| 2021/12/04(Sat) 07:19:19 編集(投稿者) 2021/12/03(Fri) 23:30:14 編集(投稿者)
みのりさん こんばんは。 質問に答えさせてもらいます。 どういうふうに言えばみのりさんに理解してもらいやすいか、まだつかめないので、わかりにくかったらすみません。 ***************** >>眼 : 思考し、表象する主観(=認識主観
>この「思考し、表象する主観(=認識主観」というのは、「この私」として自分を思う「私」が思考し表象して主観を構成する、というようなことでいいですか?
少し違うように思います。 ここではもっと単純に、「考える私」「認識する私」と捉えてもらえればよいと思います。 思考対象、認識対象とセットの、いわゆる「主観‐客観」図式の主観と捉えてください。
>それと、視野内において見えているところの、自分の身体を含むいろいろなものが 「この私」によって認識されている(見られている)、ということを論理的に推論できない。 >ということをおっしゃっていますか?
上で述べたように、「認識する私」としてとらえれば、それでいいと思います。 少し、敷衍して説明します。 例えば、現に今、視覚風景――例えば花が見えている場面を考えてください。
このとき、通常、我々はこの事態を、 「風景を見ている私」=認識主観 「私に見られている風景」=認識対象 というふうに分節して捉えますよね。 こんな感じです。
花 ← 眼 認識対象 ← 認識主体 客観 ← 主観
つまり、花=「見られているもの」と、それに向かい合って立つ、私=「見ているもの」が、この場面には存在するというモデルで捉えているわけです。 すなわち、認識主体である私が、認識対象である花を、見ている、というふうに。
しかし、無主体論は、これを否定します。 この見えている風景の写生画、見えていることそのままを描いたとしましょう。 だとしたら、当然自分の目なんか描かれず、見えている花だけ(その背景も含め)が描かれるはずです。 すると、ここには「見ているもの」もなければ「見られているもの」もない。 ただ花の姿の立ち現れ(=「見えているもの」)だけが存在するのだ。 これが真実の事態そのままである。 というふうに捉えるわけです。
少し違う例で言います。 家族写真を見た場合、一人写っていないメンバーが撮影者であったりしますね。 つまり、通常、家族写真には、写っているメンバーと、その写真のいわば背後(or手前?)に、こっちを見て写っている家族に向かい合って、それを撮影している写っていないもう一人のメンバーがいる。そんなふうに捉えます。 これも「認識主体(主観)―認識対象(客観)」モデルで、解釈しているわけです(〈撮影者〉―撮影対象)。
でも、例えば、先ほどの、花が見えている風景が、実は夢だったとしましょう。 あるいは水槽の中の脳がコンピュータに見せられている幻覚であったとしましょう(映画『マトリックス』のように)。 そうすると、見えている花に向かいあってそれを見ている私、などというものは実際には存在しません。 なぜなら、目が夢を見ているわけではなく、 夢はいわば脳の中で生じている現象にすぎないからです(以上の思考実験はいわゆる『デカルト的懐疑』と本質的に同じです)。
つまり、「見えているもの」が存在(現象)するとき、 それを、 「見るもの(主体)」が「見られているもの(対象)」を見ている、 という図式(主観‐客観図式)で捉えるのは間違いだ、とする立場があり、そのひとつが無主体論なのです。 「間違いだ」ということの根拠は、上で説明したように、 見えているものがあるということが本当であったとしても、それが論理的には夢であったり水槽の中の脳で生じている幻覚である、といった想定が思考実験として可能であるから、それを見ているものがある、ということは論理必然的に導く(推論する)ことはできないからです。平たく言うと、見えているものがあるといっても、それを見ているものがあるとは限らない、ということです。 先ほどの家族写真の例で言うと、写真(に写っているもの)だけでは、その撮影者がいるか否かはわからない。なぜなら三脚で置いて撮った写真かもしれないから、ということになります。
ちなみに、無主体論については、私が前におすすめした入不二基義さんの『ウィトゲンシュタイン』に、章立てして詳しい解説があります。詳しい分、逆に、ちょっと難しいかもしれませんが。
以上です。
|