| 2021/12/15(Wed) 22:11:25 編集(投稿者) 2021/12/15(Wed) 21:35:04 編集(投稿者)
パニチェさん、こんばんは。 レスをありがとうございます。
>永井均氏についての自説というのは〈私〉を主題とした永井哲学への反論ですか、それとも永井均氏のウィトゲンシュタイン論への反論ですか。
これは両方,というのが回答になりますね。 というのも,後でも書きますが,永井の『論考』の独我論についての解説は,自身の〈私〉の哲学の立場から,もともと不完全な独我論として批判的に解釈したものです。 したがって,『論考』の独我論についての批判の根拠は,永井の〈私〉の哲学にあります。 だから,永井による『論考』批判に対する反論は,必然的にその批判の根拠である永井の〈私〉の哲学批判というものになりました。 ***************** 【永井均著『ウィトゲンシュタイン入門』の独我論解釈を批判する】
『ウィトゲンシュタイン入門』,とりわけその中心テーマである「独我論」についての解釈は,序論からも明らかなように,『論考』そのものに可能な限り内在し,そのロジックを明らかにしようとするものでは全くない。 あくまで永井哲学の〈私〉の哲学の観点から,すなわち『論考』の外の視点に立ち,『論考』の「私」を批判的に捉えたもの。 すなわち,永井と同じ〈私〉が中期に現われるとし,『論考』の独我論も真意はそこにあったとして,『論考』の独我論は,最初から不整合・不完全なものとして解説がなされている。 言ってしまえば,ウィトゲンシュタインをだしにして,自らの独在論を語ったものなのだ。したがって,永井の〈私〉についての思想「独在論」を理解していない者にとっては,この書におけるウィトゲンシュタインの独我論の説明は,ほぼ理解不可能であると私には思われる。 これをウィトゲンシュタイン哲学の入門書として書くってどうよ?っていうのが、正直な感想。 ****************** さて、内容についての批判はここから。 上の感想で述べたような事情で、同書における『論考』の独我論批判は、永井哲学批判とかぶらざるを得ない面が出てきてしまう。そこで、批判のポイントを次の論点に絞りたいと思う。
(『論考』の独我論は、)認識論的独我論の場合と同様、それは万人に妥当する独我論という逆説的なものになった。『論考』の独我論は一般的自我(誰もが主体としての在り方においてはそれであるような自我)の独我論にすぎない。少なくとも、そう読まれざるをえない。(同書、83頁)
すなわち、『論考』の独我論――T:5.3番台で現れる「私」の意味するものが、一般的自我なのか?という問題に絞る。 ++++++++++++++++++ 私ふくろうが,永井に唯一賛同できるのは,キャロルのパラドックスについて述べた最後に、こう言っているところ。
「この問答が果てしのないものであることは、もはや明らかであろう。この寓話の教訓を深く味わうことは、おそらくはどの時期のどの局面においてもウィトゲンシュタインの哲学を理解するために、大いに役立つように思われる。」(同書 73頁)
私が言いたいのは、永井自身がこの教訓を深く味わうべきだ、ということだ。 キャロルのパラドックスから得られる教訓とは、何か? それは、果てしのない問答が生じる原因は、語りうるもの(事実)と語りえぬもの(推論を正当化するもの)の混同であり、語りえぬものを語りうるものとしてしまっているがゆえである、ということ。 そして永井の言う「「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に必然的に陥らざるを得ないのも、彼が、語りえぬもの(示される私)と語りうるもの(語りうる私)(及びそれに対応する、それらの表現)とを混同し、語りではないものを語りとしてしまっているゆえである(具体的には、『論考』の独我論を、一般的自我についての独我論とみなす)、ということは、この教訓から考えれば明らかなはずなのだ。
永井の根本的誤謬は,アプリオリ・超越論的命題と,アポステリオリな経験的命題との区別がきちんとついていないということ。 超越論的命題は,論理的命題・数学的命題のように,その真であることあるいは定理であることの確定のために経験的検証を必要とせず、証明・証示される命題であり,経験的内容をもたない。それらはいわば将棋と同様、それ自体としては現実世界から独立した言語ゲームである。 他方、経験命題は真偽二値を有し,世界(事実)について語り、その真理値確定のためには経験的検証を要する命題。 いわゆる語る言語がこれである。
この区別に相即して,いわゆる一般命題も,経験的内容を何も語らない超越論的アプリオリな一般命題(数学的定理、論理法則etc.)(非経験則)と,経験的内容を語るアポステリオリな一般命題(「すべての人間は死ぬ」etc.)(経験則)とが存在する。 繰り返すが、重要なのは、超越論的命題は世界について(経験的内容を)何も語っていない、ということである。
【例1】 ユークリッド幾何学で証明されるピタゴラスの定理は,ユークリッド公理系(という言語ゲーム世界)の中で定義される任意の三角形について成り立つことが証明される命題であり,これは,現実に描かれたすべての三角形について一般に成り立つ法則ではない(経験則ではない)。 幾何学は解釈によって現実世界に結び付けられ(適用され)る(例えば物理学)ことにより、初めてその定理・法則は現実を記述する上での文法の役割を果たすもので,あくまで現実世界に対する規範・ものさしの役割である。仮にユークリッド幾何学の命題がもともと現実の三角形を記述する命題なのであれば,三角形の図を描いて測量したところ,定理が成り立っていなければ反証されたことになろう。しかし,そうはならない。むしろ,図が正確ではないことを意味する。「すべてのスワンは白い」という経験的一般命題が,黒いスワンの発見で反証されるのと,これは本質的違いを表している。すなわち,ユークリッド幾何学における「三角形」は,現実の三角形を意味していない。
【例2】 前件肯定式という論理法則もアプリオリな論理的命題で表現される。キャロルのパラドクスのカメのように,この論理法則に従わない思考をする人間は存在するが,それは思考の法則としての論理法則の反証にはならない。この場合も,その現実の思考が間違っているということを意味する。論理法則は,論理学的に定義される命題言語(真偽ゲーム)における法則(示される真理)であり,命題に解釈が与えられたときはじめて現実に対して規範として働くものであって,それ自体では現実の言語について成り立つ経験的一般的真理(経験則)なのではない。
『論考』が論じる言語は,論理学的,すなわち超越論的に扱われる言語であって,現実の言語(日本語・英語といった自然言語)ではない。それは経験的内容を含まない形式化された言語モデルであり,現実の言語の条件となる唯一の言語である。例えば,命題とは,真偽可能性を有する文のことであって,例えば命題論理学では命題変項P,Q,…のような変項で表される。これらは論理体系の中で定義導入されるものであり,現実の言語ではないし,現実の意味内容をもたない。 それゆえ論理法則を表す論理的命題(例えば前件肯定式)は、命題の内的関係という語りえぬものを示す命題である。
この『論考』の扱う写像言語,要素命題の真理関数としての命題言語は,ユークリッド幾何学と同様,現実の言語ではない。誰が行おうとユークリッド幾何学(ゲーム)が唯一のものであるように,『論考』の命題言語も,唯一の言語(ゲーム)なのである。当然,「私の言語」も「我々の言語」も全く同一のものである。それは「私のユークリッド幾何学」も「我々のユークリッド幾何学」も全く同一唯一なのと同様なのだ。その意味で,『論考』の言語は,それ自体が超越論的言語なのである。 したがって,この超越論的言語について「私の言語」と言われるときも,「私」は現実の人間を意味するのではない。なので「私の言語」という場合も、ふくろうの言語、パニチェの言語、…といったものを意味するのではない。この「私」もまた言語の条件・限界としての「《私》」である。アプリオリかつ超越論的な主体であり,形而上学的主体なのである。(「私」は普通の一人称代名詞ではない。) だからこそ「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」のである。 例えば, 私は命題「PかつPでない」を真だと考えることはできない というメタ言語命題は,経験命題ではなく,したがって何も語ってはいない。 この命題は,矛盾命題「PかつPではない」それ自身が恒偽であることによって示していることを述べている命題だからである。 例えば,この否定文を作ってみると, 私は命題「PかつPでない」を真だと考えることはできる となるが,これは論理的に真ではありえない。だから,真偽二値の可能性がなく,経験命題ではなく,アプリオリかつ超越論的命題なのである。 それゆえ,この「私」も,現実の人間を意味するものではない。 任意の命題Pについて,Pが有意味(真偽可能性を有する)な二値命題(=言語)である限り, 私は命題Pを理解する という命題もまた,有意味でなくてはならない。 このことは,言語は言語である限り,論理的に私が理解可能な言語ではなくてはならない,ということを意味している。 それゆえ,この「私」は命題が言語であるための条件として,言語の限界としての《私》なのである。
もし,永井が誤解したように,「私は私の世界である」が経験的一般的命題であり,すべての自我について一般的に成り立つ真理であるなら,「Aの世界(ミクロコスモス)」「Bの世界(ミクロコスモス)」「Cの世界(ミクロコスモス)」…が成立することになってしまい,Aが「私の世界だけが存在する」と言ったら,「いや,私の世界だけが存在する」と,BもCも同等に主張する権利があることになり,いつまでたっても決着がつかない。つまり,このようにアポステリオリな一般命題と解釈するなら,独我論的主張は,明かに不整合なものになってしまう。まさに,これは「私は私の世界である」が示されるべき真理を表す超越論的命題であるのに,それを語り得る命題と誤認しているから。 そもそも「世界」について語ることはできない。したがって「私は私の世界である」も世界について語る命題ではなく、あくまで超越論的命題なのである。
簡単にまとめておこう。 永井の根本的誤謬は,語り得るものと語りえず示されるものとを混同し, 示されるものについて述べた「私は私の世界である」といった超越論的命題を,一般的自我について語られる一般命題とみなしたことにある。中期以降の言葉で言えば,文法的命題は超越論的命題であるにもかかわらず,現実のどの主体にも成り立つ一般的法則を述べた命題だと誤認することにより,自ら否定問答の無限ループに陥ったのである。(飯田隆『規則と意味のパラドックス』213頁参照)
************* No19760 >写像理論というのは例えばウィトゲンシュタインとか特定の人にとっての言語論ではありません。 >他国の言語も含めて言語を写像として(この時点では)説明している。 >で、この写像に含まれることは世界に属するということでもあり、写像として表すことができない、つまり世界に属さないものは語りえないとしている。 >そういう意味で世界に属さない主体を形而上的主体とか哲学的自我と呼んでいるわけですが、これは写像理論が正しいとするなら万人に共通する主体であるわけです。 >補足するなら『論考』での「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」も(写像理論が正しいなら)誰にとっても独我論であるということ >ここのところが形而上学的主体は「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に陥るような主体ではないということです。 ************************* これに対しての回答は既に実質答えています。 繰り返しますと、写像理論は現代的に言えば、論理学の一分野であるモデル理論の先駆的理論であるとみなされるように(野本和幸「現代意味論における『論考』の位置」『現代思想12 臨時増刊』1985)、言語の超越論的考察です。 したがって、この写像としての言語(命題)体系は、ユークリッド幾何学の公理系と同じく、抽象的言語体系を意味しており、それ自体では現実の言語を意味していません。 この言語が「私の言語」と言われるときも現実の人間主体とはむすびつきません(将棋の「王将」が現実の王を意味しないように)。つまり、写像言語の言語主体である「私」も、あくまで言語の条件・限界としての《私》であって、万人に共通する主体ではありません。 この唯一の言語ゲームをプレイすることにおいて、誰であれそれは唯一のこの《私》なのです。 喩えれば、「《私》の夢世界(ゲーム)」の登場人物は、《私》のいわばアバターであるaであれ、その他のbであれ、誰であれ,すべて《私》である。当然、aの痛みも、bの痛みも、モブの痛みも、《私》の痛みである(いわば《私》とはこの夢世界の唯一の「世界霊魂」なのです)。 それゆえ、aが言う「私の世界だけが存在する」も、bが言う「私の世界だけが存在する」も唯一のこの「《私》の夢世界だけが存在する」ということを意味するのである。 それと同時に、世界内存在者であるbやcやモブが実際に語る世界は、《私》の世界内の部分にすぎない。
No19693 において書いたパロディー文章の冒頭に、次のような会話を置きました。最初のNの発言を除く以下の会話は原文に対応する文章がないところです。
N:私はこう言おう。「正直なところを言えば,たしかに,私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」と。 W:「激しく同意だね。私には他の誰にもない何かがある。うん,その通りだ!」 N:「いやいや,違う違う。私だけに何か,つまり「真の現前している経験」とでも言うしかないものがあるって言ってるんだ。」 W:「全くその通り。私だけに「真の現前している経験」がある!」 N:「いや,違うんだって。もっと言うとだね,真に存在するって言えるのはこの私の経験,この私の世界だけなんだよ。」 W:「いやー,ますます同感だね!!この私の世界だけが存在する!独我論だよね!」 N:「だから,違うんだって」 W:「えー,違うの?なんでさー。」 N:「違うんだよ。だって,君は私の言ったことをそのまま繰り返しているだけじゃないか。それじゃまるで,私に成り立つことは,全く君にも対称的に成り立つってことだろう。独我論になるわけないじゃん。そんなのおかしいに決まっている。」
ここで、Nは明らかに、Wの発言を一般的自我についての独我論として解釈して、「違う」と言っています。 しかし、実は、Wは《私》の独我論者なのです。つまり、Wの発言の「私」は、普通の人称代名詞ではなく、一般的自我ではないのです。 WはNの発言の「私」をも、「《私》」と理解しているからかみ合っていないわけです。 次のようにWの「私」を「《私》」に置換すればわかりやすいと思います。Wは《私》の世界のいわばアバターなのです。
N:私はこう言おう。「正直なところを言えば,たしかに,私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」と。 W:「激しく同意だね。《私》には他(世界の中)の誰にもない何かがある。うん,その通りだ!」 N:「いやいや,違う違う。私だけに何か,つまり「真の現前している経験」とでも言うしかないものがあるって言ってるんだ。」 W:「全くその通り。《私》だけに「真の現前している経験」がある!」 N:「いや,違うんだって。もっと言うとだね,真に存在するって言えるのはこの私の経験,この私の世界だけなんだよ。」 W:「いやー,ますます同感だね!!この《私》の世界だけが《存在する》!独我論だよね!」 N:「だから,違うんだって」 W:「えー,違うの?なんでさー。」 N:「違うんだよ。だって,君は私の言ったことをそのまま繰り返しているだけじゃないか。それじゃまるで,私に成り立つことは,全く君にも対称的に成り立つってことだろう。独我論になるわけないじゃん。そんなのおかしいに決まっている。」
上に述べた独我論に対して、 この形而上学的主体を万人に共通する主体(一般的自我)と解釈するということは、「語りえぬもの」を「語りうるもの」とみなす、ということです。 したがって、 >ここのところが形而上学的主体は「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に陥るような主体ではないということです。
というのは同意できません。 まさに形而上学的主体(語りえぬもの)を一般的自我(語りうるもの)と解釈することに「私は私の世界である」という命題が語る命題とみなされ、Nのように、誰もが「世界は私の世界だけだ」「いや、私の世界だけが存在する」というマウントの取り合いが始まるでしょう。 すなわち、「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」のスタート地点がまさにここなのです。
【補足】 以下は、少し専門的な細かい話になります。書こうかどうか迷いましたが、一応ここの議論だけでも詰めて書いておいたほうがよいかと思うので、書くことにします(これは、前掲の米澤論文で取り上げられている論点です)。
上に書いたパロディーの冒頭の会話には、意図して書いたわけではないのですが、モデルとみなせる記述が『草稿』(全集1 212頁)にあります。 1915年5月23日の記述ですが、『論考』T:5.3の文章と、その後に、省かれた文と少し修正して書かれた文とがあります。
私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。 世界霊魂がただ一つ現実に存在する。これを私はとりわけ私の魂と称する。そして私が他人の魂と称するものも専らこの世界霊魂として把握するのである。 右の見解は、唯我論がどの程度真理であるか、ということを決定するための鍵を与える。 「私はいかなる世界を見出したか」という本を私が書くのが可能なことに、私はずっと前から気づいていたのである。
ここでとくに取り上げるのは、『論考』では省略された
「世界霊魂がただ一つ現実に存在する。これを私はとりわけ私の魂と称する。そして私が他人の魂と称するものも専らこの世界霊魂として把握するのである。」
という文章です。 この「世界霊魂」を、先ほどの《私》とみなせば、上のパロディー文章で、Wが述べていることは、引用の文章と同じことを述べているということは明らかだと思います。 しかし、実は永井は、この文章を次のように訳して、異なる解釈――この世界霊魂を一般的自我とみなす――を与えています。
永井による訳:(「ウィトゲンシュタインの独我論」『〈私〉の存在の比類なさ』89頁 「ただ一つだけ現実に世界の魂が存在し、私はとくにそれを私の魂と呼ぶ。しかし私は、私が他者の魂と呼ぶものもただそのようなものとしてのみ把握する。」
永井による解釈:(前掲書91頁) 「…ただ一つだけ現実に存在する世界の魂を『私の魂』と呼ぶ私は、他者の魂をも「ただそのようなものとしてのみ」把握したのであった。すると、他者たちもまたそれぞれ、その他者の独在的な比類のなさから帰結する唯一的な世界をもつことになり、それは私の独在的な比類のなさから帰結する唯一的な世界とは一致しない。そうなるとしかも、唯一のものが複数個存在し、比類なきものの類が存在することになるだろう。」
比較: 奥訳:世界霊魂がただ一つ現実に存在する。これを私はとりわけ私の魂と称する。そして私が他人の魂と称するものも専らこの世界霊魂として把握するのである。」
永井訳:「ただ一つだけ現実に世界の魂が存在し、私はとくにそれを私の魂と呼ぶ。しかし私は、私が他者の魂と呼ぶものもただそのようなものとしてのみ把握する。
わかりますか?この違い。奥先生の訳文では、私が自分の魂と呼ぶ世界霊魂がただ一つ存在し、他者の魂も、この世界霊魂として把握する、と読めます。 しかし、永井は、これを「私が他者の魂と呼ぶものもただそのようなものとしてのみ把握する」と訳しています。つまり、他者の魂も、その唯一同一の世界霊魂として把握するのではなく、「そのようなものとしてのみ」把握する、と訳すことによって、世界の霊魂が主体によって別々のものが存在することになってしまっているわけです。 明らかに永井は「世界霊魂」を一般的自我と解釈しており、上のパロディー文章のNと同じことを述べていることがわかります。
さて、ここの原文はどうでしょうか?
Es gibt wirklich nur eine Weltseele,welche ich vorzüglich meine Seele nennne, und als welche allein ich das erfasse, was ich die Seelen anderer nenne.
Google翻訳: 私が主に自分の魂と呼んでいる世界の魂は本当に1つだけであり、それだけで私が他の人の魂と呼んでいるものを把握しています。
DeepL翻訳: 世界にはただ一つの魂があり、私はそれを特に自分の魂と呼び、それだけで他の人の魂と呼ぶものを把握しているのです。
E.Anscombeによる英訳 There really is only one world soul, which I for preference call my soul and as which alone I conceive what I call the souls of others.
翻訳は、永井訳以外は、私の魂=世界霊魂=他者の魂として解釈しています。米澤訳は省略しますが、同じです。 明らかに永井は、「世界の魂」を一般的自我とするために、このように訳していることがわかると思います。これは意図的な誤訳と言うべきでしょう。
******************** あと,永井が語り得るものと語りえず,示されるべきものとの混同,後者を前者として扱うという明らかな誤りを犯した議論が少なくとももうひとつあります。 しかし,これは『ウィトゲンシュタイン入門』には出てこないので,必要であれば,また改めて書くことにしたいと思います。 ただ、以上述べたことの帰結は、5.6番台にでてくる「私」は、すべて形而上学的主体、であり(「思考し表象する主体は」とりあえず措き)、世界の限界としての《私》を意味するものであって、普通の指示代名詞ではないということ、そしてこの《私》について述べられたこれら諸命題は超越論的命題であり、経験的内容を何も語っていない、ということです。 これが理解できないということは、語りうることと、語りえず示されること、との区別がつかないということにほかならず、そうである限り、『論考』の言う「示される独我論」は理解不可能だ、というのが私の見解です。 だから、これ以上書くかどうかは、ここで述べた私の見解をパニチェさんが受け入れられるかどうかにかかっていると思います。 もし、やはり受け入れられないということであれば、これ以上述べても理解が得られないと思いますので、議論としてはここまでかなと思います。 もちろん、ここで書いたことは、本質的な点でパニチェさんの解釈と抵触していますので、確認、質問、反論、もしくはここが納得いかない、といったコメントでもかまいませんのでレスをいただければと思います。
【蛇足の言い訳】 当初、『ウィトゲンシュタイン入門』を持っている初学者も念頭において、わかりやすく詳しい説明をしようと思って書き始めたのですが、すぐにその方針は無理だとわかりました。長大になりすぎて、解説書でも書くつもりか?ってなりそうなので(笑) それに議論についてきている人もあまりいそうにないので、最低限、パニチェさんがわかればいいやと思って書いたらこうなりました。それでも長いしね。すんませんm(__)m。 もし、質問等ある方がいらっしゃれば、遠慮なくどうぞ。
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