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■33410 / inTopicNo.73)  Re[11]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
  
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/22(Fri) 19:38:11)
    knowingitselfさん、こんばんは。
    レスをありがとうございます。


    No33403に返信(knowingitselfさんの記事)
    > ザビビのふくろうさん レスありがとうございます。
    >
    > >『瞬間を生きる哲学』って著作はご存知ですか?
    >
    > 古東さんの本は2冊手元にありますが、もう一冊はそれです(笑)。
    >

    なんと(笑)

    > サティについての文章は、禅宗的な発想だと思います。山下さんのサティとはだいぶ違うかな。
    >

    ああ、そうなんですか。さすがお詳しいですね。

    > >> 山下さんは、昔わたしが「一法庵」におじゃましたとき、簡素な部屋に井筒俊彦の著書がおいてあったのが印象的ですね、
    >
    > >じゃあ、西田幾多郎についてもご存知かもしれませんね
    >
    > ウィトゲンシュタインの研究者でもある黒崎宏さんがこの1〜2年、二冊著書を出されましたね。それを読むと、西田幾多郎の真の後継者は井筒俊彦みたいな書きぶりでした。井筒俊彦には西田幾多郎が流れ込んでいると思います。
    >

    黒崎先生は、私がウィトゲンシュタインを読み始めた当初から、大変お世話になっている方です(向こうはご存知ありませんが(笑))。
    なので、ウィトゲンシュタイン関係の著作はほぼ全部読んでいますが、禅仏教関係はまだ読めていないんですよね。
    近いうちに読みたいと思っているのですが。
    井筒は『意識と本質』は部分的に読んだことがありますが、ちょっと先入観というか、偏見があって、きちんと読めていません。
    西田はけっこう好きなので、黒崎先生がそうおっしゃっているなら、井筒もまた、読めるかもしれません。


    > 山下さんはもともとは、デカルトを読むためにフランス文学を選んだとかで、卒論はデカルトじゃなかったかな。
    > 大学の頃は神田の古本屋に入り浸った時期もあって、通った大学より神田古本屋街が大学だと冗談を言ってました(笑)
    >

    ああ、ありがちかも(笑)

    > あとですね、「バージョンII」でも最後に途中参加している柳田敏洋神父に「神を追いこさない」という著作がありますが、その中に、第四図と第五図の二重構造について、トマスアクィナスを手がかりにした解説文が付論として掲載されています。これも読む価値があると思います。
    >

    情報ありがとうございます。
    読みたい本が増えると困るんですが(笑)

    それにしてもknowingitselfさんは、書斎派というか引きこもりの私なんかと違い(笑)、行動・実践の人なんですね。
    また守備範囲も広そうですね。
    もし差し支えなければ、ご自身で、専門と言うか軸足をおいていらしゃるのはどのあたりか教えていただけますか?

引用返信/返信 削除キー/
■33403 / inTopicNo.74)  Re[10]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
□投稿者/ knowingitself -(2023/09/22(Fri) 13:31:47)
    ザビビのふくろうさん レスありがとうございます。

    >『瞬間を生きる哲学』って著作はご存知ですか?

    古東さんの本は2冊手元にありますが、もう一冊はそれです(笑)。

    サティについての文章は、禅宗的な発想だと思います。山下さんのサティとはだいぶ違うかな。

    >> 山下さんは、昔わたしが「一法庵」におじゃましたとき、簡素な部屋に井筒俊彦の著書がおいてあったのが印象的ですね、

    >じゃあ、西田幾多郎についてもご存知かもしれませんね

    ウィトゲンシュタインの研究者でもある黒崎宏さんがこの1〜2年、二冊著書を出されましたね。それを読むと、西田幾多郎の真の後継者は井筒俊彦みたいな書きぶりでした。井筒俊彦には西田幾多郎が流れ込んでいると思います。

    山下さんはもともとは、デカルトを読むためにフランス文学を選んだとかで、卒論はデカルトじゃなかったかな。
    大学の頃は神田の古本屋に入り浸った時期もあって、通った大学より神田古本屋街が大学だと冗談を言ってました(笑)

    あとですね、「バージョンII」でも最後に途中参加している柳田敏洋神父に「神を追いこさない」という著作がありますが、その中に、第四図と第五図の二重構造について、トマスアクィナスを手がかりにした解説文が付論として掲載されています。これも読む価値があると思います。

引用返信/返信 削除キー/
■33324 / inTopicNo.75)  Re[9]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/21(Thu) 17:13:37)
    knowingitselfさん、レスをありがとうございます。

    No33319に返信(knowingitselfさんの記事)
    > ザビビのふくろうさん レスありがとうございます
    >
    > >藤田さんは、永井の哲学で自分たちの経験を言語化できる期待をもっておられるような気もしましたが。
    >
    > 山下さんも藤田さんも、そういう期待をもっていることは間違いないと思います。
    >
    > 藤田さんは、相当の多読家ですね。古東哲明さんとの対談を収録した著作もあります。永井均さんと共に古東さんの著作も以前から愛読していたそうです。彼の「ハイデガー=存在神秘の哲学」講談社現代新書はわたしも好きで読んでますが(笑)
    >

    なんと、そうなんですか!
    私も古東さんの著作が好きで、たぶんほとんど全部読んでいます。
    『瞬間を生きる哲学』
    って著作はご存知ですか?
    ここにサティーについて書かれた文章があって、藤田さんや山下さんが読まれたら面白いんじゃないかなと思ってたんですが、じゃあ、少なくとも藤田さんは読まれているでしょうね。

    > 山下さんは、昔わたしが「一法庵」におじゃましたとき、簡素な部屋に井筒俊彦の著書がおいてあったのが印象的ですね、

    あら、そうなんですか。
    じゃあ、西田幾多郎についてもご存知かもしれませんね。

    情報、ありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■33322 / inTopicNo.76)  パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/21(Thu) 17:01:58)
    パニチェさん、こんにちは。

    実は、これまで説明しようと思っては機会を失っていたことがあります。
    ですが、ある意味、目下の我々の考察に最も重要な意義があると言っても過言ではないことなので、遅ればせながら、ちょっと長くなると思いますが、ここで述べてみたいと思います。

    以下に引用する内容は、私が前提としている哲学上の基本的知識にあたるもので、ショーペンハウアー図とマッハ図の論理的違いについて、パニチェさんの理解が得られないのも、この知識の共有ができていないことも原因として考えられるのかなとも思います。
    それは、「表象」と「現象」の学術用語としての意味です。
    これについて、以前、悪魔ちゃんが中島義道さんの著書からか引用されていた文章があり、大変参考になりますので、再掲させてもらいます。悪魔ちゃん、ありがとうございます。
    あともうひとつ、辞典から坂部先生による「表象」の説明も引用しておきます。

    なお、この投稿についても特に返信は不要です。
    ただ、上記用語の意味については、理解しておくことはパニチェさんにとってもプラスになると思いますので、長いですが、目を通していただきたく思いますm(__)m
    ***************************
    No27106
    中島義道さんの「現象・表象」の。
    No26793に前に一部書いたけど、このさいだから、全部書き写しておきます。

    (資料2)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    現象・仮象     中島義道

    現象と仮象という両概念は、哲学的にはカントの時代まで正確に区別されることはなかったが、それも当然である。なぜなら、ドイツ語における「現象」(Erscheinung)には「真」という意味が含まれておらず、また「仮象」(Schein)も「仮」という意味を特に担っていないからである。“Erscheinung”も“Schein”も「現れ」であって、ここに真偽ないし正誤の問題はもともと入っていない。ドイツ語では成績表も紙幣も身分証も“Schein”と呼ぶ。これらは「誤った現れ」ではなく、むしろ何ものかの「真の現れ」なのだ。こうした文脈において、カントと彼の同時代人ランベルトとを比べると、両概念がまったく異なった方向に彫琢(宝石などを加工研磨すること、詩や文章を推敲し立派なものにすること、美しく磨き上げる)されてゆくのを看取(見てそれを知ること、観取)できて興味深い。その後ヘーゲルやフッサールの現象学における現象概念も、また両解釈の間を揺れ動いていると言えよう。

    仮象の両義性
    ランベルト(1728-1777)は「現象学」(Phänomenologie)という用語をはじめて使用したとされるが、彼の現象学とは「仮象の学」にほかならない。この場合、仮象という概念に「真」に対する「偽」という意味合は含まれていない。仮象とはあくまでも真偽以前の「中間物」であり、何ごとにせよ見えるがまま・現れるままの事柄であって、これはドイツ語の“Schein”の意味を忠実に保っていると言えよう。こうした基本的態度のもとに、彼は「超越的仮象」「生理的仮象」「道徳的仮象」「病理学的仮象」「天文学的仮象」等々詳細な分類を施している。彼のプランは、こうした見えるままに記述する「仮象の言語」と、物に即した「物理学の言語」との間に翻訳規則を作ることであった。
    カントはこのランベルトの構想を一部引き受け、『純粋理性批判』をはじめ『現象学』というタイトルにしようとしたほどほどである。しかし、この構想をカントは大きく変容させ、仮象を「誤った現れ」という意味に限定した。それは「錯覚」とほぼ同義であり、広く主観的にそう見える(思われる)ものを客観的だと誤って判断するときに生ずるものである。仮象には経験的仮象と超越論的仮象がある。前者は、昇る月の大きさを対象としての月の大きさと錯覚するとき(月の錯視)や、岸の上に海が見えると、対象としての海が対象としての岸より上にあると判断するときなどに生ずる。そして、後者こそカントがもっとも注目したものであり、理性そのものが有する本性であって、本来可能な経験の範囲内で有効なカテゴリーを、経験を超える領野にも使用し、「世界全体の量は有限あるいは無限である」「魂は実体(不滅)である」「神は存在する」等々の誤った結論を導き出してしまうことである。
    こうした変容の過程で、ランベルトにおいては特に積極的な意味を持っていなかった現象は、カントにおいては積極的に経験内の「真の現れ」という意味を受け持つことになる。現象と仮象との区別は、とりわけ『自然科学の形而上学的原理』の第4章「現象学の形而上学的原理」において鮮明である。カントは互に等速度直線運動する二つに物体A,Bについては、ガリレイの相対性原理をそのまま認めて、どちらかが真のつまり実在的な運動であるわけではないと言う。両者ともに、可能的運動として等価なのである。しかし、円運動のように実在的な力が実在的な力が加わるような等速度運動においては、力が実在的であるがゆえに、そこには真の実在的運動が成立している。その場合、円運動の上に座標を組むと、その座標においては外界の運動は反対の方向の円運動として知覚されるであろう。しかし、もしそれを真の実在的運動であるとみなすなら、そのときはじめて「仮象」が生ずるのである。言い換えれば、そう見なさないとき、円の外の観察者にとっての円運動も円の上の観察者にとっての反対方向の円運動も、ともに現象である。同様にして、互いに等速度直線運動する二つの物体A,Bの上にある自分自身の運動も相手の運動も現象である。

    現象の両義性
    だからカントの場合、実は現象は二義的である。運動学のようなカテゴリーを適用した客観的妥当世界のみが現象であるわけではない。もうひとつ、夢や幻おみならず、私の目や耳に触れるある印象や私の舌に感じられる味わいや、私の手に触れる感触等々、いわゆる主観的現象もまた現象である。それらは「誤り」であるわけではなく、ただ主観的妥当性をもつにすぎないだけである。こうした現象はランベルトの「中間物」として仮象に近づいており、また偽と判断されたわけではなく真偽以前の「現れ」である。これら主観的妥当性を持つにすぎないものをいかに捉えるかが、カントの現象理解の鍵とも言える。カントは『プロレゴメナ』で主観的妥当性のみを持つ知覚判断と客観的妥当性を持つ経験判断の区別を推し進め、主観的妥当性の領野を確保しようとしたが、それはうまく超越論的観念論の体系の中におさまることはなかった。カントは『純粋理性批判』第2版に至って外的経験と並ぶ「内的経験」という概念を彫琢したが、これも経験であるかぎりすでに客観的妥当性を持つ。つまり、私に具体的に現れている現象をそのまま記述するとき、その現象記述はいかなる位置を占めるか、それがカントでは難問として残されているのである。

    現象と表象
    また、現象については、しばしば「表象」という概念との異同が問題となる。その使われ方は混乱しており、現象が表象と同義であったり、また、表象が特に単なる主観的妥当性しかもたないような現象を意味することもある。日本語では区別がはっきりしないが、ドイツ語の“Erscheinug”(現象)と“Vorstellung”(表象)との区別は明確であり、前者は何ものかの現れという自動詞の名詞化であるが、後者は私が私の前に何ものかを立てるという他動詞の名詞化である。前者は物理現象とも心理現象とも言うように語自体に存在論的な限定はないが、後者は私が私の前に立てるものであり、その操作の限り「ある」という主観的存在の色合いが濃厚になる。ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』の冒頭で「世界は私の表象である」と宣言するが、こう語ることによって彼は、世界は何ものかの「現れ」であると言いたかったのではなく、私が私の前に立てるものにすぎない、したがって私を離れて無かもしれない、と言いたかったのである。
    カントにおいては、表象は物自体との対比で図式的に使用されている。私に現れる世界(現象)はそれ自体として存在するもの(物自体)ではなく、私の思考と直観との協同によって構築したもの(表象)だ、というのがカントにおける両概念の基本的な使用法である。つまり、表象は特に物自体の絶対的実在性というあり方に対する「超越論的観念性」というあり方を強調するときに使われる。

    カント以降
    ドイツ観念論は、ヘーゲルによる「意識の経験の学」を含み、科学的認識をことごとく取り入れた正しい現れ(=現象)と誤った現れ(=仮象)という、カントの現象と仮象の区別をほぼ侵襲している。だが、フッサールによる「現象学」は、現象とう地平を獲得する方法論を洗練させながら。「Schein=現れ」すなわち「中間物」であるというランベルトの視点から取り戻している。カントにおいて現象はわれわれには未知の物自体の「現れ」として捉えられているが、現象学において現象とはわれわれに未知のXが「現れる」ことではない。それは、われわれにみずからをその通りに告知する作用である。現象学にとって、現象と現象の背後世界との関係が問題なのではなく、むしろいったんあらゆる(物理学のような)事実学を遮断してこうした「現れ」の世界を記述し、次にこうした現象学による事実学への関係づけが問題なのである。これは、仮象の言語と物理学の言語との関係を求めるというランベルトの構想に沿っている。すなわち、カントが物理学のうちに認められるア・プリオリな総合判断をみずからのうちにも含むような学としての形而上学を目指すのに対して、フッサールはむしろ物理学などの事実学を徹底的に排して、「現れ」に戻ることにより開かれる現象学的地平を目指していると言えよう。
    ***************************
    表象(読み)ひょうしょう
    日本大百科全書(ニッポニカ) 「表象」の意味・わかりやすい解説
    表象
    ひょうしょう

    一般に心または意識に現前するものを意味する。通常は、representation(英語)、représentation(フランス語)、Vorstellung(ドイツ語)の訳語として使われる。英語、フランス語の語源であるラテン語repraesentatioは「ふたたび(re-)現前せしめること(praesentatio)」を意味することからも明らかなように、「表象」の語は、少なくとも近世以後の用法においては、人間の「意識」の対象定立作用、反省作用に相関する対象の側面を指示する用語として使われる。

     いっさいを人間の意識に取り込んで考えようとする、近世のデカルト以来の意識内在主義的、主体主義的哲学は、カントを受け継いで世界のいっさいを人間意識の表象に解消させるショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」の哲学から、さらにそれを受けて、同じく世界のいっさいを権力意志による解釈の産物とみなすニーチェの「遠近法主義」の哲学において一つの頂点に達するとみることができる。この近世の人間中心主義的な主体主義の哲学、あるいは形而上(けいじじょう)学は、まさに、西欧近世の合理主義的技術文明の基盤をなすものにほかならない。しかし今日では、いっさいの事物を、人間意識の操作対象という側面からだけみることの一面性への反省が、さまざまな角度から現代哲学の主要テーマの一つとなっている。

    [坂部 恵]
    **********************
    ここで押さえておいてもらいたいのは、
    表象とは「私が前に置くもの」にすぎないのであって、あくまで「主観にとっての客観である」ということ。
    それともう一つ、私が前に置くものにすぎないので、「仮象」という意味合いをもつということ。
    ですから、表象世界というのは、自己漫画の第4図の世界に相当します。

    それに対して、カント以降、特に、ラッセルやフッサール、マッハ、論理実証主義など、現象主義に分類される立場における「現象」とは、真に我々が知るものであり、ラッセルや論理実証主義の立場では、むしろ現象こそ不可疑であり真なる知識の源泉(基礎)だとみなされます。

    わかりやすい説明を試みます。
    いまここに立ち現われている知覚事象(ここでは視覚事象)の把握の仕方。

    「表象」把握:「見るもの―見られるもの」「知覚主体―知覚対象」「主―客」図式による把握。
           表象世界=ショーペンハウアー図的光景=客観的世界

    「現象」把握:「(《私》に)見えるもの」=直接経験、という一元把握。
           現象世界=マッハ図的光景=主観的世界


    このとき、
    現象=直接経験(知覚経験)
    という意味にもなります(ですから、入不二さんの『ウィトゲンシュタイン』の説明に出てくる「直接経験」は「現象」と言い換えることができます。
    物理的世界はむしろ現象から論理的に構成されたもの、ということになります。
    ですから、ラッセルが掲げたプログラムは、ランベルトの後継とも言うべきものですが、現象には仮象という意味はありません。いわば逆なんですね。
    むしろ現象こそ直接知るところのもので、不可疑なもの、ということになります。
    ラッセルのプログラムは、自ら開発した論理的分析の方法を用いて、物理的言語を現象言語に分析する、翻訳することだと言えば、おおざっぱなイメージが得られると思います。
    これは、フッサールの現象学的還元と、近い考えとも言えます。
    『論考』は、このプログラムの原理的基礎付けだと私は解釈しています。
    ですから、「要素命題」は、現象命題である、とする解釈なのです。
    これは、ラッセルや論理実証主義者など、ウィトゲンシュタインと直接『論考』について話したり説明を受けた人たちが『論考』解釈としてとっていた立場です。
    にもかかわらず全く不思議なことに、現在これを主張する人は少ないです(まあ、省略しますが、解釈史的な理由があるのですけどね)。
    入不二さんも、『論考』解釈としては現象主義的解釈を採っておらず、いわば中立的な立場をとっているようです。野矢茂樹先生も、そういう感じの立場です。

引用返信/返信 削除キー/
■33319 / inTopicNo.77)  Re[8]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
□投稿者/ knowingitself -(2023/09/21(Thu) 16:42:54)
    ザビビのふくろうさん レスありがとうございます

    >藤田さんは、永井の哲学で自分たちの経験を言語化できる期待をもっておられるような気もしましたが。

    山下さんも藤田さんも、そういう期待をもっていることは間違いないと思います。

    藤田さんは、相当の多読家ですね。古東哲明さんとの対談を収録した著作もあります。永井均さんと共に古東さんの著作も以前から愛読していたそうです。彼の「ハイデガー=存在神秘の哲学」講談社現代新書はわたしも好きで読んでますが(笑)

    山下さんは、昔わたしが「一法庵」におじゃましたとき、簡素な部屋に井筒俊彦の著書がおいてあったのが印象的ですね、
引用返信/返信 削除キー/
■33289 / inTopicNo.78)  キャロルのパラドックス
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/21(Thu) 09:16:03)
    2023/09/21(Thu) 16:12:24 編集(投稿者)
    2023/09/21(Thu) 10:19:33 編集(投稿者)


    パニチェさん、おはようございます。

    以前、No33122で、引用した講義録を再掲し、その説明(ボツにしていたもの)を、補足として投稿しておきます。
    パニチェさんは、キャロルのパラドックスについて一応理解しているつもりとおっしゃっていたので不必要かもしれませんが、まあ、何かの、あるいは誰かの参考になるとも限らないので一応。

    このレスについては、返信不要です。
    *******************
    実は、
    >論理法則が語りえないということは具体的にはどういうことでしょうか?
    について、詳しく書こうとしたのですが、長大にならざるをえないのと、それでもわかりやすいと思えないことなどで、諦めました。
    かわりに、関連するところを
    D・リー編(山田友幸他訳)『ウィトゲンシュタインの講義T ケンブリッジ1930-1932』 (勁草書房)
    から引用しておきます。飯田隆先生によるとウィトゲンシュタインがキャロルのパラドックスを知っていたとされる根拠になるところだそうです。最初の「(大まかに言って)」を除いて、カッコ内はふくろうの注です。

    帰結するという関係は(大まかに言って)それらが成立しないということが思考不可能である場合に成立する内的関係(示されるべき関係)である。命題が真であるか偽であるかということは、実在との比較によってのみ決定されうる。したがって、p∨qがp・qから帰結するということは命題ではない(何も語っていない)。それは何の役にも立たない。(示されている)内的関係を見て取ることこそが、推論を正当化するのである。推論を正当化するためには推論のルールは何ら必要ではない。というのももし必要であったならば、そのルールを正当化するために別のルールが必要であったであろうし、それは無限後退に導くだろうからである。われわれは内的関係を見て取らなければならないのである。(上掲書、108-109頁)
    そして、この内的関係を正確に示す表記法が『論考』のTF表記法だった、ということなのです。
    ******************************
    【ふくろうによる解説】
    ここではオリジナルの推論を簡単な推論に置き換えて、キャロルのパラドクスを考えることにします。

     p,q/∴ p
    という推論は正しい推論(前提の諸命題を真と仮定すると、結論も必ず真となる文形式)ですが、このとき、前提の2命題と結論は、真偽二値を有する語り命題(経験命題)です。
    ここに、アキレスはカメの要請で、この推論を正当化する論理法則を書き加えたわけです。
      p,q,(p∧q)⊃p/∴ p
    ですが、この
    (p∧q)⊃p
    という論理法則は論理的真理=トートロジー(論理的命題)であって、何事も語りません。
    だから、本当は前提には置けないのです。置くということは、論理法則を語り命題(経験命題)とみなすことです。
    そのために、次のように無限背進が始まるわけです。
      p,q,(p∧q)⊃p,{p,q,(p∧q)⊃p}⊃p /∴ p
         
    なのでウィトゲンシュタインは、こういったミスリードが起こらないように、
     p∧q: (p,q)[TFFF]
    p : (p,q)[TTFF]
    (p∧q)⊃p:(p,q)[TTTT]
    というふうに命題を表せば、p∧qの真理根拠がpの真理根拠に含まれている(内的関係)ので、p∧qからpを推論してよいことは一目でわかる、つまり、これら命題自身が示している、と考えたわけです。このことを明示したのが(p,q)[TTTT]です。
    つまり、論理法則が推論を正当化するのではなく、命題自身が正当化する、ということです。

    【追加編集の補足2】
    上に述べたのは、先にNo33170で引用したT:6.1,T:6.11の解説にもなっているんですが、

    T:6.1 論理学の命題はトートロジーである。
    T:6.11 論理学の命題は何も語らない。(それは分析的命題である)。
    T:6.2 数学は論理的方法である。
        数学の命題は等式であるから、疑似命題である。
    T:6.21 数学の命題は、思想を表現していない。

    ひょっとすると、T:6.2,T:6.21の解説のほうがわかりやすいかもしれないので、これも説明しておきます。

    数学の命題の本質を等式とみなしているということは、いわば
     5=3+2
    と同じということです。
    そして、この式を意味分析して次のように表します。
     1+1+1+1+1=(1+1+1)+(1+1)
    これが論理命題におけるT−F表記に相当します。
    そうすると、数“5”と“3”と“2”の意味と、“+”の加法操作の意味を理解していれば、この等式が必然的に成り立つことはわかりますよね。(T:6.241の2×2=4の掛け算の証明も、本質的にはこういうことを示しています。)
    これは、
     独身男=配偶者がない+男性
    と本質的に同じである、つまり、等式はカント的な意味で、分析的命題であるということを意味します。
    つまり、意味分析のみでその真理であることが必然であるとわかりますので経験的知識を拡大することもない分析的命題であり、またそのため経験的検証を必要としないのでアプリオリな命題ともみなせるわけです。

引用返信/返信 削除キー/
■33287 / inTopicNo.79)  Re[6]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/21(Thu) 01:08:23)
    2023/09/21(Thu) 08:36:22 編集(投稿者)
    パニチェさんへ

    No33261に返信(パニチェさんの記事)
    > 2023/09/20(Wed) 22:01:05 編集(投稿者)
    >
    > ■No33207に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >
    >>>>第四図がカテゴリー的な構成、現象のことなら、第五図は物自体となりますか?
    > >>ここもう少し詳しくお願いします。
    >
    >>私としては、第4図についての藤田、山下両氏のとらえ方を読むと、ハイデガーの『存在と時間』における、共同世界内存在としての頽落した在り方――Das Man――のとらえ方とほどんと同じように感じました。
    >
    >>5図の世界は、私はカントというより、ショーペンハウアーの物自体の世界と近い気がします。しかし、knowingitselfさんの
    >
    > ショーペンハウアーの物自体って意志と同じですよね。
    > 5図は物自体の世界つまり現象界は意志がつくりだす幻想という構図として同じってことでしょうか?
    >

    そういうつもりだったと思うんですが、knowingitselfさんに書いたように、ちょと訂正したほうがいいかなと思います。

    >>>ただ、道徳や倫理、定言命令からは、唯一、物自体にいける。これは「実践理性批判」ですね。「仏教3・0」では三人とも第五図で慈悲を強調するのは、カント哲学の仏教バージョンのようなものかと。山下さんはとくに慈悲をメチャクチャ強調します。
    >
    >>という見解は同意します。鋭いと思います。
    >
    >>【編集追加訂正】
    >>knowingitselfさん、褒めておいて大変失礼なんですけど、
    >>読みなおしたら、永井が言ってましたね。
    >>申し訳ありません。
    >
    > 上記は永井氏がどこで言ってますか?
    >

    前掲書227頁からの説明です。


    >>で、5図の自己へと転換する方法は、藤田さんはどちらかと言うとハイデガーに近いスタンスで、山下さんのほうは初期フッサールの現象学的還元から超越論的主観への超出、みたいな感じがします。
    >>さらに言えば、山下さんの思想は、私にはむしろショーペンハウアーにそっくりだと思うんですね(笑)
    >>慈悲による超越の問題は、ショーペンハウアーの共苦=同情の倫理学が答えになると私は思います。
    >>ただ、永井の〈私〉として解釈していると、わからないと思いますが。
    >
    > ちょっと話が飛びますがハイデガーの現存在って〈私〉と接点があるのかないのかよく分かりません。
    > 『論考』もそうなんですが、『存在と時間』にも〈私〉の気配が感じられないんですね。
    >
    >

    あー、そうかも。
    〈ひと〉(ダス・マン)はもちろん違うし、本来的自己はキルケゴール的単独者のイメージはあるにせよ、独我論って感じじゃないかな。
    でも、古藤哲明さん解釈のハイデガーだったら、少しあるかも…?(笑)
    いや、やっぱり違うかな…

    > >>永井氏のP189〜P209の説明って私はいるのかな?と思ってしまうのです。
    > >>むしろ余計に〈私〉を分かりにくくしている。カントやデカルトを持ち出す必要性があるとは思えず、むしろ永井氏は何のために持ち出しているのかとさえ思ってしまいます。こねくり回しすぎというか。。。(笑)
    > >>〈私〉や自己漫画図の理解にはデカルトやカントは必要ないですからね。^^;
    >
    >>このパニチェさんの見解は、私には意外でした。
    >>私には、〈私〉のわかりやすい説明になっていると思えたからです。
    >>それに、パニチェさんの説明とも一致しているように思えたからです。
    >>例えば、同書192頁
    >
    >> まだコスモスになっていないカオスとしての世界の開けです。もちろん主客未分です。
    >
    >>は、No33130での
    >>>マトリックスの映画(あと「桶の中の脳(水槽の脳)」とか「一炊の夢(邯鄲の夢)」も含めて)は設定からして「バーチャル世界の外にあるカプセルの中に真の人体が実在している」ということになってますので少し無念無想の境地とは異なると思いますが、強いて残るとするなら西田哲学の純粋経験みたいな主客未分の〈私〉ですかね
    >
    >>の<私>と近い気がするんですが、違いますかね?
    >
    > 読み直しました。確かに似てますね。永井氏は6図を出発点として解説してますね。
    > 私の場合、無念無想の境地に無理やり〈私〉が残るとするならってことで述べましたので、同じになるようなならないような。。。微妙です(笑)
    >

    いや、私はやっぱり、それでも永井は昔から読んでいるし、ある程度つかめているので、パニチェさんをどうしても永井と同じとしてまず考えちゃうんですよ。パニチェさんの考えをまだつかめていないんで。永井との違いがまだわからないからだと思うんですが。
引用返信/返信 削除キー/
■33286 / inTopicNo.80)  パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/21(Thu) 00:54:59)
    2023/09/21(Thu) 16:32:24 編集(投稿者)
    2023/09/21(Thu) 01:09:36 編集(投稿者)

    パニチェさん、こんばんは。
    レスをありがとうございます。

    > ■No33170に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >
    > >>T:6というのは「6.真理関数の一般的形式は、[記号省略]である。これは命題の一般形式である。」のことですね?
    >
    >>そうです。
    >>はっきり言って不十分なんですが、いわば自然数を定義したペアノの公理のようなものですね。
    >>ウィトゲンシュタインが『論考』で示した論理的記号法は、現在でも研究されています。それを実際に構成する試みもなされているようです。
    >
    > そうなんですね。
    >
    >>パニチェさんは、科学的命題と、数学的命題の違いってなんだと考えていますか?
    >
    > 知識不足で思いっきり返信が外れるかもしれませんが。。。
    > 科学的命題というのは実験を通じて反証可能性を有する命題であり、数学的命題というのは数学的な正誤判定が可能な命題ってことになりますかねぇ〜。
    > いや、しかしゲーデル文なんかはどうなるんだか、わけわかめ(笑)。
    >

    あくまで『論考』に必要な観点から言えば、命題は、数学・論理学のようなアプリオリかつ分析的な論理的命題と、科学のようなアポステリオリかつ総合的な経験命題にわかれます。
    前者は何も語らず、後者こそがウィトゲンシュタインの言う「語る命題」であることになります。
    素朴に考えたら、科学的命題も、数学的命題も、普遍的、絶対的真理のようにも思えませんか?
    でも、前者は経験的検証を必要とし、後者は必要としないで証明できるけど、その理由も含めて、これらは根本的に異なる命題だということを、くっきりはっきりさせたということです。(のちに、このくっきりはっきりがぼけてくるようですが)。
    これは論理実証主義が『論考』に影響を受けてとった立場で、それ以外は無意味として、いわゆる形而上学的な伝統的哲学陣営との間に亀裂が入ってしまったわけです。


    >>ウィトゲンシュタインの考えでは、論理的命題や数学的命題は何も語りません。(下に再掲されていますが、前回引用した講義録の文にも書いてあります。)
    >>T:6.1 論理学の命題はトートロジーである。
    >>T:6.11 論理学の命題は何も語らない。(それは分析的命題である)。
    >>T:6.2 数学は論理的方法である。
    >>    数学の命題は等式であるから、疑似命題である。
    >>T:6.21 数学の命題は、思想を表現していない。
    >
    > なるほど。やっぱ語り得なさが2種あるように思えます。
    > 論理と倫理はともにトートロジーである故に語り得ない。
    > 〈私〉の語り得なさとは差異があるような気がします。
    >

    これは永井も言っていたように、超越論的な語り得なさと、超越的語り得なさの二つがあるんです。
    倫理は超越的な語り得なさだと思います(トートロジーではありません)。
    超越的真理は命題で語ることも示すこともできないと思います。
    論理学と数学は分析的真理、命題によって示される(証明される)真理。
    これは超越論的と言ってもいいと思います。

    >>そうです。
    >>No32917に私が添付した図と同じものですが、できたら私、これを「ショーペンハウアー図」と呼びたいんですよね。
    >>パニチェさんはご自由でかまいませんが、私がこう言ったら、永井の図5と同じNo32917だと受け取ってくださいm(__)m
    >
    > 了解しました。
    > 蛇足ですが、私が名付けるとするならマーヤー(幻影)の図ですね。^^
    >

    それもいいですね^^
    ショーペンハウアーだったら賛成しそう(笑)
    ただし、この図が、世界が主体の表象であることを表した図であるという意味において、という留保をつけたほうがいいかもしれませんが。


    > >>これは図に描くこと自体が客体化した〈私〉になるので頽落しており、一般的な「私」になっています。
    >>同意します。
    >
    > >>ちなみに「〈仏教3.0〉を哲学するU P193」の図4なら世界の中の一人としても「私」になります。
    > >>「私」であるなら図4の中の人物であり、図5で言うならアタマの展開する世界の中にいる一人としての(根本にあるわが生命ではなく)「私」ってことになるはずです。
    >>同意します。
    >
    > >>これも同様に図にしている時点で「私」と〈私〉の区別はなくなっています。
    >>これはちょっと違って、図5に描かれた世界全体が世界の「限界としての《私》の世界」であって、中に涙型に描かれた視野世界の中にいるのが「私」であり、左端に書かれた黒丸が表象する主体の〈私〉になる感じですかね。
    >
    > ごめんなさい。この《私》という表記の意味(〈私〉との差異が)が分りません。
    >

    すみませんm(__)m
    ついつい断りなく使っちゃいました

    主観により対象化された「私」
    思考し表象する主観を〈私〉 (〈私〉=ほかならぬこの私)
    世界の限界としての《私》  (《私》=比類のない私)

    として区別しました。
    この《私》という表記、〈仏教3.0〉で永井が違う意味で使っているのを初めて知ったのですが、またパニチェさんに怒られそう(笑)
    もし紛らわしかったら《我》でもいいですm(__)m

    ちなみにこの「世界の限界としての《私》」は、
    入不二基義さんが『ウィトゲンシュタイン』の、2章の2「ウィトゲンシュタインの無主体論」で説明しているものです。
    入不二さんは『論考』ではなく、中期の立場として解説されていますが、私は、これを『論考』の示される独我論――私としては『超越論的独我論』と呼びたいもの――の《私》であると考えています。


    > >>マッハ的光景も誰にでも当てはまる光景になります。
    > >>そういう意味では図5とマッハ的光景は差異はありません。
    >
    >>うーん、ですから、私が述べているのは、その「誰にでも当てはまる」=「一般的」ということに、経験的一般性(偶然的一般性)と、アプリオリ(必然的)な一般性があって、これを区別しないということは、マッハ図とショーペンハウアー図を同一視することで、これはまずいですよ、ってことなんです…。
    >>まあ、パニチェさんとしてはどうして納得できないようなので、とりあえず、これは違いの確認ということで置いておきましょうか?
    >
    > ここはおそらく平行線になると思いますので、置いておくことに同意します。
    >
    > >>>>**********************
    >
    >>>>>ここもう少し詳しく教えて下さい。
    >>>>>論理法則が語りえないということは具体的にはどういうことでしょうか?
    >>>>>一般化されなければ論理法則は法則になりえませんよね?
    >
    >>>>ここも、
    >>>>一般化される=誰にでも当てはまる語り
    >>>>という前提があるように思われます。
    >>>>論理法則とは、要するに論理的真理であって、同語反復命題によってあらわされますが、これは何事も語りません。
    >>>>論理的真理は、命題自身がトートロジーであることによって真であることを示しているのです。
    >>>>つまり、論理的命題は、写像ではありません。「鏡像」と言われています。
    >>>>論理の研究はアプリオリな一般形式の研究です。
    >
    >>>>要するに、一般的言語理論であろうと一般的主観であろうと、「経験的一般性」ではなく、「形式的一般性」であれば、唯一性は失われない、ということです。
    >>>>喩えれば、チェスの「白のキング」は世界中で唯一人であるように。
    >>>>自然数の1も、世界中で唯一です。
    >
    > >>論理的真理も公理もスタート地点がトートロジーであることは理解できます。
    > >>上記は「語り得ること」と「根拠が説明できること」と同じ意味で用いられていますか?
    > >>私は「語り得ること」と「根拠が説明できること」は異なると考えています。
    > >>よって論理的真理も公理も「語り得る」と。「語り得る」から論理的真理や公理足り得る。
    > >>一方で〈私〉は「語り得ない」から文章や命題にすらなり得ないってことになります。
    >
    >>うーん、このパニチェさんの用法は、明らかに『論考』と異なりますね。
    >>上に引用しましたが、T:6.1番台にあるのを見てもらうのがいいかな。
    >>とにかく、論理的真理は、命題自身が同語反復命題(トートロジー)であることによって示されるものであって、語られるものではないんですよ。だから、分析的命題なんです。
    >
    > 『論考』と違うというとは理解しているつもりです。
    > 結論から言えば〈私〉は『論考』の語り得ない対象には含まれていないと(今のところ)考えています。
    > 『論考』で語り得ないのは、あくまでも「独我論」であって「独在論」ではない、と。
    >

    なるほど。
    ただ、私は永井の考えはある程度つかめていると思っているのですが、
    むしろパニチェさんのがつかめてないんですよ。すみません。


引用返信/返信 削除キー/
■33285 / inTopicNo.81)  ショーペンハウアーとウィトゲンシュタイン
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/21(Thu) 00:13:04)
    knowingitselfさんへ

    No33249に返信(knowingitselfさんの記事)
    > ショーペンハウアーといえば、かのウィトゲンシュタインがショーペンハウアーの影響を受けているともいわれている。

    ウィトゲンシュタイン自身が、影響を受けた人物としてショーペンハウアーを挙げているんですね。


    >ザビビのふくろうさんはこういうところも詳しそうですね。

    詳しいかどうかは別にして、いろいろ読みました。
    でも頭がザルなんで、大まかなイメージしか残ってないのが悲しいです。
引用返信/返信 削除キー/
■33284 / inTopicNo.82)  Re[7]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/20(Wed) 23:59:31)
    knowingitselfさん、こんばんは。
    レスをありがとうございます。

    No33243に返信(knowingitselfさんの記事)
    □投稿者/ knowingitself -(2023/09/20(Wed) 07:44:29)
    >ザビビのふくろうさん レスありがとうございます。
    >とりあえず最初のところを返信します。続く予定です。

    > >>第四図がカテゴリー的な構成、現象のことなら、第五図は物自体となりますか?
    > >
    >
    >>ここもう少し詳しくお願いします。
    >>
    >
    >> 私としては、第4図についての藤田、山下両氏のとらえ方を読むと、ハイデガーの『存在と時間』における、共同世界内存在としての頽落した在り方――Das Man――のとらえ方とほどんと同じように感じました。

    >内山興正本人がハイデガーの影響を受けているのは間違いないでしょう。第四図の意味としてはそう読むこともありですね。

    >ただ、第四図を素朴にみると、世俗的な価値を追い求める共産、共同体やグループの間の分離と闘争、そういうのは虚しいよで終わってもいい。それをカント的な現象にするなら、人間の認識・体験するすべては第四図を出れない、そそれと同じ図の根底にある第五図というように、射程がはるかに広がると思うですよ。

    そうですね。


    No33248に返信(knowingitselfさんの記事)
    > ザビビのふくろうさんへ。
    >
    > ショーペンハウアーはカントを尊敬して、ある程度その哲学の枠組みを継承したと聞きますが、どうなんでしょうか。

    カント哲学の後継者を自任していたようですね。

    >物自体もショーペンハウアーの独自の哲学を加味したと?

    そうです。
    物自体の解釈はかなり違って、意志とみなして、表象世界の形式やカテゴリーに縛られない目的をもたない、むしろ欲望のようなものと解釈したようです。
    これがニーチェやフロイトに影響を与えたわけですね。

    >第五図にショーペンハウアーをもってくるのも、ありうる説明だと思います。山下さんはそこまで考えていないはずですが。
    >

    ただ、少し再考していたんですが、意志としての世界はむしろ4図、すなわち表象としての世界と重なったものとみなしたほうがいいかもしれません。
    意志は無目的な欲動のようなものなので、その表れとしての世界(4図)にいる限り苦でしかない。
    それでこの意志を否定することにより一種の解脱(5図)を目指すというのが基本の考え方だと思います(乱暴に言うと(笑))。
    カントの後継者という以上に、仏教的である感じですね。
    仏教的世界観を、換骨奪胎したカント哲学の枠組みで解釈したとでもいう感じが私にはします。


    > 山下さんの場合は、哲学者を読んだり、哲学的思索をしたりには、もはやほとんど興味を持っていないと思います。
    > 彼にとっての第五図は、涅槃、ニルバーナ、お浄土、キリスト教なら天国のことでしょう。理屈ではなく、瞑想実践で直接体験する領域としてのニルバーナ。永井哲学を理解しようとかフォローするというより、かつて師事した内山興正の自己漫画図を説得的に説明する永井氏と出会っただけで十分という感じではないでしょうか。
    >
    >

    そうなんでしょうかね。
    藤田さんは、永井の哲学で自分たちの経験を言語化できる期待をもっておられるような気もしましたが。

    > やはり永井さんは根っからの哲学者、山下さんは救済を具体的に求める宗教者、まるでタイプが違う。

    そうですね^^
引用返信/返信 削除キー/
■33261 / inTopicNo.83)  Re[5]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/20(Wed) 21:56:01)
    2023/09/20(Wed) 22:01:05 編集(投稿者)

    No33207に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > >>第四図がカテゴリー的な構成、現象のことなら、第五図は物自体となりますか?
    >>ここもう少し詳しくお願いします。

    > 私としては、第4図についての藤田、山下両氏のとらえ方を読むと、ハイデガーの『存在と時間』における、共同世界内存在としての頽落した在り方――Das Man――のとらえ方とほどんと同じように感じました。

    > 5図の世界は、私はカントというより、ショーペンハウアーの物自体の世界と近い気がします。しかし、knowingitselfさんの

    ショーペンハウアーの物自体って意志と同じですよね。
    5図は物自体の世界つまり現象界は意志がつくりだす幻想という構図として同じってことでしょうか?

    > >ただ、道徳や倫理、定言命令からは、唯一、物自体にいける。これは「実践理性批判」ですね。「仏教3・0」では三人とも第五図で慈悲を強調するのは、カント哲学の仏教バージョンのようなものかと。山下さんはとくに慈悲をメチャクチャ強調します。

    > という見解は同意します。鋭いと思います。

    > 【編集追加訂正】
    > knowingitselfさん、褒めておいて大変失礼なんですけど、
    > 読みなおしたら、永井が言ってましたね。
    > 申し訳ありません。

    上記は永井氏がどこで言ってますか?

    > で、5図の自己へと転換する方法は、藤田さんはどちらかと言うとハイデガーに近いスタンスで、山下さんのほうは初期フッサールの現象学的還元から超越論的主観への超出、みたいな感じがします。
    > さらに言えば、山下さんの思想は、私にはむしろショーペンハウアーにそっくりだと思うんですね(笑)
    > 慈悲による超越の問題は、ショーペンハウアーの共苦=同情の倫理学が答えになると私は思います。
    > ただ、永井の〈私〉として解釈していると、わからないと思いますが。

    ちょっと話が飛びますがハイデガーの現存在って〈私〉と接点があるのかないのかよく分かりません。
    『論考』もそうなんですが、『存在と時間』にも〈私〉の気配が感じられないんですね。


    >>永井氏のP189〜P209の説明って私はいるのかな?と思ってしまうのです。
    >>むしろ余計に〈私〉を分かりにくくしている。カントやデカルトを持ち出す必要性があるとは思えず、むしろ永井氏は何のために持ち出しているのかとさえ思ってしまいます。こねくり回しすぎというか。。。(笑)
    >>〈私〉や自己漫画図の理解にはデカルトやカントは必要ないですからね。^^;

    > このパニチェさんの見解は、私には意外でした。
    > 私には、〈私〉のわかりやすい説明になっていると思えたからです。
    > それに、パニチェさんの説明とも一致しているように思えたからです。
    > 例えば、同書192頁

    >  まだコスモスになっていないカオスとしての世界の開けです。もちろん主客未分です。

    > は、No33130での
    > >マトリックスの映画(あと「桶の中の脳(水槽の脳)」とか「一炊の夢(邯鄲の夢)」も含めて)は設定からして「バーチャル世界の外にあるカプセルの中に真の人体が実在している」ということになってますので少し無念無想の境地とは異なると思いますが、強いて残るとするなら西田哲学の純粋経験みたいな主客未分の〈私〉ですかね

    > の<私>と近い気がするんですが、違いますかね?

    読み直しました。確かに似てますね。永井氏は6図を出発点として解説してますね。
    私の場合、無念無想の境地に無理やり〈私〉が残るとするならってことで述べましたので、同じになるようなならないような。。。微妙です(笑)

引用返信/返信 削除キー/
■33255 / inTopicNo.84)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/20(Wed) 21:21:02)
    こんばんは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。

    No33168に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    >>自分が意識を失っている間に何かしらの夢で見ているとするなら、その夢がマッハ図で描く世界になります。
    >>また世界内存在者としての「私」がいなくなった世界は普通に想像できますが、想像することと実体験することは違うと思います。
    >>夢の中で存在するのは「私」であって、その夢を見ている主体が〈私〉です。よって「私」が登場しない夢は見ることがあっても夢見る主体である〈私〉なくして夢を見ることも眠ることも不可能であるように思えるのです。
    >>ザビビのふくろうさんが言うように見解の相違になるんでしょうね。

    > ん?
    > ここは誤解があるんじゃないでしょうか?。
    > 夢の中に登場する私は「私」でしょうが、
    > 夢それ自体は、もちろん「〈私〉の夢」ですね。
    > これはいわば「夢の限界」としての《私》だと思いますよ。

    ここ確認です。上記の《私》というのはどういう意味での表記でしょうか?
    〈私〉との差異はありますか?

    > 私としては「夢見る主体」という表現は、「表象する主観」を意味するように思うので、避けたいところですが。

    パニチェ的には「夢見る主体」も「世界を見る主体」も「バーチャル世界を見る主体」も全て〈私〉ってことになりますが。。。。

    > わかりました。
    > 唯一つだけ。
    > 「情景自体は(他者と共有可能な)客観的なものであって」
    > っていうのは、私としてはちょっと受け入れがたいですね。

    受け入れがたいことは了解しました。^^

    > >>>解離性同一障害については同意します。
    > >>>確かに「〈私〉があったことが分かる」ってのは上記の定義からすれば矛盾してますね。
    > >>>ただ「私があった」から「私が眠っていた」ことが分かるわけで、〈私〉はなかったが私だけがあったてのもしっくりきません。
    > >>>私と〈私〉は不分離ですからね。


    > >>ただ、このへん、独我論を主張する場合は重要だと思います。
    > >>特にパニチェさんのように、知覚世界の存在と〈私〉の実在というふうに分離する考え方の場合、「見るもの―見られるもの」という図5の枠組み(主観―客観図式)で捉えられていると考えられるので、「見られるもの(客観)」が失われたとき、見るもの(主観)である〈私〉は残るのか、というのは問題だと思うんですね。
    > >>たとえば映画『マトリックス』のパニチェさんの説明(No32802)では、仮想世界と〈私〉は「存在のフィールドが異なる」と言い、「バーチャル世界の外にあるカプセルの中に実在している」ともおっしゃっていたので、バーチャル世界(客観)が消滅しても〈私〉(主観)は消えないのかな、と思うんですが、どうですかね。
    > >>この解釈では、たとえば瞑想で無念無想の境地になっても〈私〉だけは残るって感じにも思えるんですが、そういうイメージは違うかな?

    >>マトリックスの映画(あと「桶の中の脳(水槽の脳)」とか「一炊の夢(邯鄲の夢)」も含めて)は設定からして「バーチャル世界の外にあるカプセルの中に真の人体が実在している」ということになってますので少し無念無想の境地とは異なると思いますが、強いて残るとするなら西田哲学の純粋経験みたいな主客未分の〈私〉ですかね。

    > なるほど。パニチェさんの認識は一応わかったと思います。
    > 私としては、『マトリックス』のパニチェさん的解釈は、永井の図5と同じく私を外側から把握するものと思いますので、西田の純粋経験と同じようなものとするのは、無理ではないかな、と思います。すんませんm(__)m

    ザビビのふくろうさんがそのように解釈されることは了解しました。
    私としてはマトリックスの世界も夢も現実も全てマッハ的光景と同等で、客体化した永井の図5はありえない構図です。

    > そうですか(笑)
    > まあ、私、禅問答や公案をよく知りませんし、もう少し勉強してからまた出直します^^

    了解しました。^^


    No33170に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    >>T:6というのは「6.真理関数の一般的形式は、[記号省略]である。これは命題の一般形式である。」のことですね?

    > そうです。
    > はっきり言って不十分なんですが、いわば自然数を定義したペアノの公理のようなものですね。
    > ウィトゲンシュタインが『論考』で示した論理的記号法は、現在でも研究されています。それを実際に構成する試みもなされているようです。

    そうなんですね。

    > パニチェさんは、科学的命題と、数学的命題の違いってなんだと考えていますか?

    知識不足で思いっきり返信が外れるかもしれませんが。。。
    科学的命題というのは実験を通じて反証可能性を有する命題であり、数学的命題というのは数学的な正誤判定が可能な命題ってことになりますかねぇ〜。
    いや、しかしゲーデル文なんかはどうなるんだか、わけわかめ(笑)。

    > ウィトゲンシュタインの考えでは、論理的命題や数学的命題は何も語りません。(下に再掲されていますが、前回引用した講義録の文にも書いてあります。)
    > T:6.1 論理学の命題はトートロジーである。
    > T:6.11 論理学の命題は何も語らない。(それは分析的命題である)。
    > T:6.2 数学は論理的方法である。
    >     数学の命題は等式であるから、疑似命題である。
    > T:6.21 数学の命題は、思想を表現していない。

    なるほど。やっぱ語り得なさが2種あるように思えます。
    論理と倫理はともにトートロジーである故に語り得ない。
    〈私〉の語り得なさとは差異があるような気がします。

    > そうです。
    > No32917に私が添付した図と同じものですが、できたら私、これを「ショーペンハウアー図」と呼びたいんですよね。
    > パニチェさんはご自由でかまいませんが、私がこう言ったら、永井の図5と同じNo32917だと受け取ってくださいm(__)m

    了解しました。
    蛇足ですが、私が名付けるとするならマーヤー(幻影)の図ですね。^^

    >>これは図に描くこと自体が客体化した〈私〉になるので頽落しており、一般的な「私」になっています。
    > 同意します。

    >>ちなみに「〈仏教3.0〉を哲学するU P193」の図4なら世界の中の一人としても「私」になります。
    >>「私」であるなら図4の中の人物であり、図5で言うならアタマの展開する世界の中にいる一人としての(根本にあるわが生命ではなく)「私」ってことになるはずです。
    > 同意します。

    >>これも同様に図にしている時点で「私」と〈私〉の区別はなくなっています。
    > これはちょっと違って、図5に描かれた世界全体が世界の「限界としての《私》の世界」であって、中に涙型に描かれた視野世界の中にいるのが「私」であり、左端に書かれた黒丸が表象する主体の〈私〉になる感じですかね。

    ごめんなさい。この《私》という表記の意味(〈私〉との差異が)が分りません。

    >>マッハ的光景も誰にでも当てはまる光景になります。
    >>そういう意味では図5とマッハ的光景は差異はありません。

    > うーん、ですから、私が述べているのは、その「誰にでも当てはまる」=「一般的」ということに、経験的一般性(偶然的一般性)と、アプリオリ(必然的)な一般性があって、これを区別しないということは、マッハ図とショーペンハウアー図を同一視することで、これはまずいですよ、ってことなんです…。
    > まあ、パニチェさんとしてはどうして納得できないようなので、とりあえず、これは違いの確認ということで置いておきましょうか?

    ここはおそらく平行線になると思いますので、置いておくことに同意します。

    >>>>**********************

    > >>>ここもう少し詳しく教えて下さい。
    > >>>論理法則が語りえないということは具体的にはどういうことでしょうか?
    > >>>一般化されなければ論理法則は法則になりえませんよね?

    > >>ここも、
    > >>一般化される=誰にでも当てはまる語り
    > >>という前提があるように思われます。
    > >>論理法則とは、要するに論理的真理であって、同語反復命題によってあらわされますが、これは何事も語りません。
    > >>論理的真理は、命題自身がトートロジーであることによって真であることを示しているのです。
    > >>つまり、論理的命題は、写像ではありません。「鏡像」と言われています。
    > >>論理の研究はアプリオリな一般形式の研究です。

    > >>要するに、一般的言語理論であろうと一般的主観であろうと、「経験的一般性」ではなく、「形式的一般性」であれば、唯一性は失われない、ということです。
    > >>喩えれば、チェスの「白のキング」は世界中で唯一人であるように。
    > >>自然数の1も、世界中で唯一です。

    >>論理的真理も公理もスタート地点がトートロジーであることは理解できます。
    >>上記は「語り得ること」と「根拠が説明できること」と同じ意味で用いられていますか?
    >>私は「語り得ること」と「根拠が説明できること」は異なると考えています。
    >>よって論理的真理も公理も「語り得る」と。「語り得る」から論理的真理や公理足り得る。
    >>一方で〈私〉は「語り得ない」から文章や命題にすらなり得ないってことになります。

    > うーん、このパニチェさんの用法は、明らかに『論考』と異なりますね。
    > 上に引用しましたが、T:6.1番台にあるのを見てもらうのがいいかな。
    > とにかく、論理的真理は、命題自身が同語反復命題(トートロジー)であることによって示されるものであって、語られるものではないんですよ。だから、分析的命題なんです。

    『論考』と違うというとは理解しているつもりです。
    結論から言えば〈私〉は『論考』の語り得ない対象には含まれていないと(今のところ)考えています。
    『論考』で語り得ないのは、あくまでも「独我論」であって「独在論」ではない、と。

    >>トートロジーになるとか、真偽とか、有意味であるとか、無意味であることに関係なく〈私〉は言語の性質上「語り得ない」ってことになる。
    >>そして論理や言語以前(外)に〈私〉が「今ここに存在しており」、そこから世界も論理も言語も開けるってことになる。

    > わかりました。
    > 繰り返しになりますが、とりあえず、それがパニチェさんのお考えということですね。
    > 私も本来言うべきことがあるんですが、なかなかそれも大変なんで、一応ここいらでストップしましょうか?

    同意します。

    > それと、あと、『仏教3.0を哲学する』については、また改めて、少しレスしたいと思っています。
    > ありがとうございました。

    こちらこそ、ありがとうございました。

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