| ザビビのふくろうさん こんばんは
> 「私に見えるものだけが真に見えるものである」 > と言う「私」を、『論考』は、それを語りえず示される独我論的主体、世界の限界たる形而上学的主体として示しました。
永井氏が、この↑「示し」と違うことを主張しているということですか。もうひとつよくわかりません。「示し」には同意しているのではないでしょうか。
> つまり、『論考』が既にその解答を、ある意味、純粋な形で(語りえぬものとして)示しているのです。
> ところが、(喩えると)語らない(抽象的)芸術作品――いわゆる何が言いたいのかよくわからない詩でも映画でも――っていうのがありますが、ああいうのと同じで、『論考』は語らず示すだけなので、永井のような人には理解できないわけです。解説、説明がないから。 > いわば、詩を「語るもの」としてしか理解できないので(∽ 形而上学的自我を一般的自我と解釈してしまう)、 詩の示すものを理解できずチンプンカンプンであるように、『論考』の意味が理解できないわけです(『論考』を詩だと言っているわけではありません。あくまで喩え)。
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