□投稿者/ pipit -(2022/03/12(Sat) 22:01:35)
| No21483
> メルポンの『行動の構造』の訳注に、 >『純粋理性批判』の第二版は、〈感性〉から「形式的直観」、つまり「超越論的感性論」のいう「われわれの触発される仕方」を奪って、それを〈悟性〉に与え、< ↓ ↓ 感性から、「 」を奪って、悟性に与え。
宇都宮先生の解説 > カントはこのように > 「なんらかの仕方で触発されることで表象を受け取るわれわれの心の受容性」を「感性」と呼び、<
あー、そうかぁ。 違ったらごめんねだけど、今のところの私見書くね。
悪魔ちゃんは、 > 「心の受容性」「認識の自発性」、前者は「感性」、後者が「悟性」ね。 > 現象学では前者を「受動的総合」、後者を「能動的総合」って呼んでるんだとわたし見てる。< と書いてたけど、
カントは、総合をすべて悟性の働きに属させたんだよ。 だからメルポンさん的には【受動的・総合】という感性内での総合のお仕事を、 カントは全部悟性のお仕事とした、という意味なのかな、と、思ったよ。
伝わる?
まず、ここまで返信するね。おやすみー(^_^)☆彡
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