| pipitさまが『純粋理性批判』を理解しようとなさっているので、中島義道氏の書いたものを紹介しようかと思ったのです。参考になれば的な程度です。 3463の、中島氏の続きを書いて見ます。
〔超越的と超越論的〕 〔まず強調されねばならないこと(そしてほとんどの人が無視していること)は、「超越論的」と「超越的」(transzendent)と不可分の概念だということである。神や死後の魂の永遠などの人間の認識を超えるものに関することを「超越的」と呼ぶが、「超越論的」とはこの基本構図をのこしたまま、積極的意味と消極的意味とをあわせ持っている。積極的意味はさらに二局面に分かれる。第一は、人間の認識の限界を定めるという機能、そして第二は、その限界内でさらに夢や錯覚や妄想や印象から「客観的な実在世界」を区別する機能である。カントによると、この両機能は人間理性を探ることによりいっきょに見いだされる。つまり、各人がただただ理性を省みさえすれば、そのうちに「経験を可能にする諸条件」として時間・空間・(物の基本的あり方としての)カテゴリーを見出すことができ、これらによって構成できる限界が「可能な経験」の限界である。また、「経験を可能にする諸条件」とは、同時に時間・空間における物の基本的あり方なのだから、はじめからそのうちに夢や妄想などと区別された「客観的な実在世界」を抽出できる機能を含んでいる。すなわち、ただ人間理性のうちから「経験を可能する諸条件」を見いだし、それによって「可能な経験」(「客観的な実在世界」)を構成するという以上の手続きに関するすべてが「超越論的」と呼ばれる。『純粋理性批判』の「超越論的感性論」「超越論的論理学」「超越論的分析論」などのタイトル、またこの手続きにおいて主要な役割を演ずる「超越論的統覚」「超越論的構想力」「超越論的時間規定」「超越論的図式」などはこの意味で使われている。 カント以降、「超越論的」という用語はこの意味に限定されてしまったと言ってよい。しかし、カントにおいてはこの積極的意味と表裏一体をなして、次の消極的意味が息づいているのである。 人間の認識の限界を設定することができるためには、われわれはその外側に位置する「超越的なもの」にーー認識できなくとも――何らかの仕方で関与できねばならない。カントによれば、人間理性は「超越的なもの」に「仮象」(Schein)というかたちで関与するのである。つまり、「超越的なもの」を捉えようとすると人間理性は必ず仮象に陥るが、その仮象への陥り方に関することすべてに消極的意味における「超越論的」という言葉が付される。『純粋理性批判』のうちで「超越論的弁証論」というタイトルはこれを直接示しているが、そこにおいて主導的な役割を演ずる「超越論的仮象」「超越論的理念」「超越論的自由」などは、こうした意味で使われている。また、『純粋理性批判』において以上の(積極的・消極的)二重の意味を含む方法論は「超越論的方法論」である。 こうして、カントの認識論は(イ)人間の認識の限界を設定し、さらにそのうちで客観的な実在世界を構成する積極的意味と、(ロ)人間理性が「超越的なもの」を捉えようとすると仮象に陥ることを示す消極的意味とから成り、この二重の意味で「超越論的」である。こうした基本構図を有する哲学が「超越論哲学」であり、それは人間理性を超える実在論ではないから「超越論的観念論」である。〕
つづく
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