| パニチェさん、返信ありがとうございます
> そうですね。ニーチェが賛歌する人間ならではの尊重されるべき個性とか唯一無二性も含みますが、文脈的に近いのはウィトゲンシュタインが指し示した語りえないところの独我論的(永井均的には「独在論」的)存在だと思います。<
> 個々の個性であれば言語化可能だと思うんですね。<
あれ、私、文章の意味をまだ理解できてなかったかもですね。
世界の限界に位置する〈私〉
が、言葉によるラベリングで、誰にでも当てはまる対象となり、
一般化されることで変質してしまう、ゆえに、正確には言語化不可能。
(自分にとっての)実存、かなぁ、
パニチェさんの〈私〉、pipitの〈私〉 パニチェさんの世界の特異点、pipitの世界の特異点
> 大歓迎です。私はサイトとか、あとすぐに退会したミクシィとかアメーバをやってみて気付いたのですが、一人でコツコツを書き綴っていくことにモチベーションを見出せないタイプのようで、こうして人と会話したり議論することで、いろいろ調べたり考えたり、自分の思考を見直した上で返信することにモチベーションを見出し維持できるタイプみたいです。 > 考えてみればパニチェルームでまとめた私のカキコは、ほとんどが誰かへの返信とか、議論で触発されて気付いたことを書き留めたことなんですねぇ〜。 > 返信は土日になるので遅れがちになりますが、こちらこそよろしくお願いします。<
対話って、他者の視点って、すごいな、ってよく思います。 どうぞよろしくお願いいたします。 でも、ご無理されないでくださいね。
> ここはむしろ私が教えてもらいたいところですがカントが言うところの「内容空虚」というのは究極の自我の本質について述べた表現なんでしょうか? > それと「内容空虚」というのは言語化が不可能という意味での「空虚」なのか、それとも言語化できるかできないかに限らず「空虚」と述べているのかどちらなんでしょうか? > カントも究極の自我に何がしかのアプリオリなるものを認めているのであれば、前者のような気もしますが、それならウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」や〈私〉とも同じ文脈にあるとは思います。<
私はまだ『純粋理性批判』を全然勉強できてなくて、 これから勉強していくところです。 それから、カントは文章がややこしいからか、哲学者による解釈でもすごく割れてたりするようです。 (ニーチェはそんなことは、ないですか?) それでもって、カントはものすごく繊細に論を進めていってる気がします。 だから、上記のパニチェさんの質問は一旦保留にしてもらって、 これからpipitが勉強していくとき、パニチェさんの気が向いた時だけでいいので、 考え方のアドバイスいただいたり、一緒に考えたりしてもらってもよろしいでしょうか?
その上で、今回は中島義道先生の解説を引用して、未勉強の今の時点でのpipitの考えも書いてみます。 『カントの読み方』中島義道 ちくま新書 p66〜67、、、
を、明日以降に引用したいと思います
対話はとても大変だけどおもしろくて勉強になります(^ ^) ありがとうございます
おつかれさまです !
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