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■32324 / inTopicNo.85)  Re[45]: 動物の同性愛
  
□投稿者/ みのり -(2023/08/07(Mon) 09:48:06)
    2023/08/07(Mon) 09:55:16 編集(投稿者)

    No32321に返信(みのりさんの記事)
    > 動物にも同性愛はあるのではないか、と思い調べたところ、あるようです。
    >
    >
    > https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E7%89%A9%E3%81%AE%E5%90%8C%E6%80%A7%E6%84%9B
    >
    > 同じ種、群れのなかで同性愛行動がある場合の、他の仲間たちからの偏見の有無について。
    > ここについては記述がないのでわかりません。
    > これについてわかると興味深いと思います。
    > ちょっと調べてみよう。

    同性愛が動物の間でも見られるということは、自然界に同性愛が普通に存在するということをまず意味すると考えられると思います。
    生き物に自然に備わっているものであり、それが一部に表出するということ。

    同性愛は人間の世界では差別を受けてしまう場合もあるのだけれど、動物の間ではどうなのか、これについてはネットで調べたところではヒットしませんでした。

    動物の間で、異質なものを排除しようとする行動があるのは知られてますが、その異質なものの中に、同性愛行動が含まれているかどうかについては、ヒットするものがなくわかりませんでした。

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■32372 / inTopicNo.86)  お盆とハグロトンボ
□投稿者/ みのり -(2023/08/10(Thu) 09:22:11)
    お盆の頃になると思い出す記憶がある。

    5歳頃だったと思う。母方の祖父と祖母の家に親戚が集った時、年の離れた従兄弟たちと小さな清流に川遊びに行った時に見た珍しいトンボ。
    羽が黒味を帯びて、胴は細く緑色に光っていて宝石のように綺麗だった。

    お盆が近くなりそのトンボを思い出し、調べてみたところ、どうやらハグロトンボという種類ならしい。
    シオカラトンボ、アカトンボは子どもの頃にはよく見ていたけれど、そのトンボはその時に見ただけだった。

    亡くなっている祖父、祖母との思い出の記憶、トンボの記憶。
    脳の神経細胞の働きによるものと説明ができてしまう記憶も、郷愁という思いと共にある時、しみじみ懐かしいものとなる。
    この郷愁という思いも、脳内の電気信号の働き。
    そして、脳も含めた身体がぜんぶ、最小まで分解されると素粒子なのだということも科学で語られるようになり、また、今、見ているものは、脳内で構成されそのように見えているものだということも。

    こうしたことが断片的にわかってもなお、懐かしい記憶を思い出すとしみじみとする。
    人は皆(たぶん)そういうふうに出来ているんだろうな。

     
     おととい、琵琶湖の花火をテレビで初めて観た。
    打ち上げられる高さは様々で、あまり高く上げられない花火も多いのだけど、次々と上がる花火の連なりが芸術のように感じられました。
    夏の記憶が一つ増えました。
      





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■32512 / inTopicNo.87)  汎心論
□投稿者/ みのり -(2023/08/17(Thu) 09:58:59)
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■32614 / inTopicNo.88)  アルツハイマー型認知症新薬
□投稿者/ みのり -(2023/08/22(Tue) 07:51:29)
    アルツハイマー型認知症の治療薬(新薬)が日本で認可されたそうです。
    「レカネマブ」という薬剤で、これは根治になる薬ではなく、投与の対象も早期段階の人に限られるとのこと。
    それでも早期に発見された場合、この新薬によって進行が抑えられるのであれば、助かる方も多くなるのだろうと・・、そうなるといいと思います。

    アルツハイマー型認知症は、脳に「アミロイドベータ」というたんぱく質がたまり、正常な神経細胞が壊れて脳萎縮がおこることによりおきるのだそうです。
    そして、レカネマブはこの「アミロイドベータ」を除去することで病気の進行を遅らせるとのこと。

    新薬なので薬価が高くなるらしいので、そこは難しいところですね。
    対象になる方々に広く行き渡れると、患者さん本人と家族にも光明だと思います。
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■32743 / inTopicNo.89)  松島
□投稿者/ みのり -(2023/08/29(Tue) 08:25:34)
    2023/08/29(Tue) 08:58:39 編集(投稿者)

    「ブラタモリ」で松島が取り上げられていた回が興味深かったです。
    タモリさんが「まつしま〜」と民謡をいきなり口ずさむシーンがツボだったのですが・・(;^_^A

    松島は主に凝灰岩から出来ていて、柔らかく波により浸食しやすいので、絶妙な風化具合になっているとのことでした。

    19000年ほど前、最後の氷期の時期に海水面が今より100mほど低かった時には松島は標高の低い山だったそうで、
    その後の温暖化により海水面が上昇し、6000年前に現在の島々が湾に浮かぶ姿になったそうです。
    番組で放映されていた説明とほぼ同じく説明がなされているようなので、お借りしました。

    https://hands-on.sendai-matsushima.com/materials/06/


    雄島という陸と浅瀬で繋がっている島は、平安時代以降、霊場とされていたのだそうです。
    火葬された人骨が散骨される場所でもあり、番組内でも小さな白骨が見つかっていました。
    極楽浄土への往生を願う人々が、この世とあの世の中間地点と雄島を考えていたのだそうです。

    僧の修行の場でもあり、島から一歩も出ずに修行を続けた人もいたとのこと。
    供養塔である文字が風化した石碑もいくつか残されていて、古の霊場の面影が残っているようです。

    https://gogo-miyagi.com/45


    だいぶ前、観光遊覧船で松島を回ったことがあるけど、雄島が霊場だったというのは知りませんでした。
    小さな島々が浮かぶ波穏やかな湾は、昔の人々にとって俗世を離れて心穏やかに浄土を願う場所だったのだろうな。
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■32778 / inTopicNo.90)  意識、クオリア
□投稿者/ みのり -(2023/09/01(Fri) 08:39:41)
    2023/09/01(Fri) 08:41:45 編集(投稿者)

    他トピでの皆様のやりとりを読んでいたら、『錯覚する脳 「おいしい」も「痛い」も幻想だった』前野隆司 著 を持っていて以前にパラパラと読んでいたのを思い出しました。
    再度読み直してみようと思いそうしていたら、最初のあたりに「意識とクオリア」に関する二つの考え方の相違に関係しそうなところが出てきました。

    前野さんは、p26で書いているように

    ===
    端的に言うと、意識とは、あたかも心というものがリアルに存在するかのように脳が思わせている、「幻想」または「錯覚」のようなものでしかないと、私は思う。
    ===

    という立場で、クオリアはイリュージョン(p28で前野さんは、幻想、錯覚ではなく、イリュージョンという言い方がよいので今後そう呼ぶと書いている)だと考える立ち位置です。

    一方、チャーマーズなど「心の哲学者」は、個人が感じるクオリアをハードプロブレムとして考えます。
    P34に、チャーマーズ自身、意識はイリュージョンだと思い込もうとしていた時期があったそうですが、やはり、現象的な意識は第一人称的な私たちの心の中にれっきとして存在しているように思えるので意識がイリュージョンだとは思えない、という考えであるということが書かれています。

    そして。ここが大切なところなのかなと私は解らないなりに考えているのですが・・。
    前野さんの立場もチャーマーズの立場もそれぞれ証明はできないところにいる、ということ。
    前野さんは、p34で、意識がイリュージョンであることの証明はできない、と書かれていて、
    チャーマーズも、意識の存在を証明できない、としていることを同じくp34で書かれています。

    また、P37〜p38で、チャーマーズの立場は、一種の心身二元論で、前野さんは自身の立場を、心身一元論の中の物的一元論としています。

    私自身としては、どちらの立場を取るかというのは特になく(どちらと言い切れるまでの知識が無いので)、おもしろそうな話題だなぁと思っているだけなのですが・・。
    また、続きの部分でまとめられそうだったらそうしてみます。

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■32786 / inTopicNo.91)  受動意識仮説、自由意志
□投稿者/ みのり -(2023/09/01(Fri) 12:15:45)
    前野隆司さんは、受動意識仮説を提唱しています。

    『錯覚する脳 「おいしい」も「痛い」も幻想だった』のp53で以下のように書いています。
    ===
    受動意識仮説とは、『「意識」とは「無意識下」の自律分散的・並列的・ボトムアップ的・無目的的情報処理結果を受け取り、それをあたかも自分が行ったことであるかのように幻想し、単一の自己の直列的経験として体験した後にエピソード記憶するための受動的・追従的なシステムである』というものだ。
    ===

    p55に、無意識下の情報処理により決定されたことを、意識はクオリアとして体験し、あたかも自分が行ったかのように勘違いする、とあり、自由意志があるように感じるのはこうした仕組みによるものと考えられています。

    例で考えてみます。
    柄物のTシャツを着ようか、それとも無地のTシャツにしようか迷っているとします。
    外出先がどこか、着心地はどちらがどうか、、最近着ていないのはどちらかな、なども考えると思います。
    最終的に無地を選んだとします。
    この選択は、「自分がした選択」とされるけれども、実は無意識下での情報処理がしてくれたものを意識がクオリアとして体験したものである、というのが受動意識仮説での見解になると思います。

    ここで私が考えたのは・・。
    それであるなら、受動意識仮説においては自由意志の有無までは問題としなくてもいいのではないのかな、ということです。
    無意識下とはいえ、(自分の)脳内が情報処理により選択しているには違いないと思うからです。

    受動意識仮説そのものについては私は、自分の体験的理解としても納得がいきます。

    ここから、前野さんの受動意識仮説を離れて、私自身の見解として考えてみます。
    自由意志の有無についてのそれぞれの見解は、解釈の相違によりどちらとも語れる疑似問題なのだろうな、と思います。

    その上でですが。
    あくまで自分なりに、世界の実相として考えた場合、自由意志という概念を使用して語るなら、それは「無い」として語る使い方が相応しいと考えます。

    「私」とは何だろう?と考えた時、身体と精神を持った「私」と言われるものは、実体としては在らず、世界の自然物や人との関係性の中に溶け込んでいるものだと思うのです。
    「自分の脳」といわれるものも、「自分の」と名称をつけているだけのものです。

    前野さんの受動意識仮説の、エピソード記憶を保持するための意識の働きがもし人間になければ、ミミズなどの生物と同じく、刺激に都度反応するだけの生き物だったのかもしれません。
    しかし、人間は高度に発達した脳、記憶と社会生活を持つため、「私」という自我(記憶)とあり、より良い生存状態でいられるようにクオリアとしての意志(心)を実感できるように進化してきたのだろう、と考えています。

    自由意志が無い、ということは社会生活で到底受け入れられる見解ではないです。
    個人の責任に関わってきますから。
    しかし、これから科学的にこのことについて論証されていき、社会制度や倫理との兼ね合いで上手く融合されたしたら、私たちの意識(この場合の意識は、見解とか考え方といった意味合いです)も、競争原理から善い意味で離れた緩やかなものになるように思えます。



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■32790 / inTopicNo.92)  Re[52]: 受動意識仮説、自由意志
□投稿者/ 時 -(2023/09/01(Fri) 18:48:58)
    みのりさんへ。こんにちは。

    No32786に返信(みのりさんの記事)
    > 前野隆司さんは、受動意識仮説を提唱しています。

    今回も、他トピしか開いておりませんで、ザビビのふくろうさんのお知らせが無ければ気づかずに素通りするとこでした。m(__)m

    前野隆司さんの受動意識仮説は、初めて知りましたが、やはり世の中には変わったことを考える人がおられるのですね。

    先ほど少しだけではありますが、ネット検索をしてその概略をしりましたが、私が感覚で書いていることの根本的な事を主張されている仮説なんだろうなぁとの印象を持ちましたが、これからもう少しその内容を見てみたいと思います。

    もしもよろしければ、みのりさんもあちらのトピで皆さんと一緒にお話ししませんか?^^

    うーん。。前野隆司さんの受動意識仮説ですか。貴重な情報をありがとうございました。m(__)m
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■32800 / inTopicNo.93)  Re[53]: 受動意識仮説、自由意志
□投稿者/ みのり -(2023/09/02(Sat) 08:51:07)
    時さん、おはようございます。^^
    レスありがとうございます。

    No32790に返信(時さんの記事)

    > 先ほど少しだけではありますが、ネット検索をしてその概略をしりましたが、私が感覚で書いていることの根本的な事を主張されている仮説なんだろうなぁとの印象を持ちましたが、これからもう少しその内容を見てみたいと思います。

    『錯覚する脳 「おいしい」も「痛い」も幻想だった』を私は読んでいたので、今回、投稿にしてみたのですが、受動意識仮説そのものについては、この本より前に出ているという『脳はなぜ「心」を作ったのか─「私」の謎を解く受動意識仮説』が詳しいそうです。
    もしまだ売っていたら、こちらも読んでみようかなと思っています。

    自由意志について例を出して書かれている部分を取り上げてみますね。
    p55になります。

    「よーいドン」という声を聞き私たちが走り出す時、音を聞いた意識が「走りだそう」と決めたのではなく、無意識下の情報処理の結果、「走りだそう」と決定され、意識はその結果をクオリアとして体験し、あたかも自分が行ったように勘違いするシステムに過ぎないと考える。
     と、あります。

    仮説なので最後は「考える」で締めくくられているのだと思います。

    能動的な意識だと考えると、「よーいドン」を聞き、意志が走ると決定し脳と筋肉に情報が伝わる、になります。

    時さんが別トピに書かれていた、反射的にボールを避けるでしたっけ、それと受動意識仮説で言われる仕組み的は、仕組みとしては同じなのかもしれないですね。
    私はそんなふうに感じます。
    違うのは、突然にボールが飛んできてそれを避けるか(飛んでくるよ、という人の声は無い)、「よーいドン」の掛け声を聞き走りだすかの違いはありますが。

    つまり、無意識下での情報処理により身体が動く指令がなされ、意識はそれをクオリアとして体験する、ということに前野さんの説だとなるのだと思います。

    > もしもよろしければ、みのりさんもあちらのトピで皆さんと一緒にお話ししませんか?^^

    ありがとうございます。^^
    せっかくなのですが、お話できるようなことがないですし、ロムが楽しいのでそうします。

    > うーん。。前野隆司さんの受動意識仮説ですか。貴重な情報をありがとうございました。m(__)m

    どういたしまして。
引用返信/返信 削除キー/
■32805 / inTopicNo.94)  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/02(Sat) 12:50:56)
    みのりさへ。こんにちは。レスをありがとうございます。

    No32800
    > 『錯覚する脳 「おいしい」も「痛い」も幻想だった』を私は読んでいたので、今回、投稿にしてみたのですが、受動意識仮説そのものについては、この本より前に出ているという『脳はなぜ「心」を作ったのか─「私」の謎を解く受動意識仮説』が詳しいそうです。
    > もしまだ売っていたら、こちらも読んでみようかなと思っています。

    > 自由意志について例を出して書かれている部分を取り上げてみますね。
    > p55になります。

    ありがとうございます。^^ でも、お手数をおかけしてすみません。m(__)m

    > 「よーいドン」という声を聞き私たちが走り出す時、音を聞いた意識が「走りだそう」と決めたのではなく、無意識下の情報処理の結果、「走りだそう」と決定され、意識はその結果をクオリアとして体験し、あたかも自分が行ったように勘違いするシステムに過ぎないと考える。と、あります。

    なるほど。。多分、ここで”私が”走る、走ったという錯覚(勘違い)が起きるという事なのでしょうね。

    > 能動的な意識だと考えると、「よーいドン」を聞き、意志が走ると決定し脳と筋肉に情報が伝わる、になります。

    こちらは、サーチライトモデル(意識起動型)と表現されていたでしょうか。関係ないお話ですが、私はこの手の言葉を覚えるのがあまり得意ではないのですね(笑)

    > 時さんが別トピに書かれていた、反射的にボールを避けるでしたっけ、それと受動意識仮説で言われる仕組み的は、仕組みとしては同じなのかもしれないですね。
    > 私はそんなふうに感じます。

    はい。私も同じだと思いました。実際には、無意識下での命令からの結果としての行為でしょうか。その後に、自意識がその各クオリアを体験として感知して自らが行ったと錯覚するというようなお話ですね。

    > つまり、無意識下での情報処理により身体が動く指令がなされ、意識はそれをクオリアとして体験する、ということに前野さんの説だとなるのだと思います。

    はい、そうですね。そのような説だと思います。そしてそのクオリアも意識も幻想だという事のようですね。となると・・無意識下での情報処理により身体が動く指令が出されて身体が動いているだけの様に思えます。(笑)でもここで、自意識自体が幻想だとなると、読み手によっては、大きな不安を感じる人と大きな安心を感じる人に分かれそうですね。

    > ありがとうございます。^^
    > せっかくなのですが、お話できるようなことがないですし、ロムが楽しいのでそうします。

    了解しました。^^  
    また何かの話題の時に、一緒にお話していただければと思います。m(__)m
引用返信/返信 削除キー/
■32866 / inTopicNo.95)  時さんへ
□投稿者/ みのり -(2023/09/05(Tue) 08:04:39)
    2023/09/05(Tue) 08:22:09 編集(投稿者)

    時さん、レスありがとうございます。

    No32805に返信(時さんの記事)

    >>「よーいドン」という声を聞き私たちが走り出す時、音を聞いた意識が「走りだそう」と決めたのではなく、無意識下の情報処理の結果、「走りだそう」と決定され、意識はその結果をクオリアとして体験し、あたかも自分が行ったように勘違いするシステムに過ぎないと考える。と、あります。
    >
    > なるほど。。多分、ここで”私が”走る、走ったという錯覚(勘違い)が起きるという事なのでしょうね。

    「よーいドン」を聞き、自分の意志が身体を動かす指令を出した、と感じるのですね。
    意志というのが意識の中に含まれているかのように、日常感覚だと感じる人も多いでしょうし、私も以前はそんなふうに感じていたと思います。

    >>能動的な意識だと考えると、「よーいドン」を聞き、意志が走ると決定し脳と筋肉に情報が伝わる、になります。
    >
    > こちらは、サーチライトモデル(意識起動型)と表現されていたでしょうか。関係ないお話ですが、私はこの手の言葉を覚えるのがあまり得意ではないのですね(笑)

    サーチライトモデルってはじめて聞きました。ありがとうございます。

    >>時さんが別トピに書かれていた、反射的にボールを避けるでしたっけ、それと受動意識仮説で言われる仕組み的は、仕組みとしては同じなのかもしれないですね。
    >>私はそんなふうに感じます。
    >
    > はい。私も同じだと思いました。実際には、無意識下での命令からの結果としての行為でしょうか。その後に、自意識がその各クオリアを体験として感知して自らが行ったと錯覚するというようなお話ですね。

    そうですね。自分の意志が先立つという錯覚。

    >>つまり、無意識下での情報処理により身体が動く指令がなされ、意識はそれをクオリアとして体験する、ということに前野さんの説だとなるのだと思います。
    >
    > はい、そうですね。そのような説だと思います。そしてそのクオリアも意識も幻想だという事のようですね。となると・・無意識下での情報処理により身体が動く指令が出されて身体が動いているだけの様に思えます。(笑)でもここで、自意識自体が幻想だとなると、読み手によっては、大きな不安を感じる人と大きな安心を感じる人に分かれそうですね。

    前野さんの本に「痛み」についての興味深い記述がありました。
    人が痛みを感じる時、怪我したり出血した箇所が痛みを感じているように思うけれど、脳が痛いという感覚を作り出しているそうです。
    一瞬、疑問でしたが、全身麻酔での手術、鎮痛薬を思えば納得ですよね。

    原始仏教をされている方で、自由意志は存在しないと感じられる方は珍しいように感じるのですが、時さんは時さん以外の原始仏教の方で自由意志は存在しないと考えられる方に会ったことはありますか?
    また、時さんご自身、原始仏教と自由意志の無さとの整合性をどのように考えられますか?

    想像で思うのは、原始仏教を支持される方がもし「自由意志は無いのかも」と感じても、それだと「じゃ何しててもいいんだね」みたいに人はなりそうなので表明しないだろうな、と。

    私は原始仏教にも詳しくはないのですが、八正道を心がけたい(それは苦しみから離れられる方法だと思うからです)と思うのです。
    でも、自由意志は存在しない(個別に実体として存在するものは何も無いから)と考えていて、自分なりに自分の中では、八正道とも整合性が取れると思います。
    リラックスしたコンデションや体調を整えることや、発言に気を付けることなど、外から内に、また逆に内から外への影響が苦しみから離れる方法になると思うからです。
    つまり、自由意志の有無に関わらずすることは結局は私の場合は一緒みたいです。
    ただ、頑張らないとという深刻さや堅苦しさみたいなのは薄れる気はします。

    時さんが原始仏教と自由意志の無さの整合性を取られているとしたら、今、書いてみたようなことと似ていますか?
    それとも違う方向性からになりますか?
    ここを教えていただけたら嬉しいです。
引用返信/返信 削除キー/
■32872 / inTopicNo.96)  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/05(Tue) 13:45:15)
    2023/09/05(Tue) 17:23:29 編集(投稿者)
    2023/09/05(Tue) 14:38:56 編集(投稿者)

    みのりさんへ。こんにちは。レスをありがとうございます。

    No32866に返信(みのりさんの記事)
    > 「よーいドン」を聞き、自分の意志が身体を動かす指令を出した、と感じるのですね。
    > 意志というのが意識の中に含まれているかのように、日常感覚だと感じる人も多いでしょうし、私も以前はそんなふうに感じていたと思います。

    はい。過去の日常生活という記憶の一部を切り取って、今から思い起こすとそうですよね。

    通常は「よーいドン」を聞いてから瞬時に”私が”走り出したのだ。と、なると思います。ですが、本当にそうなのか?を考え続けたのですね。「よーいドン」の音で身体が勝手に反応して身体が動いたのではないかと。それをその後に思い出して何か感想文を書くときには「私は、よーいドンというスタートの音を聞いて、一生懸命に走りました。」となるのでしょうか。実は、その「私」は、人間という動物共通の幻想ではないのか?それをエゴや自我と言っているのではないのだろうかと考えてみました。

    > 前野さんの本に「痛み」についての興味深い記述がありました。
    > 人が痛みを感じる時、怪我したり出血した箇所が痛みを感じているように思うけれど、脳が痛いという感覚を作り出しているそうです。
    > 一瞬、疑問でしたが、全身麻酔での手術、鎮痛薬を思えば納得ですよね。

    はい、そのように思います。幻肢痛(事故等でなくした体の部分に痛みを感じる)なんかも、多分ですが脳が錯覚を起こしているのでしょうね。

    > 原始仏教をされている方で、自由意志は存在しないと感じられる方は珍しいように感じるのですが、時さんは時さん以外の原始仏教の方で自由意志は存在しないと考えられる方に会ったことはありますか?

    過去に原始”だけ”をされている方にはお会いしたことは在りませんが、原始に詳しい方との出会いは、短期間ではありましたがありました。そしてその方は、自由意志については語られていませんでしたね。ですので、自由意志は存在しないという考えの方との出会いはありませんでした。

    > また、時さんご自身、原始仏教と自由意志の無さとの整合性をどのように考えられますか?

    うーん、私自身は、原始仏教を学ぶという事と自由意志の有無を考察した事は別時期ですので、同時進行で考えたことはないのですね。

    ですが、今考えてみますと、原始には「色は、あなた方のものではないので、捨てなさい。」色に続いて、受、想、行、識の「これら五蘊は、全てあなた方のものではないので捨てなさい」と言う、五蘊非我という教えがあるのですね。ですので、ここで非我という事を学びます。例えば、この中の行(身行・口行・意行)も私のものではないので、(仏典での趣旨内容とは違う例になりますが)身行(走り出すという行動)意行(頑張るぞーという思い)口行(3番で悔しーと声を発する)等の三行は、私のものではありませんね。私ではないが、走り出しますし、悔しいという思いも起こります。。。ここに自由意志はあるとはいえなさそうです。

    後は、原始の中に「同じように教えていても、なぜ慧解脱に達する弟子と、心解脱に達する弟子とに分かれるのでしょうか?」と、教える側の弟子が仏陀に質問した時に「それは、機根の違いを理由として説きます」と仏陀が答えるというシーンがあるのですね。機根とは(理解する度量・器・性格)の事ですので、この機根も、自由意志での選択は不可能でしょう。つまりは、自由な意志で自らの度量や性格等を選択、決定できそうにありませんね。これは、自らの自由意志での選択により、慧解脱と心解脱を選択できないことを意味します。同じ教えを耳にしても行きついた先が、慧解脱か心解脱かの違があるというのは、そこに修行者自身の自由意志による選択はなさそうだという事です。

    後は、根本的なことですが、非我故に無我というイメージがあるのですが、ここは同じ語源を訳者により非我と無我に使い分けられているようですので、実際のところは分かりようがないのですが、同じ語源という事で非我=無我と考えると、無我・・私がない・・私がないのならば、私の自由な意志も選択もない・・と無理くりですが、一応の筋は通りそうですかね。ですが、原始では「私は存在しません。ありませんよ」とは説かれていませんので注意が必要ですね。何故説かれていないのかというと、それ(私による自由意志の有無)が涅槃や解脱に役に立たないことだからで、原始の中では無記とされているようです。

    みのりさんのご指摘により、原始と自由意志のなさという事を、その整合性という意味で考えてみましたが、無理くりのところはありそうですが、一応の整合性は取ろうと思えば取れそうだと感じますが。

    > 想像で思うのは、原始仏教を支持される方がもし「自由意志は無いのかも」と感じても、それだと「じゃ何しててもいいんだね」みたいに人はなりそうなので表明しないだろうな、と。

    はい。通常はそのような表明はしないと思います。仮にですが、Aがゴリゴリの原始仏教の僧侶であり原始だけを教える立場で、自由意志はないという強固な偏った見解の持ち主だったのならば、という事を考えてみると、これはもはや原始の理解、実践者ではありませんので、仏典内容を語れません。語れないはずなのに語っているという事で、偽物と判断されるでしょう。私ならば、Aの前から無言で立ち去りますね(笑)

    私の立ち位置というのは、僧侶でもなければ教える立場でもなく、名声を得たいわけでもなく、マウントをとりたいという自己顕示欲があるわけでもなく、お賽銭という形でもある種のお金儲けを企んでいるわけでもありませんで、ただ単純に、仏陀は何を言っていたのかな?という事を知りたかったので、原始を学んだだけの普通の立ち位置なのですね。ですので、人生哲学もやりますし、いろいろなことを学んできたつもりです。

    と言うわけで、もしも仮に、時が「自由意志はないと思うんですよねー」と言ったとして、お相手が「じゃ、何をやってもいいんですよねー」と言ったのであれば「いいですよー♪自由意志がないといっているのに、あなたはその自由意志で何かをしようと意志するのですねー♪」で、お終いでしょ?もっと単純に、時が「自由意志はないと思うんですよねー」と言ったとして、お相手が「じゃ、何をやってもいいんですよねー」と言ったのであれば「勿論、いいですよー♪」でお終いです。

    要は、機根の相違。自らの選択権のない機根の相違だろうと思います。つまりは、何かを行う際には、それが可能な機根の持ち主なのかどうか?という事で、そこに自身の自由意志での選択権はなさそうですね。(笑)

    そしてここでいう自由意志での選択のできない「機根」は、現代でいうのであれば動植物の各細胞に組み込まれた遺伝子によるものではないのかな?そしてこの遺伝子は、あるとき自然発生的にこの地球上に生じたものであり受け継がれてきたもので、それは太古の昔、その遺伝子を含んだ細胞というものや周りの環境をも生み出した自然の事を、全ての根源、源泉である「神」と、畏怖や畏敬の念をこめて名付けたのでは無いのかな?といった感じで今のところ考えています。(笑)

    No32847
    には、その辺りの事を書いていたつもりなのですね。(笑)
    思考実験としての、水槽の脳や世界5分前仮説がOKならば、遺伝子環境仮説もOKだと思ったのですね(笑)

    仮に真実には自由意志がないとして、では、どのように”私は”動けばよいのか?という疑問が発生するかもしれませんが、そんなことは考えずに、今まで通り、自由意志があるかの如くに選択していけばよいと思いますね。今日は天気が良いので買い物に行こう。今夜はカレーを作ろう。しまった!バスの定期券を忘れてしまった。。。等々、何ら日常生活に不具合は生じませんしね。それがあろうとなかろうと同じことになると思います。(笑)そのような意味で、今現在の時個人の見解は、どちらにも偏らずに「自由意志があろうとなかろうと同じです。」になるでしょうか(笑)

    > 私は原始仏教にも詳しくはないのですが、八正道を心がけたい(それは苦しみから離れられる方法だと思うからです)と思うのです。
    > でも、自由意志は存在しない(個別に実体として存在するものは何も無いから)と考えていて、自分なりに自分の中では、八正道とも整合性が取れると思います。
    > リラックスしたコンデションや体調を整えることや、発言に気を付けることなど、外から内に、また逆に内から外への影響が苦しみから離れる方法になると思うからです。
    >つまり、自由意志の有無に関わらずすることは結局は私の場合は一緒みたいです。
    > ただ、頑張らないとという深刻さや堅苦しさみたいなのは薄れる気はします。

    自由意志の有無に関わらずすることは結局は私の場合は一緒みたいです。というのは、上記でのお話でご理解いただけると思います。(何ら日常生活に不具合は生じませんしね。同じことになると思います。)

    私が自由意志はないのではないかという、一応の答えにたどり着いたものが、アドバイタ(不二一元)の学びの時だったのですね。アドバイタという境地は、かなり楽になれるのですね。それを哲学的に分析してしまうと、相互理解という事で一元だ存在だ実在だと言うややこしいお話になってしまうと思うのですが、その境地には、みのりさんが仰るような、頑張らないとという深刻さや堅苦しさといった、ある種の義務感や苦しみはかなり軽減しますね。といいますか、その境地にはそれらはありません。そこから二元の通常世界に引き戻されたときに、それらの義務感や苦しみ等が再度生じやすくなりますね。しかしそれを体験していないときと比較した場合には、かなり楽な状態です。そんな風に感じています。

    > 時さんが原始仏教と自由意志の無さの整合性を取られているとしたら、今、書いてみたようなことと似ていますか?
    > それとも違う方向性からになりますか?
    > ここを教えていただけたら嬉しいです。

    多分ですが、みのりさんがお書きになられていることは、龍樹の空や無常観故に自由意志はないんだという事の様に感じるのですが、違うでしょうか?

    無理くりですが、整合性という意味では、冒頭に書きましたように思います。一言で表現するならば、無我だからという事になるでしょうか。違う方向性で見るのであれば、アドバイタの世界観(自由意志もない)と原始の世界観との重なるイメージのところでの考察になりますが、古典物理学と現代物理学が同じ物理なのに違うように、やはり似て非なるものですかね。後は、ニーチェではありませんが、各人の解釈次第と言うところでしょう。

    お尋ねの事に答えられたかどうかは分かりませんので、もしも何か私の方の理解不足等がありましたら、ご指摘いただければと思います。
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