(現在 過去ログ2 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■20674 / inTopicNo.1)  
  
□投稿者/ pipit -(2022/02/06(Sun) 07:47:50)
    No20672

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html


    Title: The Critique of Pure Reason
    Author: Immanuel Kant
    Translator: J. M. D. Meiklejohn

    の英訳を。



    > 無<

    NOTHING


    > 1 対象をもたない空虚な概念として(思考物)<

    1 Empty Conception without object,
    ens rationis


    > 2 概念の空虚な対象として(欠如としての無)<

    2 Empty object of a conception,
    nihil privativum


    > 3 対象のない空虚な直観として(想像物)<

    3 Empty intuition without object,
    ens imaginarium


    > 4 概念のない空虚な対象として(否定的な無)<

    4Empty object without conception,
    nihil negativum

引用返信/返信 削除キー/
■20672 / inTopicNo.2)  Re[31]: パラロギスムス
□投稿者/ pipit -(2022/02/05(Sat) 23:36:41)
    No20596
    カント事典を引用しようと思ってたのですが、
    (するかもですが)

    なんか、今、カントの『無』を分類した記述が頭に浮かぶんですよね。

    どっちから勉強するかなー

    B349あたり

    (カントの文章)中山元先生訳、第3巻p304、独自段落番号377
    『無の概念を分類した表は次のような配置となるだろう(〈何かあるもの〉についても同じような分類表を作成することができるだろう)。



    1 対象をもたない空虚な概念として(思考物)
    2 概念の空虚な対象として(欠如としての無)
    3 対象のない空虚な直観として(想像物)
    4 概念のない空虚な対象として(否定的な無)』

    なんでここが頭に浮かぶんかな??

    なにかと関わってくるのかな?

    ちなみに、〈何かあるもの〉は、『有』かな?



引用返信/返信 削除キー/
■20669 / inTopicNo.3)  Re[17]: 日記
□投稿者/ pipit -(2022/02/05(Sat) 13:39:37)
    小川洋子さんの『博士の愛した数式』をなんとなく思い出してたら、

    御子柴善之先生の岩波ジュニア新書の最後らへんの宣伝ページに、
    別先生の編著で、『博士の愛したジミな昆虫』なる本を発見。

    むむむ、読んでみたいかも。。。


引用返信/返信 削除キー/
■20652 / inTopicNo.4)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/02/03(Thu) 20:22:00)
    2022/02/03(Thu) 20:26:54 編集(投稿者)

    数学の概念の根底(あるいは変換先)に直観(感性的直観)の縛りを入れることで、
    人間にとっての普遍性や公平性が確保される準備ができるのではないかと思いました。

    それとはまた別に。

    カントの数観はわたしには独特におもえてるのですが、
    とてもおもしろい。

    わたし独特の言葉で話します。

    感じたもの、と、言葉をつなぐもの
    感じたもの、を、言葉に差し出すもの(包摂させる)
    感じたもの、から、言葉を生み出すもの

    みたいに、感じたものと言葉を仲介する接着剤のような役目を、カントは『図式』と言ってると思ってるのですが、この図式に数を当てはめてるところがある気がしてます。

    この数というのを、カントは同種のものを次々と加えていくこと、としてて、
    べたにいうと、『数える』行為と同起の事態と思うのですが、

    たとえば、
    レストランにだんなさんと行って、店員さんに「何名様ですか?」と聞かれたら、
    自分とだんなさんを、人間として、同種として、
    1、2、で
    「ふたりです。」と答える。

    自分の直観(感じてるもの)から、客体を作り、私とだんなさんを同種として、【人間、加・人間】と、しかもカント的には時間を総合して、まるめて、継起して、【2(ふたり)】という言葉に表す。

    すごくおもしろいなーと思いました。
    (カントの考え方をpipitが大誤解してる可能性あります^^;;)

    気楽な日記ということで m(_ _)m




引用返信/返信 削除キー/
■20648 / inTopicNo.5)  純理初版序文を思い出した日記
□投稿者/ pipit -(2022/02/03(Thu) 17:47:53)
    みなさま、こんにちは。

    No20639
    >※註(4)しかも、カント、ヒルベルト、ゲーデルは数奇な歴史の糸によってつながっているのである。
    《カントと同じケーニヒスベルク出身の数学者ヒルベルトは、『純粋理性批判』の刊行から一三五年後に、「ヒルベルトのプログラム」と呼ばれる研究目標をかかげ、純粋理性の無限の可能性を数学の中に見ようとしました。ゲーデルはその不完全性定理によって『理性の限界』を証明して、ヒルベルトのプログラムを否定的に完成させました。しかもそれを「原理に基づいて」なしたのですから、ゲーデルはヒルベルトの大先逹であるカントの夢を、皮肉な結果でありましたが、字義通りに実現してみせたといってもいいかもしれません》(吉永良正『ゲーデル・不完全性定理』講談社、一八頁)。<

    この《「原理に基づいて」なした》の箇所で思い出したのは、『純粋理性批判』初版序文にある、
    【強権をもってではなく、理性の永遠で不変な法則によって、】の箇所です。

    『純粋理性批判1』中山元先生訳、p204(中山先生独自段落R05理性の法廷)

    『この無関心は理性にたいして、あらゆる任務のうちでもっとも困難な自己認識の営みにふたたび着手することを、そしてそのために一つの法廷を設けることを求めるものなのである。
    この法廷の役割は、理性が妥当な要求を示す場合には理性を堅固なものとするが、根拠のない越権を示す場合には、強権をもってではなく、理性の永遠で不変な法則によって、これを退けることにある。
    この法廷こそが、純粋理性批判である。』

    まぁ、『純粋理性批判』も『カントの数学観』もめっちゃ批判されてることも多い気もしますけど
    ( ̄▽ ̄;)
引用返信/返信 削除キー/
■20639 / inTopicNo.6)  Re[14]: カントと数学B
□投稿者/ pipit -(2022/02/02(Wed) 16:15:48)
    みなさま、こんにちはー (^○^)

    柄谷さんの記述文章
    >カントが言うのは、非ユークリッド幾何学が成立するためには、ユークリッド幾何学を必要とするということである<

    を、柄谷さんが説明される箇所から引用を再開します。

    雑誌『現代思想』3月臨時増刊号カント(1994年)、p17-
    『 ある公理体系の無矛盾性を証明する一つの方法は、直観的なモデルに訴えることである。

    たとえば、リーマン幾何学の場合、その公理系において、
    "平面"がユークリッド幾何学の球面を、
    "点"がその球面上の点、
    "直線"がその球の大円を指していると見なすことによって、
    ユークリッド幾何学の球面をモデルにすることができる。
    そうすれば、リーマン幾何学の各公理はユークリッド幾何学の定理に変わる。

    つまり、ユークリッド幾何学が無矛盾であるかぎり、非ユークリッド幾何学も無矛盾であるということになる。

    ところが、ユークリッド幾何学の無矛盾性は、それ自体では証明できないのであり、結局は直観に訴えることになる。
    つまりは、ユークリッド幾何学に帰着するのである。

     ところで、そのような方法を断念するところにヒルベルトの形式主義がある。
    彼は、『幾何学原理』において、第五公準だけでなく、他の定義・公準もまた自明的な真理ではないこと、たとえば、「点」や「直線」にそれ自体意味はないと考える。
    つまり、数学を形式化したのである。

    ところが、どんな幾何学でも成立してしまうかというとそうではない。
    彼は、それを公理系のなかで、三つの判定基準がみたされているかどうかで区別する。
    完全性(すべての定理がその公理系から得られること)、
    独立性(その公理から任意に一個の命題を除いた場合、もはや証明不可能になるような定理が存在すること)、
    無矛盾性(その公理系から互いに相矛盾するような諸定理を証明することが不可能であること)。

     ヒルベルトは、数学を、直観的自明性ではなく、形式体系の無矛盾性によってのみ基礎づけようとしたのである。
    (略)
    ヒルベルトは直観主義者の言うように「有限的立場」をとりながら、なお直観を必要としない数学の基礎づけを企てる。
    それがヒルベルトのプログラムである。

     しかし、これは、このプログラムを文字どおり実行したゲーデルによって自己言及的なパラドックスに陥ることが示された。
    (略)
    ゲーデルの証明は、いうまでもなく「形式主義」のなかでなされているのであり、形式主義を前提するかぎりでパラドックスに陥るという証明である。
    もちろん、それはラッセルの論理主義の破綻をもふくんでいる。

    ゲーデルが示したのは、数学的真が、形式的な公理体系から必ずしも決定されないということであり、いいかえれば、形式的に基礎づけられないような真がありうるということである。
    もう一つは、数学が無矛盾であるかぎり、数学は自らの無矛盾性を証明できないということである。
    (略)

    私の考えでは、形式的な公理系によって数学を基礎づけるという夢想は、数学に固有のものではない。
    分析的判断を唯一確実なものと見なす形而上学によってもたらされたものである。
    カントが否定しようとしたのは、そのような思考である。
    しかし、それはそうした形而上学が、自ら押しつけた数学に依拠している以上、数学においてなされなければならない。
    逆に、数学においてなされたことは、それを模範としてきた哲学に投げかえされるだろう。
    ゲーデルの「超数学」的批判は、そのような意味をもつ。
    したがって、それはカントの超越論的批判とつながっている(4)。

    ※註(4)しかも、カント、ヒルベルト、ゲーデルは数奇な歴史の糸によってつながっているのである。
    《カントと同じケーニヒスベルク出身の数学者ヒルベルトは、『純粋理性批判』の刊行から一三五年後に、「ヒルベルトのプログラム」と呼ばれる研究目標をかかげ、純粋理性の無限の可能性を数学の中に見ようとしました。ゲーデルはその不完全性定理によって『理性の限界』を証明して、ヒルベルトのプログラムを否定的に完成させました。しかもそれを「原理に基づいて」なしたのですから、ゲーデルはヒルベルトの大先逹であるカントの夢を、皮肉な結果でありましたが、字義通りに実現してみせたといってもいいかもしれません》(吉永良正『ゲーデル・不完全性定理』講談社、一八頁)。

     現在からふりかえって、カントが数学を「綜合的判断」と見なしたのは正しかったといわねばならない。
    綜合的判断とはカントがいうように「拡張的判断」である。
    実際、数学は歴史的に発展してきたし、今後もそうである。
    (略)
    問題は、カントのいう「綜合的判断」が非ユークリッド幾何学の可能性から来ているのに、つねに古くさいものとして扱われてきたことである。
    それはカント読解を今もゆがめている。
    (略)』

    以上で柄谷行人さんの記事の引用を終わります。

    pipitの感想としては、
    ある見解が正しい、とか、正しくない、などは、
    どのような地点からどのような基準でみるか、などの条件が絡まってて、一概には断定できないんじゃないかな、と、思いました。

    「数学がアプリオリな綜合判断」というのは、数学が発見か、発明か、どちら?という問いかけにも関わるのかなとも思いますが、
    (総合判断なら発明、分析判断なら発見、と、pipitは今のところ思いますが)、

    手持ちの材料で発明してる、とすれば、
    手持ちの材料に着眼すれば分析的事態だし、
    発明に着眼すれば綜合的事態だし、
    みたいな。

    現在の柄谷さんが
    >現在からふりかえって、カントが数学を「綜合的判断」と見なしたのは正しかったといわねばならない。<
    という意見をまだお持ちか、否かはわかりませんが、
    pipitとしては、理念としては、
    【カントがどのような理屈で綜合的判断とみなしたのか、を、理解する】 
    という道を選択したいな、と、、、

    頭では思ってますが、、、

    カントの見解に、執着してしまってますから、、、反省するけど、治し難い!
    (*_*)
引用返信/返信 削除キー/
■20635 / inTopicNo.7)  Re[15]: 日記
□投稿者/ pipit -(2022/02/02(Wed) 00:03:11)
引用返信/返信 削除キー/
■20633 / inTopicNo.8)  Re[13]: カントと数学A
□投稿者/ pipit -(2022/02/01(Tue) 23:10:20)
    柄谷行人さんの記事の引用ですが、
    冒頭は、ラッセルさんの文章の引用から始まります。

    雑誌『現代思想』3月臨時増刊号カント(1994年)、p15-

    『幾何学をふくむすべての純粋数学が形式論理学以外の何物でもないということの証明は、カント哲学にとっては致命的な打撃である。
    カントは、ユークリッドの諸命題が図形の助けなしにはユークリッドの諸公理から演繹されえないということを正しく認知しつつ、この事実を説明しうる認識論を発明した。
    その説明は非常によく成功しているので、その事実がたんにユークリッドの欠陥にすぎず、幾何学的推論の本性の結果ではないことが示された場合には、カントの理論もまた排撃されねばならないのである。
    ア・プリオリな直観についての全教説は、カントがそれによって純粋数学の可能性を説明したところのものであるが、それは現代のかたちでの数学にはまったく適用不可能である。
    (ラッセル:神秘主義と論理、と、他のエッセイ、1976)
    ※アク禁になるので、引用元の情報を英語から日本語に訳しました

     ラッセルのこの見方は、カントが数学を非ユークリッド幾何学以前で考えていたという思いこみに立っている。
    しかし、たとえばカントが「ユークリッドの諸命題が図形の助けなしにはユークリッドの諸公理から演繹されない」と見なしたというラッセルの理解は、完全にまちがっている。
    「それは現代のかたちでの数学にはまったく適用不可能である」どころではない。
    実際には、「すべての純粋数学が形式論理学以外の何物でもない」というラッセルの「論理主義」のほうが破綻したのである。

     二〇世紀において、数学基礎論は論理主義、形式主義、直観主義の三派に分かれる。
    このなかで、直観主義(ブロウウェル)は、無限を実体として扱う数学に対して、有限的立場を唱えた。
    (略)
    彼は排中律は無限集合にかんしては適用できないと言う。
    (略)、有限な場合はそれを確かめられるが、無限集合の場合はそれができない。
    ブロウウェルは、無限集合をあつかった時に生じるパラドックスは、この排中律を濫用するからだと考える(3)。

    ※註(3)カントの弁証論(アンチノミー論)は、アンチノミーが排中律を濫用することによって生じることを明らかにしている。
    (略)
    つまり、カントは、「物自体」にかんして排中律を適用する論理が背理に陥ることを示したのである。
    彼自身がそう考えていなかったとしても、現代数学のパラドックスが無限を一つの数として扱おうとしたカントールの無限集合論から出てきたことは、カントのアンチノミー論とつながっている。

     直観主義は、有限な、つまり構成できるもののみを承認する立場である。
    G・マルチンは、現代の数学基礎論において、カントに最も近い立場をとるのは、直観主義であると言っている。

    (略)

     カントは、任意の公理をとることによって矛盾無く別の幾何学ができるということを知っていたが、同時に、感性的直観の形式としての空間と時間は、ユークリッド的なものだと考えていた。
    このために、カントはユークリッド幾何学とニュートン物理学を基礎づけたのだと考えられてしまう。
    また、のちに非ユークリッド幾何学に反対する論拠にされたりもした。
    しかし、すでにのべたように、実状は逆である。

    カントが言うのは、非ユークリッド幾何学が成立するためには、ユークリッド幾何学を必要とするということである。』

    ここでいったん投稿します。

    この後、
    直観主義においての
    >非ユークリッド幾何学が成立するためには、ユークリッド幾何学を必要とするということである<
    についての、柄谷さんの簡易な解説に続き、

    ヒルベルトの形式主義や、直観を必要としない数学の基礎づけを企てたというヒルベルトのプログラムにも言及されていきます。

    続きをまた引用するつもりでいます。

    おやすみなさい ☆彡

    少し感想。。。

    見解は楽しい?それとも苦しい?
    数学基礎論みたいな土台の厳密性は追求せず、
    現実に数学が働いている世界を感じることが楽しい人もいるかも。

    なんて、数学に全く詳しくない母が、数学が現実に役立ってる場面を見るのが好きらしい息子を見て、

    数学の不思議さを少し想う。

    世界は案外スカスカでもうまくまわるんやなーという、息子のいいかげんな感想を、

    少し想う。

    厳密なんかなー、スカスカなんかなー

    わからんね。


引用返信/返信 削除キー/
■20632 / inTopicNo.9)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/02/01(Tue) 21:10:27)
    「老人と海」は読んだことないけど、、、

    <ヨルシカ「老人と海」Inspired Movie by大野敏嗣>

    https://youtu.be/03oWQK--buY

    ♪ 僕の想像力という重力の向こうへ ♪

    っていう歌詞すごいなぁ、ナブナさん(ヨルシカの作詞作曲してる方。)
引用返信/返信 削除キー/
■20620 / inTopicNo.10)  柄谷行人さんの本を紹介されてるブログ
□投稿者/ pipit -(2022/01/31(Mon) 23:29:35)
    柄谷行人さんの『トランスクリティーク カントとマルクス』という本の概説を紹介されている方のブログを発見しました。

    htt
    p://blog.livedoor.jp/mineallmine/archives/52086384.html

    私もブログ記事をまだほとんど読めてませんが(^^;;
引用返信/返信 削除キー/
■20619 / inTopicNo.11)  カントと数学
□投稿者/ pipit -(2022/01/31(Mon) 23:05:50)
    みなさま、こんばんは。
    ラッセルさんというワードに触発されて、前に間違って購入した古い雑誌を読んだ時から、一度まとめてみたいかも、と思ってた箇所の投稿にチャレンジしてみます。


    カントの『数学はアプリオリな総合判断』という言説は、非難の対象になり、カントは数学がわかってない、という意見は多数なのかもしれませんが、
    再考の余地もあるのではないか、と、思わせてくれた柄谷行人さんの記事を抜粋引用します。


    雑誌『現代思想』3月臨時増刊号カント(1994年)、p12-
    『(略)、カントのいう直観形式やカテゴリーが、ユークリッド幾何学とニュートン物理学にもとづくという誤解にある。
    (略)、彼自身ユークリッド-ニュートン的数学・物理学に背反するようなものを考えていたからである。
    彼は若い時から物理学者として非ニュートン的・非ユークリッド的な物理学を構想していた(2)

    註※(2)カントは二二歳のときに、大学卒業論文にこう書いている。《法則が変われば広がり(空間)も違った性質と次元数をもつことになるだろう。もしあらゆる可能な種類の空間ができれば、それこそわれわれ人間の考える働きによって企てられる最高の幾何学というものであろう。われわれにあっては、三次元以上の空間を表わすことのできないことを認めざるをえないけれども》(『活力測定考』第一章第十節)。

    (略)非ユークリッド幾何学にかんしては、一八世紀半ばにすでに知られていた。
    たとえば、〈三角形の内角の総和は二直角より小である〉という公理によっても、矛盾無く定理の体系を組立てることができることが示されていた。
    また、非ユークリッド幾何学を球面において考えることもすでになされていた。
    特に注意すべきなのは、G・マルチンが指摘するように、最初のこの主張者の一人ラムベルトがカントの友人だったことである。
    また、カント自身の物理学論文から見ても、彼が「批判」において、それを念頭においていたことは疑いがない。
     カントが基礎づけしようとしたのは、一八世紀に確固として成立していた数学や物理学ではない。
    (略)
    ユークリッドの『原理』にかんして、この公準が疑われていたのは、それが他の公準や公理から演繹的に導き出せる定理ではないか、ということである。
    非ユークリッド幾何学が示したのは、この公理が他から「独立」していること、さらに、それが直観的に自明なものではなく、別の公理をとっても矛盾が生じないということである。
    (略)
    ライプニッツのような考え方にとって、「公理」は邪魔である。彼は「公理」なしに済まそうと努め、結局徒労に終っている。
    (略)
    言いかえれば、カントが数学をア・プリオリな綜合的判断と見なすのは、このような「公理」のステイタスへの考察から来るのである。
    彼は数学を論理学に還元することに反対する。
    しかし、数学を分析的なものとみなす思考は、けっして死滅しない。その典型が、一九世紀末においてあらわれたフレーゲ・ラッセルらの「論理主義」(数学を論理学に還元できるという)である。』

    ※※※※※※※
    とりあえず途中まで(前半とします)引用しました。


    カントは数学とは、直観において概念を構成することと言ってたと思い、過去ログを検索したら、以下のものが出てきました。
    ーーーーーーーー
    No1799
    >用語説明
    まずは、『概念の構成』

    数学的認識は「概念の構成からの理性認識」by カント

    【構成】、カント自身が綴っていた単語は、【Construction】

    動詞は「konstruieren」コンストルイーレン、「構成する」。

    『概念を構成するとは、その概念に対応する直観をアプリオリに描き出すことである。(略)。私が三角形を構成するには、この概念に対応する表象を、ひたすら想像力によって純粋直観において描き出すか、また想像に従って紙の上に経験的直観において描き出すかであり、いずれの場合にも、まったくアプリオリで、そのための見本をなんらかの経験から借りてくることはない。描かれた個別の図形は経験的であるが、にもかかわらず、概念が持つ普遍性を損なうことなくその概念を表現するのに役立つ。(略)』byカント(B741.742)

    ☆冨田先生の解説☆
    どこに描くかというと、「想像」によって心の中に描く、というのがその一つです。
    カントが使っているのはドイツ語の「アインビルドゥング」(Einbildung)ですが、その中に含まれている「ビルト」(Bild)はまさしく「像」のことであり、「アインビルドゥング」は「心の中に像を作ること」、あるいはそのようにして作られた「心象」を意味します。<
    ーーーーーーーーーー

    最初に引用した柄谷さんの記述は、pipitの誤解かもしれない理解としては、

    たとえば公理に対する態度が、【自らの感性の直観形式に則った上に、自らの知性をもってして、(公理を)構成している】とするのがカントと言ってるのではないかなーと。


    (後半の引用部分の先出しですが、それに対して論理主義は、直観(感性的なもの)は必要なく、知性(思考形式)だけで、数学は確かなものとして成り立つ、としてるのかなーと。)

    明日以降、引用の後半として、ラッセルさんのカントへの批判、への、柄谷さんの再批判的見解などの箇所を引用しようと考えています。

引用返信/返信 削除キー/
■20611 / inTopicNo.12)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/01/30(Sun) 22:52:53)
    2022/01/30(Sun) 22:56:38 編集(投稿者)

    こんばんはー (^ ^)

    No20608に返信(うましかさんの記事)
    > こんばんはー
    >
    > No.20598
    > 黒崎論文の以下の引用元は、ラッセルの『西洋哲学史』ですね。
    >
    > 市井三郎訳がみすず書房から出ています。
    > これまでの三巻本が新装合本になったようですが(;´・ω・)
    >
    https://www.msz.co.jp/news/topics/08957/

    そうなんですね、おもしろそうだけど私には高価だなー
    図書館で、古いバージョンのものでもあったら借りたいなと思いました。
    最寄りの小さな図書館にはないかもぉ
    大きな図書館は、このコロナ禍でもう随分と行けてません
    ( ; ; )


    > 市井三郎は、ラッセルによるヒュームの解説で、"succession"を「相互継起」と訳しているようですね。(旧版 3 近代哲学、p.659)<

    相互継起って、私には、ちょっと不思議な言葉に思えます。
    近接みたいな感じなのかなあ???


    > ラッセル西洋哲学史の文章は、市井訳のおかげもあってか?、私うましかにとって読みやすいです(・ω・)ノ
    <

    そうなんですね、ラッセルさん、市井さんともに、哲学考察力だけではなく、文才も備えられてたのかもしれませんね。
    (o^^o)
引用返信/返信 削除キー/

次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -