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No21499 の記事


■21499 / )  Re[77]: : メルポンのカントの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/13(Sun) 16:58:45)
    お話しが違うけど、メルポンの『行動と構造』から書き写して見ます、

    【身体について言えば、それも意識の面前で構成される対象のひとつとなって、客観的世界の内に加えられる。そしていかなる自然も能産的認識の相関者としてしか考えられないから、〈認識〉を自然の一出来事として扱うことはもはや問題とならないことになる。もちろん意識は、知覚という意識の出来事の秩序が身体や身体的諸現象の函数として、自然法則によって決定されるとうことを自分でも認める。その意味では、意識は、世界を構成している諸関係のなかに組み入れられうるわけであり、したがって世界の一部としてもあらわれる。そこで意識には、2面があるように思われる。一方では、意識は〈宇宙の場〉であり、世界のいかなる肯定も意識を予想しなければならないが、他方では、意識は世界によって条件づけられるものでもあるわけである。従って、批判哲学の第一の契機は、いかなる身体的・心的出来事からも導出されえない〈意識の一般形式〉と、しかじかの外的出来事やわれわれの心理―生理的機構の特殊性に結びつけられてはじめて現実的に存在する〈経験内容〉とを区別することになろう。前者は、自分のしている認識分析の正当性を主張するために、後者は、知覚を支配する外的諸条件や、知覚の際に感じられる知覚の受動性を説明するために必要なのである。カントの「超越論的感性論」の意味は、だいたいこのようなものである(原注33)。
    だが、この批判主義的態度は暫定的なものでしかありえないはずであり、『純粋理性批判』の第二版がそれを示している。実際われわれは、「〔感性〕に与えられたもの」と「〔悟性によって〕思考されたもの」との関係とか、純粋感覚ともいうべき〈惰性的な「物」〉に対する意識の作用とか、また「触発」と認識の関連、感覚的意識と悟性的意識の連関などをどう考えたらよいであろうか。そのように反省してみると、カントにおいては、結局のところ、感覚的と言える意識は存在せず、「感性論」と「分析論」の分裂とか、所産的意識といったものは存在しないことになってくる(原注34)。
    つまり、知覚内容だけを取り出そうと分析してみたところで、何も見出せないであろう。なぜなら、〈何ものかの意識〉はすべて、その〈何ものか〉が不定な存在であることをやめるやいなや、つまりそれが例えば、「ひとつの色」とか、さらには「この特有の色」として見分けられ、認識されるやいなや、それは体験の〈印象〉を超えて、その印象には含まれてもおらず、またその印象の実在的部分でもないような〈ある意味〉の把捉を予想するものとなるからである。
    認識の〈質料〉は、意識の自己反省に際して、意識によって設けられる極限概念となり、もはや、認識を構成するものではなくなるのである。だが、そのときから、知覚は「悟性的認識」の一変種となり、またそれのもっている積極的な面から言えば〈判断〉となるわけである。】

    (原注33):「超越論的感性論」は、〈経験内容〉ばかりではなく、ついには〈空間形式〉それ自身をさえ、人間の構成した〈偶然的なもの〉にもとづけているほどである。

    (原注34):よく知られているように、『純粋理性批判』の第二版は、〈感性〉から「形式的直観」、つまり「超越論的感性論」の言う「われわれの触発される仕方」を奪って、それを〈悟性〉に与え、また〈超越論的想像力〉の三段の綜合――を放棄して、意識のすべての水準‐−それは抽象的分析によってのみ区別される――に「我思う」が現前してるということを、第一版よりもいっそう明らかにしようとしているのである。


    わたし、カントの知らないから、メルポンの言っているここんとこ、よくわかんないのね。

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