| パニチェさん,こんにちは。 レスをありがとうございます。
>先の草稿の冒頭『私はこう言おう。「正直なところを言えば、たしかに、私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」、と。(ウィトゲンシュタイン全集6「個人的経験」および「感覚与件」について P.323より)』の「何か」がザビビのふくろうさんにとって独我論のことを述べているということでしょうか? >もし、そうであるなら、ザビビのふくろうさんの言うところの独我論というのが私には分からなくなります。 >ここのところを説明してもらえると有難いです。
若干、質問の意図がつかみにくい気がしているので、答えが的外れになったらすみません。とりあえず、回答します。 その「何か」とは、 「それこそが私を比類なき存在たらしめているところのものであり、私だけが知り得、他者には知ることも思考することもできないもの。 これこそが真に存在するもの、現実(リアル)であるもの。」 のことです。 したがって、その「何か」が独我論のことを述べているというより、このような何かがある比類のない私の世界こそ/だけが世界(真に存在するもの、現実(リアル))なのだ、と主張することが独我論である、と言ったほうがいいんじゃないでしょうか。 私の見方では、このこと独我について、例の対話のパロディーで示したように、少なくとも二つの立場があると――文法的・形式的独我と、永井の偶然的独我〈私〉――という感じです。 ざーっと書いたので、ちょっと、正確な言い方か自信は少しありませんが。 ****************************** >「読める」というのは、「ウィトゲンシュタインの真意、意図がそうであると読める」ということです。
この件ですけど,この点に関して、永井は次のように言っていますね。
『論考』の独我論は一般的自我(誰もが主体のあり方としてはそれであるような自我)の独我論にすぎない。少なくとも、そう読まれざるをえない。(『ウィトゲンシュタイン入門』 83頁)
しかし,永井はその前に,それはウィトゲンシュタインの真意ではない,というような意味のことを言っていますよね(同書,81〜82頁)。真意とは次であるとも。
「自我は,すでに形式によって満たされた世界の限界をなすことによって,それにいわば実質を,もっと強くいえば存在を,付与するのである。」
これは明らかに,永井の言う〈私〉です。 つまり,永井は『論考』の言う哲学的「私」の真意は〈私〉であるが,それは一般的自我として読まれざるをえない,と言っているわけです。
で,確認したいのですが,この永井の解釈と,パニチェさんの解釈は異なる,ということでしょうか? それとも,この永井の考えと、パニチェさんも同じだとみていいんでしょうか? というか、確認したいんですが、より一般的に言って、パニチェさんの『論考』解釈は、永井の解釈と同じとみなしてよいのでしょうかね? もしそう(あるいは、少なくとも基本的に一致している、近い)なら、永井の考えについてはここのところ復習したので、ポイントを絞ってある程度まとまった批判が書けると思います。 そこでのポイントが、たぶんパニチェさんにとっても知りたいポイントなのではないかと今のところ思われるんですよね。(『論考』の「私」は一般的自我ではないのか?) 下でこのポイントについて少し書きますが、たぶん十分にはなりません。 永井の『ウィトゲンシュタイン入門』をもとにして、ウィトゲンシュタイン解釈批判を書いた後で、それに対して、パニチェさんの意見を聞いたほうが早いかも、とも思います。 あと,二―クラには『ウィトゲンシュタイン入門』を持っている人が他にもいらっしゃるみたいなので,ロムしている人にもそのほうが分かりやすいのではないかと思うのですが、どうでしょうかね? ***************** >>A 「私は私の世界である」を、普通の一人称代名詞にとるということは、この「私」は、「ザビビのふくろう」や、「パニチェ」といった固有名に置換可能な語であるということになりますよね。 > そうすると、この命題は、実在世界の中に存在するザビビのふくろうやパニチェその他、人間主体一般に成り立つ経験的真理を語る命題になるのではありませんか。つまり、形而上学的(超越論的)命題ではないということになりませんか。 >>ここが少し私とは異なります。「私は私の世界である」が何故「形而上学的(超越論的)命題」となるのでしょうか? >>私にはよく分かりません。『論考』において形而上学的とされるのは世界に属さないが故に語りえない、指し示すことしかできない対象ではないでしょうか?
いや、たぶん、ほかの論点から抱いている先入見で、分からなくなっているだけじゃないかと思います。 というのも、先入見なく普通に読めば、ほぼ学校国語読解レベルで明らかなはずだと思うんですよね。でもまあ、一応きちんと言いましょうか。
T: 5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。) T: 5.632 主体は世界に属さない。主体は世界の限界である。 T: 5.633 世界の中のどこに形而上学的主体が認められるのか。 T:5.641 それゆえ、哲学において、非心理学的に「私」を論じうる意味は確かにある。「私」は、「世界は私の世界である」ということをとおして、哲学に入りこむ。哲学的な「私」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。
これらを読むと,T:5. 641で「世界は私の世界である」に登場する哲学的「私」が形而上学的主体であり、世界の限界である、と言われていますよね。 で、この「世界の限界」はT:5.632にも登場しているし、「形而上学的主体」はT:633にも登場しているけど、この二つの命題は、T:5.63の注釈なのだから、「私は私の世界である」の「私」でもあることは間違いないでしょう? そうすると,この「私」についても,「哲学的な「私」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。」と言っていることになるわけだから,この「私」は人間ではない,すなわち,ふくろうやパニチェではない,ってことになります。かつ,形而上学的主体であるとはっきり言っています。 とすると、 T: 5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。) T: 5.641 世界は私の世界である は、まさに形而上学的主体について述べている命題ということになります。 よって、これら形而上学的命題である。 Q.E.D って大げさだけどさ(笑)。
ってことで、この「私」が、永井の言うような(また、パニチェさんの言うような)、世界内の人間主観一般について成り立つ、一般的自我を意味していない、ってことなんですよ。 もちろん、パニチェさんが一般的自我についての議論であるという帰結を導いている写像理論云々の話も分かった上で言っているんです。 これは、一言で言うと、示される真理と、語られる真理の区別がついていないということです。 上の形而上学的命題は、アプリオリな形而上学的真理(示される真理)を述べた超越論的命題です。 人間主観に一般に成り立つ一般的経験的真理(語られる真理)を語る命題ではないのです。 この点について、あんまりプロもわかっていないようなのが意外なんですよね(『論理哲学論考を読む』の341頁注41を見ると、野矢先生も「たしかに、5.6番台の後半は、一般的自我についての議論である」と言っている)。 この点を正しく理解していると思われるのは、再度復習して調べないと確たることは言えませんが,今現在私の分かる限りでは帝京大の米澤克夫先生(ハッカーの『洞察と幻想』の訳者)だけです(参照:米澤克夫『ウィトゲンシュタインの独我論』(「帝京大学文学部紀要教育学27,184頁参照)。 ******************* たぶん、説明はこれだけだと不十分だと思いますが、上で述べたように、細かくやるより、『ウィトゲンシュタイン入門』をベースにして、永井批判としてまとめて書いたほうがわかりやすいかもとも思うので、意見をもらえますか?
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