| いまのわたしの物語り、メルポンの言う「世界における(への)存在」なんだけど、 前にも書いたけど、【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】の訳注にあるのを書いとく。 [etre au monde]の[etre]の最初の[e]の上には、[^]がついてるんだけど、ここでは省略するね。
〔原文はI’homme est au monde.これは12項に出現する本書の基本概念「世界における(への)存在」(etre au monde)を先取りするものであるが、この基本概念はハイデガーの「世界内存在」(In-der-Welt-Sein)、サルトルのetre -dans-le-mondeに対応するものであることは、いうまでもない。問題はmondeの前の前置詞auの訳し方だが、独訳(Rudolf Boehem,1966)ではzu、英訳(Colin Smith,1961)ではinとなっている。つまりetre-au-mondeを独訳者はZu-Welt-Sein、英訳者はBeing in the worldと訳す。但し英訳では文脈によってはbeing to the worldとも訳している。要するにetre au mondeとは世界に属しつつ世界に臨む人間のあり方を表す言葉で、本訳書では述語的に使われていると思われるところでは、カギ括弧でくくり、更に「世界における存在」と「世界への存在」を共に示すため「世界における(への)存在」とした。〕(『知覚の現象学』訳注P.818)
メルポンは、フッサールやハイデガーに倣ってるのかな?ん、わたし現象学っていうのは〈方法を提示する学〉って見てるから、っていうよりその方法に倣って、っていう方が正確なのかも。
わたしのばあい、”メルポンの”現象学が好み。
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