| 前にどこかに書いたと思うけど、ここに再掲するね。
メルポンの『知覚の現象学』のなかの、 第三部 対自存在と世界における(への)存在 のところで、
【私はデカルトのコギトに想いを馳せている。私はこの著作を終えたいと思う。私は手の下の紙の新鮮さを感ずる。私は窓から大通りの並木を見る。私の生はたえず超越的な事物に向って突進し、全くおのれの外部で経過している。コギトとは、三世紀以前にデカルトの精神のなかで形成されたあの思想であるか、それとも彼がわれわれに残したさまざまなテキストの意味であるか、あるいはまた、それらを貫いて現れる永遠の真理であるか、いずれにせよ、私の思惟が捉えようとするとうよりも、むしろ、なじみ深い環境において私の身体がもろもろの事物のさなかにあって、これらの事物をはっきりと表象するまでもなく、おのずと方向をとって進んでゆくのと同じように、私の思惟が向かってゆくところの、一個の文化的存在なのである。書きかけのこの書物はもろもろの観念のある集まりではない。それは私にとって、一つの開かれた状況を構成しており、私はこの状況を言い表す複雑な定式を提供することはできないだろう。それは、もろもろの思想と語とがあたかも奇蹟によるかのようにおのずと組織されるに至るまで、私がそこで盲目的にもがき続けるところの状況なのである。まして私をとりまく感性的存在、私の手の下の紙、眼前の樹木は、私におのれの秘密を手渡すはずがない。私の意識が自己を脱し、それらにおいて、自己を忘れるのである。実在論が世界と諸観念の事実的な超越性とそれ自体における存在とを主張することによって、説明しようとした発端の状況は、以上の通りである。…】
わたしが、あ!、って思ったのは、 【一個の文化的存在なのである】っていうところ。
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