れない。
    真偽善悪のない状態。こう状態ってあるんじゃないかって、わたし思ってる。
    身体が存在する、っていうことに真偽善悪ってあるのかしら?

    わたしが知りたかったこと、<「構想力」は、【Einbildungskraft】「構成」は、【Konstruktion】だったよ>
    ありがとうございます。


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■3515 / inTopicNo.62)  ピピットちゃん、こんばんは♪
□投稿者/ エフニ -(2020/07/04(Sat) 21:26:30)
    何をおっしゃいますか。

    私は、道子先生のサイトでの「きのこちゃん」としての投稿をロムしていた当時から、そしてピピットちゃんが学生時代に中国に留学していたと知った時から、ずっと尊敬モードでピピットちゃんを見ています。

    ところで、今日仕事仲間に、「昨日の関西は寒かったらしいよ。ネット仲間が「今日は寒いからおでんにする」と言っていたよ。」と言ったら、みんなちょびっと、びっくりしていました。

    因みに、私は、小学生の頃に(低学年)、夜道をぼんやり歩いていて、肥え溜に落ちたことがあります。ネ
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■3511 / inTopicNo.63)  Re[10]: 悪魔ちゃんさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/04(Sat) 20:59:18)
    ごめんね、ちょっと家事とかしてきます。

    おつかれさま!
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■3510 / inTopicNo.64)  悪魔ちゃんさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/04(Sat) 20:58:16)
    悪魔ちゃんさま

    >哲学へ戻ります。わたしのばあい、哲学は独学です。
    哲学書を読んで理解しようとするとき、使われてる用語の意味が哲学者によって異なってるようなのです。
    フッサールの『デカルト的省察』のなかにはデカルトやカントについての記述があります。そこで彼らのことについても調べなければならなくなります。
    たとえば、「超越論的現象学」というのがでてきます。この「超越論的」はカントの用語で、フッサールはこのカントの用語を使用しながらもその意味が違うようなのです。そこで“カントの超越論的”を調べて見ました。
    中島義道さまが「超越論的」について書かれているのがありました。
    ここ、『純粋理性批判』なのでここに書き写して見ようと思います。<

    はい。

    >〔超越論的transzendental〕 中島義道
    〔この言葉は、スコラ哲学において、「一」「有」「善」「美」などアリストテレスのカテゴリーの区別を超えるあり方を表す言葉“transcendentalia”に由来する。それが、カントにおいて“transzendent”という言葉との関連において、豊かな内実をもって展開されることになった。だが、カント以降この言葉を使用しながら、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルを経てとりわけフッサールさらにアペール、ブプナーなどが本来の意味を単純化・平板化してしまった。ここでは、カントの原意に沿って述べてゆく。〕<

    あー、悪魔ちゃんさんが言うように、言葉に込める意味がそれぞれ異なってしまってるみたいだね。


    >という書きだして始まるものです。ちょっと長いので分けて、でももうすでに御存知でしたらおっしゃってください。<

    ちゃんと知らないよ。
    中島先生が、どこかの本で、みんな(フィヒテとか)誤解してる!カントはそんな意味で使ってないのに!みたいなかんじの気持ちで書いたような文章は読んだことあるけど、どこがどう違う、とか、理解してないよ、

    長いのにごめんね、
    いつも本当にありがとう。
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■3508 / inTopicNo.65)  エフニさん、こんばんは!
□投稿者/ pipit -(2020/07/04(Sat) 20:51:13)
    いえぇ、
    もう4年くらいたちそうなのに、
    まだアンチノミーの前までしか進んでない驚愕のノロさ。。。

    やめた方がいいのかしらと時に迷いつつ

    やめれません〜〜〜

    ちなみに私は田んぼに落ちそうなくらいぼんやり歩いてるかんじです。
    いつもありがとうございます!
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■3506 / inTopicNo.66)  悪魔ちゃんさまへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/04(Sat) 20:45:21)
    悪魔ちゃんさん、こんばんは(^O^)/
    少しずつ読んでみますね、ありがとう!
    おつかれさま!


    ごめん、大分前の書き込みへの返信からはじめるね。

    >ips細胞のイメージで「構想」を捉えようとしてるみたいですが、それだったら”卵子”の方がいいかもしれません。未授精卵子の細胞質には初期化因子が含まれてることが想像できるから。<


    悪魔ちゃんさんの言葉をパッとみて、あ、受精卵の方がips細胞より、いいな!と思ったんだけど、
    ちゃんと読んだら、未受精卵子、なんだね。
    未受精卵子の方が悪魔ちゃん的にはいいの?
    受精卵の方が、分化のコースが決められてるから、もう進むしかない、一方方向だからかなぁ。
    初期化かぁ、
    進むだけじゃない、戻ることも可能、のイメージかなぁ
    んー、悪魔ちゃんさんの頭の中は、面白そうだなぁ


    >「構想力」の日本語訳の「構想」というのは原本ではどのような語となっているのしょうか?教えていただけるとありがたいです。
    というのは、フッサールの『デカルト的省察』(FD)では「構成」と訳されているものがあります。訳注を書き写してみます。<

    まず、ここを書くね。
    カント辞典で調べますね。
    、、、、
    「構想力」は、【Einbildungskraft】
    「構成」は、【Konstruktion】
    だったよ。


    >〔構成Konstitution:超越論的現象学は「超越論的主観性における世界の構成」を解明するもので、「構成」はその中心概念の一つではるが、フッサールの用法は必ずしも明確ではなく、あたかも「自我が世界を構成=創造する」かのような誤解も生み、フッサール自身が「意味形成」と「創造」の間で動揺していたという、フッサール晩年の助手オイゲン・フィンクの指摘もあり、その解釈をめぐって議論されてきた。考慮すべきなのは、フッサールがしばしば「構成されるsich konstituieren」という再帰動詞の形を使っていることである。なお、「構成的konstitutive」という形容詞をフッサールは、このような「構成の問題に関わる」ものを形容するのに使っているので、むしろ、「構成に関わる」と訳した。〕<




    >また、3277で、ななしさまが<A構築主義 自分に現れてくる現象のみ対象でカントやフッサール、ニーチェなど>とおっしゃていましたが、FD)FDの訳注では、
    〔フッサールは、「構成Konstitution」とは区別して、「構築konstruktion」という語を、根拠のないまま上から理念を無理矢理押し付けて作り上げてしまう、という意味で使っている。〕
    ななしさまの「構築主義」がどのようなものかはわかりませんが、「構築」という語だけからみたらフッサールの場合は違うんじゃないかと思ってます。<

    微妙な単語使い、哲学者ってするよね。

    フッサールは構築はそのような意味で使ってるんですね。
    初めて知りました。
    ありがとうです(o^^o)
引用返信/返信 削除キー/
■3505 / inTopicNo.67)  こんばんは。
□投稿者/ エフニ -(2020/07/04(Sat) 20:43:09)
    お〜〜ァ

    れいちゃん、久しぶりゥ

    ヤフー時代は、影が薄かった私ですので、「ところで、お前、誰?」と言われそうですが、エフニです。

    忘れてしまっているかも知れませんが。

    私はれいちゃんの、「ここで、ちょっと一休み」は、時々チラ見していました。

    れいちゃんがニークラに参加してくれて、凄く嬉しいです廂

    しかしピピットちゃんは、圧倒的ホームグラウンドが「原始仏教」で、カントはスピンオフみたいな感じだったけど、段々カントのほうもハイレベルになってきて、ピピットちゃんは凄いですよね。

    因みに、私は、相変わらず、ぼんやりとした人生を過ごしています、
引用返信/返信 削除キー/
■3501 / inTopicNo.68)  Re[13]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/04(Sat) 19:51:39)
    ためしにやってみたんだけど、半角20000文字って、けっこう書けるのね。
    pipitさまだったら腑に落ちるところがあるかも、って。
    気が向いたら読んで見て。

    あ、それから3486に「仮象」っていうのあるけど、中島氏は「現象・仮象」っていう題で書いてあるのもある。参考までに一部抜粋しておきます。

    〔…ランベルトは「現象学」(Ph&auml;nomenologie)という用語をはじめて使用したとされるが、彼の現象学とは「仮象の学」にほかならない。この場合、仮象という概念に「真」に対する「偽」という意味合は含まれていない。仮象とはあくまでも真偽以前の「中間物」であり、何ごとにせよ見えるがまま・現れるままの事柄であって、これはドイツ語の“Schein”の意味を忠実に保っていると言えよう。・・・カントはこのランベルトの構想を一部引き受け、『純粋理性批判』をはじめ『現象学』というタイトルにしようとしたほどほどである。しかし、この構想をカントは大きく変容させ、仮象を「誤った現れ」という意味に限定した。それは「錯覚」とほぼ同義であり、広く主観的にそう見える(思われる)ものを客観的だと誤って判断するときに生ずるものである。…〕
    「…こうした変容の過程で、ランベルトにおいては特に積極的な意味を持っていなかった現象は、カントにおいては積極的に経験内の「真の現れ」という意味を受け持つことになる。…〕
    って、書いてありました。


    ちょっと、ニーチェに絡めますね。
    『善悪の彼岸』のなかにこんなのがある。
    144
    〔女が学問的な傾向をもつのは、通常は彼女にどこか性的に異常なところがあるからだ。すでに不妊ということが趣味を或る意味で男性化させる。−−すなわち、男は、失礼ながら、「不妊動物」である。−−〕
    なんか、たたなくなったじじいが言いそうなこと。
    箴言?誰に言ってるのかしら。



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■3491 / inTopicNo.69)  Re[12]: pipitさまへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/04(Sat) 18:15:36)
    引用タイピングありがと!!

    感謝です m(_ _)m
引用返信/返信 削除キー/
■3490 / inTopicNo.70)  Re[11]: pipitさまへ
□投稿者/ pipit -(2020/07/04(Sat) 18:13:41)
    ひえ〜〜〜
引用返信/返信 削除キー/
■3489 / inTopicNo.71)  Re[11]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/04(Sat) 18:12:40)
    3487のつづき

    〔周辺用語との区別について〕
    〔ここで、補足的に多くの研究者が誤用している「超越論的主観」(transzendentales Subjekt)という言葉の原意に触れておく。カントの場合、いまだ「主観」という言葉には「基体」(Substratum)という意味が残っており、それは実体としての不滅の魂という意味を呼び起こす危険性を持っている。そこで、彼は自我についてはこうした「超越論的主観」という側面を徹底的に批判し、「作用体」という側面だけをあらわす「超越論的統覚」を採用した。つまり、カントにとって、自我とは「超越論的統覚」であって「超越論的主観」ではないのである。
     次に、「超越論的」と「純粋」(rein)と「ア・プリオリ」(a priori)との区別に触れておく。
    「純粋」は、カントの場合、経験的(empirisch)ではないという否定的意味が基本であるが、積極的に理性だけからという意味を担って「根源的」(urspr&uuml;nglich)と言い換えられることもある。例えば「純粋統覚」とはいかなる経験的なものも含まない統覚であるが、「超越論的統覚」とは「経験を可能にする諸条件」を含むような統覚である。「純粋総合」とは経験的な混入物を洗い流した純粋な線のような総合であるが、「超越論的総合」とは「経験を可能にする諸条件」を含む「時間」という特有の線のような総合である。
    また「ア・プリオリ」は「ア・ポステリオリ」に対する言葉であるが、カントの場合、同じように「経験的」に対立する言葉として「純粋」と重なる。しかし、違いが強調される場合もあり、「すべて変化は原因をもつ」という判断は経験に由来しないという意味でア・プリオリであっても「変化」という物質に関する判断だから、経験的なものが混入しており「純粋」ではないとされる。一方、「7+5=12」のような数学的判断は経験的なものが混入していなから、ア・プリオリであってかつ純粋な判断ということになる。だが、この用語法が常に守られているわけではない。そして、再確認すれば、「超越論的」とは単に「経験的な混入物がない」ことではなく、「経験的な混入物がない」にもかかわらず経験に適用されるのはなぜか、という問いの全体に関わることである。
     これに関連して、「超越論的」という言葉(カントの原意)は「相互主観的」(intersubjektiv)とは相容れないことを強調しておく。「超越論的」とは「事実問題」(quid facti)ではなく「権利問題」(quid juris)であり、カントは地上の上の人間すべてが事実合意しても客観性は保証されない、と考える。客観性とは、こうした「相互主観性」を超えたところにあり、しかも単なる「目的」や「理念」ではないものとして了解されている。それは独自の要請である。言い換えれば、「超越論哲学」を求めるか否かは「ひとつの客観的な実在世界」を求めるか否かの問題であり、これは(フィヒテが強調するように)「関心」の問題であり、究極的には各人の「生き方」の問題である。
     最後に、翻訳について触れておく。「超越論的」は九鬼周造が昭和4(1929)年にはじめて使用したと言われており、意外に歴史は古い。それまで、そしてこれ以降も長く“transzendental”には「先験的」という訳が定着している。この訳語は、「経験的」(empirisch)との対語が明瞭であるだけ一面的な意味に引きずられ、「純粋」や「ア・プリオリ」と区別がつかなくなる。また、”transzendental”のもうひとつの意味である「超越するもの」との消極的連関を捉えきれていない。「先験的弁証論」では何のことかわからないであろう。そこで、近年特に現象学の隆盛と相まって、言葉としては硬いがむしろ「超越的」との連関も示しながらその複雑な意味を含むという利点をもった「超越論的」が支配的になってきた。だが、依然として「先験的」という訳語を使っている研究者もおり、個々の例について「先験的」と「超越論的」に訳し分けている研究者もいるのが実情である。〕

    以上です。

    内容については、わたしよくわかりません。
    でも、「超越論的」という用語の意味がカントのとフッサールとは異なっている、っていうことがわたしにおいてわかった、ということだけで、わたしにとってはそれでいいの。どこがどのように異なっているかについてはここではやめとく。





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■3487 / inTopicNo.72)  Re[10]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/07/04(Sat) 18:03:58)
    3486のつづき

    〔経験への適用〕
     〔だが、カントは、時間・空間の「超越論的研究」とカテゴリーの「超越論的演繹」におけるように、「超越論的」をさらに限定した意味でも使用している。これらの場合「超越論的」とは「形而上学的」(metaphysisch)に対する概念であり、「形而上学的」とは理性のうちからア・プリオリな条件を導出する段階にかかわる手続きであるのに対して、「超越論的」は理性から導出された概念を経験に適用する段階にかかわる手続きである。ここには、「経験を可能にする諸条件は理性から導出され、経験から導出されたのではないのに、なぜ経験に適用しうるのか」という難問が控えている。この問いは「演繹論」(カテゴリー論)の場合顕著だが、「感性論」(空間論・時間論)においても基本的には同じかたちをとる。カントの回答は、時間・空間・カテゴリー(例えば因果律)ははじめから「一般的に物理学を可能にする」ようなものでなければならない、というものである。「経験を可能にする諸条件」すなわち時間・空間・カテゴリーは、虚心坦懐に人間理性のうちを探って導出するものではなく、事実学としての物理学を一般に可能にするようなものでなければならない。時間・空間・カテゴリーとは一般に物理学を可能にするようなものでなければならず、それらによって構成される「客観的な実在世界」とは「そこで一般に物理学が可能になるような世界」である。
     ここには明らかに循環がある。むしろ、限定された意味での「超越論的」とは、この循環を端的に承認することを要求することである。ここには、世界に関する様々な記述のうち物理学こそ「客観的実在世界」を特権的に記述できる、という強烈な思い込みがある。一種の物理主義であるが、この思い込みを論駁することは、じつはそれほど容易な作業ではない。カントの問題をやや普遍化して言い換えるならば(別の語り方ではなく)「物の空間・時間的配置ならびに運動を記述することによってのみわれわれが世界を客観的・統一的に語ることができるのはなぜか」という問いに関わることが「超越論的」なのである。これは、今日なお大きな問いであろう。物理学が世界を記述し尽くすことができないことは明らかであるが、別の仕方で世界をより客観的・統一的に語ることができるわけでもない。客観的・統一的な世界記述を求める限り、やはりわれわれは時空における物の配置と運動に着目する以外の仕方ないのだとすれば、それはなぜなのか。この問いに関わることが狭義の「超越論哲学」である。〕

    つづく

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