| pipitさま、さっそく返信ありがと
>今の時点での悪魔ちゃんの質問を聞かせ直してもらってもいい?< って、わたしが何を知りたいのか、っていうこと?
あ、その前に、 〔『純粋理性批判』の第二版は、〈感性〉から「形式的直観」、つまり「超越論的感性論」のいう「われわれの触発される仕方」を奪って、それを〈悟性〉に与え、また〈超越論的想像力〉の三段の綜合――を放棄して、意識のすべての水準――それは、抽象的分析によってのみ区別される――に「我思う」が現前しているということを第二版よりもいっそう明らかにしようとする。〕 は、原注で、 〔カントの有名な言葉。直観に与えられる多様な表象が綜合されて、〈一つの経験〉ないし〈一つの認識〉となるためには、それらの表象がすべて「我思う」に関係づけられていなくてはならない、というわけである。〕 は訳注でした。ごめん。
でね、 前に、カントは意識の二つの幹「感性」と「悟性」に分けている、ってpipitさまから教えてもらったんだけど、現象学もそう分けて見たいなのね。現象学の場合「受動的総合」「能動的総合」っていう言い方になるんだと思うけど。 で、この点ではカントのと現象学のとは同じだとわたし見てるのね。
でも『純理』の第二版ではこの区別をナシにして「感性」を「悟性」のうちに含めちゃった、ってメルポンは言ってるように思えるのね。
で、わたしがpipitさまに聞きたかったのは、二つあるの。 (1)第一版から第二版になるとき、カントは心変わりしたのかな? (2)『純理』(第一版、第二版関係なく)は、カントの根源的出発点として、〔それらの表象がすべて「我思う」に関係づけられていなくてはならない〕っていうのがそもそもあったのかな? っていうこと。
もし、(2)だとしたら、カントの『純理』は、デカルトのが根本にあるのかな?って思うのね。
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