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■33095 / inTopicNo.1)  Re[23]: 「〈仏教3.0〉を哲学する」
  
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/17(Sun) 00:33:33)
    パニチェさん、こんばんは。
    本論のレスは、まだ書けていないので改めて明日以降投稿します。

    No33084に返信(パニチェさんの記事)
    > 2023/09/16(Sat) 12:05:20 編集(投稿者)
    >
    > ■No33071に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >
    >>今回は、本題とは少しずれますが、前に言っていた
    >>(藤田一照、永井均、山下良道)『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU』(春秋社)
    >>について、一応読了しましたので、感想を少し述べたいと思います。
    >
    > ありがとうございます。
    > 私が感想を求めたのであまり興味なく放置していた本を読ませたならすみません。^^;
    >

    いやいや、この本はパニチェさんに勧められたのではなく、最初、パニチェさんがどなたかとこの本について話しておられて、私が勝手に面白そうに感じ、読んでみたいと思ったのが最初なんです。
    なので、全く気にしないでください。
    それに、哲学的に深いところまでは議論されてなかったのは少し残念でしたが、
    面白くなかったわけではありません。
    目下、私とパニチェさんが話をしていることと同じようなことを言っているところがいくつかあって、面白いです。
    たとえば、何で語り得ないのにお釈迦さんは語ったんかな?みたいな話で、いや、やっぱ語りたかったんじゃないか、みたいな軽い話しかなかったのは残念でしたが(笑)


    >>上に書いたように、読んだのはバージョンUです。
    >>なんでかと言うと、Tを注文しようと思っていた本屋に、たまたまバージョンUだけがあったので、悩みましたが、まあいいやと思って買って読んだんです(笑)
    >>で、結果としては、べつにUでもよかったように思います。
    >>3人が評価しているという内山興正老師という人の書いた6つの図、自己漫画と呼ばれているんですかね、それについての説明はけっこう詳しくなされたので、大体理解できたと思います。
    >>また、山下良道さんも自説を明確に主張されたので、だいたいわかりました。
    >>ただ、藤田一照さんは自説の展開が少なかったので、全体像がはっきりとはまだつかめていない感じです。
    >>永井については、それほど新しい情報はなかったと思いますが、哲学素人に説明するからか、わかりやすい説明で、参考にはなりました。
    >>とはいえ、正直なところ、二人の僧が哲学をほとんどご存じないようで(なにしろ西田の「に」もなかったように思います)、自分らが瞑想などの実践を通して得られたことを言語化するために、永井哲学が役立つと思われたようですね。
    >>ですが、私としては、正直もっといいのがあったんじゃないかと思います。
    >>大きなお世話かもしれませんが、とにかく、哲学的に見た場合は、そんなに深い話ではありませんでしたので、バージョンTのほうはもういいかな、って感じですね。
    >
    > 丁寧なレスをありがとうございました。
    >
    >>あと、目下話題にしていた No32917 に添付した図5について、まさにパニチェさんが言われたように永井が説明していましたので、一応それを引用しておきます。冒頭の「これは」は、に添付した図5について述べているものと受け取っていただくといいです。
    >
    >> これは本当は、この眼の一に〈私〉があるのではなくて、この眼そのものはこの世界の内部に入るんですよね。眼は見ることはできないけど、物や他人と同じように手で触ることができますから。世界の中にある物でもあるわけです。ただ、現に見えているという、そのことだけが〈私〉です。この視覚としての〈眼〉と物体としての「眼」は別のものです。視覚としての〈眼〉はもちろん手で触ることはできませんし、それをさらに見ることもできません。(上掲書、78頁)
    >
    >>ところで、このバージョンUも、パニチェさんは読まれたんでしたっけね?
    >
    > はい、TもUも読んでいます。引用ありがとうございました。
    > ここ少し弁明というか(信じていただけるかどうかはともかく)補足でカキコさせてもらいます。
    >
    > 「〈仏教3.0〉を哲学する」は私にとってもあまり刺激的な本ではなかったです。共感できたのは自己とか瞑想の主体の捉え方、つまり仏道のスタート地点である「発心する私」の考察が仏教では手ぬるい、あるいはスルーされているというようなところですね。あと〈私〉が真我である、または真我にかする可能性です。これは「〈仏教3.0〉を哲学する」だけではなく、以前に数年間レス交換をした密教の行者であるゴウさんとの議論から感じ取れたことでもあります。
    >

    これに関して知識がなくて、あくまで仮定して少し私見を述べます。

    (1)アートマン=ミクロコスモス(私の世界)
    (2)ブラフマン=マクロコスモス(全体としての世界)

    だとすると、マッハ図は

    マクロコスモス=ミクロコスモス⇔ブラフマン=アートマン

    を示す図として解釈可能と思います。
    しかし、図5は、

    マクロコスモス≠ミクロコスモス

    になるので、図5に描かれた〈私〉はアートマンにはならないのではないでしょうか。


    > 前段が長くなりましたが一番強調しておきたかったのは。。。
    > 引用された箇所を(読んだとは思いますが)私は全然覚えておらず、先の私の投稿はザビビのふくろうさんが引用された箇所の無断引用やインスパイヤ(盗作)ではないということです。
    > まったく独自に投稿した内容が驚くほど似ており、読み返して驚きました。
    >

    それだけ、パニチェさんが永井の考えをよく理解しているということでしょう。
    永井をひたすら批判する立場からすると、そういう人に相手してもらえるのは大変ありがたいです^^

    >>もし、読まれていて、あるいはバージョンTでもいいのですが、関連する問題について私の見解を知りたいと思われる場合は、そうおっしゃってください。
    >>よろしくお願いします。
    >
    > こちらこそ。読み直してザビビのふくろうさんの見解が聞きたい箇所がでてきたらレスさせてもらいますので、その時はよろしくお願いします。
    >
引用返信/返信 削除キー/
■33084 / inTopicNo.2)  「〈仏教3.0〉を哲学する」
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/16(Sat) 09:05:06)
    2023/09/16(Sat) 12:05:20 編集(投稿者)

    No33071に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > 今回は、本題とは少しずれますが、前に言っていた
    > (藤田一照、永井均、山下良道)『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU』(春秋社)
    > について、一応読了しましたので、感想を少し述べたいと思います。

    ありがとうございます。
    私が感想を求めたのであまり興味なく放置していた本を読ませたならすみません。^^;

    > 上に書いたように、読んだのはバージョンUです。
    > なんでかと言うと、Tを注文しようと思っていた本屋に、たまたまバージョンUだけがあったので、悩みましたが、まあいいやと思って買って読んだんです(笑)
    > で、結果としては、べつにUでもよかったように思います。
    > 3人が評価しているという内山興正老師という人の書いた6つの図、自己漫画と呼ばれているんですかね、それについての説明はけっこう詳しくなされたので、大体理解できたと思います。
    > また、山下良道さんも自説を明確に主張されたので、だいたいわかりました。
    > ただ、藤田一照さんは自説の展開が少なかったので、全体像がはっきりとはまだつかめていない感じです。
    > 永井については、それほど新しい情報はなかったと思いますが、哲学素人に説明するからか、わかりやすい説明で、参考にはなりました。
    > とはいえ、正直なところ、二人の僧が哲学をほとんどご存じないようで(なにしろ西田の「に」もなかったように思います)、自分らが瞑想などの実践を通して得られたことを言語化するために、永井哲学が役立つと思われたようですね。
    > ですが、私としては、正直もっといいのがあったんじゃないかと思います。
    > 大きなお世話かもしれませんが、とにかく、哲学的に見た場合は、そんなに深い話ではありませんでしたので、バージョンTのほうはもういいかな、って感じですね。

    丁寧なレスをありがとうございました。

    > あと、目下話題にしていた No32917 に添付した図5について、まさにパニチェさんが言われたように永井が説明していましたので、一応それを引用しておきます。冒頭の「これは」は、に添付した図5について述べているものと受け取っていただくといいです。

    >  これは本当は、この眼の一に〈私〉があるのではなくて、この眼そのものはこの世界の内部に入るんですよね。眼は見ることはできないけど、物や他人と同じように手で触ることができますから。世界の中にある物でもあるわけです。ただ、現に見えているという、そのことだけが〈私〉です。この視覚としての〈眼〉と物体としての「眼」は別のものです。視覚としての〈眼〉はもちろん手で触ることはできませんし、それをさらに見ることもできません。(上掲書、78頁)

    > ところで、このバージョンUも、パニチェさんは読まれたんでしたっけね?

    はい、TもUも読んでいます。引用ありがとうございました。
    ここ少し弁明というか(信じていただけるかどうかはともかく)補足でカキコさせてもらいます。

    「〈仏教3.0〉を哲学する」は私にとってもあまり刺激的な本ではなかったです。共感できたのは自己とか瞑想の主体の捉え方、つまり仏道のスタート地点である「発心する私」の考察が仏教では手ぬるい、あるいはスルーされているというようなところですね。あと〈私〉が真我である、または真我にかする可能性です。これは「〈仏教3.0〉を哲学する」だけではなく、以前に数年間レス交換をした密教の行者であるゴウさんとの議論から感じ取れたことでもあります。

    前段が長くなりましたが一番強調しておきたかったのは。。。
    引用された箇所を(読んだとは思いますが)私は全然覚えておらず、先の私の投稿はザビビのふくろうさんが引用された箇所の無断引用やインスパイヤ(盗作)ではないということです。
    まったく独自に投稿した内容が驚くほど似ており、読み返して驚きました。

    > もし、読まれていて、あるいはバージョンTでもいいのですが、関連する問題について私の見解を知りたいと思われる場合は、そうおっしゃってください。
    > よろしくお願いします。

    こちらこそ。読み直してザビビのふくろうさんの見解が聞きたい箇所がでてきたらレスさせてもらいますので、その時はよろしくお願いします。

引用返信/返信 削除キー/
■33083 / inTopicNo.3)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/16(Sat) 08:40:59)
    2023/09/16(Sat) 09:39:28 編集(投稿者)

    おはようございます、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。
    返信遅くなりました。

    > うーむ。
    > 「時間差でもってわかる」ってのが、いまいちわかんないんですよね…。
    > どうやってわかるのか?
    > また、そもそもそれは〈私〉なのか?〈私〉だと言えるのか?

    他の誰でもなく私が眠っていたことが分かるから〈私〉もあったのではないかってことなんですけど、「私がある」もしくは「私があった」ところに「〈私〉もあった」と考える方が辻褄は合います。
    逆にザビビのふくろうさんは、睡眠や意識がなくなっていたのが自分であったと、どのような根拠でもって分かりますか?それとも「私はなかった」ので、「私が意識をなくしていたのは分からない」という感覚でしょうか?

    > 例えば、夢遊病の人が夜、眠ったままの状態で徘徊し、目が覚めたときに全くその記憶がないとします。
    > このとき、徘徊したのが〈私〉ってわかるのでしょうか?
    > あるいは、ジギルとハイドのような多重人格の人が、主人格が意識を失って別人格にとってかわられているときに行った殺人を全く覚えていないとすると、どうでしょう?
    > 意識が戻ったとき、別人格の自分も〈私わ〉とわかるんでしょうか?どうやって?

    夢遊病や解離性同一障害を私は実体験してないので、これは想像ですが。。。
    他者の〈私〉、(本来は他者の〈私〉なんてことはありえないんですが)を>私<と表記するとして、別人格の〈私〉は>私<なんでしょうね。
    但し、解離性同一障害には治療への協力を惜しまない全人格を把握している内的自己救済者(Inner Self Helper)という人格もあるようで、別人格の〈私〉を他者の>私<と同一視していいのかはよく分かりません。

    > もう少し原理的に考えます。あ
    > 〈私〉とは、ふくろうの理解では、絶対の「〈今〉,〈此処〉に,〈存在〉する」〈私〉であると思います(違っていたらご指摘ください)。

    そうです、異論ありません。

    > そしてこの〈私〉であれば、直知できるがゆえに不可疑な存在として確信できるのはわかりますが、覚醒した〈私〉にとって意識のない状態だった私は、過去存在であって既に直知対象ではありえず、したがってデカルト的懐疑をかけられたら疑惑を払拭することは不可能なのでは?と思います。
    > 実際、多重人格者にとって、別人格の自分はむしろ他人なんじゃないかと思うんですけどね。

    解離性同一障害については同意します。
    確かに「〈私〉があったことが分かる」ってのは上記の定義からすれば矛盾してますね。
    ただ「私があった」から「私が眠っていた」ことが分かるわけで、〈私〉はなかったが私だけがあったてのもしっくりきません。
    私と〈私〉は不分離ですからね。

    > まあ、ショーペンハウアーは独我論者ではありませんしね。
    > ですが、〈私〉はどうでしょう?
    > 「そこから世界が開けてくる唯一の原点こそが、すなわち〈私〉だ」(『〈魂〉に対する態度』187頁)
    > この〈私〉の規定も、誰にでもあてはまりますよね。
    > この規定が永井均ただ一人に当てはまらねばならない必然性などありません。
    > これは永井も認めていたと思いますが、それは偶然です。
    > つまり、世界開闢の原点は誰でもありえるということです。

    そうです。

    > これは私の推測ですが、これについてもパニチェさんは肯定すると同時に、いわば言語化の限界として、一般化されてしまうがゆえで、本来語り得ぬものを語ることによる避けがたいズレである、と言われるかもしれません。

    そうです。

    > ですが、問題は、じゃあ、なぜ語り得ぬものを語るのか?ということです。
    > 本来言語を超越しているもの――例えば神――を絵に描いたり像を作ることはまさに「偶像化」であり、『論考』でも「語り得ぬことについては沈黙しなければならない」と言われています。
    > そして「独我論が言おうとしていることは正しいが、それは語られ得ず、示されるだけである(T:5.62)」とも言われています。
    > 独我論が言おうとしていること、すなわち「世界=私の世界(生)=私」ということは、語られ得ないのであるから、絵にも描けないわけです。
    > そしてウィトゲンシュタイン自身は、
    > 「T:5.62 世界が私の世界であることは、この言語(私だけが理解する言語)の限界が、私の世界の限界を意味することに示されている。」
    > と述べています。
    > であるにもかかわらず、なぜ、あえて、永井は絵を描こうとするのか?

    禅宗で言うところの公案とか禅問答(禅宗の僧が悟りを開くためにおこなう問いと答えのやり取り)みたいなものですね。
    〈私〉を理解している人には同類であることが分かるし、〈私〉について書かれた文章は自分事として読み替えることができます。
    永井氏の〈私〉は読者からすれば、あくまでも>私<ですからね。

    > この疑問についは、前回のレスで、パニチェさんは自分の考えをきちんと答えてくれました。
    > これは非常に興味深い回答だったので、下であらためて取り上げたいと思います。

    了解しました。

    >>以下、まどろっこしい返信になりますが、自分なりに正確に返信させてもらうためにタラタラとカキコしてみます。
    >>形象化というのを「形としてはっきり現われていないものを、一定の方法と媒体によって明確な形として表現すること。(コトバンク:日本国語大辞典)」とするなら、完全同意ではないですが条件付きで同意できます。
    >>まず図6つまりマッハ的光景の側面図なんてものはありえないです。
    >>それは永井氏も理解はしているだろう、と、想像します。

    > 上に述べたように、一応パニチェさんの意図は理解したと思います。
    > 要は、語り得ぬものを語ってしまっているわけだから、真の独我論モデルではありえないことは、永井も承知の上だろうということですよね。
    > しかし、問題は、永井が、『論考』の独我論は、こう理解されざるを得ない、としているところだと思います。
    > つまり、あくまで『論考』の独我論の解釈としては、永井は図5を正しいモデルであると考えているということ。

    そうですね。永井氏は独我論と〈私〉を前提とする独我論を「独在論」という表記で区別しています。何れにしても変質(頽落)してしまうのは同じなんですが。。。

    >  「『論考』の独我論は一般的自我(誰もが主体としてのあり方においてはそれであるような自我)の独我論にすぎない。少なくとも、そう読まれざるをえない。」(『ウィトゲンシュタイン入門』83頁)
    > 図5としてモデル化された独我論が「一般的自我の独我論」ですよね。
    > モデル化されたからこそ〈私〉は「一般的自我」にいわば頽落しちゃったということでしょ?

    そうですね。

    > でも、これ、明らかにおかしいでしょう。
    > だって、永井の言う「一般的自我の独我論」になったのは、永井がウィトゲンシュタインの言葉に反して勝手に絵を描いた=モデル化したからですよね。
    > 「少なくとも、そう読まれざるをえない。」などと断定してますが、それは読解力の問題にすぎません。と私は思います(笑)

    なるほど。

    > 「T:5.62 世界が私の世界であることは、この言語(私だけが理解する言語)の限界が、私の世界の限界を意味することに示されている。」
    > ここで「示されている」と述べられている独我論を勝手にモデル化して解釈してしまったがゆえに、永井の言う「一般的自我の独我論」、いわゆる「語られた独我論」ってことになってしまっているわけです。
    > つまり、本来『論考』が否定している独我論を、永井は『論考』の独我論であると主張しているってことです。というのが、私の見解です^^

    その可能性には同意します。
    私からすればウィトゲンシュタインに〈私〉の同類者と嗅ぎとれるのは『「個人的経験」および「感覚与件」について』や『哲学探究』からなんですね。
    少なくとも写像理論を前提とした『論考』では嗅ぎとれない。おそらく永井氏も同じなんだと思います。
    写像理論自体が語りえる、つまり一般化された言語考察ですよね?『論考』での「語りえないもの」とは写像としての言語の網の目をすり抜ける対象として捉えていたように(永井氏のウィトゲンシュタイン論を)私は解釈しています。


    > **********************


    >>では、何故「図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている」と述べ、ウィトゲンシュタインの眼の図5を元にして永井氏の独在論として形象化したのか?
    >>これは読者に〈私〉の存在を伝える(正確には伝達できないが)手段として用いた図であるってことだと思います。


    > 実情は、繰り返しますが、そのことによって『論考』の言う、『示される独我論』がすっかり隠蔽されてしまった、ということだと私は思います。

    >>客体化した図に表すことができないのが〈私〉です。
    >>「形としてはっきり現われていないものを、一定の方法(ウィトゲンシュタインの独我論)と媒体(眼の図)によって明確な形として表現」したのではないか?
    >>だから、本来は永井氏も「〈私〉はけっしてこのような形をしていない」というべき図5だと思います。
    >>まあ、これは永井氏に確認してみないと分からないことですが。。。

    > 上に二つのパラグラフとして挙げたパニチェさんの見解は、私にはきわめて興味深いものでした。
    > というのは、これは、『ウィトゲンシュタイン入門』(71-73頁)に永井が取り上げた、いわゆる『キャロルのパラドックス』の話と、非常によく似た構造が見て取られ得ると思われたからです。
    > 詳しい話は同書を参照していただくことにして省略しますが、
    > この話の要旨をむちゃくちゃ乱暴にまとめると、アキレスが、カメに推論が本当に正しいということを納得させるために、カメの要請で推論を正当化する論理法則を推論の前提として書き入れたことによって、無限背進に陥ってしまうって話です。
    > この話から得られる教訓を、目下の問題と類比して述べますと、
    > 本来、語り得ぬ論理法則(仮に「メタ事実」とします)を語ってしまったがゆえに無限背進に陥った、ってことになります。
    > これは、「私は私の世界である」という語り得ぬこと(メタ事実)を、言語化(モデル化)してしまったがゆえに「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に陥る永井ときわめて似ています。
    > つまり、
    > 「これは読者に〈私〉の存在を伝える(正確には伝達できないが)手段として用いた図であるってことだと思います。」
    > という解釈の通りだとすると、次のような同型ともとれる関係が二つの話には見出せると思うのです。
    > 「これはアキレスがカメに論理法則の存在を伝える(正確には伝達できないが)手段として用いた命題であるってことだと思います。」

    > アキレス∽永井
    > カメ  ∽ 読者

    > つまり、アキレスがカメを納得させるために、本来語り得ない論理法則を語ってしまって無限背進に陥ったように、
    > 永井が読者に説明するために、本来語り得ない独我論を語って「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に陥ってしまったということ。

    その可能性はあると思います。
    一方で繰り返しになりますが『論考』には〈私〉に関する公案あるいは禅問答めいた文章が記されてないために一般的な独我論としたように思います

    > もちろん、ウィトゲンシュタインは、論理法則は語り得ないということをわかっていました。

    ここもう少し詳しく教えて下さい。
    論理法則が語りえないということは具体的にはどういうことでしょうか?
    一般化されなければ論理法則は法則になりえませんよね?

    > >>>>****************

    > 〈私〉がモデルではなく、「〈私〉と世界」をどういうモデルで考えているのでしょう?という質問でした。

    了解しました。

    > で、ビッグバン宇宙論の特異点と宇宙ということですね。

    そうです。あくまで空間的な側面しとして特異点ってことです。

    > これに関しても、ここまで言ってきたように、私として疑問なのは、やはり語り得ないものを語り得るものをモデル(宇宙論)にして説明すること、ということになりますね。
    > 実際、この宇宙開闢には、時間が含まれるんじゃないでしょうか。

    はい、物理の特異点は時空の特異点ですから時間も含まれます。

    > だから、門外漢でもイメージしやすいですよね。
    > そして、いや、「世界開闢の特異点としての〈私〉」の「開闢」には時間の意味はなく、空間の開けしか含意されていない、ということなら、やはり、図5のようなモデルでしか理解できないように思います。

    ここも繰り返しになるんですが〈私〉を理解し、ビッグバン宇宙論を一般教養レベルで知っている人は「そうだ!」と共感できると思います。
    だから永井氏も期せずして?たまたま?私と同じ表現「特異点」を使ったのだと思います。

    > ***********************
    > ご存知かもしれませんが、参考までに、一つ補足を。
    > 「キャロルのパラドックス」についての考察は、いろいろありますが、
    > 目下の問題と深く関わるであろう観点から詳細に考察したものとして、次があります。
    > 『相対主義の極北』(入不二基義)(勁草書房) (文庫がちくま文庫かなんかにあるかも)

    > これは、入不二基義さんだけあって、私見なんですが、実は、「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」を肯定することにつながるような、『キャロルのパラドックス』についての詳しい考察があって、パニチェさんにとっても面白いかも、と思います。
    > ただ、論理式が出てくると読む気が失せる、というタイプの人には向かないと思いますので、そこはご注意ください。
    > 伺ったことなかったですが、パニチェさんは、どうでしょう?
    > 『論考』でも、論理学がテーマのところは大丈夫ですか?

    論理学関連本は何冊かは読みましたが理解はイマイチです。
    よって『論考』の論理学がテーマのところは正確に理解できているとは思えません。^^;
    ちなみに先の『キャロルのパラドックス』の話は理解しているつもりです。

引用返信/返信 削除キー/
■33071 / inTopicNo.4)  パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/15(Fri) 20:58:20)
    パニチェさん、こんばんは。
    今回は、本題とは少しずれますが、前に言っていた

    (藤田一照、永井均、山下良道)『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU』(春秋社)

    について、一応読了しましたので、感想を少し述べたいと思います。

    上に書いたように、読んだのはバージョンUです。
    なんでかと言うと、Tを注文しようと思っていた本屋に、たまたまバージョンUだけがあったので、悩みましたが、まあいいやと思って買って読んだんです(笑)
    で、結果としては、べつにUでもよかったように思います。
    3人が評価しているという内山興正老師という人の書いた6つの図、自己漫画と呼ばれているんですかね、それについての説明はけっこう詳しくなされたので、大体理解できたと思います。
    また、山下良道さんも自説を明確に主張されたので、だいたいわかりました。
    ただ、藤田一照さんは自説の展開が少なかったので、全体像がはっきりとはまだつかめていない感じです。
    永井については、それほど新しい情報はなかったと思いますが、哲学素人に説明するからか、わかりやすい説明で、参考にはなりました。
    とはいえ、正直なところ、二人の僧が哲学をほとんどご存じないようで(なにしろ西田の「に」もなかったように思います)、自分らが瞑想などの実践を通して得られたことを言語化するために、永井哲学が役立つと思われたようですね。
    ですが、私としては、正直もっといいのがあったんじゃないかと思います。
    大きなお世話かもしれませんが、とにかく、哲学的に見た場合は、そんなに深い話ではありませんでしたので、バージョンTのほうはもういいかな、って感じですね。

    あと、目下話題にしていた No32917 に添付した図5について、まさにパニチェさんが言われたように永井が説明していましたので、一応それを引用しておきます。冒頭の「これは」は、に添付した図5について述べているものと受け取っていただくといいです。

     これは本当は、この眼の一に〈私〉があるのではなくて、この眼そのものはこの世界の内部に入るんですよね。眼は見ることはできないけど、物や他人と同じように手で触ることができますから。世界の中にある物でもあるわけです。ただ、現に見えているという、そのことだけが〈私〉です。この視覚としての〈眼〉と物体としての「眼」は別のものです。視覚としての〈眼〉はもちろん手で触ることはできませんし、それをさらに見ることもできません。(上掲書、78頁)

    ところで、このバージョンUも、パニチェさんは読まれたんでしたっけね?
    もし、読まれていて、あるいはバージョンTでもいいのですが、関連する問題について私の見解を知りたいと思われる場合は、そうおっしゃってください。

    よろしくお願いします。

引用返信/返信 削除キー/
■33008 / inTopicNo.5)  マジモンさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/11(Mon) 21:28:09)
    マジモンさんへ。こんばんは。返信をありがとうございます。

    No33004
    > ◆ 人間が成し遂げていない事

    > ・ 別の宇宙の発見
    > ・ 人工宇宙
    > ・ テレポーテーション

    > 自然に帰るというよりも、世界と一体化(時間は除く)かなと思います。

    マジモンさんのご認識は了解しました^^

    多分ですが、私と同じようなことを仰っているように感じますね。世界と一体化したラプラスの悪魔・アイは、現在の人間の様に分別判断するのではなく、何も分別判断しない、できないのではないでしょうか?という事ですね。

    ところで、前レスの「自由意志に関しては、地獄のような展開になっているよね。」には、悪気等はなく、不覚にも笑ってしまいました。(^^♪
引用返信/返信 削除キー/
■33004 / inTopicNo.6)  Re[29]: ラプラスの悪魔・アイ
□投稿者/ マジカルモンキー -(2023/09/11(Mon) 21:08:30)
    No32969に返信(時さんの記事)
    > 思考実験です。
    >
    > 仮に、完璧にこの世の中の因果関係等を全てを熟知する、ラプラスの悪魔・アイというAIを搭載した超量子コンピューターロボットが作られたとします。これを野外に設置したとして、人々がいつでも何か聞きたいことがあれば質問できるとします。人々の多くの問いや願いに対して、ラプラスの悪魔・アイは、どのように反応するでしょうか。
    >
    > 多分・・何も話さず、その場で朽ち果てるその時を待つだけでしょう。
    >
    > 一体全体、人はどこに向かおうとしてるのでしょうか。
    > 裏読みすると、進歩という無自覚な夢を見つつ、人は自然に帰ろうとしているのかも知れません。

    時さん、こんばんわ

    ◆ 人間が成し遂げていない事

    ・ 別の宇宙の発見
    ・ 人工宇宙
    ・ テレポーテーション

    自然に帰るというよりも、世界と一体化(時間は除く)かなと思います。
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■33003 / inTopicNo.7)  自由意志
□投稿者/ マジカルモンキー -(2023/09/11(Mon) 20:58:33)
    自由意志に関しては、地獄のような展開になっているよね。
引用返信/返信 削除キー/
■33000 / inTopicNo.8)  Re[30]: 自由意志
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/09/11(Mon) 18:25:35)
    あ、■32983の「アフォーサンス」、間違っちゃいました。「アフォーダンス」ね。

    わたし、(自称)メルポン派だから、〈私はetre au monde〉って見るのね。

    わかりやすく言うと、私は、世界内において、〈するもの〉であると同時に〈されるもの〉でもある、っていう見方。

引用返信/返信 削除キー/
■32983 / inTopicNo.9)  Re[29]: 自由意志
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/09/10(Sun) 19:07:40)
    ちょっと、わたしの言っちゃうね。

    そもそも、「自由意志」を物語るときに、「自由」とか「意志」っていうの、どういうのかを、語ってもらいたいんだけど、ま、これは”普通”問題にはならないみたいだから、ま、これはひとまず横に置いといて。

    「自由意志」と「自己の意志」って、同じ「意志」なのかしら?

    添付したのを使って、ちょっとお喋りするね。

    a,b,cは、箪笥の画像を、d,e,fは、ドアの画像ね。
    箪笥にせよドアにせよ、それを「開けよう」とする、その行動をしようとするとき、そこに「開けよう」とするっていう「自己の意志」っていうの働くよね。

    でもね、a,b,c,d,e,fに赤の矢印をつけたんだけど、この矢印は、それぞれのドアノブや箪笥が指示してるのよね、私がその箪笥やドアを開けるために、「このようにしてあけなさい」、って。

    これって、「自由意志」? たとえそこに「自己の意識」はあるとしても。

    「自由意志」、ちょっと「アフォーサンス」を想い出す。

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■32980 / inTopicNo.10)  パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/10(Sun) 18:18:17)
    2023/09/11(Mon) 21:49:01 編集(投稿者)
    2023/09/11(Mon) 21:48:46 編集(投稿者)
    パニチェさん、こんにちは。
    レスをありがとうございます。

    No32929に返信(パニチェさんの記事)
    > 2023/09/09(Sat) 05:33:54 編集(投稿者)
    >
    > こんばんは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。
    >
    > ■No32917に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >
    >>何か、ややこしくなってきたな(笑)
    >>とは言え、重要なので丁寧に考えますね。
    >
    > ありがとうございます。私も必要だと思うところを返信させてもらいますが興味がないところはスルーして下さい。
    > また抜け落ちている返信箇所があれば遠慮なく指摘して下さい。
    >
    >>大事なんで確認しますね。
    >> 〈私〉は五感で捉えられない(知覚できない) → 〈私〉は知覚世界内に存在しない
    >>∽
    >> 眼は視覚で捉えられない → 眼は視野(視覚世界)内に存在しない
    >>このような類比関係が成り立つだろうということでいいですかね?
    >
    > はい。
    >
    >>ふむふむ。
    >>じゃあ、眠っても、意識を失っても〈私〉はあるってことですか?
    >>それともう一つ、座禅あるいは瞑想により、無心の状態、すなわち、いかなる思考も表象も消え去った状態になったとき、〈私〉はどうなるのでしょうか?
    >>これについても、「分からない」ってことでしょうか?
    >
    > 確証があるわけではないですが、おそらく。。。
    > 睡眠も意識を失っている状態も無心の状態も〈私〉がある(厳密には〈私〉があった)ということは、時間差でもって分かるのだと思います。
    > 何故なら、覚醒したり、意識が戻ったり、無心の状態から通常の状態に戻った後に、眠っていたのも、意識を失っていたのも、無心の状態にあったのも他の誰でもない〈私〉であったということが分かるからです。
    >

    うーむ。
    「時間差でもってわかる」ってのが、いまいちわかんないんですよね…。
    どうやってわかるのか?
    また、そもそもそれは〈私〉なのか?〈私〉だと言えるのか?

    例えば、夢遊病の人が夜、眠ったままの状態で徘徊し、目が覚めたときに全くその記憶がないとします。
    このとき、徘徊したのが〈私〉ってわかるのでしょうか?
    あるいは、ジギルとハイドのような多重人格の人が、主人格が意識を失って別人格にとってかわられているときに行った殺人を全く覚えていないとすると、どうでしょう?
    意識が戻ったとき、別人格の自分も〈私〉とわかるんでしょうか?どうやって?

    もう少し原理的に考えます。
    〈私〉とは、ふくろうの理解では、絶対の「〈今〉,〈此処〉に,〈存在〉する」〈私〉であると思います(違っていたらご指摘ください)。
    そしてこの〈私〉であれば、直知できるがゆえに不可疑な存在として確信できるのはわかりますが、覚醒した〈私〉にとって意識のない状態だった私は、過去存在であって既に直知対象ではありえず、したがってデカルト的懐疑をかけられたら疑惑を払拭することは不可能なのでは?と思います。
    実際、多重人格者にとって、別人格の自分はむしろ他人なんじゃないかと思うんですけどね。


    > >>永井氏もウィトゲンシュタインも眼は視野内にはないとしているという点は同意です。
    >>そうですね。
    >>ウィトゲンシュタインは、これを「T:5.631 思考し表象する主体は存在しない」の説明するモデルとしていると思います。
    >>しかし、ウィトゲンシュタインは、けして思考し表象する主体が世界の限界に位置する、とは述べていません。
    >>「思考し表象する主体」を独我論的主体である〈私〉とみなし、それが世界の限界に位置するものであるというのは、いわば永井の勝手な解釈にすぎないと私は思います。
    >
    > 永井氏がウィトゲンシュタインの眼の図を利用し、永井氏の独在論つまり〈私〉を形象化したということには同意します。
    > 詳しいレスは後にまとめます。
    >
    >>実は、面白いことに、この永井とよく似たことは、ショーペンハウアーが言ってるんですよ。ハッカーからの孫引きになりますが、以前もたしか引用した文章を再掲します。
    >>「先験的自我は世界の存在のための前提である。このように考えられた認識主観は,単にその感性的直観にすぎない時間と空間の外に存在する。経験の形式と範疇の源泉として,それは「あらゆる経験の前提」である。それは「世界を支えるものであり,現象しているすべてのものにとり,…あまねくゆきわたりつねに前提とされる制約である。」自我は「いっさいを見るがおのれは見えない眼」であり,自我は「全存在の中心」である。」(P.M.Sハッカー『洞察と幻想』59頁)
    >>ね?似てると思いませんか?
    >
    > 似てますね。ただショーペンハウアーが述べているのは万人に共通するところの自我や認識主観のことだと思います。
    >

    まあ、ショーペンハウアーは独我論者ではありませんしね。
    ですが、〈私〉はどうでしょう?
    「そこから世界が開けてくる唯一の原点こそが、すなわち〈私〉だ」(『〈魂〉に対する態度』187頁)
    この〈私〉の規定も、誰にでもあてはまりますよね。
    この規定が永井均ただ一人に当てはまらねばならない必然性などありません。
    これは永井も認めていたと思いますが、それは偶然です。
    つまり、世界開闢の原点は誰でもありえるということです。

    これは私の推測ですが、これについてもパニチェさんは肯定すると同時に、いわば言語化の限界として、一般化されてしまうがゆえで、本来語り得ぬものを語ることによる避けがたいズレである、と言われるかもしれません。
    ですが、問題は、じゃあ、なぜ語り得ぬものを語るのか?ということです。
    本来言語を超越しているもの――例えば神――を絵に描いたり像を作ることはまさに「偶像化」であり、『論考』でも「語り得ぬことについては沈黙しなければならない」と言われています。
    そして「独我論が言おうとしていることは正しいが、それは語られ得ず、示されるだけである(T:5.62)」とも言われています。
    独我論が言おうとしていること、すなわち「世界=私の世界(生)=私」ということは、語られ得ないのであるから、絵にも描けないわけです。
    そしてウィトゲンシュタイン自身は、
    「T:5.62 世界が私の世界であることは、この言語(私だけが理解する言語)の限界が、私の世界の限界を意味することに示されている。」
    と述べています。
    であるにもかかわらず、なぜ、あえて、永井は絵を描こうとするのか?
    この疑問についは、前回のレスで、パニチェさんは自分の考えをきちんと答えてくれました。
    これは非常に興味深い回答だったので、下であらためて取り上げたいと思います。



    > >>ちなみにウィトゲンシュタインが「視野はけっしてこのような形をしていない(5.6331)」は二つの解釈ができると考えています。
    > >>一つは眼が視野の中にあることの否定、もう一つは視野はマッハ的光景(永井図6)をしてるので、このような客体として描かれた図は視野ではありえないという否定です。
    >>実は、今回、一番驚いたのが、そして同時に腑に落ちない気がしたのが、ここ、特に後者だったんです。
    >>というのも、私、前に書いたかどうかわからないんですが、私の永井批判の根本がこのことだからです。再掲しますが、永井はこう述べています。
    >>「視野はもちろん図6のような形をしている。そして図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている、と言ってよいはずである。」
    >
    >>図6の側面図など描き得ないというのが、写像理論=picture theoryの根本思想なのに、図5が『論考』の独我論の正しい形象化だと言うなんて、論外であると私は思うんですよ。
    >>根拠を、少し詳しく説明します。
    >>「思考に限界を引くには、我々はその限界の両側を思考できなければならない(したがって、思考不可能なことを思考できなければならないことになる)」(『論考』序文より)
    >>写像理論によれば、思考することは絵(写生画)を描くこと(描画・モデル化)に等しいので、上の文は次のように解釈できるはずです。
    >>「描画(写像・モデル化)に限界を引くには、我々はその限界の両側の絵を描けなければならない(したがって、描画不可能なことを絵に描くことができなければならないことになる)」(『論考』序文より)
    >>もちろん、そんなことは不可能だから、言語において限界を引く、ということです。
    >
    >>にもかかわらず、永井の図5は、まさに思考し得ないはずの思考の限界=境界とその両側、そして思考し得ぬ独我論的私までを図の中に描いてしまっているわけです。
    >>もし、この図5が独我論の正しい形象化(モデル化)なのであれば、独我論は語り得る(絵に描き得る)ことになってしまいます。
    >>つまり、思考し得ぬことが思考し得ること、すなわち不可能なことが可能になってしまうわけですね。
    >>しかし、言うまでもなくそれは不可能。
    >>よって、図5は『論考』の独我論の正しい形象化ではありえない。
    >
    >>というのが私の見解です。
    >>**************
    >>【編集追加】
    >>図6あるいはマッハ的光景は、私(自分)の視野を正しく描いたものである。
    >>もし図5もまた私の視野を正しく描いたものであるのなら、私は自分の視野の内と外の両側をともに眺め得る視点に立つことが可能であることになる。
    >>だが、そんなことは不可能である。
    >>******************
    >>腑に落ちないのは、もしパニチェさんの考えが私と同じようなものなのであれば、
    >>永井の思想に共感することなどありえないはず、と思われることなんですね。
    >>ところが実際には、確かによく似たことを言ってらっしゃるようにも思えますしね。
    >>このへん、どう考えていらっしゃるのでしょうか?
    >
    >>ちょっと調子に乗って長々少し細かいことを述べたので、いちいちのコメントは難しいかもしれませんし、少なくとも一つだけ、質問に答えていただきたく思います。
    >>質問:「視野はもちろん図6のような形をしている。そして図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている、と言ってよいはずである。」
    >>という永井の発言に、パニチェさんは同意されますか、されませんか?
    >
    > 以下、まどろっこしい返信になりますが、自分なりに正確に返信させてもらうためにタラタラとカキコしてみます。
    >
    > 形象化というのを「形としてはっきり現われていないものを、一定の方法と媒体によって明確な形として表現すること。(コトバンク:日本国語大辞典)」とするなら、完全同意ではないですが条件付きで同意できます。
    >
    > まず図6つまりマッハ的光景の側面図なんてものはありえないです。
    > それは永井氏も理解はしているだろう、と、想像します。
    >

    上に述べたように、一応パニチェさんの意図は理解したと思います。
    要は、語り得ぬものを語ってしまっているわけだから、真の独我論モデルではありえないことは、永井も承知の上だろうということですよね。
    しかし、問題は、永井が、『論考』の独我論は、こう理解されざるを得ない、としているところだと思います。
    つまり、あくまで『論考』の独我論の解釈としては、永井は図5を正しいモデルであると考えているということ。

     「『論考』の独我論は一般的自我(誰もが主体としてのあり方においてはそれであるような自我)の独我論にすぎない。少なくとも、そう読まれざるをえない。」(『ウィトゲンシュタイン入門』83頁)

    図5としてモデル化された独我論が「一般的自我の独我論」ですよね。
    モデル化されたからこそ〈私〉は「一般的自我」にいわば頽落しちゃったということでしょ?
    でも、これ、明らかにおかしいでしょう。
    だって、永井の言う「一般的自我の独我論」になったのは、永井がウィトゲンシュタインの言葉に反して勝手に絵を描いた=モデル化したからですよね。
    「少なくとも、そう読まれざるをえない。」などと断定してますが、それは読解力の問題にすぎません。と私は思います(笑)

    「T:5.62 世界が私の世界であることは、この言語(私だけが理解する言語)の限界が、私の世界の限界を意味することに示されている。」

    ここで「示されている」と述べられている独我論を勝手にモデル化して解釈してしまったがゆえに、永井の言う「一般的自我の独我論」、いわゆる「語られた独我論」ってことになってしまっているわけです。
    つまり、本来『論考』が否定している独我論を、永井は『論考』の独我論であると主張しているってことです。というのが、私の見解です^^
    **********************


    > では、何故「図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている」と述べ、ウィトゲンシュタインの眼の図5を元にして永井氏の独在論として形象化したのか?
    > これは読者に〈私〉の存在を伝える(正確には伝達できないが)手段として用いた図であるってことだと思います。
    >

    実情は、繰り返しますが、そのことによって『論考』の言う、『示される独我論』がすっかり隠蔽されてしまった、ということだと私は思います。


    > 客体化した図に表すことができないのが〈私〉です。
    > 「形としてはっきり現われていないものを、一定の方法(ウィトゲンシュタインの独我論)と媒体(眼の図)によって明確な形として表現」したのではないか?
    > だから、本来は永井氏も「〈私〉はけっしてこのような形をしていない」というべき図5だと思います。
    > まあ、これは永井氏に確認してみないと分からないことですが。。。
    >

    上に二つのパラグラフとして挙げたパニチェさんの見解は、私にはきわめて興味深いものでした。
    というのは、これは、『ウィトゲンシュタイン入門』(71-73頁)に永井が取り上げた、いわゆる『キャロルのパラドックス』の話と、非常によく似た構造が見て取られ得ると思われたからです。
    詳しい話は同書を参照していただくことにして省略しますが、
    この話の要旨をむちゃくちゃ乱暴にまとめると、アキレスが、カメに推論が本当に正しいということを納得させるために、カメの要請で推論を正当化する論理法則を推論の前提として書き入れたことによって、無限背進に陥ってしまうって話です。
    この話から得られる教訓を、目下の問題と類比して述べますと、
    本来、語り得ぬ論理法則(仮に「メタ事実」とします)を語ってしまったがゆえに無限背進に陥った、ってことになります。
    これは、「私は私の世界である」という語り得ぬこと(メタ事実)を、言語化(モデル化)してしまったがゆえに「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に陥る永井ときわめて似ています。
    つまり、
    「これは読者に〈私〉の存在を伝える(正確には伝達できないが)手段として用いた図であるってことだと思います。」
    という解釈の通りだとすると、次のような同型ともとれる関係が二つの話には見出せると思うのです。
    「これはアキレスがカメに論理法則の存在を伝える(正確には伝達できないが)手段として用いた命題であるってことだと思います。」


    アキレス∽永井
    カメ  ∽ 読者

    つまり、アキレスがカメを納得させるために、本来語り得ない論理法則を語ってしまって無限背進に陥ったように、
    永井が読者に説明するために、本来語り得ない独我論を語って「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に陥ってしまったということ。

    もちろん、ウィトゲンシュタインは、論理法則は語り得ないということをわかっていました。
    それで、推論の妥当性を、構成する命題自身が示す記号法を『論考』において提示したわけです(詳細は省略します)。

    このことをわかっていたはずの永井が、語り得ない独我論をウィトゲンシュタインに従わずに語ってしまい、さらに開き直って、ウィトゲンシュタインの真意は自分の独我論と同じく、まさにこの「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」においてこそ示される、みたいなことを言ってるわけです。

    >>>>****************
    > >>開闢というのは時間的な開闢ではなく空間的な開闢という意味です。
    > >>そこから世界が開けているという意味での開闢です。
    >>なるほど。
    >>では、<私>を「世界開闢の特異点」と言うとき、いったいどういうモデルを念頭においているんでしょうか?
    >>永井の図5のようなモデルでしょうか?
    >
    > すみません、ここちょっと言葉尻を足らえての返信になりますがご容赦下さい。
    >
    全然大丈夫です。言葉足らずでしたね。

    > 〈私〉はモデルではないんですね。そのまま、今ここにあるままの事実なんです。

    〈私〉がモデルではなく、「〈私〉と世界」をどういうモデルで考えているのでしょう?という質問でした。
    で、ビッグバン宇宙論の特異点と宇宙ということですね。


    > で、形象化すれば図5にはなりますが、そもそも客体化した時点で万人に共通する自我や認識主観になり下がって(変質して)元々の〈私〉ではなくなります。
    > これは言語化による「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」と同じです。
    >
    > ちなみに私が〈私〉を「世界開闢の特異点」という表現を用いたのは、ビッグバン宇宙論に登場する特異点と多々共通するところがあったからです。
    >
    > 世界のどこにもない唯一無二であり、世界の開闢地点であり、物理の特異点は「大きさがゼロで密度無限大のため物理法則が通用しない点」であるのに対して。〈私〉の特異点はNo32693 で投稿した通り「科学(唯物論)の対象になりえない点」であること等々から特異点という表現を用いました。
    >

    これに関しても、ここまで言ってきたように、私として疑問なのは、やはり語り得ないものを語り得るものをモデル(宇宙論)にして説明すること、ということになりますね。
    実際、この宇宙開闢には、時間が含まれるんじゃないでしょうか。
    だから、門外漢でもイメージしやすいですよね。
    そして、いや、「世界開闢の特異点としての〈私〉」の「開闢」には時間の意味はなく、空間の開けしか含意されていない、ということなら、やはり、図5のようなモデルでしか理解できないように思います。

    ***********************
    ご存知かもしれませんが、参考までに、一つ補足を。
    「キャロルのパラドックス」についての考察は、いろいろありますが、
    目下の問題と深く関わるであろう観点から詳細に考察したものとして、次があります。
    『相対主義の極北』(入不二基義)(勁草書房) (文庫がちくま文庫かなんかにあるかも)

    これは、入不二基義さんだけあって、私見なんですが、実は、「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」を肯定することにつながるような、『キャロルのパラドックス』についての詳しい考察があって、パニチェさんにとっても面白いかも、と思います。
    ただ、論理式が出てくると読む気が失せる、というタイプの人には向かないと思いますので、そこはご注意ください。
    伺ったことなかったですが、パニチェさんは、どうでしょう?
    『論考』でも、論理学がテーマのところは大丈夫ですか?


引用返信/返信 削除キー/
■32970 / inTopicNo.11)  Re[28]: 自由意志
□投稿者/ 時 -(2023/09/10(Sun) 13:47:18)
    2023/09/10(Sun) 13:59:08 編集(投稿者)

    田秋さんへ。こんにちは。レスをありがとうございます。

    No32966に返信(田秋さんの記事)
    > 自由意志があるかないか、本当の所はわかっていなようですね。で、ボクが考えるのはどちらの考え方の方が自分にとって楽で楽しいか?です。

    自由意志ついて哲学の世界でも、学問的に普遍的な”本当のところ”はまだ出ていないようですね。

    田秋さんの判断基準が「どちらの考え方の方が自分にとって楽で楽しいか?」は理解できているつもりです。そして私の場合には、それが「どの考え方が矛盾なく筋が通るか?」あるいは「楽な状態か?」なのですね。自身の考えの中で無矛盾な考え方に行きつけば、必然的に精神的に楽な状態になりますので、私はそのような考え方になっているという事でしょう。

    > 先の書き込みでも触れた漢検挑戦ですが、一応3級から始めて最終的には1級を目標としました。漢検の試験は年3回あります。3級、2級、準1級で1年経ちました。準1級で出題範囲が約3000字、1級は約6000字になります。このギャップはかなりのもので、1級の勉強を始める前に受ける用意に3年はかかるなあと思いました。

    > 当時はまだオーケストラに在籍中で親しい先輩も漢検に挑戦していました(この先輩に感化されたのもボクの漢検受験の動機の一つです)。1級の勉強を始めて1年半くらいたった頃、この先輩から「一緒に受けてみないか」と言われ自信はありませんでしたが受けてみることにしました。漢検の試験は200点満点で8割(160点)が合格ラインだったのですが、その時は142点で不合格でした。

    田秋さんと私の考え方の相違を理解したうえで、書いてみたいと思います。

    >この先輩に感化されたのもボクの漢検受験の動機の一つです
    >「一緒に受けてみないか」と言われ自信はありませんでしたが受けてみることにしました。
    >漢検の試験は200点満点で8割(160点)が合格ラインだったのですが、その時は142点で不合格でした。

    ・先輩の存在、一緒に受けてみないかの発言、8割の合格ライン等、これらが、私の言う田秋さんの周りの環境です。
    ・受験してみた。というのが、行為です。
    ・不合格だった。というのが、結果です。

    環境、行為、結果の3つから、それら一連の流れを導く事が、自らの自由意志により選択が可能だったか?という事なのです。選択肢は1つだったと思います。なぜならば、自由意志による他の選択肢はないからですね。

    環境、結果は、たまたま(偶然)か?なるべくしてなったの(必然)か?です。ここを私が考えるときに、自由意志での選択は不可能だとなるでしょう。

    つまりは、田秋さんの意志での選択により、漢検に挑戦していた先輩の存在やその先輩の発言は選べません。

    そしてその先輩に感化されたのも、その感化された事自体は、自由意志で選択したのではないでしょう。

    そして不合格という結果も、同じく自由意志で選択していません。

    唯一選択肢があったとするのならば「受験してみた」という所だけでしょうか。他の環境等に自由意志による選択肢がなく進んだ唯一の道である「受験してみた」ということに自由意志での選択の結果というものはあったのでしょうか?

    この場合、環境や結果は自由に選択できないと考えると、自由意志は存在しないのではないのか?という考え方が、私の場合には矛盾なく筋が通るのですね。そして、そこには唯一の道しかないのではないのかと。もしもそうであるのならば、必然という事になりそうです。

    なぜならば、自らの自由意志での選択権のない条件(先輩の存在、発言、感化される、8割の合格ライン、不合格)での中で進んでいく唯一の道(受験してみた)だからです。

    ここでもう一つ問題がありそうですね。それらを自由意志で選択できる・できないという「私」の問題です。こちらもいろいろと哲学の世界で議論をされているようですが、その「私」は、通常は当たり前に存在していると思っていますが、本当に存在するのか?という事も考えました。

    もしもこの「私」が自然界の中で個別に存在しないのならば、、その本質は〈私〉や真我、単なる純粋意識と言われるものなのか?等々、これも今だにその答えらしきものは、共通認識としてあるとは言えないのではないでしょうか。それ以前に、共通認識としての「存在」の定義も明確なものはないように感じますしね。^^ もっと言えばその「私」の定義も当然されていないでしょう。田秋さんは、明確に「私」を見つけられているでしょうか?私は私だという、トートロジーになるような気がしますが。^^

    > これは決して自由意志が何者かによって阻害されたのではないと思います。

    はい。もしも無意識にでも自由意志ありきで考えをスタートさせるのならば、自由意志が何者かによって阻害される・されないと言う感覚になるでしょう。仮にそこでのその起点として、自由意志がないのであればをスタート地点だと考えると、そこにはそれを阻害するという概念、要素はありませんね。(勿論、無意識にでも自由意志ありきで考えをスタートさせるので、それはあるのか・ないのかという事を考えるのですが)

    > これを自分の意志で受験し一度落ち再度頑張って合格したと思うか、全ては最初から決まっていて(勿論努力するということもシナリオに含まれています)こうなったと思うかは考え方です。が、ボクとしては自分でやったと思う方が楽しいし、全ては自己責任ですから気が楽です。

    了解です^^。一応は、田秋さんのご認識は理解しているつもりです。

    例えば、定年間近の大企業の役員が、その自由意志により痴漢をして逮捕拘束され、自らの意志により膨大な退職金をふいにすると言う選択をしたのでしょうか?このような事は、無矛盾には私には考えられない事なのですね。魔が差したと言う言葉がありますが、これも自由意志による選択なのでしょうか?と私は考えたのです。

    定年間近の大企業の役員(私=時自身の事ではありませんが)が痴漢行為(自由意志による選択)で、逮捕拘束(環境)され、退職金を棒に振る?・・自らの意志という選択でのこの結果として考えると、筋が通りません。

    もう一つ。今朝のニュースでやっていましたが、53才の男性が孫を車で幼稚園に送り届けるはずが、送り届けることをなぜか忘れて、そのまま孫は車の中で。。という事故があったようですが、このようなことがなぜ起こるのか?という事を、単に忘れることもあるだろう?とか、認知症ぎみだったのではないのか?という事で一応の解決をはかるのではなくて、なぜ?起こるのだろうか?という事を納得いくまで独りで考えただけなのですね。

    田秋さんの場合には「どちらの考え方の方が自分にとって楽で楽しいか?」
    時の場合には「どの考え方が、無矛盾(楽)か?」でしょうか。

    私の場合には、過去に何度か書いているかもしれませんが「自由意志があろうとなかろうと、何も問題はない」です。なぜならば、現れる結果としては同じになるからです。

    これは、結果として定年間近の大企業の役員が、痴漢行為で逮捕拘束されるという事、車で孫を幼稚園に送ることができずに死なせてしまう事故という意味で、そこに自由意志があろうとなかろうと同じ結果になっていただろうという意味です。

    こちらでも何度も見直し、間違いないという事でしたはずの投稿を後で誤記等を編集しなおしたりする事が起こるのですが、、これは偶然なのか?必然なのか?です^^
引用返信/返信 削除キー/
■32969 / inTopicNo.12)  ラプラスの悪魔・アイ
□投稿者/ 時 -(2023/09/10(Sun) 13:13:23)
    思考実験です。

    仮に、完璧にこの世の中の因果関係等を全てを熟知する、ラプラスの悪魔・アイというAIを搭載した超量子コンピューターロボットが作られたとします。これを野外に設置したとして、人々がいつでも何か聞きたいことがあれば質問できるとします。人々の多くの問いや願いに対して、ラプラスの悪魔・アイは、どのように反応するでしょうか。

    多分・・何も話さず、その場で朽ち果てるその時を待つだけでしょう。

    一体全体、人はどこに向かおうとしてるのでしょうか。
    裏読みすると、進歩という無自覚な夢を見つつ、人は自然に帰ろうとしているのかも知れません。
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